タイタニアB旋風篇 田中芳樹 2段17行23文字 星暦四四七年、タイタニア一族のアリアバート公爵は大小一万九七〇〇隻の艦艇を率いて、バルガシュ政府を倒す征旅に就いた。主眼は、辺境地域において占めてきたバルガシュ政府の特権的地位を奪うことにあったが、彼の胸中は、同じタイタニア四公爵の一員・ザーリッシュが同政府に殺害された報復に燃えていた。さらに忘れもせぬケルベロスの会戦で敗北の屈辱を飲ませられた「流星旗軍」のファン・ヒューリック一党が背後にひかえている! 次の「無地藩王《ラントレス・クランナー》」の地位とこの雪辱戦に賭ける執念の果ては……? 待望の書下し第三弾。 カバーイラスト・道原かつみ カバーデザイン・秋山法子 タイタニアB旋風篇《せんぷうへん》・田中芳樹《たなかよしき》 この「タイタニアB」に着手するまえに中国歴史小説「風よ、万里を翔《か》けよ」を結実させた。この作品は「銀河英雄伝説」の作家でなくてだれが描き得たかと謙虚に問われ、読んだものはこの問いを素直にうけいれるだろう。隣国の歴史に関心を寄せる若い作家が育つなか、田中芳樹はその中心で、いま充実の頂にある。 タイタニアB旋風篇 1991年5月31日 初版 著 者 田中芳樹 発行者 荒井修 発行所 徳間書店 [#改ページ] 目次 第一章 開戦以後 第二章 猟師と猟犬 第三章 |いんちき戦争《ボニー・ウォー》 第四章 二重離脱 第五章 早春、陰謀の季節 第六章 破局 第七章 大分裂 第八章 海賊たちのお勉強会 第九章 権力の城塞 [#改ページ] ☆タイタニア陣営 アジュマーン・タイタニア(四〇歳)ヴァルダナ帝国貴族。タイタニア一族の第八代当主。「無地藩王《ラントレス・クランナー》」の称号を持つ。 アリアバート・タイタニア(二七歳)「タイタニアの五家族」の当主。公爵。 ジュスラン・タイタニア(二七歳)「タイタニアの五家族」の当主。公爵。 ザーリッシュ・タイタニア(二六歳)「タイタニアの五家族」の当主。公爵。 イドリス・タイタニア(二四歳)「タイタニアの五家族」の当主。公爵。 テリーザ・タイタニア(五〇歳)ザーリッシュの母。 バルアミー・タイタニア(一八歳)エストラードの息子。ジュスランの高級副官。子爵。 フランシア ジュスランの侍女。 リディア(一○歳)エルビング王国の王女。 ドナルド・ファラー タイタニア藩王府参事官。選挙技術家。 テオドーラ・タイタニア 伯爵夫人。 ラドモーズ・タイタニア(一七歳)イドリスの弟。男爵。 ハルシャ六世(三五歳)ヴァルダナ帝国皇帝。形式的な主権者。 アイーシャ(三一歳)ヴァルダナ帝国皇后。 レオニード・グラニート(三三歳)ザーリッシュの高級副官。中佐。 エルマン・タイタニア(四二歳)アリアバートの外交顧問。伯爵。 ボルドレーン(三八歳)アリアバートの幕僚。少将。 パウルセン(二七歳)アリアバートの幕僚。少将。 ☆反タイタニア陣営 ファン・ヒューリック(二八歳)元エウリヤ市の都市艦隊司令官。ケルベロス星域の会戦で不敗のタイタニアを破り英雄となるが、エウリヤ市より追放される。現在逃亡中。 リラ・フローレンツ 逃亡中のヒューリックを助けた少女。死亡。 ミハエル・ワレンコフ(二七歳)ファン・ヒューリックの旧部下。元副官。中尉。 ルイ・エドモン・パジェス(二六歳)ファン・ヒューリックの旧部下。元情報参謀。中尉。 コンプトン・カジミール「|正直じいさん《オネスト・オールドマン》」号の船長。ミランダの夫。 ミランダ(二八歳)元カサビアンカ公国の公女殿下。 リー・ツァンチェン(二七歳)通称ドクター・リー。惑星バルガシュで哲学博士号を持つ。現在は「流星旗」軍の一船長。 アラン・マフディー(二二歳)元ヴァルダナ帝国軍中尉。現在は脱走者。 サラーム・アムゼカール(三〇歳)元ヴァルダナ帝国軍提督。シラクサ星域の会戦でタイタニアに敗れ、現在惑星バルガシュに亡命中。 イブン・カセム 医師。反タイタニア派のリーダー。 トゥルビル バルガシュ正規軍(政府軍)の指揮官。少将。 イルク トゥルビルの副官。少佐。 コルヴィン バルガシュ政府外務大臣。 セラフィン・クーパース 反タイタニア派の女兵士。 [#改ページ]        第一章 開戦以後            T    星暦四四七年の最初の一日を、アリアバート・タイタニア公爵は辺境星域で迎えた。惑星バルガシュから五五億六〇〇〇万キロの真空を隔てた常闇の宇宙空間であった。二週間前、恒星間帝国ヴァルダナの皇帝ハルシャ六世がバルガシュ政府に宣戦を布告し、アリアバートは勅命により大小一万九七〇〇隻の艦艇と三〇〇万余の将兵を統率して征旅《せいりょ》に就《つ》いたのである。開戦の口実は、アリアバートと並んでタイタニア四公爵の一員であったザーリッシュがバルガシュ軍によって殺害された、その報復であった。その口実は完全に虚偽ではないが、主眼は、バルガシュ政府が辺境星域において占めてきた特権的な地位を奪うにあった。形式的にタイタニア一族はヴァルダナ皇帝に臣属しているが、形式以外のすべての面において、臣下が主君に優越しているのである。  端整だが個性に欠けるといわれるアリアバートの顔は、「二流の画家にとって理想の美貌」との冷評を受けたこともある。タイタニアの権勢をもってしても、全人類の口に封印をほどこすことは不可能なのであった。アリアバートの母親はすでに亡《な》いが、ジュスラン・タイタニア公爵の母親の妹にあたり、「整形手術の成功例のモデル」を想わせる型の美女であったという。個性を欠く美貌は、なぜか強烈な醜貌よりも精神の深みを感じさせぬものであるらしく、アリアバートは実力を過小評価されることが一再《いっさい》ではなかった。彼はこの年に二十八歳を迎えるが、過去ただ一度の例外を除いて、常に勝利の女神から寵児《ちょうじ》の待遇を受けてきた。それによってようやく彼はほぼ正当な評価を受けるに至った。これは、タイタニア貴族といえども、実力と実績なくしては敬意を払われぬという厳しい事実を語る例でもあった。  アリアバートの外交顧問であるエルマン・タイタニア伯は、この日、巡航艦で敵国バルガシュを訪問した。  エルマン伯が外交顧問であると同時に藩王アジュマーンから派遣された監視役であることは、洞察の必要もないほど明瞭であった。アリアバートはエルマン伯に狎《な》れることはなかったが、敬遠することもない。顧《かえり》みて後ろ暗いところもないので、彼の言動は至って公明正大であった。その公明正大さが、彼の人格におもしろみを感じさせぬ一因であるかもしれぬ。とにかく彼は、昨日エルマン伯が申しこんできた最終交渉の一件を承諾したのだった。 「アリアバート卿にとっては不本意と存じますが、なお講和の可能性を探らせていただければ幸いに存じます」 「べつに不本意ではない。伯の立場から可能なかぎりの交渉をやっていただければありがたい。ただし時間は無制限とはいかぬ」 「一〇日間いただけますかな」 「一週間」  期日に関する条件をエルマン伯が承諾したので、アリアバートは彼に巡航艦を貸して送り出したのである。  ボルドレーン中将とパウルセン少将とは、アリアバートの幕僚としてすでに八年間、戦場の往来を共にしている。スクリーン上の光点が小さくなるのを眺めながらアリアバートが口を開いた。 「バルガシュ軍は例のファン・ヒューリックに全軍の指揮権を委《ゆだ》ねるだろうか」  若い公爵の質問に、まずボルドレーン少将が否定的な見解を述べた。 「流亡の傭兵集団に全軍の指揮を委ねるほど、バルガシュ軍は自信を喪失した状態にはないと思われます」 「もっとも、すぐにその状態に陥《おちい》りましょう」  パウルセン少将が好戦的な光を両眼にたたえた。頭髪を短く刈《か》りこみ、筋骨はたくましく、年齢も二七歳と若い。精気に溢れる印象であった。これに対し、ボルドレーン中将は三八歳。肉の薄い頬と茶色の口髭《くちひげ》とが、軍人というより法律家めいた印象を与える。 「そしてファン・ヒューリックの道化者めが、呼ばれもせぬのに出て来れば、まぐれは二度続かぬものと思い知らせてくれましょう」  パウルセンの豪語が、アリアバートをやや皮肉な気分にしたようであった。 「負けるのはしかたないが負けを飾るな。子供のころそういわれたことはないか?」 「負けたら万の理屈も吹き飛ぶ、まず勝つことだ、といわれました」  パウルセン少将は分厚い胸を張り、それを横目で眺めやって、ボルドレーン中将は表情の裡《うち》で肩をすくめた。 「勝利はそれ自体によって正当化される。大声で宣伝する必要はない。一方、負けた者が負けていないと喚きたてるのは醜態というべきだな」  アリアバートはつぶやいた。彼は敗戦からの心理的再建をほぼ果たしているが、忘却しさることもできないのである。  タイタニア軍。法的にはヴァルダナ帝国軍戦略機動部隊であり、アリアバート・タイタニアはその司令長官である。むろん彼の地位や権限は、国法の規定する範囲を大きく超えるものであった。極端なところ、ヴァルダナ帝国の法律や制度や国家機構は、タイタニアの行動や利益を追認し正当化するために存在するのである。皇帝を補佐すべき廷臣たちも、大半はタイタニアの意を受けて動いた。軍務大臣に至っては、いまや三名となったタイタニア公爵の一員イドリス卿がその任に当たっている。  タイタニアは吝嗇《けち》ではない。協力者に対して報奨を惜しんだことはなく、生涯ただ一度のささやかな功績に対して孫の代まで厚遇された者も多かった。かつて第四代の藩王を輸血によって救った無名の医学生は、生涯を富と名誉とで装飾され、わが身に貼りつけられた金箔《きんぱく》の負担に耐えかねて自殺してしまった。そのように悲しむべき少数の例もあったにせよ、とにかくタイタニアは賞賛や感謝の意思を物質次元で実体化させることに努め、効果をあげてきたのである。  エルマン伯がバルガシュ本星へ赴いた間、アリアバートは侵攻対象との相対距離を三三〇光秒、つまり一億キロ弱縮めた。この軍事行動はそれ自体が政治行動となりえるものであった。バルガシュ政府と交渉するエルマン伯の背後で、暗黒盤上の光点は大きさと強さを増し、バルガシュ政府の高官たちを心理的に圧迫するであろう。起きているかぎりアリアバートのもとには、通信士官からの報告が一五分ごとにもたらされ、バルガシュ政府の困惑と動揺が知らされた。他星との同盟、あるいは仲介による和平工作など、彼らは八方に手を伸ばしているが、未だ収穫をえることはできていない。  これら一連のバルガシュの動向を、アリアバートは沈黙の裡に傍観していた。それは無為ではなく、弓の弦を限界まで引き絞る行為であった。交渉の期限が切れると同時に、アリアバートの指揮するタイタニア軍は一挙に全面攻勢に出、一〇時間以内にバルガシュ軍の主力を潰滅《かいめつ》せしめるであろう。勝算はすでに成っているというのに、この期に至って和平案に耳を傾ける者が存在するはずもない。アリアバートはタイタニア軍人であった。力をもって対立者を制することに躊躇はない。そのことによって第三者の反感を買おうとも。タイタニアの総帥たる藩王アジュマーンが語ったことがある。 「支配した上に愛情を要求するほど、タイタニアは厚顔《こうがん》ではない。畏《おそ》れられるだけで充分である」と。  タイタニア一族が支配者として愛敬《あいきょう》に欠ける部分があるとすれば、そのような認識と表現とであろう。「被支配者から愛される支配者」など、タイタニアの哲学からすれば笑話でしかないのである。タイタニアの支配手段は、ごく古典的な飴《あめ》と鞭《むち》といってもよいであろう。協力者や支持者に対しては現実的な利益を与え、反対者に対しては武力と権力を以て威迫する。利益を享受する者が全体の過半を占めているかぎり、タイタニアの支配基盤は揺るがぬという数式である。タイタニアの支配によって繁栄と安定とを保障される者は、自己保存の法則によってタイタニアを受容し、消極と積極との差はあるにせよ現状を守ろうとする。「いつまでもこの幸福が続きますように」と彼らは祈るのである。  かくしてタイタニアは、多数派の代表、公共と公益の代弁者、人民の味方、正義の具現者となりおおせる。人類社会全体の平和と安定と秩序を守る守護聖人タイタニア。とすれば、タイタニアを打倒しようとする者は全人類の公敵ではないか。この、いささか倒錯した体制維持の保守主義こそが、タイタニアの永続性に味方する最大のものであった。  アリアバートは同年の従兄弟《いとこ》ジュスランのように懐疑的ではなかったであろう。彼の存在は、タイタニア支配の肯定的な一面を代表するものであり、どれほど辛辣《しんらつ》な評者であっても、彼の勇敢さと公明正大さを否定するわけにはいかなかった。彼は七日間、待ちつづけた。期限まで待つ姿勢そのものが、今後の彼の行動に正当性を与えるのだ。  そして一月八日。開戦の日が来た。バルガシュの工作は何ひとつ実らなかったのである。        U    アリアバート・タイタニア公爵の指令を受けたヴァルダナ帝国軍機動部隊は、和平交渉の期限切れと同時に全面侵攻を開始した。「ただ一秒の逡巡《しゅんじゅん》すらなく」と評されたように、容赦も妥協も欠く電撃的な侵攻であったが、アリアバートにしてみればすでに一六八時間もの猶予《ゆうよ》を与えてある。その間まったく外交交渉に進展がなかったのであるから、むしろアリアバートは一六八時間にもわたって武力行使を控えた、その事実のほうに、決断を欠いたとの自覚があったようである。藩王アジュマーンの諒承は得てあったから、アリアバートの判断が非とされることはないが、政戦両略に適《かな》っていれば個人の心理的事情が消えるというものでもない。無形の弓弦を離れた巨大な矢となってタイタニア軍は疾走し、一時間を経てもまったく抵抗を受けなかった。 「まさか、奴らは戦わないつもりではないでしょうな」  パウルセン少将の疑問に対し、口に出しての返答を、アリアバートは避けた。バルガシュ政府が無抵抗平和主義の信奉者であるという情報は、過去一度もタイタニア中枢部のもとに届けられたことがない。必要とあらば武力を用いて国益を追求した例は枚挙《まいきょ》に暇がないのだ。今回、ザーリッシュ・タイタニア公爵の横死《おうし》からこの非友好的な状況が派生したわけだが、バルガシュが反タイタニアの大同盟を完成させるには、やはり時間が不足していたようであった。タイタニアに対する列国諸機構の包囲網、その構想は魅力的ではあるが、誰しも正面に立ちはだかる役は避けたいのだ。他者の犠牲に涙をそそぎつつ、自分は生きのびて祝杯を獲《え》たいのであるから、個々のエゴイズムを何らかの形で昇華せしめぬかぎり、反タイタニア大同盟など極彩色の絵画の題でしかありえなかったのである。  タイタニア軍はさらに前進した。バルガシュの太陽が針路左側にオレンジ色の輝きを見せるなか、暗黒の恒星系内空間をつらぬいて二万弱の銀色の光点が疾走する。陣形はオーソドックスな紡錘《ぼうすい》陣で、アリアバートの旗艦「金羊《ゴールデンシープ》」はその先頭近くに位置していた。その前方には二四隻の巡航艦と六隻の戦艦が配置されたのみで、アリアバートは文字どおり陣頭に立っているといってよい。  一月八日〇三時三〇分、戦いの最初の砲火が閃《ひらめ》く。バルガシュの無人哨戒衛星が、巡航艦「雪豹《スノーパンサー》6」の主砲によって破壊されたのである。核融合炉爆発光の白い輝きを艦橋のスクリーンに眺めやりながら、アリアバートはとくに昂揚したようすでもなかった。彼の関心は主力艦隊どうしの正面決戦に傾注されていたのだから、哨戒衛星の破壊ていどで浮わつくはずもない。平静な総司令官を戴《いただ》くタイタニア軍は、文字どおり無人の境を惑星バルガシュ方向へ驀進《ばくしん》していった。  一月八日二二時〇九分、惑星バルガシュ方向から航行してきた巡航艦が発見された。発見されるべく通信回路を開放し、信号を点滅させつつ接近してきた巡航艦は、エルマン・タイタニア伯爵が搭乗した艦であった。彼を旗艦に迎えて、アリアバートは無事を祝った。エルマン伯が帰還せぬうちにアリアバートが全面侵攻を開始した点については、双方とも口に出さなかった。双方とも責務を負《お》っている。それだけのことであった。エルマン伯は語った。 「バルガシュ政府は和平のために最大限の譲歩をすると申しております。昨年末、藩王殿下が示された和平条件について、すべて受諾の方向で交渉に臨む、と」 「惑星管理官《ロカートル》の資格審査権も?」 「忍びがたいが考慮すると」 「考慮!」  アリアバートは短く笑った。彼は誰の目から見ても「いやな奴」ではなかったが、それでも充分にタイタニア的な笑いをつくることができた。 「顧慮する必要を認めぬ」  アリアバートはとくに口調を強めたわけではなかったが、鞭が空気を裂いて眼前を通過したかのような感触をエルマン伯に与えた。 「本来であれば一週間前に戦闘に突入していたはず、それを今日まで待ったのは、最後まで外交による解決を断念したくなかったからだ。だからこそエルマン伯にも危険を冒《おか》していただいた」  無言無表情でエルマン伯はうなずいた。 「戦闘を開始せざるをえなかった責任の全てはバルガシュ政府にある。この期におよんで口先ばかりの和平案を唱えたところで、何の益があろうか。あるとすればただひとつ、バルガシュ政府が不誠実な意図を以て時間を稼ぐ、その一方的な利益だけではないか」 「時間を稼いで、バルガシュ政府にどのような利益があるのでしょうな」  エルマン伯は鄭重《ていちょう》に疑問を呈《てい》したが、半ばは自分に問いかけたのである。アリアバートにしてもそうだが、タイタニア内部において権限を有する者は、常に自らの力量を証明する用意を必要とした。いずれバルガシュ政府がタイタニアの武力に屈すれば、講和会議の実務はエルマン伯が主導して処理することになるが、それは他の何者であっても勤まる役である。エルマン伯は艦橋の一隅に席を与えられ、供されたコーヒーを謝絶してハーブティーを求めた。雑談風に、彼は、バルガシュ政府の対応について語ることになった。 「和平交渉が終わらぬうちに攻撃を開始するとはひどい、と、彼らはそう申しておりましたな。心情《きもち》はわからぬでもありません」 「苦情はいずれゆっくり承《うけたま》わろう。お気の毒だが、外交官は常に粗暴な軍人の後始末をせねばならぬ。軍人になっておいてよかった」  アリアバートの冗談は用兵の万分の一も巧妙ではなかった。彼は話題を変えた。  ファン・ヒューリックおよび「流星旗軍」についてである。彼らは本来、流亡の身であるが、現在はバルガシュ正規軍に編入されているはずであった。彼らは戦力として大きな存在ではないが、アリアバートが彼らを無視しえぬ理由をエルマン伯は知っているつもりだ。 「気になりますかな、アリアバート卿は」 「なる」  意地悪な質問にあっさり返答されて、エルマン伯は表情を制御するのに微小ながら努力を強《し》いられた。アリアバートがこれまでの生涯で唯一の敗北を喫した敵手、それがファン・ヒューリックという流亡の男だった。アリアバートを破ったという一事によって、ファン・ヒューリックの名は同時代人の記憶板に刻印されたのである。幾重にも、アリアバートにとっては不快な固有名詞であるはずだった。 「なるほど、アリアバート卿の器局は、どうやらイドリス卿あたりよりは大きいか。イドリス卿の場合、常に矜持《きょうじ》は率直の美徳を凌駕《りょうが》する……」  内心の感想を、エルマン伯は口には出さなかった。感想自体、いつか修正する時機が来ないともかぎらぬ。未来は現在の単純な延長ではなく、変化の可能性は無限であるのだから。 「ファン・ヒューリックの一党はおそらく惑星上の何処かに身を潜め、嵐の過ぎるのを待っているというところでしょうな。それ以上はわかりません、いまのところ」 「ただ隠れているのなら恐れる必要はない。名剣も使えばこそだ。土に埋もれれば錆《さび》つくだけのことだろうに」  アリアバートはスクリーンを眺めやった。エルマン伯は咳《せき》ばらいした。 「これは私見《しけん》ですが、バルガシュ政府は彼らを拘禁し、最後の瞬間に彼らを吾々に差し出して、彼らの犠牲による和平を成立させる企図かもしれませぬな」 「彼らが考えるのは勝手だが、こちらが応じる必要はない」  アリアバートの声に不快な微粒子が混入する。彼の武人としての潔癖さが、そのような解決法を嫌悪せずにいられぬのである。流血の量を減らすという一事に最高の価値を置くのであれば、彼は外交官の途《みち》を選んだであろう。世に武力によって解決できぬことは幾らでもある。アリアバートの公職に課せられる義務は、武力によって解決しえる範囲の事象を、効率よく解決することであるはずだった。  エルマン伯が二杯めのハーブティーに口をつけたとき、アリアバートのもとに索敵士官《ウォッチャー》からの報告がはいった。味方艦隊の一〇時方向に一〇〇〇隻単位の艦影が遊弋《ゆうよく》している。兵力を割《さ》いてこれを撃つべきであろうか、と。 「必要なし! 陽動である」  アリアバートの返答は明快である。バルガシュ軍の総兵力から見て、タイタニア軍を挟撃するような作戦は用いようがない。もともと少ない兵力を分散させるだけのことで、兵力運用の基礎に反する。そのような愚行を犯すほどに、バルガシュ軍の首脳部が無能だとは思われない。それくらいであれば、むしろ兵力を温存して後日の機会を狙うのではなかろうか。後日? アリアバートは唇の端に苦笑を閃かせた。後日というものをタイタニア中枢部がバルガシュのために用意してくれると、彼らは思っているのだろうか。彼らを待つのは徹底的な屈従《くつじゅう》の運命でしかないのに。それとも何かよほどアリアバートらの予測を超《こ》える策謀をめぐらしているのか。もともとバルガシュの武力がタイタニアのそれと互角に評価しうるものでないことは周知の事実である。タイタニアとしては、兎《うさぎ》を撃つに全力を用いることこそ獅子《しし》の本領と見ているわけであるが、兎としては最初から不公平な勝負としか思えないであろう。狡智《こうち》をめぐらして獅子の足をすくおうとするのは当然であった。そして獅子のほうは、兎が狡智をめぐらす余地を与えてはならないであろう。  こうして一月九日一六時四〇分には、タイタニア軍は惑星バルガシュの衛星軌道上に達し、完全に制宙権を確保した。一滴の血も流されることはなかった。ここまでは。        V    一月一〇日午前〇時から四時間にわたって惑星バルガシュの地表はタイタニア軍の苛烈《かれつ》な砲爆撃に曝《さら》された。攻撃対象は注意深く選定され、民間の施設や住宅、社会資本等は対象から外《はず》された。バルガシュの一般市民に敵愾《てきがい》心を抱かれてはならぬし、巨額の賠償金を徴収するためには生産設備を破壊してはならなかった。タイタニアにとって戦争は政治的行為であると同時に経済的行為である。敵陣営の軍需施設は文字どおり壊滅せしめ、事後にタイタニア傘下《さんか》の企業群が施設の再建や軍需物資の供給を独占する。過去の強大国にもそのような例があったが、戦争による破壊と戦後の建設とをシステムとして連動させ、そのすべての過程と結果においてタイタニアが利益を得るのである。この場合、タイタニアが「正義の戦争」を主張してもけっして虚偽ではない。タイタニアが利益を得ることが、タイタニアにとっての正義だからである。  軍用宇宙港八ヶ所、対空砲火管制センター、軍事衛星遠隔制御センター、軍用宇宙船建造工場四ヶ所、その他合計六〇ヶ所の攻撃目標は辞書どおりの意味で完全破壊された。三〇〇〇発のウラン238ミサイルを撃ちこみ、炎と黒煙が熄《や》まぬなか、タイタニア軍は着陸を敢行し、バルガシュ政府に城下《じょうか》の盟《めい》を誓わせるに至った。表面的には完勝であった。だが、それが偽りのものであることはすぐに知れた。バルガシュの宇宙戦力は地表になく、破壊されたのは施設のみであり、さらにファン・ヒューリックとその一党の姿がなかったのだ。征服者たちに向かって、バルガシュ政府はぬけぬけと説明した。ファン・ヒューリックらがバルガシュ艦隊を乗っとって逃亡したのだ、自分たちの関知するところではない、と。 「狡猾《こうかつ》な……!」  低くアリアバートは呟《つぶや》きすてた。同時に、奇妙なとしか表現しようのない不安が、本来は安定した彼の精神の一隅に蠢《うごめ》いた。まさしく狡猾というべきバルガシュ政府の策略は、誰の描いた設計図によるものか。すぐに想起されるのはファン・ヒューリックないし流星旗軍首脳部の名である。陸戦部隊の先頭に立ち、エルマン伯をともなってバルガシュ中央政庁に乗りこんだアリアバートは、交渉の代表である外務大臣コルヴィンに要求を突きつけた。 「ではファン・ヒューリックおよび流星旗軍の所在を教えていただこう」 「実はそれが問題でございまして……」  外務大臣コルヴィンの態度は鞠躬如《きっきゅうじょ》たるものであった。先日、和平交渉の使者として「|天の城《ウラニボルグ》」を訪れたときと同様、卑屈さと無能さを官僚的な外殼に包みこんだ態度であり、タイタニアの一喝によって気死《きし》するかと見えるのだが、意外な粘着力をエルマン伯は感じとるに至った。一時間をこす交渉で何ひとつ具体的に言質《げんち》を与えぬ。ひたすら謝罪と弁明とを礼儀正しく繰り返すのみで、彼らの主張を整理してみれば、「知らぬ存ぜぬ、自分たちも被害者だ」に尽《つ》きるのである。故人となったザーリッシュ・タイタニア公爵であれば、デスクに鉄拳をたたきつけて怒声を浴びせたであろうが、アリアバートにはそれは為《な》しえないことだった。彼は礼節のなかに軽蔑と怒りを潜めて交渉の無益を告げ、席を起つ前にひとつのことを確認した。 「彼らを捕えれば、ヴァルダナ帝国の法によって厳重なる処断を下すが、貴政府に異存はございませんな」 「当然のことですな。彼らの愚行はわがバルガシュの品格を害《そこな》うもの。情においては忍びませんが、全宇宙の平和と秩序を維持するためには、やむをえざることだと申しあげるよりこれなく、当方としても汗顔《かんがん》の至りで……」  鄭重と空虚とをきわめるバルガシュ政府の対応であった。コルヴィン以下、代表団の顔には不誠実さを示すマークが無数に印刷されており、パウルセン少将をはじめとする少壮の幕僚たちは、暴力制裁への欲求を制するのにすくなからぬ努力を強《し》いられた。彼らは総司令官アリアバート卿に対し、バルガシュ政府の不実に対する膺懲《ようちょう》を訴えてやまなかったが、アリアバートはそれに応じなかった。苦々《にがにが》しい怒りに捉《とら》われてはいても、アリアバートは激発や暴発と縁遠い男だった。彼は最大限バルガシュ政府に対する外交的儀礼を守ろうとしていた。ただし、彼がタイタニアである所以《ゆえん》は、最大限と無限とが同一の存在でないと弁《わきま》えていることであり、また激発するにしても時機と効果を量《はか》ってのことでなければならないと承知している点であった。 「そちらがその気であれば、よろしい、こちらはタイタニアの流儀でやらせてもらおう」  そうアリアバートは胸中につぶやいたのである。    タイタニア一族の本拠地である「|天の城《ウラニボルグ》」において、藩王アジュマーンがアリアバートからの報告を受信したのは、一月一一日のことである。藩王は二名の公爵、ジュスランおよびイドリスの両卿と共に朝食会の席上に在った。絹のテーブルクロス、最上質の磁器と銀器、卵もパンもバターもベーコンも、偏執的なまでの味覚面と健康面との配慮によって選びぬかれたものである。理想的な朝食であるはずだったが、ジュスラン・タイタニア公爵は食欲中枢を刺激されなかった。最大の調味料、すなわち親和の雰囲気と明朗な話題とが、この典雅な食卓には欠けていたのだ。この朝もたらされたバルガシュからの報告を、藩王は話題にしたのである。 「アリアバート卿は正統派の用兵家であり、為人《ひととなり》も真摯《しんし》だ。バルガシュ政府としては正面から戦うのは愚と考えるであろうな」 「奇策というより珍策と称するべきでありましょうな。だからこそアリアバート卿は虚を突かれた。やむをえざることと存じます」  イドリスの発言が寛容に聴《きこ》えるとすれば、それは優越感というフィルターを透過してのことである。彼は若くしてヴァルダナ帝国の軍務大臣であり、すでにザーリッシュが亡き今日、タイタニアの軍事活動面の指導権をアリアバートと二分する立場にある。アリアバートの失敗や停滞が直接イドリスを有利にするわけではないが、最低限の精神的娯楽にはなりえるという次第である。  自分がアリアバートと同行してバルガシュに遠征したほうがよかったかもしれぬ。軽い不安と後悔をジュスランは感じた。彼はアリアバートと同格であるだけに、従兄弟の兵権を掣肘《せいちゅう》する危惧をおぼえたのだが、彼がバルガシュ政府に対処し、アリアバートには軍事に専念させたほうがよかったかもしれぬ。 「こうも無血で事が運ぶとすれば、いっそ私が総帥となって赴いてもよかったのだが……いや、そのときにはバルガシュ軍が正面から艦隊戦を挑んでくるだけのことか」  ジュスランには大軍を指揮統率して敵と正面決戦をおこなった経験がない。「軍事のアリアバート卿、政治のジュスラン卿」という分担は、彼らにとっては自然で長期にわたるものであった。むしろイドリスなどのほうが、その双方にわたって実務経験を有している。アリアバートとジュスランとの文武の分担は、これまで確実な実績によって報われてきたかに見えるが、杞憂《きゆう》めいた心配の種とならぬでもなかった。  タイタニアの巨大で複雑な人脈が文官派と武官派とに分立したとき、彼ら両名がそれぞれの党派に推《お》されて対決するに至るのではないか。そう囁《ささや》く声が「|天の城《ウラニボルグ》」内外に存在し、タイタニアの権勢を以てしても噂《うわさ》という微生物を根絶することは不可能なのであった。  イドリスが何気なさをよそおいつつ、毒のこもった視線をジュスランに投げかけた。ジュスランのほうでは、それを無視したようによそおわねばならなかった。彼は藩王に視線を向けて申し出た。 「藩王殿下、お許しをいただければ、このジュスランがバルガシュに赴き、アリアバート卿を補佐させていただきます」 「ふむ、職権を侵《おか》されたと、アリアバート卿が思わぬかな」 「その点は心配しておりません」  アリアバートはイドリスとはちがう。そう思ったが口頭に上せることをさすがにジュスランは差し控えた。イドリスが視線に含まれる毒の量を増加させた。藩王アジュマーンはさりげなくコーヒーカップを手にとり、夜の深淵よりも黒い液体の色を瞳に映した。 「アリアバート卿の側近はどう思うかな。自分たちの上官が実力を疑われたとは思わぬかな。その点に思いを致さぬとはジュスラン卿にも似あわぬ」  藩王の声に冷然たる揶揄《やゆ》の響きがある。イドリスの唇が辛辣な半月型を形づくったが、賢明にも彼は発言を差しひかえた。心ならずもジュスランは従弟《いとこ》がよい朝を娯《たの》しむのに貢献してしまったようであった。 「軽率でございました。未熟の至り、お赦し下さい」 「謝る必要はない。それに思い至らなかったというのは、ジュスラン卿が真にアリアバート卿の立場を想いやっているからであろう。政治的配慮とは常に不純なものだ」  藩王が手にしたカップからコーヒーの香が立ちのぼる。同様にイドリスのカップからも。彼らが同心であるはずはないのに、それが同質の瘴気《しょうき》であるかのように感じられるのは、ジュスランの心理に原因があった。この朝のコーヒーは彼の神経網全体に苦かった。  一時的にせよ藩王に軽侮されたことがそれほど不快か。藩王に一目《いちもく》を置かれればそれで満足なのか。結局、自分の生きかたは、上司の機嫌をうかがい表情の変化に一喜一憂する下級官吏などと異なるところがないではないか。ジュスランの自省は軽い自己嫌悪に直結した。これは彼にとって健康な心理状態とはいえなかった。        W    朝食会を終えたジュスランは、本来なら彼の執務室へ直行するところであったが、歩む方向を変えて心理治療室に向かった。その部屋の主人は、この年内に一一歳の誕生日を迎える童女で、一般にエルビング王国のリディア姫と呼ばれている。ジュスランの法的な被保護者だが、精神的にはどうやら対等であるようだった。やはり朝食を終えたばかりのリディア姫は元気よく保護者に挨拶した。誰のコーディネートによるものか、小さなリボンから靴下まで緑の系統色で統一されているので、新緑の森を跳《と》びはねる幼い魔女めいて見える。ふたりは並んで第二宇宙港《セカンド・ポート》へと赴いた。そこの展望室が、この珍奇な一組《カップル》にとってお気に入りの討論場であるのだった。 「アリアバート卿に勝つためにずる[#「ずる」に傍点]をしなくてはならないのなら、わたしもそうするぞ。堂々と戦うといっても、力の差がありすぎるのだからな」  アリアバート卿が直面している事態に対するリディア姫の意見の正しさをジュスランは認めた。タイタニアが敵に対して正々堂々と戦えと要求するのは、いささか強者の驕《おご》りなしとしないであろう。巨漢が幼児と闘うに似た光景であるからだ。透過壁の表面を指で弾《はじ》きながらリディア姫は数秒間考えこみ、やがて指をとめて尋ねた。 「アリアバート卿は、抵抗しない相手を殺すことができるだろうか」 「できないでしょう」 「女や子供を殺すことができるか」 「できますまい」 「病院とか学校とかを攻撃することができるか」  否、と、ジュスランは繰り返す。リディア姫は再び指を動かした。透過壁の表面に何やら絵を描いているようだ。 「アリアバート卿はいい人だが、いい人だということが知られると損をするぞ。そうジュスラン卿は思わないか」 「達見《たっけん》、恐れいりました」  ジュスランはうやうやしく一礼した。冗談めかしていたが内心で舌を巻いている。リディア姫の政治的洞察力は、凡庸《ぼんよう》な成人のよく及ぶところではなかった。タイタニアが全宇宙に抜きんでて強盛を誇り、寛容と穏健とを示す余裕があるとき、アリアバートの騎士的な高潔さは指導者として理想的な資質となるであろう。だが相手が最初から白い手袋を捨てて汚れたグラブをはめていれば、思わぬ不覚をとることもありうる。  リディア姫は透過壁から離した指の先を、しかつめらしく眺めた。 「ひとつ気になるのだが」 「何でしょうか、姫」  ジュスランが興味深げな視線を向けると、リディア姫は微かに首をかしげた。正確に言葉を選んでいたようだ。 「もし藩《クラ》、ええと、藩王《クランナー》がアリアバート卿に、女や子供を殺すように命じたら、アリアバート卿はその命令どおりにするかな」  ジュスランは姫の顔を見返して答えたが、やや教師めいた口調になったかもしれない。 「姫、アリアバート卿はタイタニア貴族です。そしてタイタニアにとって藩王の命令は絶対なのです」 「絶対か」 「でなければタイタニアではありません」  リディア姫に対してジュスランは偽りの返答を述べる気になれない。それはこの聡明な童女に対して不誠実であると思うからだ。タイタニアは人道を最高の価値に据えてそれを追求する組織ではない。人道を掲げて利があると判断できる場合にはそれを活用するであろう。得にもならぬのにリディア姫をジュスランが庇護《ひご》しているのは、現在のところ彼個人の心理事情による。 「ジュスラン卿はどうだ。藩王《クランナー》から命令されたらそのとおりにするか」  その質問は充分に予期していた。にもかかわらず、ジュスランは即答することができなかった。権力の楼閣に座することと、一般的な人間の尊厳を守りぬくこと、両者の共存の可能性について未だ最終解答をえていないジュスランであった。少年のころから考えつづけて、なお結論を出せずにいるのである。 「わかりません」  沈思《ちんし》のあげくにそう答えた。 「私は自分がタイタニアであることを拒《こば》むかもしれませんが、それができないかもしれません。胸を張ってお答えできないのが残念ですが、可能なかぎり、藩王にそのような命令を出させないよう努めたいと思っております」  タイタニアはこれまで辛辣で功利的で非情であったが、一般市民に対し不要に残忍であったことはない。そこまで追いつめられたことはなかった。これまでは。 「ジュスラン卿でも自分のことはわからないのだな」 「残念ながら」 「それなのにアリアバート卿のことはわかるのか」  リディア姫の問いがジュスランを絶句させた。思いもかけぬ心理的な一撃。つまりジュスランは無意識領域において同年の母方の従兄弟《いとこ》を軽んじていたのだろうか。自分自身の心理は読めずともアリアバートの心理は洞察できると思うのは、根拠を欠く驕慢でしかないのではないか。むろんこれはアリアバートだけではなくイドリスに対しても敷衍《ふえん》できることである。人道上の責任を藩王に帰せしめることさえできるのであれば、イドリスは破壊も殺戮《さつりく》もためらわぬであろう、と、ジュスランは看《み》ていた。だがそのような実例が存在したわけではないのである。あるいは単にジュスランの偏見でしかないのかもしれなかった。 「気にさわったのか、ジュスラン卿」  やや心配げな声がジュスランの意識に流れこんできて、若いタイタニアの大貴族は現実世界に駆けもどった。彼の顔を観察するような童女の視線に応《こた》える。 「いえ、逆です。よいヒントをいただきました。今後、心したいと思います」 「ふうん、ジュスラン卿はほんとうに、子供を一人前にあつかうのだな」  リディア姫は表情をくずした。 「ジュスラン卿には不思議なところがいっぱいある。そこがわたしは好きだ。あ、不思議というのは、変だとか奇妙だとか、そういう意味ではないぞ」 「わかっております」  ジュスランも笑い、あることを想い出した。彼は姫に依頼した。先夜に考えたことだが、ささいな事件で「|天の城《ウラニボルグ》」を追われたバルアミー・タイタニア子爵にリディア姫から手紙《ビデオメール》を送ってもらえればありがたい。彼の精神的安定に役だつだろう。 「お願いできますか、姫」 「それはかまわない。わたしもバルに手紙を出したかった。でも効果があるだろうか」 「必ずあります」  穏やかに断言してから、ジュスランは冗談めかして補足した。 「バルアミー卿はタイタニアの将来を背負う人材です。彼に恩を売っておけば姫の母国にとって有益でしょう」 「バルが恩と感じるかな」  成人《おとな》の論法を笑殺《しょうさい》するようにリディア姫はいい、第二宇宙港《セカンド・ポート》に停泊した定期船に視線を向けた。彼女と並んでジュスランも、銀河を横断する船を眺めやった。 「忘れずにいてくれる人がひとりでもいれば、人間は無為にも孤立にも耐えられるもののようです。きっと喜びますよ」  そこまでで語をとめたのは、話題を一般論にとどめておきたかったからである。慧敏《けいびん》なリディア姫は興味と不審の閃きを両眼にたたえたが、口に出したのは別のことであった。 「それではバルがどんなようすか、手紙で尋ねてみる。元気だといいけど」 「ようすがわかったら私にも教えて下さい」  リディア姫はジュスランを見あげ、片足でスキップしながら磨《みが》かれた広い回廊を三歩ほど移動した。 「謝礼は高いぞ」 「タイタニアは吝嗇《けち》ではありませんよ、姫」 「そうだったな。気前のいい間は、タイタニアも多くの人に支持してもらえるだろう」  成人が陰気な口調でいえば悪意の表現でしかないであろう。だが闊達《かったつ》な口調でリディア姫がいってのけると、それはタイタニアの在《あ》りように対する明快で的確な指摘と思われるのであった。ジュスランは苦笑と共に心から首肯《しゅこう》せざるをえなかった。まことに、気前の悪いタイタニアなど、誰に望まれ喜ばれるというのだろうか……。 [#改ページ]        第二章 猟師と猟犬            T    バルアミー・タイタニア子爵は惑星ティロンにいる。この地に在《あ》るタイタニアの駐在代表部に参事官として赴任したのは、昨年末のことであった。それ以前に彼は一八歳にしてジュスラン・タイタニア公爵の高級副官をつとめ、一族の本処地である「|天の城《ウラニボルグ》」の中枢部に席を占《し》めていた。それが一転して辺境星区に身を置くこととなったのは、左遷というより一時的な追放と呼ぶべき人事の結果であった。これは彼の人生の予定表にない出来事であったし、それによる挫折感は大きかったが、心理的再建を果たしえぬかぎり彼の未来は輝かしいものとはならないであろう。彼は父エストラード・タイタニア侯爵の急死からもどうにか心理的再建を果たすことができた。それに比較すれば今回の人事など軽いものであるはずだった。  駐在代表部において彼は専用のオフィスと秘書官と住居《アパートメント》とを与えられていたが、とくに定まった職務があるわけではなかった。駐在代表部はこのタイタニア一族の若者を礼遇したが、実務の責任と権限をゆだねるつもりはなかったのである。むしろバルアミーがこれ以上のトラブルを惹起《じゃっき》せぬよう、さりげなく監視しているというところであった。事情を充分にバルアミーは理解したが、その理解は野心ある若者を不快にするだけであった。 「惑星バルガシュの件を聞いたか。アリアバート卿がいくら名将でも、相手がいないのでは戦って勝利をおさめるのは不可能というものだろうて」 「それで流星旗軍はいったいどこに? 永遠に逃げまわるわけにもいくまいが」 「いずれにしても、何か企みあってのことだろうよ。でなければバルガシュの奴らはあほうだ。ただタイタニアを怒らせるだけのことだからな」  そのような会話を、駐在代表部の内外でバルアミーは耳にした。  タイタニアとバルガシュの両勢力が正面から主力艦隊どうしの大会戦をおこすであろう、そう期待していた人々は落胆した。彼らは軍需産業の経営者や技術者であったり、軍事研究家であったり、立体TVの報道記者であったり、単なるやじうま[#「やじうま」に傍点]であったりした。いずれにせよ惑星ティロンにおいては、タイタニアもバルガシュも第三者的な論評の対象でしかないようである。現在のところは。 「まあどうせ永遠にこの状態がつづくはずがない。多少、破局が将来《さき》に延びただけのことさ。それにしても、流星旗軍の逃亡を把握しそこねたとは、タイタニアの情報収集力もいささか錆《さび》がついたというべきかな」  いささかどころではない、というのがこの一件に関するバルアミーの評価であり、おそらくアリアバートの認識でもあったろう。バルガシュおよび周辺星域に配置されていたタイタニアの情報部門関係者は不名誉な事態に直面して、赤と青とに顔色を往復させているという。結局、アリアバートの大進攻によって事は終わったと判断し、また戦争状態への突入によって活動も阻害され、手をひいたあげくがこの醜態であった。いったん索敵および諜報の網から逃れられると、再捕捉は容易ではなく、「宇宙はやはり広い」などといまさらに慨歎するありさまなのである。  ファン・ヒューリックおよび流星旗軍の所在を他者に先んじて探索しえたら、バルアミーの有能さは正当な評価を受け、「|天の城《ウラニボルグ》」への帰参もかなうであろう。ジュスラン卿に推挙され、要職に任じられるかもしれぬ。やってみる価値がある、と、若者は判断した。参事官とは職務よりむしろ地位を示す用語であり、ある意味で閑職である反面、行動の自由と時間の余裕に恵まれる。それゆえに、重要な課題と特別な任務とに専念できるわけで、バルアミーとしてはその点、懸念はないのであった。ただ金銭面はバルアミーの意のままにならなかった。参事官の俸給は、バルアミー個人の生活を賄《まかな》うには充分すぎるほどで、四〇代の同僚のなかには妻と三人の子女と老いた両親を養う上に複数の情人《ミストレス》をかかえこんで悠々としている男もいる。惑星ティロン政府の閣僚が受ける給与を三割ほど凌駕《りょうが》するのだ。加えて、さまざまな名目によって経費を計上することができるし、地域の企業や有力者からは資金の提供がある。ことさら違法行為をおこなったり他者の忌避を買ったりせずとも、ごく自然に私腹が肥やされるようになっているのだ。  バルアミーは金銭それ自体にはたいして興味も執着もない。彼が金銭を欲するのは、それによって私的な情報網を所有し運営するためである。人員とそれを支える財源とが必要であった。そのどちらもバルアミーには欠けていた。彼は辺境の惑星にあって孤立無援であった。腹心もおらずアドバイザーも不在である。バルアミーがタイタニア貴族であるゆえに、彼の歓心を買おうとする現地の有力者はすくなくなかったが、彼らの大部分をバルアミーは好まなかった。凡庸な俗物ばかりで、信頼や尊敬に値する人物など存在しない。その認識が、ティロン赴任後ほぼ四週間の裡に彼が得たものであった。彼は本来、他者に対して愛想のよい若者ではなかったが、ティロンの地表を踏んで以来とみに不機嫌で気むずかしくなった。ことさら他者を叱責したり粗暴にふるまったりしたわけではないが、他者を拒絶する不可視の壁の存在が明白なので、駐在代表部の内部では敬遠されつつあった。  そのようなことはバルアミーは気にしない。彼は惑星バルガシュの件について考察し、アリアバート卿に批判的であった。彼にいわせれば、バルガシュ政府の不誠実な態度は充分に予測できたことなのである。 「奴らにそうさせないのが政治ではないか。アリアバート卿は所詮、軍人としての発想しかできない人なのか」  若すぎるバルアミーの覇気は、ともすれば先走って、一族中の重鎮を過小評価しそうになる。彼が不本意ながら、一目《いちもく》以上を置くのは、上官でもあったジュスラン卿だけであった。アリアバートの器才を認めてはいるものの、自分であればもっと別のやりかたがあるのに、という思いを抑えきれぬバルアミーであった。  ……アリアバートがバルアミーの胸中を知れば、「元気なことだ」と一笑するであろう。バルアミーの存在はアリアバートにとって未だ軽かった。彼が意識するのはふたりの従兄弟、ジュスランとイドリスまでであったし、ジュスランとの仲は近年、友好的といってよかった。イドリスの過剰な上昇志向に注意していればよいと思っている。その彼は、大軍を擁して惑星バルガシュに腰をすえ、逃げ失《う》せた流星旗軍の所在について、相反するいくつかの情報を得ていた。 「情報の真偽を確認せよ」  当然の指示がアリアバートの司令部から出された。あわただしくタイタニアの派遣軍は情報を収集し、多大の成果をえた。多大というより過大と表現すべきであったろう。彼らの集めた情報がすべて正しいとすれば、ファン・ヒューリックおよび流星旗軍は同時に銀河系宇宙の一四ヶ所に存在することになるのである。しかも各|宙点《ポイント》間の距離は、最大にして六〇〇光年も隔《へだ》たっているのであった。オペレーション・スクリーンの表示を眺めやって、アリアバートは短く苦笑した。事態の本質を看破するのに何ら労を必要とはしない。情報の大部分、あるいはすべてが虚偽のものである。流星旗軍は宇宙空間を移動しつつ、実体の幾層倍もの虚像と虚報とをばらまき、行方をくらましているものと思われた。 「ファン・ヒューリックは必ず手を出す。何処かの補給基地を襲うか、小艦隊に戦いをしかけるか。一度の敗北はしかたない。それによって彼らの所在が明らかになるほうが有益だろう」  アリアバート・タイタニアが尋常ならざる英気の所有者であることが、この台詞《せりふ》によって明らかであった。彼の幕僚たちは総帥ほどの大度《たいど》を欠く。危惧と焦慮を口にしたのは、若いパウルセン少将であった。 「意外に時間がかかるかもしれません。奴らの目的が時間稼ぎにあるとすれば、手を出さずに息をひそめつづけるかもしれませんぞ」  その意見に対し、アリアバートはあっさりと答えている。 「そのときはそれでよし。武力による妨害を受けることなく、惑星バルガシュの実効支配を進めさせてもらうとしよう」  アリアバートは笑った。秀麗な笑いだが、自刃の閃《ひらめ》きが透過できる。バルガシュ政府がアリアバートを与《くみ》しやすしと看《み》ているのであれば、むしろ彼としてはそれに乗じる機会が増えるのであった。彼はタイタニアであり、タイタニアは侮辱されることを好まぬ。従弟のイドリスほどに露骨ではないが、アリアバートもタイタニアとしての矜持《きょうじ》と政治的価値観とを堅持していた。タイタニア貴族を玩弄しようなどと謀る者は、その増長に対して正当な報いを受けるべきであった。バルガシュが滅びるとすれば、自らの過誤と浅慮によってであろう。「性根《しょうね》を見てやるとしようか」とアリアバートは思っているのであった。        U   「|天の城《ウラニボルグ》」から手紙《メール》が届いた旨を知らされたとき、バルアミーは心に弾みを覚えた。ある予感があったのだ。期待してそれが外《はず》れたときは惨めだ、と、自らに言い聞かせつつ、彼は三次元映像カセットをプロジェクターに入れた。二秒半後、生気に満ちて溌溂《はつらつ》とした童女の映像が彼の前にあらわれた。 「バル、元気か。わたしは元気だ。このとおり。虫歯もないぞ。偉いだろう」  リディア姫は白い健康そうな歯並みを見せて、画面からバルアミーに笑いかけた。バルアミーは力なくうなずく。召還の通知である可能性を二秒半だけ信じこんだ、自分の甘さに赤面せざるをえない。 「がっかりしたか、バル?」 「いえ、姫、そんなことは」  内心を見すかされて思わず映像に返答してしまい、それに気づいて舌打ちするバルアミーであった。タイタニアの最高位を、ひいては全宇宙の支配権を手に入れようと望む若き野心家が、童女の発言に動じるなど笑止《しょうし》のかぎりであった。 「バルがいないと|天の城《ウラニボルグ》もさびしいぞ。わたしも友だちがいなくてつまらない。ええと、ティロンはどうだ、楽しいか」  楽しくはありません、と、バルアミーは口のなかでそう答えた。 「バルはけんか[#「けんか」に傍点]をしなくてもいいのにけんかをする。けんかはわたしも好きだが、バルはやめておいたほうがいいぞ。敵をつくるより味方をつくれ。バルの味方はジュスラン卿とわたししかいないだろう? みんなと仲よくして、早く|天の城《ウラニボルグ》へ帰って来い。ジュスラン卿もそういってるぞ」  手を振るリディア姫の姿が消えて、手紙は終わった。バルアミーはカセットを取り出そうとした手をとめて椅子に坐りなおした。 「みんなと仲よく、か……」  ことさら侮蔑の意思をこめてバルアミーは呟《つぶや》いた。子供は単純でいい、とも口に出してみる。ふと気づいたのはリディア姫との年齢差であった。つい八年前に彼はリディア姫と同年であったのだ。一方、彼が真の競争者と秘かに目《もく》しているジュスラン卿は、彼より九歳の年長である。バルアミーはジュスランよりもリディア姫のほうに年齢が近いのだった。何となくバルアミーは自分の未熟と非力について自省させられる気分になってしまったのである。  昼食後、バルアミーは駐在代表の執務室を訪れた。このような土地の駐在代表は大別して二種の型《タイプ》に分かれるとバルアミーは聞いていた。代表の席《ポスト》を出発点と考える少壮気鋭の野心家。同じ席を終着点として受け容れる年長者。現在の代表クリストファー・エマソン氏は後者の型だった。けっして無能でも退嬰《たいえい》的でもないが、堅実と安全とを最高の美徳と信じる人物で、権威に対する忠誠心の強い保守主義の使徒である。バルアミーより三〇歳年長の彼は、まことに彼らしく若いタイタニア貴族を遇した。礼をつくして鄭重《ていちょう》に。ただし何ら実権は与えない。個人的に親交を結ぶこともない。彼をそうさせるためには、バルアミーの側から積極的に働きかける必要があった。むろん高圧的な態度は凍土のごとく何物も産み出さない。バルアミーは貴族としての威をせいぜい親和の雰囲気につつんで交渉した。 「私は今年の後半にもタイタニアの中枢部に復帰する。ジュスラン卿のお声がかりによってだ。ついては、これもジュスラン卿のご意思だが、反タイタニア派に関する情報を収集解析したい。協力をお願いする」  ジュスランの名を利用したのではない、活用したのだ。その点に関して、バルアミーに後ろめたさはなかった。考えるまでもなく、この惑星に赴任した当初から彼はジュスランの党与《とうよ》と看做《みな》されていたはずである。ジュスラン自身に党派を成す意思がなくとも、外部から見れば一個の政治的派閥が形成されているかに思えるのだ。バルアミーは何といってもジュスランの高級副官であり、血族でもある。信頼を得ているであろうこと、ひとたびつまずいても将来はなお有望であることが予想されるのであった。  バルアミーに対して好意を示す心算はなくとも、ジュスランに対して恩を売る打算はめぐらせたであろう。エマソン氏の思考は堅実で理性的であり、したがってバルアミーには充分に読解が可能であった。ジュスラン卿が次代のタイタニア藩王となる数字上の可能性が五一パーセントを超す、そのような数式が彼の脳裏で成立すれば、エマソン氏はバルアミーに協力する気になるであろう。  数式が成立した。エマソン氏は謹厳そうな表情をくずし、バルアミーの熱意と構想とを節度ある表現で賞賛し、「代表部の他の任務との均衡を失せぬ範囲において」協力を惜しまぬと告げた。検算の時間を必要としたらしいが、当日の裡《うち》に解答が得られたのは、それほど難題でもなかったからであろう。皮肉っぽくバルアミーはそう考えたが、むろん口に出しては、代表の好意と理解に対して礼儀正しく感謝の意を表した。同時に自分自身に言い聞かせる。これから当分の間は、ジュスラン卿の党与として行動し、自己の位置を保障すべきである、そしてそう見せかける努力を怠《おこた》ってはならない。  亡き父親、侯爵エストラード卿のことをバルアミーは想い起こした。胸に傷《いた》みはあるが傷口は乾いている。かつてバルアミーは父を至高の地位に即《つ》けることで彼自身の野心と鋭気を充《み》たそうとした。あれから随分と長い時間が流れたような気がするが、まだ一年を経過してはいないのだ。その間に、ひとつだけは学んだ。野心の進路が最短距離と同一であることなど、まずありえないのだ、と。  即日バルアミーは代表部のメイン・コンピューターにアクセスする権利を確保し、自室に端末を置き、ことのついでにロック機能を三重に取りつけようとしてやめた。エマソン氏がその気ならロックを解除する手段はいくらでもあるし、この際エマソン氏を全面的に信頼するという態度を見せておくほうがよいように思われた。リディア姫いわく「みんなと仲よく」。そのふりをしておくほうが、たしかによさそうである。  たいして期待もせず収集と解析を開始して二〇分を経過せぬうちに、バルアミーは奇怪な情報に突きあたってしまった。イドリス・タイタニア公爵の名を画面表示に見出してバルアミーは息をとめた。 「何だ、これは。ばかばかしいにもほどがある」  最初の感想はそれであった。バルアミーはイドリス卿とその弟に好意を抱いていない。イドリスがどのような形であれ破滅すれば、むしろ快く感じるであろう。だが、「イドリス卿が流星旗軍と組んでアリアバート卿の失墜をもくろみ、さらに藩王アジュマーンを暗殺して一挙にタイタニア全体の支配者たらんとしている」などという「噂」を信じられるであろうか。バルアミーは操作卓《コンソール》の端に置いたティーカップを、肘《ひじ》の動きで床に落としてしまい、その破片を拾い集めねばならなくなってしまった。左手薬指の先に破片の尖端が微かに刺さり、小さな赤い染《し》みがつくられる。子供っぽい動作で、バルアミーは指先を口に含んだ。 「だが情報は情報だ」  バルアミーの神経回路を思案の電流が駆けめぐった。ことさらに彼がイドリスを陥《おとしい》れるわけではない、事実として情報が存在するのである。イドリスが反タイタニア派と結託し、藩王アジュマーンを追い落として自らを至高の地位に就《つ》かしめようとしている――そういう情報が。率直に報告すべきではないのか。  だが、先年バルアミーとイドリス兄弟との間に隙《すき》があったこともまた周知の事実である。たとえ正しい情報であっても、イドリスに対する私怨からバルアミーが虚報をもたらして陥れようとした、と他者からは見られるであろう。すくなくともイドリスはそう主張するにちがいないし、藩王《クランナー》アジュマーンもその主張を是《ぜ》とするのではないか。そうなれば罪に問われるのは公爵を誣告《ぶこく》したバルアミーのほうである。すでにして不興をこうむり、「|天の城《ウラニボルグ》」を追放された身であるから、これ以上の処置となれば、爵位を剥奪されるか、さらに辺境未開の星域へ追われるか、であろう。そうなればバルアミーはタイタニアあるかぎり人生において浮上することはありえなくなる。いっそのこと反タイタニア陣営へ走るしかなくなるかもしれぬのだ。  この情報をどうやって処理するか、その一点においてバルアミーは器量を試されることになるかもしれなかった。うかつには動けぬ。だが、もっとも愚かしいのは、情報をむなしく抱えこんでいる間に、他の誰かがそれを「|天の城《ウラニボルグ》」にもたらし、状勢が変化することであった。バルアミーが抱えこんだ情報はその瞬間に後悔に変じ、自らの優柔不断と無能さを呪《のろ》う以外に生きかたがなくなってしまうであろう。自分の手で歴史の流れる速さと方向を変えることができたのに、勇気の欠如からその機会を逃してしまったのだ、と。  あることにバルアミーは気づいて慄然《りつぜん》とした。情報を入手するという点に関して、バルアミーは有利な立場にあるが、けっして突出した特権的な地位にあるのではない、ということだ。そもそもバルアミーがこの情報を入手しえたということは、情報それ自体が一定の範囲において知られているということである。何者かがバルアミーに先んじて情報を「|天の城《ウラニボルグ》」に送る可能性は、きわめて高くなってくる。そうなったとき、バルアミーは、当然伝えるべき情報を伝えなかったとして糾弾されることになろう。  解決法はひとつしかなかった。バルアミーは無力であり、有力な味方に情報を伝えて判断を託するしかなかった。つまりバルアミーは感情や思惑にかかわらず、ジュスランを頼るしかなかったのである。        V    バルガシュ軍を相手としてアリアバート・タイタニア公爵が壮大な武勲を樹《た》てそこねたことに、イドリス・タイタニア公爵は辛辣《しんらつ》で非寛容な歓びを感じていた。だが、特等席で見物を決めこんでいた彼が、にわかに舞台に引きずりあげられて深刻な演技を強制されるに至ったのは、星暦四四七年一月一七日、「|天の城《ウラニボルグ》」最高会議室においてのことである。この日、惑星ティロンのバルアミー卿から奇怪な報告が伝えられたのであった。 「あのバルアミーの孺子《こぞう》が根も葉もないことを。タイタニア一族に生まれながら三流の煽動家になりさがったか」  と、イドリスは遠方の未熟な報告者に罵声《ばせい》をあびせたが、審査席のジュスランは冷静に、つまりイドリスの目から見れば酷薄に指摘した。同様の噂に関する報告は、バルアミー卿のみならず他の情報担当官からももたらされている。バルアミー卿はタイタニアの一員として看過しえぬ噂を収集し報告しただけのことであって、その情報を分析し判断するのは吾々の任であろう、と。 「それにしても愉快な噂ではあるな。予《よ》はイドリス卿に打倒されるのか。外部の敵によってではなく」  藩王《クランナー》アジュマーンは重々しく笑声をひびかせ、それを収めると、「むろん冗談としては落第点だが」と付け加えた。イドリスは秀麗な顔の筋肉を硬化させたまま、笑い返す余裕もない。彼の反応には興味を示さぬようすで、ジュスランが述べる。 「バルアミー卿の付帯意見によれば、これはタイタニア中枢部の内紛を期待する流星旗軍の謀略であろう、ということです」 「常識的な見解だな」  アジュマーンは、今度は薄く笑った。 「で、バルアミー卿自身は、その常識的な見解を心から信じておるのかな。常識はしばしば本心を隠す盾として使われるが」  答える者はジュスランであるはずだったが、イドリスが彼に先んじた。 「私には異《こと》なる見解がございます、藩王殿下」  イドリスの声はかろうじて激発寸前の平衡を保っていた。バルアミーを罵《ののし》りはしたが、主要な敵とは思っていないのだ。イドリスが口を開いたことによって救われたのは、藩王に試されるはずのジュスランであった。イドリスの焦慮と怒気とが事情を変えた。 「同僚に対して批判がましきことを口にするのは不本意でありますが……」  その前置きで、イドリスが何を発言しようとするのか、ジュスランは察した。察したが制止するわけにいかず、彼はイドリスの鋒先《ほこさき》が不在の人物に向けられるのを聞かされることになった。 「アリアバート卿は惑星バルガシュにおいて敵手たる流星旗軍の所在を見失い、当初の軍事的政治的目的をいまだ達成しえずにおります。タイタニアの威信にとっても、アリアバート卿個人の名声にとっても、不名誉の至りであります。その不名誉を糊塗《こと》し、衆目を彼の失敗から逸《そ》らすために、姑息《こそく》な技を弄したのではありますまいか」  いったん口を閉ざすと、イドリスは挑戦的としか形容しえない視線の刃をジュスランに突き刺した。ジュスランは表情をころし、藩王を眺めやった。グレーの服につつまれた藩王は、青銅の像さながらに硬い冷ややかな質感で端然と座している。ふたたびイドリスは口を開いた。 「すなわち、私、イドリスを悪意ある偽報の犠牲として、自分に向けられた批判をかわそうとの所存です。でもないかぎり、なぜこのような時機にこのような噂が流されるのか。私には一片の疚《やま》しさもない。厳正な、そして何よりも公平な捜査をお願いするものです」  やや、という以上に感情が理性を圧倒した観がある。イドリスが着座すると、藩王がおもむろに、いまひとりの公爵を眺めやった。 「ジュスラン卿の意見を聞こう」  その声に微妙すぎる波動をジュスランは感じとった。事態を藩王は娯《たの》しんでいる。そう直観した。同格の公爵たちがたがいに睨《にら》みあうのは、分裂統治という観点からは好ましいことであるにちがいない。 「残念ながら、イドリス卿のご意見には賛同いたしかねます」  せいぜい言葉を選びはしたが、苦々しい口調をジュスランは完全に隠しおおせることができなかった。頬にイドリスの烈しい眼光を感じる。 「アリアバート卿がそのように姑息な謀略をめぐらし、イドリス卿を陥穽《かんせい》にはめるなど、ありえぬことと存じます」  逆ならともかく、とは口に出さなかったが、口調だけで通じたかもしれぬ。藩王はいよいよ表情を晦《くら》ませ、イドリスは不満と怒気を両眼に集めてその光を険《けわ》しいものにした。 「その可能性が低いこと、イドリス卿が藩王殿下に対して異心をいだくことと同様です。私としてはとうていどちらも信じることはできません」  自分はどうやら口舌《こうぜつ》の徒らしいな。皮肉っぽくジュスランはそう認識した。しかも、礼節を保つと見せつつ巧妙に相手の反論を封じこんでしまうあたり、かなり性質《たち》が悪いであろう。しかもイドリスに対してジュスランは罪の意識を抱いていなかった。  イドリスが唸《うな》り声をあげた。 「証拠もなしに誹謗《ひぼう》されることに耐えられぬ、と私はいっているのだ。そういいたいのだ」 「証拠がないのはアリアバート卿に関しても同様。同僚を指《さ》して謀略の根源と決めつけるには明白な証拠が必要のはず。でなければ、それこそ見えざる敵の謀略に乗せられ、敵を利することになろう。ご自重いただきたいものだ、イドリス卿」 「偉そうに長口舌《ちょうこうぜつ》を!」  ついにイドリスは激発して、礼節の箍《たが》を弾《はじ》き飛ばすに至った。椅子から立ちあがり、すさまじい眼光をジュスランに向ける。 「だいたいジュスラン卿はいかなる権利があって、このイドリスに説教するのか。そもそも悪意ある流言の被害者は私であって他者ではないぞ」 「むろん知っている。だが、だからといって現在戦地にあるアリアバート卿の行動を阻害するようなことがあってよいのか。彼が軍をひきいて帰還を強《し》いられるようなことがあれば、手を拍《う》って喜ぶのはバルガシュ政府だろう」 「では不肖、私がアリアバート卿に代わって派遣軍総司令官となり、バルガシュ政府と流星旗軍とをともに撃ち倒してまいります。藩王殿下、ご判断を!」  この男はやりすぎる。あらためてジュスランはそう思った。ひとたび決定され実行に移された人事を、藩王が撤回することはありえない。それを承知の上で、イドリスは演技してみせたのである。むろん彼自身、軍才に対する自負《じふ》はあろうが、藩王から見ても演技が見えすき、興ざめする思いであろう。アジュマーンは感銘を受けた風《ふう》でもなく、形だけうなずいた。イドリス公の熱誠《ねっせい》はよくわかった、と述べ、退出するよう指示した。これでひとまずこの件は終わったのである。  何ひとつ解決したわけではないな、と、ジュスランは思う。イドリスはタイタニアにとって好ましからぬ不安定因子であるかもしれない。タイタニア中枢部に内紛や相互|猜疑《さいぎ》の種子をまくのであれば、たとえばアリアバートが麾下《きか》の軍隊を動かしてクーデターを起こす、という噂が流されてもよいのである。なぜ噂の主体として自分が選ばれたか、イドリスは思いを致《いた》すべきであった。タイタニアを忌《い》む有形無形の敵は、堅固きわまる城塞の壁に、楔《くさび》を打ちこむべき亀裂として、イドリスの存在に留意しているのである。イドリスは狙われているのだ。それを知れば言動に注意を払い、タイタニア内部からの反感や猜疑を招かぬよう心がけるべきであろう。ジュスランがイドリスの幕僚であればそう進言する。だが現実はむろんそうではないから、イドリスに忠告する義務はジュスランにはないはずであった。  立ちあがった藩王アジュマーンが、ジュスランに声をかけた。この週のうちに別の議題で会議を開くことになろう、というのであった。 「年を越してもザーリッシュ公の席が空《あ》いたままだ。拙速《せっそく》を良しとするわけではないが、できれば今年の半ばまでには空席を埋めておきたいのでな」 「ザーリッシュ公の御母堂はどのように?」  ジュスランがやや声を低めると、無言でアジュマーンは頭《かぶり》を振った。剛毅無情の藩王が、このとき辟易《へきえき》した表情を閃かせたかに見えた。ザーリッシュの母テリーザ・タイタニア公爵夫人は、先日来「|天の城《ウラニボルグ》」に滞在し、人々を大いに困惑させているのであった。  タイタニア貴族にして公爵号を有する者は、この巨大な無形の帝国にあって中枢部の運営に参画せねばならぬ。単に血統の保存が目的であれば、幼児が公爵家の当主になってもよいが、タイタニアではそれは通じぬ。成人し、水準以上の才幹とそれを支《ささ》える肉体的健康とを具《そな》えていなくてはならぬ。とかく問題ありとされるイドリスにせよ、この年ようやく二五歳という若さを思えば、政治と軍事の両面における才幹と実績とは充分に非凡なのである。だからこそ弱冠《じゃっかん》にして公爵家の相続を許されたのだ。生前のザーリッシュをジュスランはさほど高く評価していたわけではないが、いざ彼の座が空くと、ただちに空席を埋めるだけの人材はなかなか存在しないものであった。前途の多難を予想しつつ、ジュスランは藩王に敬礼して退出した。        W    不快な演劇《しばい》がひとまず閉幕して以後、イドリス・タイタニア公爵はさらに不機嫌になった。生意気で未熟なバルアミーも、それを庇《かば》いだてするジュスランも、遠くのアリアバートも、近くの藩王アジュマーンも、故人となったザーリッシュも、誰も彼も気に入らぬ。ことに気に入らぬのは、彼自身の心底に潜む不安であった。不安の主成分は孤立感であったろう。アリアバートやバルアミーを責めたてて、ふと顧《かえり》みればイドリス自身には味方がいないのである。  ザーリッシュの死後、その空席をイドリスの党与《とうよ》によって埋めることがかなえば、彼の地位は飛躍的に強化される。当然、彼としては工作をほどこしたいところであったが、党与であれば人物を問わぬというわけではなかった。会議の直後、イドリスの弟ラドモーズ男爵が面会を求めてきた。会議のようすを聞きたがったのだが、言下にイドリスはしりぞけた。 「お前が知る必要のないことだ。お前が会議に席をつらねることなどないだろうからな」 「ではおれに期待しておらぬと兄上はいうのか」 「何を不満げに。期待を裏切っておれを失望させたのは誰だ。おれがせっかく与えた栄達の好機を、短慮から無にしたのは誰だ!」  イドリスは声の鞭《むち》をたたきつけたが、ラドモーズは動揺しなかった。兄よりもたくましい身体をうっそりとたたずませ、鈍い眼光で兄を眺めやっている。その姿を見るとイドリスの不機嫌はさらに増大した。この図体《ずうたい》ばかり大きい浅慮《せんりょ》の弟が昨年バルアミー子爵とつまらぬ諍《いさか》いをおこしたばかりに、イドリスが決定した軍部の人事は撤回され、彼がめぐらした伏線は断ち切られ、あげくにジュスランとの対立は深化した。どうせジュスランとの対立は回避しようもないが、早期に選択肢を減らされては何かとやりづらくなるのである。肚《はら》を割って謀議する相手もなく、弟を追い払ったイドリスは、ひとり不機嫌をかかえこむしかないのだった。    服装をととのえた侍女のフランシアがコーヒーを運んできた。紙よりも薄く銀器より高価な白磁のカップを手にしながら、ジュスランは、彼のおとなしやかな情人《ミストレス》の横顔を眺めやった。白い卵形の顔は、美しいが強烈な存在感を欠く点で、アリアバートに通じるタイタニアの血の流れを感じさせる。ジュスランはフランシアのそういう点が気に入っているのだが、わずかに物たりなさを覚えてもいるのだった。矛盾というより男の身勝手さというべきだろう、と、ジュスランは自覚している。彼の思考や生活に騒がしく乱入してくるような女性は、たちまち疎《うと》ましくなるにちがいなかった。フランシアがつつましく控え目だからこそ、ふたりの関係はつづいているのであろう。  サロンの肉視窓から、またたかぬ星々の光が青く流れこんで来る。その光のなかにフランシアがたたずみ、ためらいをこめて主人に語りかけた。 「噂をご存じでしょうか、ジュスランさま」 「知っている噂もあれば知らぬ噂もある。フランシアが聞かせたいなら聞かせてもらうとしよう」  ジュスランがさらに視線でうながすと、ためらいを振りきってフランシアは語りはじめた。テオドーラ・タイタニア伯爵夫人のことであるという。その女性の名は、ジュスランに軽く眉をひそめさせた。先年、強引なまでの積極性をもって伯爵家の相続権を掌中《しょうちゅう》におさめた若い女性。野心の量はおそらくフランシアの一〇〇万倍ほどもあろう。野心を支える才覚は現在のところ破綻《はたん》を生じていないようであるが、今後はわからぬ。彼女の地位と実力が増大するにつれ、沈没によって巻きこまれる者が増えるであろうと思われた。  そのテオドーラ・タイタニア伯爵夫人の言動が、「|天の城《ウラニボルグ》」に居住する女性たちの注目を惹《ひ》いているというのであった。フランシアの耳にも噂が羽ばたきして飛びこんで来る。彼女はそれほど噂に興味を持つ女性ではないが、無視できなくなったのはイドリス卿の名を聞いたからであった。テオドーラはイドリス卿と関係を持ち、閨房《けいぼう》においてさまざまに政治的策謀をめぐらしているという。それだけにとどまらず、最近では藩王アジュマーン、さらに他の有力者たちとも関係を結んでいるとさえいわれている。 「なるほど、彼《か》の伯爵夫人は多情でおいでと見える。多情だろうと多感だろうと、それ自体は個人の性《さが》で咎《とが》めるべきものでもないな」  問題は、情欲と権力欲との生臭《なまぐさ》い婚姻《こんいん》にある。古来、覇王の枕頭《ちんとう》に権力欲の強い女性が侍《はべ》って、ろくなことがあった例《ためし》はない。藩王アジュマーンは一〇代末期から多くの女性を寵愛《ちょうあい》し、高価な宝石や貴金属をもって身を飾らせたが、玩具として権力を与えたことはなかった。女性は彼にとって愛玩品であって、協力者や同志や、まして主人であったことはなかった。これまでは。将来のことは人には予測しかねる。ジュスランの心を虜《とりこ》としえなかったテオドーラが藩王アジュマーンの心を蕩《とろ》かせることができるとは思えぬが、すでにして彼女は伯爵夫人の地位を得た。さらに高処《たかみ》を望んだとしてもむりはない。噂になるようではたか[#「たか」に傍点]が知れている、とも思うが、逆の見解も成立しえる。そのような噂を流すことによって自分の政治力を誇示しているかもしれぬのである。藩王や公爵と深く通じているとあれば、反感を持つ者も害意を削《そ》がれよう。  タイタニアが滅亡するとすれば、それは強大で有能な外敵によってではなく、内紛と相克《そうこく》とがもたらす自滅という形で到来するのではないか。以前にも幾度かめぐらした予想が、ジュスランの脳裏をかすめた。 「イドリス卿はジュスランさまに何かと敵対的でいらっしゃるとか。それでつい噂を聞き集めてしまいました。お疲れのごようすですのに、こんな話をして、お気にさわったでしょうか」  心配げなフランシアに向けて、ジュスランは短く笑ってみせた。 「タイタニアであるということ自体、疲労の種だ。私はそのことに疲れていた、たぶん子供のころから」  ジュスランは口を閉ざした。それ以上を語るべきではなかった。語ったところでどうにもならぬ。彼の母親とアリアバートの母親とが、血を分かちあう姉妹でありながら憎悪の視線を突き刺しあうのを見た幼い日のこと。あのときの想いを表現する術《すべ》をジュスランは持たない。それよりもフランシアの心づかいに考えさせられた。フランシアのように、政略的思考と縁遠い者でさえ、イドリスの名に対して虚心《きょしん》ではいられなかったのだ。衆目《しゅうもく》の斉《ひと》しく視《み》るところ、イドリスとジュスランとは不倶戴天《ふぐたいてん》の対立者ということであるらしかった。ほとんど常にイドリスが能動し、ジュスランが応戦するという形であるが、とにかくジュスランも応戦しつづけたのであるから、戦意なしとはとうていいえぬ。今後もイドリスに対しては応戦しつづけることになりそうであった。    本来、テリーザ・タイタニア公爵夫人は一族の同情心を最後の一滴まで独占しえるはずの女性であった。昨年、彼女はふたりの息子を失ったのである。ザーリッシュ・タイタニア公爵とアルセス・タイタニア伯爵。溺愛《できあい》していたアルセスの死は母親を狂乱させた。ザーリッシュは一族内で重んじられていたほど母親に重んじられていなかったが、失われれば愉快であろうはずがなかった。「アルセスたち」を奪った極悪人どもをテリーザ夫人は呪い、悪事を阻止しえなかったタイタニア一族の無能を罵った。彼女は領地から「|天の城《ウラニボルグ》」へ乗りこみ、一刻も早く息子たちの復仇を断行するよう藩王アジュマーンに迫った。藩王は一度だけ形式的に、かつては美しかった公爵夫人に面会したが、かならずザーリッシュ兄弟の讐《あだ》は討つと繰り返すのみで、公爵夫人から見れば不誠実な態度に終始した。のみならず、藩王は以後、口実をもうけて面会を避け、あげくに「軽挙妄動《けいきょもうどう》してタイタニアおよび子息たちの名誉を傷つけぬように」と伝言するありさまだった。 「タイタニアの名誉!」  あてがわれた客館のサロンで、テリーザ・タイタニア公爵夫人は音声よりも膨大な量の毒気を宙に吐き出した。侍女たちは女主人の唾《つば》を避けて後退した。公爵夫人は滞在にあたって六〇人の女官をともなってきたのである。 「タイタニアに名誉などあるものか。妾《わたくし》が知っていることを世に明らかにしたら、嫉《ねた》み深い下賤《げせん》の者どもが、さぞ喜ぶであろう。あの者たちは尊貴《そんき》の家を嘲笑《ちょうしょう》することに娯しみを見出しておるゆえ。アジュマーン、アリアバート、ジュスラン、イドリス! どの者も腐りはてた毒虫の裔《すえ》にすぎぬ。血管には濁った血しか流れておらぬものを、何が名誉か!」  自分自身や息子たちの血については、テリーザ夫人は言及《げんきゅう》しなかった。毛細血管を破裂させた赤い目で、夫人は周囲を睨みまわした。移動する視線が一点に固定された。サロンの扉口にひとりの女性が佇《たたず》んでいる。冷静を欠いた夫人にも、服装や態度から見て侍女でないことは理解できた。だがテリーザ夫人はたとえ相手が藩王の令夫人であっても恐縮はせぬ。声を張りあげて誰何《すいか》した。 「そなたは何者じゃ。いや、何者であれ呼んだ覚えはないぞ。誰の許しを得て妾の部屋にはいってまいったのじゃ!」 「お初にお目にかかります、テリーザ・タイタニア公爵夫人」  鄭重に、訪問者は女主人の詰問を無視してみせた。やや気勢を削《そ》がれた形で、テリーザ夫人が訪問客を見なおすと、女性はなお鄭重に名乗りをあげた。 「わたしはテオドーラ・タイタニア伯爵夫人と申します。つい先日、藩王殿下より伯爵夫人の称号をお認めいただき、ヴァルダナの皇帝陛下より勅《ちょく》をもって正式に封じられました。公爵夫人には通知を差しあげましたが、お心にとめていただけなかったのでしょうか」 「はて、そのようなことがあったのか。妾は俗事には興味がないゆえ知らなんだ」  伯爵家の相続問題を俗事と言いすてるあたりが、公爵夫人の面目であったろう。不快に思ったにせよ、テオドーラは表情にはあらわさなかった。さらにうやうやしく礼をほどこし、公爵夫人の虚栄心を満足させる。 「それで何の用で参られたのじゃ」  公卿夫人の微妙に口調が軟《やわら》ぐ。テオドーラは人払いを希《のぞ》んだ。彼女は権勢という獲物を追う猟人であり、目的を達するためには異性のみならず同性をも利用するにためらいはなかった。  こうして、一月一八日、藩王アジュマーンはテリーザ・タイタニア公爵夫人からの申し出に眉をそびやかせる。亡き息子ザーリッシュの空席を、母親であるテリーザ夫人によって埋めたいという、それは驚くべき要求であった。 [#改ページ]        第三章 |いんちき戦争《ボニー・ウォー》            T   「|いんちき戦争《ボニー・ウォー》」という。星暦四四六年一二月に始まったバルガシュ共和国とヴァルダナ帝国(つまりタイタニア)との戦争を、翌年二月に人々はそう呼ぶようになった。一滴の血も流されなかったわけではなく、占拠に先だつタイタニア軍の苛烈《かれつ》な地上軍事拠点攻撃によって万単位の死者が出ている。にもかかわらず、大艦隊どうしの正面決戦が回避されたことは、いかにも事態が中途半端に無原則に処理されつつあるような印象を第三者に与えた。強大なタイタニアに媚《こ》びる者たちは、「全宇宙の秩序とタイタニアの名誉と真の平和を守るために、バルガシュを徹底的に膺懲《ようちょう》すべきである」と主張したが、すくなくとも武力による反抗をバルガシュはおこなわず、総司令官アリアバート卿も無抵抗の相手に攻撃を加える気にはならず、流星旗軍の行方を追及することに専念するに至った。「流星旗軍」とタイタニア側では総称しているが、内実はファン・ヒューリックの一党と、トゥルビル少将指揮下のバルガシュ政府軍とのやや雑然たる混成兵力である。行方不明となった兵力は、将兵数八万四四〇〇名、艦艇二四九〇隻、対空火器・対艦火器・地上戦闘装甲車両等一万二六〇〇余と算出されたが、どこまでも推定の数値であった。 「何しろ貴軍の地上攻撃により、甚大《じんだい》な被害が生じましたので、はい。その部隊は全滅したとの報告です。そちらの艦は完全破壊されたと聞いております。証拠? 何しろ塵ひとつ残っておりませんで」  と、やや戯画化すればそういうバルガシュの反応である。歯ぎしりしつつ、タイタニア軍は自力で捜索と調査をおこなうしかなかった。  タイタニア軍のなかにあって、ザーリッシュ・タイタニア公爵の高級副官であったグラニート中佐の活動はめざましかった。彼は生前のザーリッシュに再三忠告しては容《い》れられず、ついに上官の横死に直面することになった人物で、補佐の任を全《まっと》うできなかった責任を問われるはずであった。だがアリアバートはむしろ彼の立場に同情しており、文書上の譴責《けんせき》処分と半年間の減俸処分に付しただけで、「功をもって罪を償《つぐな》わせる」旨《むね》を明らかにした。グラニート中佐は感動し、アリアバートの命を受けてただちに行動した。高速哨戒艇の小隊をひきいて流星旗軍の輸送船を襲い、これを捕獲、船長以下の乗員を虜囚としたのである。この捕虜を通してアリアバートは流星旗軍と交渉を持った。第三者の論評によれば、 「つまりアリアバート卿は本来の流星旗軍を威迫したわけだ。ファン・ヒューリックの一党をお前たちの手で狩り出せ、でなければお前たちの罪を問う、と」  ということになる。威迫された流星旗軍も、易々《いい》として服従したわけではない。自尊心を傷つけられた彼らは、アリアバートに対して脅迫的言辞を弄した。もし自分たちが全軍をこぞってファン・ヒューリックの一党に加担するとしたらどうするか。あまり威圧的な態度をとらないほうがよいのではないか、と。 「それならそれでよし。お前たちがファン・ヒューリックの一党に与《くみ》してタイタニアと戦うというのであれば、まとめて撃ち滅ぼすまでのことだ。遠慮は無用、ただちに彼らのもとに投じるがよい」  アリアバート以外の者がいえば「虚喝《はったり》」としか思われなかったであろう。静かな自信とそれを支える実力とに、本来は不逞《ふてい》なはずの流星旗軍の幹部たちは威圧されてしまった。アリアバートは正確に洞察していたのである。流星旗軍に昔日《せきじつ》の反骨はなく、圧倒的な力の前には膝を屈するていどの存在になりさがっている、ということを。同時にアリアバートはタイタニア風味の飴《あめ》も彼らになめさせた。すくなくともタイタニアに対して妨害者とならなければ、流星旗軍には名誉ある処遇を与える、正規軍と同等の地位を与えてもよいし、合法的な航路の利権を与えてもよい、と。  流星旗軍は屈服した。  こうしてアリアバート・タイタニアはただ一度、小さな作戦行動に成功しただけで、流星旗軍主流派の無害化を実現させてしまったのである。彼の傍にある外交顧問エルマン・タイタニア伯はアリアバートが単純な武辺《ぶへん》ではないことを認めた。今回の遠征において、アリアバートは、艦隊決戦に勝利する以外のあらゆる局面で成功をおさめた。機会さえ与えられれば、艦隊決戦においても圧倒的に勝利するであろう。そうなれば文字どおり彼は一国を完全に征服するという武勲を樹《た》てることとなる。 「大きすぎる武勲だ。アリアバート卿にとってはかえって災厄《さいやく》となるかもしれぬ。とすれば、艦隊決戦ができないままのほうがむしろよいか……」  エルマン伯はそう思案をめぐらした。アリアバート、ジュスラン、イドリス、三公爵のいずれが次期藩王の座に就《つ》くか、他のタイタニア貴族も虚心ではいられなかったのである。エルマン伯個人としては、アリアバートとジュスランとの分権的共同統治を期待していたが、期待というものはほとんど満たされずに終わるものである。彼としては無為の現状に甘んじていれば大過なく人生を送ることができたはずだが、一歩を踏み出してタイタニア権力機構の外交・調略部門に席を有することになった。彼なりに将来の構図を描き、それを実現させることがかなえば、地位と権限は強化される。仮にイドリスが次期政権を手中におさめ、独裁権を揮《ふる》うようになれば、エルマン伯はふたたび毒にも薬にもならぬ中流貴族の生活にもどるしかあるまい。それはエルマン伯の望むところではなかった。  エルマン伯は自らが藩王となる意思はない。その器局を有していないことは自分で知っている。だが新たな藩王が定まるのに力を致すことはできるはずだし、その功績を正当に評価されるのは喜ばしいことであった。  流星旗軍がアリアバートに協力するに至った別の理由がある。かつて彼らの盟友であったドクター・リーことリー・ツァンチェンが、タイタニアおよび流星旗軍主流への公然たる敵対を宣言していたからだ。裏切者を制裁するという口実で彼らは努力したが、成果は見られなかった。 「流星旗軍がそこまで努力してなお発見できぬというのは、ファン・ヒューリック一党の逃亡ぶりが巧妙というより、流星旗軍の追跡捜索能力が貧弱というべきではないのでしょうか」  パウルセン少将がそう評すると、アリアバートは皮肉を隠しきれぬ視線で幕僚を眺めやった。 「当を得た表現だな、パウルセン少将。それで同じ分野におけるわがタイタニアの能力はどう表現されるべきだと思うか」  パウルセン少将は赤面し、アリアバートはやや気むずかしく考えこんだ。第三者に「|いんちき戦争《ボニー・ウォー》」呼ばわりされるまでもなく、彼自身がこの戦いの虚構性に耐えがたい気分なのである。 「トゥルビル少将指揮下の艦隊が離陸したという記録は残されている。目撃者もいる。だが何処へ行ったかがわからんのだ」  航路局の記録は空白になっている。本来であれば虚偽のデータを入れるところだが、工作の時間が不足していたらしい。つまり逃亡者たちの計画は、決行までに多くの時間を要したということだ。バルガシュ政府の承認を得られなかったのであろう。あるいは天に飛んだのではなく、地にもぐったか。  そこでグラニート中佐の進言にもとづいて、アリアバートはザーリッシュが終焉《しゅうえん》の地としたタルハリ砂漠への攻撃をおこなった。地下の洞窟系にファン・ヒューリックの一党がひそんでいれば、数億トンの岩石と土砂に埋もれてしまったにちがいない。総計五〇万発のミサイルが半径五〇キロの地域に集中され、大地は揺らぎ、熱風は渦を巻き、土砂は塵となり雲と化して地上一万メートルにまで達した。砂漠は活火山と化した。アリアバートは攻撃の実効性より示威の効果を期待したのである。数兆の塵は恒星光を乱反射させ、その後二ヶ月にわたって恒星バルガシュは血の塊に似た落目を見せつけられた。  エルマン伯がアリアバートに報告をもたらしたのはその翌日である。 「どうやらファン・ヒューリック一党の所在が知れたようです、公爵」  アリアバートはエルマン伯の謹直げな表情を黙然と眺めやった。彼とエルマン伯との間には、一五の年齢差と思考法の異質性とが横たわっている。それを理由として他者の存在意義を拒否するほど、アリアバートは狭量ではないし、自分が年少であることもわきまえている。だがこの中年貴族に対して微かながら苦手の意識が蠢《うごめ》くのを、なぜか否定することができなかった。        U    エルマン伯は自己の人脈とアリアバートの示威、それにタイタニアの財力とを最大限に活用した。方向が外であれ内であれ、調略《ちょうりゃく》は情報の豊富さと正確さにもとづくものである。アリアバートの一喝に慄えあがった流星旗軍の幹部のひとりに、エルマン伯は接近し、さらにバルガシュ政府の要人を抱きこみ、蜘蛛《くも》の糸の如く彼らを絡《から》めとって情報を絞《しぼ》りとったのであった。 「彼らは海底にひそんでおります、公爵。むろんバルガシュ政府はそれを認知しております」  その一報で、アリアバートは合点した。 「宇宙空間をいくら探してもいないわけだ。海中に潜んでいたとはな。彼らは鼠《ねずみ》ではなく深海魚だったか」  アリアバートにいますこしの時間があれば、エルマン伯の助力なしで敵の所在を突きとめえたであろう。それは口にせず、アリアバートはエルマン伯の尽力に深い感謝の意を表し、伯爵の功績を即座に公式記録に載《の》せた。エルマン伯は満足し、自分の選択に自信を深めたのである。アリアバートはただちにバルガシュ政府当局を呼び出した。綿でつくられたような男、外務大臣コルヴィンは、表情を昏《くら》ませてアリアバートに対したが、アリアバートの要求を聞いて顔の筋肉を微動させた。かろうじて韜晦《とうかい》してみせる。 「航路局のデータを出せとおっしゃいますか。それはすべて貴軍に提供してあるはずですが」 「航路局ではなく水路局のデータです。一五分以内に当方で自由に使用できるようご処置願いたい」  アリアバートは単に礼をつくしただけではない。この要求に対する反応を識《し》るのが重要な目的であった。バルガシュ政府が動揺ないし拒絶の気配を見せれば、逆説的に、エルマン伯がもたらした情報の正確さが補強されるのである。 「一五分ではむりです。これから閣議に諮《はか》り、水路局に伝達し、責任者の認可を得なくてはなりません。わが国は民主国家ですからして手続きを踏んでからでなくては……」 「あと一四分と三〇秒ですな」  アリアバートは無慈悲な一撃でコルヴィンの防壁を撃砕した。ファン・ヒューリックらの所在を知るために必要なデータを当方は要求している、拒否は敵対行為とみなして応分の措置をとるが、それでもよろしいか?  アリアバートの眼光に鋭く抉《えぐ》られてコルヴィンの顔が蒼白になった。破局を悟った者の表情であった。エルマン伯の情報の正確さを、アリアバートは確認した。 「お忘れなく、大臣。吾々はあなたがたバルガシュ政府のために無頼の脱走者どもを処断してさしあげるのだ。感謝されこそすれ、咎《とが》められるべき理由はありませんぞ」  アリアバートは紳士であるが、それ以上にタイタニア権力の「武」の面を代表する男だった。バルガシュ政府の要人たちは、いまさらに思い知らされたであろう。  万事が休して、外務大臣コルヴィンが執務室の通信スクリーンの前で呆然としていると、秘書官がやや責めるように問いかけた。 「データをお渡しになるのですか、大臣」 「しかたがないだろう。これ以上、吾々に何ができるというのだ。私が拒否してもタイタニアは水路局のデータを入手するさ。無益な抵抗は、同時に無意味でもあるのだよ」 「そうかもしれません。ですがこれでもう誰もバルガシュのために戦ってくれませんよ。吾々は信用と惑星管理官《ロカートル》の選考権と、双方を失って、辺境の首都から孤独な貧乏星に成りさがるわけです」 「そう決まったわけではない」  コルヴィンは広すぎる額に汗の玉を並べながら頭を振った。 「まだ決まったわけではない。決まったとしても吾々は生き残らねばならんのだよ。悲歌も哀歌も吾々には必要ない。詩人となって死ぬより乞食《こじき》となっても生きなくてはならん」  いったん切った言葉を、コルヴィンは自らに向けて新たに投げかけた。 「生き残って他者の死を見とどけるのさ」  コルヴィンの哲学を、アリアバートは認める立場にない。彼は水路局からのデータを幕僚に解析させ、部隊を再配置し、「|天の城《ウラニボルグ》」へ報告を送るなど、哲学以前の用件で多忙であった。「|天の城《ウラニボルグ》」にはジュスランがいる。彼が藩王を補佐して内政や外交の実務に従い、さらにアリアバートの立場を代弁してくれるから、アリアバートは外征の将軍がしばしば抱く後背《こうはい》への不安とほぼ無縁でいられた。自分が戦うために生まれてきた、と信じてはいないアリアバートだが、「天の城」で政治的工作に従っているより広大な宇宙の戦場で大軍を相手に武略《ぶりゃく》を競うほうに充実をおぼえることは確かであった。  彼はザーリッシュと異なり、大言壮語をもって快《こころよ》しとしたことはない。むしろ実績に比して声は小さいであろう。彼はつねに淡々として遠征の任を果たしてきており、それを政略に利してきたこともなかった。だが彼もタイタニアの一族であった。仮《かり》に彼の武勲が藩王《クランナー》の、あるいは次期藩王の忌《い》むところとなり、不当に粛清されるような状況となれば、彼は公然と、正々堂々と叛旗をかかげ、麾下《きか》の兵力をもって自立するであろう。タイタニアの忍耐や従順さは奴隷のものではない。実力と意思ある者は、つねに正当に評価されるべきであった。そしていま、撃つべき目標を再発見したアリアバートは、幕僚たちを集めて精力的に作業をおこなっている。  宇宙空間と深海との環境における相似性は周知のことだが、それでも海中での航行および戦闘にはそれなりの装備を必要とする。すべての艦艇がそれを具《そな》えているわけではない。たとえば|WG《ウォーターガーゼ》というシステムは薄い水流の膜を発生させて艦体をおおい、高水圧下における高速を実現させるのだが、この装備の有無によって一時間に四〇キロ以上の速度差が生じる。その水流は低周波および高周波の遮蔽《シールド》ともなるから、それらを利用した兵器にも活用されることとなり、装備の差が生死と勝敗を分《わか》つのである。  水中戦に精《くわ》しい幕僚ラグーザ大佐が、地形図を壁面に投影しつつ説明する。 「このあたりですと深度五〇〇〇から六〇〇〇メートルの海盆《かいぼん》が八〇〇万平方キロにわたって展《ひろ》がっております。その北と西に海嶺、南と東に海溝……」  メートルという数値の単位が、アリアバートと幕僚たちに軽度の違和感を与える。通常、彼らの感覚では距離とは「光秒、光時、光日、光年」によって表現されるものである。とるにたりない感覚の差が、ときとして重大すぎる結果を生じせしめること、軍人でも小学生でも変わりはない。 「水中装備を有する艦艇は、すべてこの作戦行動に従事させる。一惑星の海など、諸卿には狭すぎるだろうが、たまには走らずに歩いてみるのもよかろう」  アリアバートの言葉に笑声が生じかけたが、つぎの一言で風がやむがごとく静まりかえった。 「ただし散歩に出てつまずけば、より多くの嘲《あざけ》りを受けることになるだろう。侮《あなど》るな。笑うのは後日いつでもできる」  幕僚たちを引きしめておいて、アリアバートは兵力の展開を周密に指示した。  全軍が海中に突入するのではなく、海面上一〇〇メートルの空中には、二六〇隻の巡航艦、三三八隻の駆逐艦、八九〇隻の高速哨戒艇、四一隻の宇宙母艦が停止《ホバリング》し、敵艦隊の浮上に備えた。さらに、これに五倍する兵力が衛星軌道上に展開し、不逞きわまる反タイタニア武装勢力を宇宙空間へ逃すことなく惑星バルガシュの海底に葬り去ろうとしていた。  アリアバートには獅子《しし》の性《さが》があるようであった。たとえ小敵であろうと、撃つに万全の態勢をもってする。生前のザーリッシュが彼に高く評価されなかったのは、彼《か》の偉丈夫が個人の勇猛に頼りすぎて用兵に堅実さを欠いたからであった。その欠点はザーリッシュの生命によって償われた。アリアバートの堅実が何物によって報われるかは、未だ人知のおよばぬ領域に所属することである。彼の司令部はつぎつぎと指示を出しつづけた。 「よろしい、第八分艦隊は海流に乗ってN006、W072ポイントまで進行せよ。第九分艦隊はN006、W073ポイントへ……」  アリアバート自身は旗艦に搭乗し、六〇〇〇隻の艦艇をひきいて、惑星バルガシュの赤道直下において海中への突入を果たした。  こうして「|いんちき戦争《ボニー・ウォー》」は長々とつづいた第一幕を終え、海中での第二幕を開《あ》けることになったのである。        V    星暦四四七年二月一日から三日にかけて、タイタニア軍は海面上と海面下における索敵行動をつづけた。これほどの大軍が海中に潜航すれば、バルガシュの海全体が容積を増してアルキメデスの浴槽と化すだろう、という冗談がささやかれた。確定的な報告がもたらされたのは、三日一八時五〇分のことである。 「レーダーに敵影を発見いたしました」 「距離はどのくらいか」 「一五〇〇キロ弱」 「宇宙空間であれば一瞬の距離だがな」  海中ではそうはいかない。|WG《ウォーターガーゼ》を駆使しての巡航速度は時速一五〇キロ、最高時速一九〇キロ、艦隊行動においては一〇時間を要する。 「迂遠《うえん》なことを考えてしまったな」  アリアバートはこの日幾度めかの苦笑をたたえる。海中を航行すれば一〇時間を必要とするが、いったん空中に出て目標地点の上空まで行けば一時間は要さない。彼自身、宇宙空間の戦闘については熟練しているが、惑星内のこととなると微妙な違和感を禁じえないのである。  ただちにアリアバートは海面への浮上と空中飛行を指示した。それも全軍の半数にとどめ、残る半数はそのまま海中を航行させる。アリアバート自身のひきいる一隊は敵の東方に再度着水、潜航して東から敵を攻撃、西へ向かって追う。敵が西へ逃げれば、海中航行の部隊に退路を阻《はば》まれ、東西両方向から挟撃されることになる。海面に浮上しようとすれば低空に待機する別動隊に頭上から攻撃を受ける。さらに深海へ逃げこめば自らの活路を遮断するだけのことだ。アリアバートは胸中に呟《つぶや》いた。 「ファン・ヒューリック氏を四度《よたび》タイタニアの虜囚にしてさしあげよう。今度は|天の城《ウラニボルグ》にご招待することになるが……」    アリアバート・タイタニア公爵の呟きに感応したわけではないが、流浪の英雄と過大評価されるファン・ヒューリックは悪寒《おかん》をおぼえて頸《くび》すじを片手で押さえた。心ならずもタイタニア一族の公敵と目《もく》されるようになって以来、幾度も経験したことである。慣れることもなく、快感に転じたこともなかった。  彼が搭乗した巡航艦「|正直じいさん二世号《オネスト・オールドマン・ジュニア》」は、深度四八五〇メートルの海底に坐りこんでいる。すでに一ヶ月になろうとしている。排水量にして四万トンを算《かぞ》えるこの艦が、他の艦と並んで海底に横たわる光景は、勇姿というより辺境の魚市場を想わせるかもしれない。  ヴァルダナ帝国、つまりタイタニアの宣戦が正式におこなわれた後、ドクター・リーはファン・ヒューリックに向かってこういったものである。 「吾々は一度敗れたらそれで最期《おしまい》なんだ。つまり作戦的にも政治的にも経済的にも必勝の態勢が完成されるまでは戦ってはいけない」 「完成されるのはいつだ」 「悪魔ぞ知る」  おごそかに悪魔の弟子は答え、不幸な逃亡者は口のなかでドクターの師匠をののしった。他に奇策も良策も思いつかぬまま、海底に潜《もぐ》ってしまったが、はたしてこの選択は正しかったのだろうか。 「アリアバート卿が武断的な態度をとったことで流星旗軍はびびったわけだ。バルガシュ政府がびびらないという保証はあるのか」 「そんな非学術的な保証はできない」 「自信満々でいうことか。だいたい……」  痛烈な皮肉をいってやろうと思ったが、何も思い浮かばなかったので、ファン・ヒューリックは口ごもった。ようやく気をとりなおし、表現力をととのえる。もしバルガシュ政府がアリアバート卿に屈したら、彼らの立場はいったいどうなるか。 「そうなればバルガシュ政府は吾々を見すてるだろう。当然のことだ。吾々と命運を共有する義理は彼らにはないのだからな」 「……失敗したかな」 「何が?」 「何もかもさ」  ファン・ヒューリックは、人生とか運命とかに対し、きわめて懐疑的になっていた。彼はこのまま死に至るまで、似あわぬ衣装で似あわぬ役を演じつづけるしかないのだろうか。  それにしても、奇妙なものだ、という気がする。艦体を外から包みこむのが真空空間であるときには飛翔と浮揚の感覚が得られるのに、周囲が高圧下の海水であるときには閉塞と圧迫の感覚が押し寄せて来る。艦体自身の強度と張力振動波フィールドによって幾重にも護られているはずだが、それはむしろ有形と無形の棺に思われるのだ。理由はそれほど複雑なものではない。ひとたび繊弱な人間を保護する殼が破られたとき、宇宙では人は船外に吸い出され、深海では浸入する水が人を押しつぶす。その差が奇妙に乗員の心理に影響するのだという。真偽のほどはわからないが、何となくファン・ヒューリックは、そんなものかもしれないと思っている。 「|正直じいさん二世号《オネスト・オールドマン・ジュニア》」には本来、別の艦名があったのだが、新乗員たちはそれを無視している。表音英語による略称「|OOJ《ダブルオージェー》」がもっぱら用いられていた。新乗員はすべてバルガシュ正規軍の軍人ではない。ファン・ヒューリック、ドクター・リー、コンプトンとミランダのカジミール夫妻、アラン・マフディー、ミハエル・ワレンコフ、ルイ・エドモン・パジェス、サラーム・アムゼカール、イブン・カセム医師、セラフィン・クーパース、その他を合計して二二九名である。タイタニア最大の敵と称されても、実態はこのていどのものであった。正面から堂々と戦うにはゼロが三つは不足している。武装憲兵の一個大隊も派遣すればすむところ、アリアバート卿まで出陣させるタイタニアのやりかたには、おそれいるしかない。 「アリアバート・タイタニアと正面から戦って勝てる奴などいるものか。おれだって、まぐれで勝っただけなんだ」  ファン・ヒューリックはいう。謙遜ではなく心からの発言である。そのまぐれが彼自身を含めて何百万人の運命を変えたか、考えたくもなかった。押しつけられた環境にあって、どうにか責任を果たしていくうちに、このありさまだ。なぜ今日の状況がもたらされたのか、誰かに責任ある回答を要求したくなる。  自分は勝つたびに窮地に追いこまれていく。ザーリッシュに追いつめられ、窮鼠《きゅうそ》の反撃によってようやく斃《たお》したと思ったら今度はアリアバートと戦う破目《はめ》になった。どこか自分の人生航路には、航法上の致命的な欠陥が最初からインプットされているにちがいない。  運命に対する異議を保留しつつ、どうにか戦って死ぬ覚悟をさだめた――自己|欺瞞《ぎまん》にすぎないとしてもだ。ところがそれも星々の輝きのなかで華麗に散るというならまだしも、ろくでもない惑星の貧乏たらしい海の底で息をひそめて敵の攻撃ないし撤退を待っていなくてはならぬ。その状況がまた息苦しさを加えてくる。まだ三〇歳に達していないファン・ヒューリックとしては、いっそ暴発してしまったほうがよほど気が楽であった。だが、ドクター・リーという悪魔の弟子がそれを許さない。彼はファン・ヒューリックがタイタニアを道づれにするという計算式を完成させないかぎり、死ぬことすら許してくれそうになかった。  不機嫌にファン・ヒューリックが過去と現在と未来とを考察していると、サンバイザーをかぶった若い女、セラフィン・クーパースが彼に笑いかけた。彼女は、ファン・ヒューリックの身体に英雄という服が似あわないことを知っている。 「あきらめるのね。あんたの取柄《とりえ》はタイタニアにけっして屈しないことにあるんだから」 「おれとしてはタイタニアが赦《ゆる》してくれるなら誓約書の一万枚ぐらい差し出したってかまわない気分だがね」  絶対にそうはならないであろうことを、むろんファン・ヒューリックは知っていた。彼の存在はタイタニアの支配体制にとって必要なのである。必要な間は生かされていて、必要がなくなれば消去される。ドクター・リーがタイタニアよりまし[#「まし」に傍点]だとすれば、必要がなくなってもファン・ヒューリックを生かしておいてくれるということだろう。そのかわり、タイタニア支配体制崩壊後の人類社会のありようについて考察せよ、という宿題を押しつけてくるにちがいなかった。  すくなからずファン・ヒューリックは腹が立ってきた。「タイタニアなき後の宇宙新秩序」などについて、なぜ彼が悩まねばならないのであろう。そこまで彼が責任を負うべき理由はどこにもない。タイタニアの消失が人類社会に災厄をもたらすのであれば、タイタニアを存続させ、その支配に甘んじていればよいのである。否、実際に人類社会の過半はそれに甘んじている。ファン・ヒューリックも甘んじて気楽に生きていたいくらいなのだ。それにもかかわらず……。 「ファン・ヒューリック!」  呼びかけられて現実世界にもどる。女の声だが、セラフィン・クーパースより低く、力感に富んだ声だ。ミランダの顔が緊張と昂奮をたたえて彼に接近してきた。 「どうもまずいことになったようだよ。タイタニアが……」  声に警報が重なり、セラフィン・クーパーがサンバイザーをかぶり直した。熱線《ヒート》ライフルを手にしたのは、これから生じる戦闘における実効性というより、戦意の表現という次元に属する行動である。あわただしく動きはじめた同志たちも銃を手に、硬化した表情を見あわせた。 「発見された……!」  戦慄《せんりつ》が神経網を駆けぬける。        W    アリアバート・タイタニア公爵はグレーの軍服につつまれた長身を旗艦「金羊《ゴールデンシープ》」の艦橋に佇《たたず》ませている。秀麗な顔に快い緊張の色がたたえられていた。両眼は前方のメイン・スクリーンに鋭く光を射こんでおり、画面ではあわただしく映像と数値と図形とが入れ替わっていた。 「どうやらめざす姫君を発見したようですな、公爵」  楽しげなパウルセン少将の声を聞き流して、アリアバートは艦長席に歩み寄った。艦長チェン・ルーファン大佐はいちいち敬礼などしなかった。タイタニアの士官のなかで、有能さと無愛想さにおいて確定的な評価を得る男である。年齢は三九歳、軍歴は二五年、受けた勲章の数はダース単位にのぼる。その彼が、やや無機的な声で報告した。 「熱反応は確かにありますが、敵味方の識別が現時点では不可能です」 「よろしい、あわてることはない。微速前進して追尾をつづけよ。隊形を崩すな」  アリアバートは形のいい顎《あご》に手をあてて一瞬だけ考え、結論を出した。敵を発見、追尾する旨、通常通信によって全艦隊に伝達せよ、と。  極端にいえば、通信を傍受されてもタイタニアはかまわない。通信の内容それ自体が敵に対する心理的兵器として使用できる。さらに敵の反応を解析することで、今後、戦術レベルでの対策を立てやすくもなるはずであった。  深海の高圧下を通信波が飛びかう。それは海面上にも飛んで、低空で待機していた別動隊が波濤を見おろしつつ移動を開始する。  敵の反応があらわれた。それはアリアバートでさえ意表を突かれるほど直截《ちょくせつ》的なものであった。索敵士官のひとりが両手でヘッドホンを押さえながら声を高める。 「固形体、急速接近! 方角は一〇時三〇分、数は六つ!」 「上昇、回避」  チェン大佐が不機嫌そうに指示する。この場合、回避は迎撃の準備に必要な時間を稼ぐための手段で、いつまでも逃げまわるつもりはない。艦体はゆるやかに上昇を開始する。急速接近する固形体は自力推進式の金属体であると判明する。彼我の相対時速は、こちらの行動にしたがって一瞬ごとに変化する。絶対的な位置も変化する。残留エネルギー追尾式のミサイルであるらしい。いささか滑稽なことに、タイタニア軍が高密度の集団行動をとっているため、ミサイルの反応が当惑を示す。放出される複数のエネルギーのどれを優先して追尾するか迷うのである。宇宙空間では迷う時間などないが、海中にあっては速度が三桁も異なるため、機械が迷うという笑うべき事態が生じるのだ。 「極低周波ミサイルを使え!」  チェン大佐の指示は短く端的である。余分な台詞《せりふ》を口にするのはエネルギーの浪費と思っているような節《ふし》が、この有能なタイタニア軍人にはあった。「あいつの辞書には主語と目的語しか載《の》ってない」と同僚たちからは評されている。彼が積極的な邀撃《ようげき》を命じたのは、敵ミサイルが迷ったあげく自爆し、それが散弾式のものであるとき、密集隊形に傷を負う恐れがあるからである。  宇宙空間戦闘の感覚からすれば、とほうもなくスローモーな四〇秒の間に、タイタニア艦隊は各艦の距離をひろげ、敵ミサイル六発に対して六発のミサイルを射出する。二〇秒後、双方が遭遇し、爆発が生じた。  数百万トンの土砂が海底から噴きあがる。それは深海の水圧とせめぎあいながら、奇妙な緩やかさで海面へと上昇する。上昇しつつ周囲の海水を圧し、数兆トンにおよぶ暗黒の液体は重苦しく、しぶしぶと揺れる。各艦はその重い揺動を受けて水中に漂う。周囲の海水は温度を上昇させ、泥や砂の化粧を艦隊の表面に押しつける。 「海底火山の爆発みたいだな」  下士官のひとりが歎声をあげる。別の下士官が声を張りあげる。 「女房を思いだすよ。怒ると口をきかなくなるが、鼻息で物を吹き飛ばすのさ」  自分たちを励ますための会話を、チェン大佐は無視する。彼の妻もタイタニアの軍人で、しかも士官学校と軍事大学院を卒業した准将閣下であることを、一部の人間は知っていた。  アリアバートは内心で舌打ちする。どうにも陰気な戦いだ、すくなくともこれまでは。当初からこのバルガシュ遠征には、心を昂揚させる元素が不足しているように思われる。これは武人というより猟人の任であり、戦闘というより治安維持活動というべきだ。だが、とにかくアリアバートは敵を発見し、追いつめつつある。 「彼らが海面に浮上したらただちに荷電粒子ビーム砲による斉射を加えよ」  アリアバートは指揮シートにすわりなおし、女性下士官が差し出した盆《トレイ》からコーヒーカップを取りあげた。 「あるいはそれで万事が終わるかもしれない。楽観は禁物だが……」 [#改ページ]        第四章 二重離脱            T   「|いんちき戦争《ボニー・ウォー》」において、タイタニアと反タイタニア派のいずれがより多くの錯誤を犯したか、判定を下すのは困難である。そもそも反タイタニア派は、タイタニアの支配を快しとしない、という一点においてのみ共通するだけであった。バルガシュ政府はタイタニアを憎悪しつつ、国難をもたらした出しゃばりの無頼漢どもに対して不平を抱かざるをえなかったのだ。ファン・ヒューリックやドクター・リーと異なり、バルガシュは失うべきものを多く所有していたのである。  ヒューリックら「流星旗軍の落ちこぼれ」と行動を共にしているバルガシュ正規軍の指揮官は、老練のトゥルビル少将。副官はイルク少佐であった。ザーリッシュ・タイタニア公爵の横暴に直面した経験を有し、タイタニアに対する戦意とヒューリックらに対するシンパシイは強いが、最優先の帰属意識は祖国バルガシュにある。彼らに与えられた第一の任務は、艦隊戦力の温存にあった。「バルガシュ政府の連中は、今日の夕食より明日の朝食がだいじらしい」と、ファン・ヒューリックは思ったが、庇護《ひご》者の機嫌をそこねて「それじゃお前たちだけでタイタニアと戦え」といわれては困るので黙っていた。だが、ドクター・リーがミランダに解説したところでは、バルガシュ政府のやりくちはさらに辛辣《しんらつ》なのだという。 「吾々はひとまとめにしてこの艦に乗せられている。つまり、いざというときにこの艦一隻を沈めてしまえば、バルガシュ政府としてはタイタニアに対して申し開きができるというわけさ」 「そのために分散して乗艦させなかったってわけかい」 「巡航艦一隻ですめばバルガシュ政府にとっては廉《やす》いものだからな」 「でも、そんなことをしても自分たちの立場が弱まるだけだろう。たとえば惑星管理官《ロカートル》の資格審査権をよこせという要求をタイタニアが引っこめるわけないしね」 「たとえタイタニアの要求を受け容れても、バルガシュが実行する必要はない」  明快にドクター・リーは言ってのけた。 「というのは極端な表現だが、実行を引きのばす方法はいくらでもあるし、惑星管理官《ロカートル》の資格自体を無効化して別の制度をつくる策《て》もある。この一件に関するかぎり、タイタニアよりバルガシュのほうが伝統も権威もあるのだから」  ファン・ヒューリックは瞬《まばた》きしつつドクター・リーを見なおした。 「そこまでわかっていて、どうして……」  バルガシュ政府に戦争回避の方法を教えてやらなかったのか。ヒューリックの疑問をリーは笑殺《しょうさい》した。 「当然のことだ。そんなことを教えてやったら、バルガシュ政府はタイタニアと戦わないではないか」  彼にいわせれば論理的で明快な事実だった。彼ら自身だけでタイタニアに対抗することはできぬ。バルガシュ政府を巻きこまねばならぬ。そのためにはバルガシュ政府を窮状に追いこむ必要がある。それだけのことだった。  要するに「美しい同志愛に結ばれた抵抗運動《レジスタンス》」などでは自分たちはない、ということだ。むしろタイタニアの宣伝する「宇宙の平和と秩序を乱す悪辣なテロリストども」という呼称のほうが正確であるかもしれぬ。すくなくとも彼らが淳良《じゅんりょう》な性格の所有者であるとは、けっしていえない。ドクター・リーがさらに敵の心理を説明した。 「アリアバート卿は、政治的手段としての戦争においてはとっくに勝っているのだ。だが優秀な軍人であり、潔癖な騎士であるだけに、それだけでは気がすまないのさ」  正面から敵と戦略戦術の優劣を競い、何びとの目にも明瞭な形で勝利をおさめる。それを欲してやまないアリアバートではあるが、タイタニアの重鎮としての節度が欲望にまさる。感情的に満足しえずとも、政治的勝利によってタイタニアに利益をもたらすことがかなえば、アリアバートは無益な武力行使に固執することはない。ないはずである。それが今回、どこまでも逃亡者を追及し、武力行使による完勝を望むのは、バルガシュ政府の姑息《こそく》さやファン・ヒューリック一党の逃げまわりようが、ひとつひとつアリアバートの美意識を負《マイナス》の方向へと刺激しているからである。このみぐるしい連中を放置したり、中途半端に赦したりすることはとうていできぬ。タイタニア軍人の名誉と、今後の秩序のためにも徹底的に処置すべきだ、と、アリアバートは考えている。そこにこそヒューリックたちの唯一の活路があるのだった。  アラン・マフディーが声をとがらせて詰問した。 「で、これからどうするんだ?」 「どうするとは?」 「戦闘だよ! タイタニア軍を相手にどうやって闘うんだ。勝つための算段《さんだん》はしてあるんだろうな」  マフディーはどなった。彼が戦術面に口を出すのは、戦意に富んでいるからではなく、ヒューリックやリーと心中《しんじゅう》する意思がないからである。 「すべてヒューリック提督にまかせてある」  落ちつきはらってドクターは答えた。 「不得意なことは他人に押しつけるのが健康の秘訣《ひけつ》だと、早逝《はやじに》した伯父《おじ》がいっていた。年長者の忠告は聞いておくものだ」 「似合《にあい》の伯父と甥《おい》だな。あんたの伯父さんとやらは、責任を果たすことこそ人の道だとは訓《おし》えなかったのか」  マフディー自身は、自分の任を集団の会計管理に限定している。したがって、戦闘指揮に関しては、他人の責任を追及すればよいと考えており、自分で戦術を考案する意思はない。ドクター・リーはその態度を皮肉っているのだが、むろんマフディーはそうとは気づかなかった。気づいたのはミランダである。かつて一国の公女であったこのたくましい女性は、皮肉なくせに豪快な笑声をたてた。 「マフディー、あんたの道が安っぽい銅貨で舗装されているように、ドクターやファンの道は深慮遠謀と刻印された金貨で舗装されているのさ。すこし控えめにして、待っていたらどうなんだい」 「金貨だって!? それがメッキした偽物でないとどうしてわかる。信用とは証拠あってのものだぞ」  もっともな意見であるが、マフディーの人望のなさはドクター・リーをさらに上まわるので、この下らない口喧嘩は内紛には発展しなかった。  ……このときタイタニア艦隊の司令部を当惑させる事態が生じていた。彼らが追撃している当の敵から通信がもたらされたのである。「バルガシュ正規軍」の名でもたらされた通信の内容を、アリアバートは把握しそこねた。眉を微かにひそめて彼は情報担当参謀を眺めやった。 「どういうわけか」 「それが……通信によればこうです。ファン・ヒューリックらが搭乗した艦を自分たちの手で沈めるから、即時停戦の申しこみに応じてくれ、と」  アリアバートの周囲でざわめきが生じた。 「奴らは正気でしょうか」  パウルセン少将がうなった。アリアバートにとっても彼の幕僚たちにとっても、信じがたい申しこみであった。藩王《クランナー》アジュマーンであれば、辛辣に笑ってその薄汚れた申し出を受け容れ、然る後に申し出の存在を否定してのけたであろう。だがアリアバートはアジュマーンではなかった。 「そのような通信は受けなかった。記録を抹消せよ。万人の名誉のためだ」  アリアバートの声は抑制されていたが、醜悪な提案に対する感情を完全に隠しおおせることはできなかった。大声で賛意を表したのはパウルセン少将である。 「そのような死にかたをするのでは、ファン・ヒューリックが哀れというものです。反逆の雄として、吾々の手で滅ぼしてやりましょう」  この若い忠実な軍人に対して、アリアバートは微かだが奇妙なうとましさを感じた。故人となったザーリッシュに対して抱いていたものと同質の感覚である。自信を誇張して表現し、自らつくった虚像に安住する人物を、アリアバートは好まなかった。  何もかも気にくわなかった。自分は何やら予測しようもない悪辣な陥穽《かんせい》に誘いこまれているのではないか。アリアバートは彼らしからぬ疑惑に、胃のあたりを重苦しく押さえつけられた。昨年の裡に戦将として思考のかぎりをつくし、宇宙空間においてバルガシュ艦隊と決戦する、そのための戦略と戦術を練りあげてきたのだ。それがことごとく無に帰して、あげくに一惑星の海底で逃げまわる小兵力を追いまわしている。不本意の極致であった。勝利するのは当然であり、しかも勝利したところで一ミリグラムの満足感も得られぬのは明白であった。個人的な満足感を得るために戦っているわけではない。そう自らに言い聞かせても、不快感を一掃することはできなかった。しかも総司令官の立場上、個人的な心象風景を他者の視界にさらすわけにもいかないのである。 「グラニート中佐、何か意見はないか」  アリアバートは他者の意見を求めてみた。 「海底にご注意いただきたい。海底に爆発物なりミサイルなりが設置されている可能性があります。海底の砂の中に敵艦がひそんでいることもありえます。ご注意ありたし」  グラニート中佐としては、上官であったザーリッシュ公爵の横死を想起せずにいられなかった。ザーリッシュは砂の下に身をひそめていた敵艦からの射撃を受けて、思いがけぬ苦杯《くはい》を嘗《な》めることになったのだ。グラニートの指摘は無視しえぬ説得力を有しており、アリアバートは各艦に命じて海底への爆雷攻撃を指示した。ただし、本格的戦闘に先だって爆雷を浪費するのも愚かしいので、使用数を各艦一〇発に制限した。それでも膨大な数の爆雷が海底で炸裂《さくれつ》し、太古以来蓄積された砂の数千万トンを舞いあげる。スクリーンの画像が暗い澄明から暗い混濁へと変化するありさまを、アリアバートは眺めやって憮然《ぶぜん》とした。ただ中途半端というにとどまらず、自分のやっていることがいかにも無意味な気がした。        U    変化は急激であった。艦体が大きく揺動したのだ。搭乗していたタイタニア軍人たちにとっては、跳《は》ねたにひとしかった。かろうじて転倒をまぬがれ、奇声を発しかけた者がひとりではなかった。指揮デスクの端に置かれたコーヒーカップが皿ごと空中へ滑り出し、抗議の声をあげて床に砕ける。アリアバートはスクリーンを眺めやった。コンピューターによって修正された画像は、黒々とした海中に微細なきらめきを乱舞させている。タイタニア軍の索敵システムを混乱させるために敵が放出した囮《デコイ》であった。タイタニアの隊列は乱れ、操作卓《コンソール》にすがりついたオペレーターは、時速六〇キロに達する強烈な海流の存在を告げた。パウルセン少将が喚いた。 「ばかな! 海盆《かいぼん》の、しかも海底近くに、これほど強い海流があるわけがない」  だが現実に海流は存在し、タイタニア艦隊を烈しく押し流しつつある。アリアバートはチェン大佐に指示を与えた。水路局からのデータを過信するな、海流の方向と速度から逆算して、海底地形を推測せよ、と。チェン大佐は即座にオペレーターに作業をおこなわせ、四〇秒後、スクリーンはコンピューターが推測する海底地形を画面に描き出した。アリアバートの周囲で呻《うめ》き声が生じ、若い公爵は白っぽい笑いを唇の端にきざんだ。彼らは左右に高々と海嶺がそびえたつ深海の回廊に位置していたのである。 「公爵閣下、これは!」 「水路局の奴らは吾々をだましたのでしょうか」  幕僚たちの叫びに、アリアバートは頭《かぶり》を振った。 「いや、水路局の連中は何も知るまい。自分たちが正しいデータをタイタニアに押収された、と彼らは思っている。そうでなくては、この策《て》は使えはせぬ」  アリアバートは詭計《きけい》にはめられたことを悟った。「畜生、してやられた!」という部下たちの怒声が虚しい。衛星軌道からの航法援助も海面下二〇〇〇メートルまでしかとどかず、タイタニア艦隊は水路局からのデータを信じて行動するしかなかった。しかも敵は金属と非金属の囮《デコイ》を撒《ま》き散らしてタイタニアの索敵システムを混乱させた。それは敵の所在を隠すためのものではなく、地形をくらますためのものだったのだ。  海水が膨張し、爆発した。索敵士官のひとりが悲鳴をあげてヘッドホンを自らの頭部からもぎ離した。不運な彼は、聴覚による索敵活動に従事していたため、強烈な爆発音によって鼓膜を傷つけたのである。  爆発したのはミサイルではなかった。敵は非推進式の爆雷を射出し、海流に乗せて突進させてきたのである。タイタニア艦隊は海流が形づくる深海回廊の中心に密集していた。せざるをえなかったのである。アリアバートの戦術眼や指揮能力を生かす術《すべ》がなく、そういう状況にタイタニア軍を追いこんだ「悪辣なテロリストども」の成功であった。艦外から鈍い震動と音響が伝わり、しかもとぎれることなくつづいた。爆発の圧力が海流に加わり、さらには爆発物や艦体接触を回避しようと各艦が個々の運動を始めたため、混乱は一挙に拡大した。宇宙空間の小惑星帯での操艦には慣れている彼らも、空間の狭小さと時間感覚の微妙な狂いとに挟撃され、実力を発揮しえぬまま破局に追いこまれていく。 「巡航艦ブラマンテV、通信途絶!」 「戦艦ボーフォール、大破! 浮上して戦線を離脱します」  デジタル化された通信が飛びかい、各艦は恐慌と狼狽《ろうばい》につつまれた。アリアバートは指揮席でやや蒼《あお》ざめているようにも見えたが、それでも全軍でもっとも沈着さを保っていた。彼は暗黒のスクリーンに点滅する爆発光を眺めやりながら呼吸をととのえ、日常と変わらぬ声で指示した。 「各艦、上昇せよ。海流から離脱し、然る後に隊形を再編する」  常識的な指示が、この状況にあっては恐慌を制するのに効果的であった。各艦長は理性を取りもどし、上昇を命じた。たちまちタイタニア軍は秩序を回復し、海面に浮上して全軍を再建するかに思われた。だがそれすらも敵の奸計《かんけい》の一部であったのだ。  急速上昇を開始したタイタニア艦の一隻が轟然《ごうぜん》たる爆発にみまわれた。金属片と非金属片が火球から六方向へ吐き出され、回転しつつ緩《ゆる》やかに暗黒の深海を漂い、強烈な海流に運ばれていく。  アリアバートは敵の奸計が二重三重のものであることを知った。敵は自然環境を最大限に利用している。はるか上方へ向けて爆発物を射出し、重力による沈下にまかせる。急上昇するタイタニア軍は、自ら、爆発物に向かって突進する形になるのだ。爆砕された艦体の内部には高圧の海水がなだれこみ、乗員を押しつぶす。艦体は重力と海流によって、味方のなかへ突っこんでくる。接触、回避、再接触の悪循環が生じ、不本意な密集を強《し》いられたところへ爆発物が放りこまれてくるのだ。常闇の深海底で、オレンジ色の閃光《せんこう》が球体となって連鎖した。  あいつぐ爆発によって、海水が沸きかえった。低空で待機していたタイタニア軍が異変を察したのは、海面が弾《はじ》けて、大きな泡にも似た脱出ポッドがつぎつぎと浮上してきたからであった。即座に海中に突入を図《はか》れば、浮上する味方と衝突しかねない。脱出ポッドを回収する一方、正確な報告を求めて通信を送る。  アリアバートの旗艦「金羊《ゴールデンシープ》」の至近で爆発が生じ、引き裂かれた僚艦が回転しつつ旗艦に衝突した。そこで動力部が連爆し、閃光と震動が旗艦全体をはね飛ばす形となった。  アリアバートの視界が一転した。彼は自分の長身が天井へ向かって壁面を上昇するのを感じた。彼の旗艦は海流と爆発圧との見えざる巨大な両手によって激しく回転させられた。内部では人間たちが、さながら乾燥機《ドライヤー》内部の洗濯物と化して振りまわされ、壁や天井や床にたたきつけられた。ベルトを着用してシートに坐っていた者も、飛来する戦友の身体や備品によって傷つけられた。かろうじてチェン大佐が艦体を立てなおしたのは二〇秒後である。 「公爵……!」  幕僚たちの悲鳴が耳道《じどう》を乱打して、アリアバートは意識を回復した。最初、上下感覚が失調して自分の位相《いそう》が把握できなかった。視界の周囲に幕僚たちが顔の輪を形成している。右耳の横をなまぬるい液体の細流が伝わり、額の端に痛点を感じた。自分が仰向けに倒れていることを確認し、身体をおこそうとしたとき、胸郭に激痛が弾《はじ》けた。悲鳴はこらえたが、表情がゆがむのは避けられなかった。肋骨が折れていたのである。彼はすくなくとも四回にわたって壁や天井に身をたたきつけられていた。頸骨《けいこつ》を折った者や、計器類の破片を眼球に突き刺した者に比較すれば、アリアバートの不運はまだ小さかったといってよい。  かろうじて身を起こし、軍医の治療を受けながら、アリアバートは、自分の負傷を全軍に通達するよう幕僚たちに命じた。顔に青黒いあざ[#「あざ」に傍点]をつくったパウルセン少将が危惧の声をあげる。 「ですがそれを敵に傍受されれば、たいへんなことになりますぞ」 「それでよい。追って来れば逆撃する。虚報と看《み》て追撃を控えれば、無事に帰還できるというわけだ。指示に従え」  これもまたアリアバートらしからぬ詭計めいた発想であった。彼がこの「|いんちき戦争《ボニー・ウォー》」において精神的に失調した状態であったことを証明するものであろう。ただ、アリアバートは、敵が勢いに乗って追撃してくることを衷心《ちゅうしん》から望んでいた。臨機応変の軍才をもってしたたかに逆撃を加え、「|いんちき戦争《ボニー・ウォー》」の汚名を却《しりぞ》けるつもりであったのだ。だが結局、彼の戦意は満たされなかった。海中の敵は攻撃をかけてこなかったのだ。通信を傍受したか否かは、その当時、確認することができなかった。  ……四時間後、アリアバートはタイタニア軍が接収した病院の特別室にはいった。タイタニア軍は六〇隻の艦艇を失い、二六隻を大破させ、八〇〇〇人をこす戦死者を出し、何ひとつ得るものなく海からたたき出されたのである。        V    アリアバートの負傷は全治三ヶ月と診断された。頭脳の明敏と気力の充実とは衰えを見せぬものの、それらの持続性は肉体的健康と密接に関連する。彼が前日までのように遠征軍の全権を独裁することは困難であった。病床からアリアバートは指示を出し、彼の権限を二分して、バルガシュ政府との交渉・折衝はエルマン伯に、軍組織の管理と運用はボルドレーン少将に、それぞれ委任した。実務責任者の権威が低下するのは、この際やむをえぬことである。アリアバート自身は療養に専念することになり、戦死者および遺族に対する哀悼と補償の意を表明して、以後、病院にこもった。  惑星バルガシュはかなりの騒ぎになった。大部分はタイタニアの敗北を快しとするものであったが、手放しで喜んだ後には今後の不安がひそやかに心のドアをたたく。民衆は声を低くして語りあった。不安はなるべく口から口へ、独占せず他人に伝染《うつ》すべきものである。 「だからああいう迷惑な輩《やから》は、一刻も早く宇宙の涯へ追いやってしまうべきだったのさ。このままでは、わが惑星の海が汚染されてしまうじゃないか。そうだろ」 「それではアリアバート卿らを環境保護法違反で告発しますか」 「くだらん冗談はやめろ」 「あんたの心配ほどくだらなくはないよ。アリアバート公は健在なんだし、タイタニア軍をどうやって追い払えるというんだ」  アリアバート個人はバルガシュの民衆に嫌われてはいなかったが、大前提としてタイタニアに対する反発と敵意がある。「ざまを見ろ」という反応は当然のものであったし、タイタニアに苦杯を強《し》いた勢力に対して声援《エール》が送られるのも自然なことであった。タイタニア軍はボルドレーン中将が首都に駐屯して司令部機能を管理し、パウルセン少将が憤激と自責に苛《さいな》まれつつ海上捜索を続行し、さらにサイラス中将が衛星軌道上の機動部隊を指揮監督するという分担になっている。緊急の大事でも発生しないかぎり、この人事は順当なものであるはずだった。  病院に見舞に訪れたバルガシュ政府の要人は適度にあしらわれて帰された。何とかアリアバートに直接対面して表情を探ろうとした者も、目的を達することはできなかった。一年前には想像もできぬ重任に就《つ》いたエルマン伯が、入院四日目、アリアバートに「|天の城《ウラニボルグ》」の情報をもたらした。テリーザ・タイタニア公爵夫人が、亡き息子の座を引きつぐと主張して藩王や公爵たちを当惑させているという一件を、アリアバートはこのときはじめて知ったのである。 「そいつはジュスラン卿も大変だろうな」  アリアバートの声は他人事のようである。エルマン伯爵は礼儀ただしく若い公爵の表情をうかがった。ジュスラン卿以上に大変なのはアリアバート自身のはずである。それを認識していないはずはないのに、アリアバートは淡々としている。度が過ぎるほどだ、と、エルマン伯には思われた。アリアバートはエルマン伯から対バルガシュ交渉の件で幾つかの報告を受け、伯の処置に承認を与え、そしてその後に表情をあらためた。 「エルマン卿」  呼びかけられたエルマン伯は、心に厚着をしてアリアバートの言葉を待った。 「私は今次遠征において犯した数々の失敗、失策、誤断の責任をとらねばならない。今週の裡《うち》に藩王《クランナー》アジュマーン殿下に辞表を提出するつもりだ。その際、エルマン卿に証人としての署名をお願いしたい」 「辞表と申されますと?」  鈍感を装《よそお》って問うたのは、すべてがエルマン伯の政略的演技というわけでもなかった。実際、彼は多少とまどっていたのである。自分自身の失敗に対するアリアバートの処置は、これまでまず完全といってよかった。入院静養は、いかにして藩王からの責任追及を回避するか、対策を講じるための時間を稼《かせ》ぐためだ、と、エルマン伯は思っていたのだ。だが、アリアバートは、遠征軍総司令官のみならず、すべての公職から退くという。 「辞表というのは、辞任の意思を文書化したものだ」  意識してか否か、ずれた返答をアリアバートはした。エルマン伯は舌打ちをこらえた。 「ですが、公爵閣下が軍権を返上なさった後には、何びとをしてタイタニア軍実戦総指揮官の地位に据《す》えればよろしいのですか」 「それは藩王殿下の御意にあること。敗残の身でとやかくいうのは憚《はばか》られる」  アリアバートの返答は完璧《かんぺき》なものであるかのようにエルマン伯には思われた。それとも真に隠棲を望んでいるのか。なお判断を下すことができず、エルマン伯はアリアバートの本心を確認しようとした。 「ですが、公爵閣下が軍権を返上なさった後、イドリス卿がその地位を継がれるということもありましょう。それでもお退きになりますか」  アリアバートは淡白に応じ、つづいて、はじめて皮肉っぽい笑いを浮かべた。 「おれにもいささかの自己過信《うぬぼれ》はある。イドリス卿におれ以上のことができるのであれば、やってみせてもらいたいものだ」 「イドリス卿はお若いが、それだけに潜在的な能力が期待できるかもしれませぬな。そう期待するしかありますまい」  あえてエルマン卿は危険を冒した。相手がザーリッシュであれば、その発言は落雷さながらの怒声と、制限いっぱいの腕力誇示によって報われたであろう。だがアリアバートは軽く笑っただけであった。 「それならそれでよし、タイタニアにとってはめでたいことだし、おれの地位が失われるのは当然というだけのことだろう」 「ですが……」  無個性な接続詞に、エルマン伯爵は無言をつないだ。アリアバート伯の態度は、緊張感と覇気とを失った敗残者のものか。権謀術数にめざめた政略家が何かを企んでのことか。それとも高い次元の哲学でもあるのか。否、大貴族の青年らしく甘い観測で、いずれふたたび自分の出番が来ると信じているのか。温和な表情の下でエルマン伯はめまぐるしく思案を働かせたが、結論を得ることはできなかった。つまるところ、エルマン伯は、一五歳ほど若いこの貴族提督を、もともと深く理解していたわけではなかったのである。        W    二月一〇日、アリアバートの辞表が「|天の城《ウラニボルグ》」にとどく。  他者の失敗に勝ち誇り、アリアバートの責任を追及してやまなかったイドリスであるが、アリアバートが遠征軍総司令官の職を辞したと聞いて、嘲《あざけ》るように唇をゆがめた。アリアバートがいっさいの兵権を返上すると聞いて、微かに眉を動かした。アリアバートが五家族会議からも退《しりぞ》き、ひたすら謹慎すると聞いて、ついにイドリスは声を発した。 「どういうつもりだ、アリアバートの奴は世捨て人にでもなるつもりか。藩王殿下のご裁可も待たず、自分で自分を罰してそれでよしとするつもりか!」  第一義的にイドリスは、アリアバートを責めたてる楽しみを奪われて不満に思ったのかもしれぬが、むろんそれだけではない。あまりに急激で徹底したアリアバートの進退は、「|天の城《ウラニボルグ》」全体を驚倒させたといってよかった。  アリアバート卿がすべての公職を辞し、軍権を返上し、最高意思決定機関たる五家族代表会議からも退く。これは次期藩王位をめざす公爵たちの競走《レース》から、アリアバートが大きく後退することを意味した。タイタニアの高級制服軍人たちは興奮して意見をかわしあった。 「アリアバート卿が任務に失敗したというが、では誰なら成功するというのだ」 「そもそも失敗などしてはいない。武威をもって無血の裡にバルガシュ政府を屈伏させたではないか。りっぱな成功だ」 「ファン・ヒューリックとやらいう賊徒どもにしてやられたのは残念だが、小さなことだ。これまでの功績で充分に償《つぐな》われるではないか」 「それにしても今後どうなるだろう」  結局、この意見が総轄《そうかつ》となり、軍人たちは肩をすくめて口をつぐんだ。それ以上を言語化して表明することは、タイタニア内部では危険であった。だが、実際、何者がアリアバート卿にとってかわるのであろう。  本来であればイドリスがアリアバートに代わって惑星バルガシュに赴き、最前線で指揮をとるべきであろう。過日、イドリス自身がその意思を明言しているのだから、なおさらのことである。だがイドリスとしては、そのような事態を回避せざるをえなかった。むろん戦地へ赴く勇気に欠けるわけではない。政略的思考が彼の行動を縛るのである。五家族代表会議からザーリッシュが永遠に退場し、今回アリアバートが無期限に退席し、この上イドリスが遠くバルガシュへと去れば、「|天の城《ウラニボルグ》」に残るのは藩王アジュマーンとジュスランの両者のみである。イドリスとしては自己の命運を政敵の手に委《ゆだ》ねるようなものではないか。 「おれが不在の間に何やら勝手に決められては、たまったものではない。|天の城《ウラニボルグ》を離れるわけにはいかんぞ」  イドリスは決意した。だがそれではアリアバートの後任をどうするか。 「いっそジュスランの奴をアリアバートの後任に推《お》してやるか。はたして奴に大軍の指揮統率ができるかどうか、一興というものだ」  良案であるように思われた。だが、あわててイドリスは自分の発案を自分で否定せねばならなかった。ジュスランが遠征軍総司令官代理になれば、当然のことだが惑星バルガシュに赴き、病床のアリアバートと対面することになる。そのとき両者が何事を謀議するか知れたものではない。そう思ったのだ。イドリスは彼自身に政略的発想が多いため、競争者に対してもそのような観察をしがちであった。  彼としては、アリアバートとジュスランとの連合を断然、阻止せねばならぬ。にもかかわらず、両者の一方と組んで他方を追い落とす、という術策を用いることはできなかった。これまであまりにも両者に対して敵意を示しすぎたのだ。いまさら彼らのどちらかひとりに共闘を申しこんでも、冷笑とともに拒絶されるだけであろう。いますこし競争意識を匿《かく》し、狡猾《こうかつ》にふるまうべきであったかもしれない。イドリスは舌打ちしたい気分であった。 「それにしてもアリアバートめ、存外に喰えぬ奴だ。奴はみごとファン・ヒューリック一党にしてやられ、任務に失敗したというのに、いまでは誰もその事実を指摘せん」  それどころかタイタニア内外の同情はアリアバートに向かって集中し、むしろ声価は高まりつつある。アリアバートはそこまで計算していたのだろうか。だとすれば一介の武辺どころか、俗流の策士である。アリアバートを与《くみ》し易《やす》しと観《み》ていたイドリスにとっては、不安と当惑を禁じえないことであった。その兄の当惑を、ことさらに刺激するのが弟のラドモーズである。よけいなときによけいなことをこの弟は口にするのだ。 「アリアバート卿がまた負けて、その責任をとらされたというわけだろう。競争相手が減って、兄上としてはめでたいことではないか」 「めでたいのはお前のほうだ」  不機嫌の極致で、イドリスは吐き棄てた。ラドモーズの単純な楽観ぶりにも腹が立ったが、むしろイドリスは自分自身にも腹を立てている。とにかくもアリアバートは至高の地位から一歩遠ざかった。その機に乗じ、イドリスとしては、藩王位とアリアバートとの距離をさらに拡大する策を講じたいところである。ところが事実は、アリアバートの本心を把握できず、ジュスランの対応も予測できず、積極的に術数をめぐらして自己の立場を強化することができずにいる。自分自身の、いささか退嬰《たいえい》的な姿勢に、イドリスは満足できなかった。  それでも二月一一日の五家族代表会議において、イドリスは語気鋭くアリアバートの責任を追及した。流賊どもの奸計にまんまと引っかかって、小規模とはいえ一方的に敗れ、部下を死なせ、何よりもタイタニアの名誉に傷をつけた。あげくに引責《いんせき》と称して、藩王殿下から委《ゆだ》ねられた地位と権限を放擲《ほうてき》するとは何ごとか。赦しがたい無責任であり、正当な処分を課せられるべきである。以上のように主張したのである。このような場合、藩王は多くは沈黙し、ジュスランが対応することになる。イドリスの主張を聞き終えて、彼はおもむろに口を開いた。 「最初はアリアバート卿の責任を強硬に追及する。アリアバート卿が公職を辞すればそれを非難する。いったいどのように行動すれば、アリアバート卿はイドリス卿から賞《ほ》めてもらえるのだろうか」  イドリスの顔色が変わるのを見ながら、ジュスランは思った。自分はイドリスより性質《たち》が悪い、どういえば相手を傷つけるかわかっていてそれを避けようとしないのだから、と。とはいえ、彼がこの三歳下の従弟《いとこ》に好意を持ちえぬことも厳然たる事実であった。  三、四回の応酬が実りなく繰り返され、藩王は午後五時の再開を告げて朝の会議を終えた。昨今、藩王は結論を即時出すことを回避する傾向が見られる。イドリスがやや憤然として退室し、その後に退出しようとしたジュスランを藩王が呼びとめた。鋼のような表情はまだ罅割《ひびわ》れてはいなかったが、ジュスランに語りかけた声に極微量の当惑を聴きつけることができたかもしれぬ。 「非難に先んじて辞表を提出するなど、このような発想は、これまでのアリアバート卿にはなかったように思うが……」 「御意《ぎょい》」 「何者かがアリアバート卿に智恵をつけたのかな」 「さあ、それは……」  口に出して断定こそしなかったが、おそらくちがうだろう、と、ジュスランは思う。不本意きわまる敗北と、それにつづく病床での時間が、アリアバートを精神的に脱皮させたのではないか。アリアバートはこれで再度にわたってファン・ヒューリックの詭計に敗れたことになる。最初の敗北に比べれば、舞台は狭く、損害は小さい。だが敗者の矜持《きょうじ》には致命的な一撃が加えられたはずであり、当事者がザーリッシュかイドリスであれば狂熱的な怒りと屈辱感に苛《さいな》まれたことであろう。アリアバートはそれを切りぬけた。冷静に敗北を受け容れ、万人が想像もしなかった方法で責任をとった。より正確に表現すれば、責任のとりかたについて他人に納得させてしまった。「あれで真に責任をとったといえるのか」というイドリスの意見は一面では正しいのだが、誰が聞いてもそれがイドリスの意地悪としか思われぬあたりが、イドリスの不徳というものであろう。  ジュスランは自分の執務室にもどった。午前中に八件の書類を決裁し、アリアバートに手紙を書き、昼食をリディア姫およびフランシアと摂《と》るつもりであった。だが、ごくささやかな彼の計画は、一〇時五〇分に至って妨害を受けることになった。客人が訪れて来たのである。孔雀《くじゃく》のごとく飾りたてた、かつては美しかった女性。テリーザ・タイタニア公爵夫人であった。彼女は礼式上、ジュスランの叔母にあたる。鄭重《ていちょう》に応接室に招かれると、公爵夫人は毒々しく塗りたてた唇を開いた。 「アリアバートがようやく男らしく責任をとる気になったようですね。どうせなら最初に負けたときに責任をとっておけばよかったのに。まったく決断力のない子だこと」  この巨大な宇宙都市で最も好き勝手に言論の自由を確保している老婦人は、頬や顎にだぶつく肉を慄《ふる》わせながらしゃべりたてた。彼女は正式な公爵位を受けるため、ジュスランに協力を求めに来たのだが、主要な目的を忘れ去ってしまったかのように、不在のアリアバートを言挙《ことあ》げするのである。 「母親の躾《しつけ》が悪かったのでしょうよ。だらしない女でしたからね」 「公爵夫人、亡くなった人のことです、どうかほどほどに」 「おや、ジュスランは礼儀正しい子だこと。もっとも礼儀は偽善の別名ともいうけど」 「…………」 「ジュスランがあの女を庇《かば》うことはないでしょう。あなたもあなたの母親も、あの女にはずいぶんと熱いお湯を飲まされたことだしね。そもそも……」 「公爵夫人!」  ジュスランの声が無形の鞭《むち》となってテリーザ夫人の口もとをたたいた。夫人は一瞬の戦慄《せんりつ》の後、不満げにジュスランを睨《にら》んだが、深みのある瞳にこめられた意思の勁《つよ》さを感じとって、ふたたび戦慄した。脅《おび》えを振り払うためにことさら大きな咳《せき》をする。二秒ほどの空白を置き、ジュスランは声に礼儀正しい温和さを回復させた。 「それよりも公爵夫人にうかがいたいことがあります」 「何かしらね」 「これまで政治的な要求をなさったことのない公爵夫人が、なぜ昨今、地位をお求めになるのでしょう。ご無用のことかと思えますが」  テリーザ・タイタニア公爵夫人は即答しなかった。狡猾な光が彼女の両眼に点滅し、それが消えると演技めいた声が発せられた。 「ジュスランらしくもない質問だこと。決まってるでしょう、わたしのかわいいザーリッシュが不幸な死にかたをしたからよ。あの子さえ生きていれば、わが家のこともタイタニア一族全体のことも安心して委ねることができたものを」  これほど誠意に欠ける母親の台詞《せりふ》というものを、ジュスランは初めて聞いたような気がする。テリーザ夫人が次男のアルセスを偏愛し、長男のザーリッシュに対して冷淡であったことを、一族のほぼ全員が知っていた。「かわいいザーリッシュ」という表現には、途方《とほう》もなくグロテスクな響きがあった。そのグロテスクさは、タイタニア一族すべての血統に通じるものであったろう。血族支配。利己的遺伝子《セルフィッシュ・ジーン》の政治化。一族による権力の独占。そのおぞましさが極彩色の象徴となってジュスランの前にいる。そして彼女は、ジュスラン自身やアリアバートの姿を歪《ゆが》んで映し出すこわれた鏡でもあるにちがいなかった。アリアバートの母、ジュスランにとっては母親の妹にあたる女性の姿を脳裏に浮かべかけ、彼は意志によってその姿を意識野の外に追い払った。 「それで公爵夫人はタイタニア本流としての使命感に覚醒《めざめ》られたというわけですか」 「いずれにしても、三人だけでタイタニアの最高意思を決定できるはずがないでしょう、ジュスラン。正しい人選で空席を埋めないと、不逞《ふてい》な野心家がきっと現れますよ。さしあたって、正統な血の一員であるわたしをそこに坐らせて、その後きちんと恒久的な人事をおこなえばよいではありませんか」  一理ある、と、ジュスランは思った。そして皮肉なことに、その一理こそが彼の疑惑を誘うのである。テリーザ夫人は知能が低いわけではないが、感情と欲求を理性によって抑制することができない人であった。アリアバートと異なり、テリーザ夫人が飛躍的な成長ないし覚醒をとげる可能性は乏しい。考えられるのは、藩王アジュマーン風に表現すれば「誰かが智恵をつけた」ことである。テリーザ夫人の背後には誰かがいる、と、ジュスランが明確に看《み》て取ったのはこのときであった。  ……ほぼ同時刻、ジュスランを藩王位継承の障壁と見做《みな》すイドリスは、自室のソファーに陣どり、ブランデーグラスを掌《てのひら》で温めつつ思案をめぐらしている。  ザーリッシュの母親、あの我執と我欲だけの老婦人と同盟する。その可能性を考えただけで、安酒を無理に飲まされたような不快感がイドリスの胃を衝《つ》きあげてきた。  イドリスが欲するものはタイタニアの最高権力であった。宇宙の覇王、人類社会の支配者の座であった。それは戦慄をおぼえるほどに壮麗で崇高な地位であり、それを獲得するための戦いは、同様に壮麗で崇高なものであるべきだ。それがどうであろう。そもそも藩王位の価値さえ理解しえぬような者と組まねばならぬとは、なさけないかぎりであった。  だがそれが最良の方法であるとしたら……。 [#改ページ]        第五章 早春、陰謀の季節            T    星暦四四七年の二月から三月にかけて、タイタニア一族の本拠地である「|天の城《ウラニボルグ》」は、いささか節度を欠く噂の中心地となった。アリアバートの辞任は、第一報からむしろ時間を経過するにしたがって波紋をひろげ、中堅幹部は中堅幹部どうし、兵士は兵士どうし、噂の洪水のなかで泳ぎまわることになったのだ。 「アリアバート卿が遠征軍総司令官職を辞した、ただその一事だけで、数世紀にわたってタイタニアが蓄積してきた膿《うみ》のすべてが噴き出してきた観があった。つまりパックス・タイタニアはすでに飽和状態に達しており、アリアバート卿の辞任は駱駝《らくだ》の背骨を折った一本の藁《わら》となったのである」  とは後日の評価であるが、さしあたり「|天の城《ウラニボルグ》」の内部では、無数の口と耳がきわめて活発に活動しているのであった。 「仮にアリアバート卿が五家族代表会議への出席もしないというのであれば、そもそも公爵号を保持する意味がない。まず公爵号をこそ返上するべきではないか」 「それはそうかもしれないが、だとすると公爵家の相続という問題があらたに生じるぞ。アリアバート卿も独身で子がいない」 「アリアバート卿をバルガシュから召還し、藩王《クランナー》殿下ご自身で査問すべきだろう。むろん負傷が完治せぬことには、恒星間飛行はむりだが」 「それとても、後任の司令官が決まらぬことには、数十万の将兵は辺境に放置されたままになってしまう」 「そもそもこうなっては、三〇〇万もの遠征軍をバルガシュに進駐させておくことにどれほどの意味があるのか。撤兵したほうがよいのではないか」 「だがそれで手を拍《う》って喜ぶのはバルガシュの奴らだ。奴ら、タイタニアを退却させたなどと宣伝しかねんぞ……」  そして結局、「|天の城《ウラニボルグ》」内外の衆目《しゅうもく》は一点に向けて集中される。一段と声をひそめ、第三者の耳目《じもく》を憚《はばか》りつつ、人々はごく親しい者にのみ問いかける。 「いったい藩王殿下ご自身は、どのようにお考えなのだろうか」  藩王アジュマーンは公的に沈黙を守り、その無言によって「|天の城《ウラニボルグ》」全体に圧迫感を与えた。人々はそれぞれの感覚と理性と打算のレンズをとおして藩王の重厚な沈黙を眺めやり、うそ寒さに耐えていた。  外部から見れば藩王を中心とした強固な結晶と思われるが、タイタニアも人間の集団である。単一の思想や教義によって洗脳されたはずの政党や宗教組織でも、内部対立や抗争は生じる。下部構成員の噂話など、穏やかなものというべきであろう。 「それにしても昨年あたりからどうも兇事がつづく。ザーリッシュ公は横死なさるわ、アリアバート公は負傷して辞任なさるわ」 「今度は誰かな」  思わずそう口にして、あわてて口を押さえる者もいた。四公爵のうち無傷といえるのはジュスランとイドリスの両名だけである。彼らはザーリッシュやイドリスと異なり、比較的、実戦より内政や後方部門に在《あ》ったので、傷を受ける機会がすくなかった。  両名のうちイドリスは、テオドーラ・タイタニア伯爵夫人と密接な関係にある。イドリスは彼女に愛情など抱いていないのだが、彼女が藩王に接近するのを恐れ、また肉体的な欲望もあって、関係を絶つことができなかった。  イドリスはこの年、二五歳になる。他の公爵たちに先んじようとの意識は強烈であったが、時間的に焦《あせ》っていたわけではない。次期藩王位を掌中に収めるのは二〇年後でよかった。これまでは。だが二〇年後には別の競争相手が出現するであろう、そのことに彼は気づいた。現在は幼小である藩王の実子たちが、そのころには成人するのだ。そう彼に閨房《けいぼう》で示唆《しさ》したのはテオドーラであった。彼女はイドリスが「|天の城《ウラニボルグ》」を離れられない事情を聞き出し、つぎのように提案したのである。 「では結論はただひとつ。ジュスラン卿を代理司令官としてバルガシュに派遣するよう藩王殿下にご決定いただくしかないでしょう」  何をためらっているのか、と、テオドーラの視線が語っている。イドリスはむろん感情を害した。テオドーラはイドリスの決断力不足を批判しているのだが、彼女が到達した結論について、イドリスはとうに考えているのだ。アリアバートとイドリスとを連合させてはならぬのである。そのていどのこともわからぬのか、と、イドリスは彼女を非難したのだが、反応は冷静であった。 「よろしいではございませんの」 「何……?」 「アリアバート卿とジュスラン卿とが|天の城《ウラニボルグ》を遠く離れた銀河の片隅で何を謀議しようと、かまわないではございませんか。イドリス卿のご懸念は無用、というより杞憂《きゆう》であるように、わたしには思えますけど」  イドリスは絶句した。彼はジュスランとアリアバートとの同盟が顕在《けんざい》化することを恐れていたのだが、その大事をテオドーラは軽く笑殺してのけたのだ。こいつは大胆なのか低能なのか、疑いの目を向けるイドリスに、テオドーラは平然と笑いかけた。 「仮《かり》にアリアバート卿とジュスラン卿とが不穏な謀議をおこなったところで、|天の城《ウラニボルグ》には藩王殿下とイドリス卿がおいでです。謀議だろうと叛意だろうと、一蹴《いっしゅう》しておしまいになったらいかが?」 「叛意だと……何を考えている、そなたは」  イドリスの声が低くなった。今度はテオドーラは即答せぬ。半月形の笑みを唇に刻みこんで、情人の顔を眺めやり、ブランデーグラスの脚を指の間でまわしている。  イドリスは額と腋下に微量の冷汗を感じた。彼にはわかった。わかっていた。口に出すのを憚《はばか》ったのだ。この女は彼にこう勧めているのである――ジュスランを惑星バルガシュに赴かせ、アリアバートと対面させよ。両者が対面すれば、それをもって藩王に対する謀議の証明とし、両者を追い落とせ――と。  この際、事実は意味を持たぬ。認識と解釈こそが重要なのである。意味が先に存在し、事実はそれを具体化する手段でしかない。 「アリアバートとジュスラン[#底本「イドリス」修正]とがバルガシュで会見した。目的は藩王殿下に対して叛乱を起こすことである」  イドリスの思考は防御的なものであった。アリアバートとジュスランとが連合して彼を追い落とそうとすれば、イドリスひとりの実力では対抗できぬ。藩王の威を借りるしかないが、藩王がイドリスを庇《かば》ってアリアバートやジュスランと対決するとは思われぬ。見すてられるのはイドリスのほうではないか。とすれば藩王を抱きこむためにも、アリアバートとジュスランとの連合を阻止するしかない。イドリスの思考は矛盾だらけの迷路と化しかけた。それを見やったテオドーラが薄刃の笑いとともに告げる。 「ジュスラン卿をバルガシュに赴かせながら、イドリス卿には敵対させぬ。そのような方策がたったひとつございますわ」 「それは……?」 「あのリディアとやらいう貧乏国の姫君、あの小娘を人質として|天の城《ウラニボルグ》に残留させたらよろしゅうございましょう?」  色々と小さな智恵のまわる女だ。イドリスは不快まじりに感心した。ナイトテーブル上の水差《みずさし》から、彼はグラスに水を注いだ。 「リディアという小娘はジュスランの秘蔵《ひぞう》っ子だ。人質に残すなど、ジュスランが承知するものか」 「そう、それが真の目的なのです」  テオドーラはブランデーグラスを口に運んだ。奸智《かんち》と称すべき光が、彼女の両眼にちらついた。 「人質を置いていくことを拒絶する。それこそが叛意ある証拠ではありませんの」 「…………」 「後ろめたいことがないのなら人質を置いていくはず。それを拒《こば》むのは異心《いしん》があればこそです。この論法は、多少強引であっても誤りではないはず」 「何という女だ……」  イドリスは戦慄《せんりつ》を禁じえなかった。彼は自分自身で思っているほどには、陰謀家としての資質に欠けるのだろうか。「所詮《しょせん》、良家の坊ちゃんだ」と、ドクター・リーであれば評したかもしれない。ただ、族弟《ぞくてい》のバルアミーと異なるのは、彼は気質よりもむしろタイタニアの伝統的権威に拘束されているという点であった。藩王に対する造反など、これまで思考の地平に姿を見せなかったのである。 「そなたがおれを裏切らないという保証がどこにある?」  ようやくイドリスが反撃の端緒《たんちょ》をつかんだのは、テオドーラが、彼女の提案を採《と》るようかさねて求めたときである。 「というより、そなたが藩王殿下の使者として、おれを含む公爵たちの忠誠を試しに来たのではない、と、どうしていえる。いっておくが、おれはそなたを心から信じたことなど一秒もないぞ」  ことさらに脅《おど》すような口調をイドリスは使ったが、テオドーラは動じる色もなく、ブランデーグラスを手中にもてあそんだ。 「イドリス公はやはり名門の御令息でいらっしゃる。脳裏に浮かんだ疑惑の構図を、そのまま口になさるのですものね。当の相手に向かって」  テオドーラは完全に精神的優位に立っていた。イドリスは圧倒されていた。圧倒されていることを知っていた。さらに、テオドーラの提示する策謀がきわめて強い吸引力を有すると認識せざるをえなかった。幾重もの認識が、イドリスを包囲して、この上なく苦《にが》い気分にさせる。彼の酒量からすればすでに酔いつぶれているはずだが、杯をかさねても酔いはもたらされなかった。「このままでは藩王にはなれぬ」という、ただその一事が彼の脳裏で渦まいていた。テオドーラは能弁をふるうのをやめ、イドリスがひたすら野心と打算の沼にはまりこむのを悠然と眺めている。  汚名を甘受《かんじゅ》して覇者となるか。道義とやらを尊重して政治的敗者となり、第三者の同情と憫笑《びんしょう》を一身に集めるか。後者はイドリスにとって耐えうるところではなかった。胃を灼《や》くアルコールの炎が脳に冲《とど》き、イドリスはその炎のなかで自問自答をかさねた。アリアバートやジュスラン、ことに後者に対して彼は遅れをとっている。通常の手段でそれを回復させることができるであろうか。  さらに問題がある。軽視しえぬ問題だ。アリアバートとジュスランとを叛逆者の立場に追いこんだとして、彼らはどう押しつけられた運命に対処するか。まず無実を訴えるだろう。それが受け容れられぬときには、ふたり並んで首でもくくるだろうか。ばかばかしい、絶対にありえぬ。アリアバートもジュスランも無抵抗平和主義の信奉者ではない。逃げまわることは自分たちの立場を悪化させ、力を減少させるだけである。とすれば彼らにとっても採《と》るべき道はただひとつ、武力をもって抵抗するだけであろう。内乱になる。  アリアバートとジュスランとが決意して武力叛乱に起《た》ちあがったとき、当然イドリスがその討伐に向かわねばならぬであろう。それを恐れるものではない。自分には勇気も武略もある、と、イドリスは信じている。だが、冷静に考えてどのていどの勝算があるだろうか。アリアバートが実戦部隊を指揮し、ジュスランはその政治力によって他勢力との同盟を図《はか》り、後方を固めるであろう。この両雄が手を携《たずさ》えて起つとなれば、馳《は》せ参じて味方となる者が必ずあらわれる。タイタニアの内にも外にも。全宇宙に沸《わ》きかえる叛乱の熱い波を、イドリスひとりでささえることは、はたして可能であろうか。 「ファン・ヒューリック……」  その固有名詞を口にしたとき、イドリスにとって、にわかに思考と選択の地平が拡がった。ファン・ヒューリック。ザーリッシュとアルセスの兄弟を死に至らせたタイタニアの公敵。流亡の政治犯。宇宙に身の置きどころなきテロリスト。そして、二度にわたって名将アリアバート・タイタニア公爵を撃ち破った男! 他の諸点に関して、ファン・ヒューリックはゴミのような存在であったが、最後の一点がイドリスにとってはまことに魅力的であった。思考の箍《たが》がひとたび弾けると、やや暴走気味にイドリスの脳細胞は回転し、未来の絵図を宙に描き出す。ファン・ヒューリックを招いてその罪を赦し、傭兵隊長としてアリアバートに対抗させる、という絵図を。  すくなくとも空想世界においてはイドリスは吝嗇《けち》ではなかった。もしそうなれば、一介の流亡者に、充分すぎるほどの報酬をくれてやるつもりだった。伯爵位、ヴァルダナ帝国軍元帥号、五〇〇万ダカールの年俸、それに配偶者としてタイタニア貴族の娘、それぐらいは与えてやろう。ファン・ヒューリックがアリアバートとジュスランとの「叛乱」を鎮圧してくれるなら、そのていどは安いものだ。  ひとたび回転を始めると、出力があがるのは加速度的だった。彼はタイタニア内部で最大の禁忌《タブー》――藩王は神聖にして侵すべからざるということを乗りこえてしまい、策謀自体を自己目的化させて坂を転げ落ちていった。彼の思案は今度は弟であるラドモーズ男爵に向けられた。  ラドモーズは役に立つ。思慮が浅く粗暴だが、それだけに役に立つ。利用価値があるというものだ。ラドモーズが粗暴であることを万人が知っている。つまり、何事かが生じたとき、責任をラドモーズに押しつけることができるのではあるまいか。  ラドモーズはイドリスの弟である。うとましさは募《つの》っていても、積極的な憎悪や害意を弟に対して抱いたことはなかった。舌打ちしつつも引きたててやろうと思っていた。だが弟のほうはいっこうに兄の期待に応《こた》えようとはしなかったのだ。そろそろ見放すべき時機かもしれぬ……。  いつの間にかテオドーラがベッドを離れたことにイドリスは気づかなかった。        U   「陰謀は貴人の嗜《たしな》み」という。あるいは「陰謀は弱者の武器」とも称される。双方の命題を一身に具現する人物がここにいる。ヴァルダナ帝国の皇帝ハルシャ六世陛下がそれであった。  即位する以前から、ハルシャ六世はタイタニアの心理的圧迫下にあった。彼の亡父であった同名の五世は、タイタニアの支配権とごく穏やかに妥協し、自分自身の人生と国家とに、大過ない歴史を贈った。国民から畏怖されることはなかったが、親しまれてはおり、死後一〇年以上を経ても彼の墓には民衆から花がたむけられる。その子である六世は、父の生きかたを学ばなかった。父は奸臣タイタニア一族に迎合し、帝王としての名誉を忘れた、と彼は思った。 「タイタニア一族はもともとヴァルダナ帝国の臣下にすぎぬ。主君をないがしろにして虚権《きょけん》を弄する奸臣にいつか思い知らせてやるぞ」  ハルシャ六世は無力な傍観者に甘んじることができなかった。現在の境遇に甘んじるということは、彼にとって敗北であり屈辱でしかなかった。権力とは彼からすれば「不当にタイタニアによって横奪《よこど》りされている、わが家の財産」であった。歴史上、奸臣に軽視される主君にとって、権力は自分の手に奪《と》り返すべきものであり、それを入手した後にいかに活用するか、という点はほとんど問題にならぬ。仮に権力を奪回しえたとして、それがかえって社会に混乱と破綻《はたん》をもたらし、人々を不幸にするかもしれぬ、とは想像もしないのである。  タイタニアの支配を好まぬ者は多いが、だからといってヴァルダナ帝国が昔日の権勢を回復することなど、誰も望んではいなかった。ハルシャ六世を除いては誰も。そのことに気づかぬのが、「正統な王権」を主張する者の通弊《つうへい》であった。自分たち自身にとっての小さな正義でしかないものを、全宇宙にとって普遍的な正義と思いこみ、それに賛同せぬ者を不忠の臣と決めつけるのであった。  今回、アリアバート・タイタニア公爵が辞任したことはといえば、ハルシャ六世にとってたいした喜びではなかった。 「すくなくともイドリス卿がアリアバート卿の後任としてバルガシュに派遣されれば、宮廷からはいなくなるわけです。おめでたいことではありませんの」  皇后アイーシャがそう意見を述べると、ハルシャ六世は陰気な視線を向けていったものである。 「だがな、イドリスめが遠くバルガシュに行ってしまうのはよいとして、後任がもっと悪くなったらどうする?」  たとえばラドモーズだ、と、ハルシャ六世は呻《うめ》いた。イドリスの弟ラドモーズは今年一八歳、いかにタイタニア一族の本流とはいえ、軍務大臣の職は肩に重すぎるであろう。皇帝と皇后の会話は、ヴァルダナ帝国軍務大臣の座にあるイドリスがアリアバートの後任となる、という噂にもとづいていたが、それは事実と異なることが後日、判明した。  イドリスが戦地で惨《みじ》めに失敗してくれれば、ハルシャ六世の歓びは生涯最高のものとなるであろう。さらにタイタニアが滅びてくれれば、彼の人生は至福の裡《うち》に終わるにちがいない。ささやかな彼の希望も、だが、つい数日で潰《つい》えてしまった。別の噂がもたらされ、それによるとイドリスは「|天の城《ウラニボルグ》」に残るどころか、次期|藩王《クランナー》の有力候補となったというのである。  ハルシャ六世の楽観論は安物の風船さながらに凋《しぼ》んでしまった。イドリスがタイタニアの藩王にでもなった日には、ハルシャ六世の心理に平安は永遠に訪れることはないであろう。「誰か予を助けてくれ。予をこの煉獄《れんごく》から救い出してくれ」と、彼は渇望していたが、要するに彼は誰かに奉仕してもらいたいのだった。皇后アイーシャは夫の脆弱《ぜいじゃく》さを憂えていたから、宮廷に流れこむ無責任な噂の数々をシャットアウトしようとしたが、当のハルシャ六世がそれを望まず、噂は自由に宮廷の内外を飛びかうありさまであった。  このように、アリアバートの辞職は、淀んだ「|天の城《ウラニボルグ》」の内外に波濤《はとう》を呼び、陰謀や打算や憶測や不安から哲学的自問や歴史的考察に至るまで無数の精神活動を喚起した。そのため、人々はうっかり失念してしまったのだが、重大な要求と巨大な不満とを肥《こ》えた腕にかかえこんだ人物がいたのである。その人物が、ジュスランの執務室のドアを蹴り破らんばかりの勢いで再登場し、怒声の金属片を室内に撤《ま》きちらしたのは二月一四日であった。 「わたしの公爵位継承の件はどうなったのです。わたしはザーリッシュの母親です。このようにないがしろにされる覚えはありませんよ!」  ジュスランこそ迷惑というべきで、別に彼がその人物テリーザ・タイタニア公爵夫人の要求を妨害しているわけではない。藩王アジュマーンにこそ彼女は抗議すべきであろう。なぜ自分が見こまれるのがジュスランには理解できなかったが、ふと心づいたことがある。テリーザ夫人は見境《みさかい》のない興奮をよそおい、ジュスランのようすを探りに来ているのではないか、と。とにかく追い払うこともできぬので、ジュスランは応接室に夫人を迎え、貴重な時間を割《さ》いて応対した。 「それで公爵夫人は、五家族代表会議に席をお占めになった暁には、政治についてどのような方針をお持ちでしょうか」 「それは決まっています、ファン何とやら申す流亡の悪党をとらえ、タイタニアの貴《とうと》い血を流した罪について、正義の裁きを受けさせるのです」 「なるほど、で、その後は?」  正当だが意地の悪い質問であった。テリーザ夫人に構想力が欠乏していることは、ジュスランならずとも万人が知るところである。ただ、同時に、権力を執行する欲望もさほど強烈ではなく、贅沢《ぜいたく》な私生活と、他人からの尊崇《そんすう》と、とくに次男アルセスの将来への期待とで満足していたはずであった。ふたりの息子を失って狂乱し、周囲の人間すべてを罵倒《ばとう》してやまなかったが、そこからにわかに権力欲にめざめたというあたりの心理に、ジュスランは以前から必然性を感じないのである。  テリーザ夫人は叫んだ。 「後のことは後のことです!」  ジュスランは胸奥で溜息をついた。先日来の疑惑を、彼は確信に変えた。何者かがテリーザ夫人をけしかけたのだ。テリーザ夫人を五家族代表会議に送りこみ、傀儡《かいらい》として背後からあやつるつもりか。単に会議を混乱させる目的か。いずれにしても利己的な狙《ねら》いをもってテリーザ夫人を利用しようとする者がいるのだ。それが何者か、ジュスランは知る必要を感じた。 「テリーザ夫人、あなたに甘言を吹きこみ、あやつろうとしているのは何者ですか、お教えいただきたい」  とはジュスランはいわぬ。そのように単刀直入な質問はテリーザ夫人の口に無形の閂《かんぬき》をかけるだけの結果となろう。ジュスランはテリーザ夫人を巧みに誘導した。亡くなったアルセスの名を出したのだ。彼は親孝行だったから母親のことが心残りだったろう、母親が四公爵の一員となれば彼の魂も安まるだろうが、アルセスに代わってテリーザ夫人の補佐をしてくれる人がいるだろうか。そう問われてテリーザはテオドーラ伯爵夫人の名をあげたのである。社交辞令のかぎりをつくし、なだめすかして、ようやくテリーザ夫人を送り出すと、ジュスランは額の汗を指先でぬぐって呟《つぶや》いた。 「テオドーラか! わずか五、六〇日の間に、なかなかよく掻《か》きまわしてくれたものだ。淀んでいた水が、現在は渦を巻いている」  ジュスランは執務室のデスクにもどり、ペンを取りあげた。彼の脳細胞は忙しく回転した。 「ただひとりの女に滅ぼされるとあれば、タイタニアもそのていどの存在かもしれぬ。だが、手をつかねて傍観するわけにもいくまい。策《て》は打っておこうか」  そして彼は数通の親書を認《したた》めたのである。        V    ジュスランが自問自答を繰り返し、来るべき事態に備えて打つべき策をいちおう打ち終えたのは三月一七日のことである。彼は自分の措置が他人に知られずおこなわれたことを確認すると、ようやくひと息ついて、こちらも家庭教師から開放されてひと息ついたリディア姫とお茶の時間を持つことができた。 「姫はご自分の国についてどうお考えですか」 「貧乏でフケイキだけど、いい国だと思うぞ」 「なるほど。タイタニアはちょうどその反対です。富み栄え、強大ですが、いい国ではない」  リディア姫は苺《いちご》のタルトをフォークで突き刺したまま、彼女の保護者を見あげた。 「それではジュスラン卿もいい人ではないのか」 「ええ、いい人ではありませんよ、姫」 「そういう考えは、わたしは嫌いだ。フケンコウだと思うぞ。わたしは自分のことを、宇宙で一番いい子だと思うことにしている」  でも国が貧乏なのは残念なことだ、と、お姫さまはいい、ピーチタルトをたいらげ、ハニーティーを口に含んだ。 「もしイドリス卿が藩王《クランナー》になったりしたら、もうわが国にお金銭《かね》を貸してくれないかな」  深刻そうに変わったリディア姫の表情に、ジュスランは微笑を誘われた。 「イドリス卿に尋《き》いてみますか、姫」 「笑いごとではないぞ。タイタニアにとってはほんのすこしのお金銭でも、エルビング王国には大金なのだ。金銭があったらなあ、というのが祖父王《おじいさま》の口癖だった」  たしかにエルビング王国は貧乏で不景気な国である。タイタニア、というよりジュスラン個人の機嫌しだいで、その国庫は破産してしまうのだ。まことに、権力とは、他者の運命を支配する力のことである、と、ジュスランは思わざるをえない。  タイタニアであること、タイタニアでありつづけること。その重さを桎梏《しっこく》として意識しながら、そこから未だ離脱しようとしない自分のありようをジュスランは考える。そもそも離脱できる[#「できる」に傍点]ものなのだろうか。総司令官職を辞したアリアバートは、離脱しようとしているのだろうか。  アリアバートと語りあってみたいものだ、と、ジュスランは心から思った。つい一年余り前、一昨年の暮《くれ》ごろまで、彼はアリアバートをさほど高く評価していなかったのだ。タイタニアが盤石《ばんじゃく》の泰平から混迷と停滞へ向かう、それにしたがってアリアバートに対するジュスランの評価は高まっているのだった。むろん本来のタイタニア的価値観からすれば、アリアバートは敵手に敗れたあげく、責任ある地位を投げだした敗残者である。だが、タイタニア的価値観というもの、それ自体にどれほどの意味があるというのだろう。それから自由になり、薄氷上の宮殿から遠ざかることで、世界は輝きを増してジュスランの前に展《ひろ》がるのだろうか。 「バルは元気かな。この前の手紙はとどいただろうか」  いささか名残りおしげにリディア姫が空《から》のケーキ皿を眺めやった。  この重要な時機に「|天の城《ウラニボルグ》」に身を置くことがかなわぬとは、バルアミーはさぞ無念であろう。だがバルアミーが焦る必要はまったくない。むしろ混沌と汚濁の泥沼から距離を置き、自重して将来に備えたほうが彼のためによいであろう。そう思いつつ、一方では、いま彼が「|天の城《ウラニボルグ》」にいればリディア姫を託することもできるのに、とも思うジュスランであった。  ひとつ確かなことがある。虚栄の宮殿が薄氷を割って沈没するとき、リディア姫を道づれにしてはならないということだ。この元気で聡明な童女こそ、輝かしい、桎梏のない世界を自分のものにする資格を持っているはずであるから。  それにしてもいよいよタイタニアはうとましい伏魔殿になってきた、と、ジュスランは思う。  たとえば藩王自身が公爵たちを抹殺しようと図ることがありえるだろうか。動機としては、未だ幼い息子に藩王位を継がせるため。アジュマーンの長男は、二〇年後には藩王位を継ぐべき年齢に達しているであろうし、そのときなおアジュマーン自身も六〇代で、老衰の年代ではない。どうせ至高の座を譲るなら実子に、と思うのが人の情《じょう》というものであろう。だが、そのような人の情をアジュマーンは持ちあわせているのだろうか。  何よりもタイタニアは過去からつづく巨大な慣性のなかに在《あ》る。「いままでどおり」「旧例にしたがって」というやりかたで、大過なく組織を運営し、栄華と権力を維持してきた。アジュマーン自身、藩王位を得て以後、とりたてて独創的な行動をとってきたわけではない。その剛毅《ごうき》な実行力も、辛辣《しんらつ》な権謀も、下部構成員に対する公正さも、力《ムチ》と恩《アメ》を使い分ける外交も、四公爵に対する等距離の姿勢も、すべてはタイタニア歴代の伝統を守るものであった。これで大過なく時日が過ぎれば、アジュマーンは引退し、四公爵のひとりが至高の座を禅譲されることになろう。そのはずであったのだが……。 「あ」と、リディア姫が声をあげ、回廊に面した透過壁に顔を寄せた。その壁の向こうは広大な|屋根つき中庭《アトリウム》で、走路をひとりの貴夫人が侍女をお伴に通過していくのが見えた。テオドーラ・タイタニア伯爵夫人であることをジュスランは自分の目で確認した。リディア姫が小さく首をかしげる。 「あの女、いや、あのレディだが……」 「テオドーラ伯爵夫人がどうかしましたか、姫」 「あのレディが男といっしょにいるのを見たことがある」  そのときテオドーラ伯爵夫人は、いかにも他人の視線を憚《はばか》るようすで、回廊の隅にたたずみ、相手の男と低声の会話をかわしていた。その相手の男というのは。 「この|天の城《ウラニボルグ》で一番いやな奴だ」  イドリス卿か、と一瞬考えたジュスランの予想を、リディア姫はあっさりくつがえしてみせた。 「あの身体のでかい、いやな奴。バルと喧嘩した奴だ。ええと……」 「ラドモーズ!?」 「そう、そのラドモーズだ、ふたりで並んで何かないしょ[#「ないしょ」に傍点]話をしていた。立ち聞きしたのではないぞ、ただ見かけただけだ」  ジュスランの驚愕《きょうがく》は、当惑という中間地帯を飛びこして困惑に変容をとげた。テオドーラが味方を増やすために優雅に狂奔しているとしても、ラドモーズというのは意外であった。将来はともかく現在のところラドモーズには政治的影響力はない。未熟で粗暴で浅慮で、要するに特権階級の子弟の悪《あ》しき一典型でしかないはずである。そのような若者を味方にして、テオドーラにどのような利益があるのか。さらに、リディア姫が彼らの姿を見たという点が、ジュスランの気にいらぬ。故意に見せつけたのではないか。真に重要な会話であれば、寝室なり応接室なり、他者の目に絶対触れぬ場所でおこなうであろう。不意にジュスランは、この「|天の城《ウラニボルグ》」そのものに嫌悪を感じた。ここはろくでもない場所だ。反タイタニア派がここを魔王の城塞に喩《たと》えるのは、けっして誤りではない。そしてジュスラン自身、魔王の一族であるのだった。 「姫、|天の城《ウラニボルグ》を離れてどこかへ参りましょうか」  ジュスランがいうと、リディア姫は大きくうなずいた。 「それもいいな。それでいったいどこへ行くのだ」 「そうですね、さしあたってはバルガシュなどいかがでしょう」 「おもしろいところか」 「おもしろくなるかもしれません」  アリアバートに代わって遠征軍の総司令官職に就《つ》くのもよいかもしれぬ。ジュスランはそう思った。とにかく「|天の城《ウラニボルグ》」を離れて清浄な外気を吸いたいものだ。  だが「|天の城《ウラニボルグ》」を離れてもそれで万事が終わるわけではない。ジュスランをアリアバートの後任に推《お》すにあたって、イドリスの心理が無色透明であるはずはなかった。イドリスにとって有利となる事情があるからこそ、そのような提案をしたのだ。その裏面には、どのような怪物がひそんで毒息を吐き出しているのであろうか。 「イドリスは、アリアバートを|天の城《ウラニボルグ》へと召還するという動議を出さなかった。それはなぜだ。アリアバートが帰還すれば彼の企みに齟齬《そご》を来すからか」  すでにザーリッシュは亡く、アリアバートは辺境で療養中である。そしていまジュスランが「|天の城《ウラニボルグ》」を去れば、藩王の傍に残るのはイドリスのみということになるのだ。それが狙いか、とも思うが、イドリスなどに馭《ぎょ》されるような藩王であるはずもない。たとえその点についてジュスランが藩王の注意を喚起しても、笑殺されるだけであろう。 「藩王が健在であるかぎりは。だが、もし藩王の身に何かあったら……?」  冷気が風となってジュスランの内宇宙《インナースペース》を吹き抜けた。最悪の想像に、彼は到達してしまったのだ。イドリスは邪魔者をすべて「|天の城《ウラニボルグ》」から追い出した上で、藩王アジュマーンを暗殺し、自らが至高の地位に就《つ》くつもりではないのか。暗殺の実行犯はラドモーズ。そしてラドモーズは裁判も審問もなしにその場で殺され、真相は闇に葬られる。最後にイドリスとテオドーラとがタイタニアの権力を分かちあう。ひとつの図式としてありうることだ。だが……。 「だがイドリスがそこまでやるだろうか。第一、イドリスが藩王を害して簒奪《さんだつ》しても、誰が従《つ》いてくる?」  イドリスは四公爵の一員として相応の敬意を受けてはいるが、個人的な人望には乏しい。まして弑逆《しいぎゃく》とか簒奪のような行為をおこなって、誰が従いてくるか。しかもこのときアリアバートとジュスランが健在であれば、輿望《よぼう》はむしろ彼らに集まるだろう。とすればイドリスの真意はどこにあるか……。ジュスランはリディア姫の視線にも気づかず、タルトにも手をつけぬまま考えこんでしまったのだった。        W    こうして三月一九日に、五家族代表会議の席上において、ジュスランとイドリスの両タイタニア公爵は最終的な対決に至る。ザーリッシュとアリアバートの姿が欠け、残る二者は不和。一年前に較べてタイタニア四公爵の列は寂寥《せきりょう》を禁じえぬ状況であった。  この日、アリアバートに代わるバルガシュ遠征軍総司令官の人事を決定せねばならぬ。重大な案件であったが、これは決定に五分を要さなかった。藩王《クランナー》アジュマーンがジュスランの意向を問い、それにジュスランが応じたからである。それで案件は決したはずであったが、イドリスが意外な申したてをしたのだ。ジュスランが遠征軍総司令官たるにあたり、藩王殿下に対し異心なき証として、彼が庇護《ひご》するエルビング王国のリディア姫を人質に残すべし、というのであった。  何を考えているのか、イドリスは。  とっさにジュスランは従弟《いとこ》の真意を把握しそこねた。リディア姫を人質に? この男は本気でジュスランの忠誠を疑っているのか。それともいやがらせか。だがいやがらせとしても何の意味があるのか。ジュスランの反発を買ってまでそのようないやがらせをする意味がどこにあるのか。  危険が冷たい息吹をジュスランの頸《くび》すじにあびせかけた。うかつな対応が致命傷となりかねないことをジュスランは悟った。彼は表情をころし、藩王にむかって一礼した。 「私はタイタニアの忠実な臣下です。藩王殿下が御命令なさるのであれば、御意に従うのみです」  美辞を口にしながら、後悔の味をジュスランは噛《か》みしめる。全能ならぬ身は予知のしようもない。だがこのような場所で、このような刻《とき》にリディア姫の名が出されるのであれば、昨年末に藩王アジュマーンの裁定におとなしく従っているべきであった。バルアミー子爵とラドモーズ男爵とが争う原因となったリディア姫を母国に帰すよう、藩王は示唆したのだ。それが厳格な命令でなかったのをよいことに、ジュスランはその示唆を受け容れず、リディア姫を手元にとどめて、ほとぼりが醒《さ》めるのを待っていたのだが。  藩王が口を開く。他の何者にも模倣しえぬ口調で彼はいった。 「ジュスラン卿の至誠《しせい》は万人が知るところだ。人質を求めるなど狭量《きょうりょう》なこと、たがいの信頼を害《そこな》うだけであろう」  イドリスの頬に血が上るようすを見ながら藩王はつづけた。 「また、仮にジュスラン卿が叛意を有するのであれば、親や子が人質となってもそれを捨てて起兵するであろう。人質だの誓約だの、いずれも無益なことである」  辛辣きわめる発言であった。イドリスの頬の色は褪《あ》せなかったが、両眼が険しく光を放った。ジュスランはそれを横目に、すばやく藩王の信頼と寛容に感謝してみせた。このときジュスランは決心したのだ。この情況を逆用し、リディア姫をこの薄暗い陰謀の巣からつれ出そう、と。この宇宙都市に姫を残しておけば、イドリスによってどのような処遇を受けるか知れたものではなかった。  ジュスランとイドリスとの間に醸成《じょうせい》される敵意と反感とを藩王は娯《たの》しんでいるかに見えた。どちらを棄てようと考えているのか。それとも両者が共に斃《たお》れることを望んでいるのか。歯痛に似た感覚がジュスランの精神野を疼《うず》かせた。タイタニアの開祖であったネヴィルのように、怒気を満面にみなぎらせて咆哮《ほうこう》することが、アジュマーンにはない。彼に睨《にら》まれるのは、専制支配者の怒りを受けるというより、検察官の審問を受ける心理にジュスランをさせるのである。少年のころからそうであった。それによってジュスランがタイタニア大貴族として鍛えられたことは事実であるが、このような状況が今後一〇年も二〇年もつづくかと思えば、うんざりするのも当然であった。  そろそろ変化があってもよいかもしれぬ。アリアバートがあっさりと軍権を返上したことによって変動がもたらされるのであれば、自分もそれに乗ってみよう。ジュスランはそう結論づけた。決意が形となって現れたのは急なことに見えるが、やはり彼も契機がほしかったのである。  三月二〇日、ジュスラン・タイタニア公爵は正式に藩王アジュマーンよりの辞令を受け、バルガシュ派遣軍の総司令官職をアリアバートより引き継ぐこととなった。「|天の城《ウラニボルグ》」を出立する日は同月二七日。一週間の裡に何ごとが生じるか、誰も正しく予測できる者はなかった。 [#改ページ]        第六章 破局            T    タイタニアの歴史は人道と正義の鑑《かがみ》ではない。陰謀と策略、殺人と破壊の暗赤色のページが延々とつづき、精神的に胃腸の弱い人間は読了《どくりょう》に耐えぬ。したがってタイタニアの構成員が陰謀に対して免疫がないはずはないのだが、星暦四四七年のその時期には、彼らのほぼ全員が困惑し、冷静さを欠いていた。  別の表現を用いるなら、藩王アジュマーンの治世は、これまでほぼ完全安定し、揺るがぬように見えていたのだった。彼は壮齢で心身ともに強靭《きょうじん》であり、四公爵はいずれも二〇代で、現在の五家族代表による支配体制は今後四半世紀ほどは不変の状態でつづくものと一般に見做《みな》されていたのである。その確信が揺らいだのはザーリッシュ・タイタニア公爵の死からであったが、なお藩王と三公爵は健在であり、ザーリッシュの席を埋める者があらわれればそれで大過なく現体制が続行するはずであった。それが失調を来《きた》したのは、むしろ変化を期待する人々の潜在意識がひとつの方向へ音をたてて流れ出したゆえのようであった。  だがそれも、後日になってはじめて俯瞰《ふかん》しえる状況であって、潮流のなかにいる者には、自分の足場を確認することさえ容易ではなかった。ジュスラン・タイタニアは、はじめて大軍の指揮官として出征するにあたり、上下をあげての大歓呼に送られたわけではなかった。  外地に出征する大軍の総司令官に必要な資質は、戦闘指揮における天才ではない。巨大な組織を管理し、集団を運営し、中級の実戦指揮官たちの個性を把握して適所に適材を配置し、複数の意見を調整し、目的に対して将兵の意思を統一する。それらの、むしろ政治家としての資質が重要であり、広い視野や健全なバランス感覚、公正な人事への配慮などについて、ジュスランは他者から不安をいだかれていなかった。  この時期になると、ジュスランは、イドリスとの間に対立があるという噂を積極的に否定しようとしない。むしろそれを防御手段として活用しようとしている。つまり、両者が政治的対立関係にあることを万人が知っていれば、イドリスが事を起こしてジュスランに罪を着せようとしても、誰も安易にそれを信じはしない。むしろイドリスが政敵を追い落とすために何か工作したと受けとるであろう。  重要なことは、ジュスランがイドリスのみ[#「のみ」に傍点]の敵である、との認識を広めることであった。これは事実であるが、宣伝によって周知せしめること、これが大きく意味を持つのであった。そのような噂は当然イドリスの耳にとどく。イドリスがどのように反応するか、出征直前のさまざまな事務処理に忙殺《ぼうさつ》されながら、ジュスランは鋭く注目していたが、めだった反応をイドリスは示さなかった。最初ジュスランは奇異に思ったが、後日、苦笑まじりに述懐することになる。 「あのときイドリスの真意がつかめなかったはずだ。イドリスには確たる真意などなかったのだから」  確かに、その当時イドリスにあったのは迷いだけといっても過言ではなかった。後世の第三者から見れば、すくなからずばかばかしいことだが、彼は心理的に追いつめられていたのである。彼の周囲で状況が完成されていくものだから、彼は何かしなくてはならなくなったのだ。まずジュスランを「|天の城《ウラニボルグ》」から追い出そうとしたら、藩王アジュマーンの人事とジュスランの受諾により、たちまちそれは実現してしまった。ではつぎにイドリスは何をすればよいのであろう。イドリスにとってゴールの位置は明白であったが、そこに至る課程《コース》を一〇〇パーセント想定し要点《ポイント》を把握していたわけではないので、つぎつぎと開かれる覇権へのドアの前で、彼はむしろ狼狽《ろうばい》せざるをえなかったのである。  害意がジュスランに向かうにせよ藩王に向かうにせよ、さほど困難なく成功するかに見えるのだが、それで見境《みさかい》なく走り出すほどイドリスは楽観主義者ではなかった。むしろジュスランが実際に出陣するまでは口実を与えないように、との防御的な姿勢にイドリスは徹するかのようであった。それでもジュスランに対して無言ではいられず、彼が出陣にあたってリディア姫やフランシアを同行させると公表した件について激しく異議を唱えた。動じる色もなくジュスランは応じた。 「後ろ暗いことがないからこそ、彼女らを同行させるのだ。仮に異心があれば、それを隠すために故意に残していくだろう。藩王殿下もこの件を諒《りょう》されたはず。イドリス卿のかさねての異議は、藩王殿下に向けられたものと解釈できるが如何《いかん》?」  このあたり、ジュスランはタイタニア様式の詭弁《きべん》術を充分に心得ている。もはやイドリスがどう思おうと知ったことではないが、イドリス以外の者には、自分の行動に充分な正当性があることを示しておく必要があった。それこそが政治性というものである――高次元のものではありえないにせよ。藩王の名を持ち出されれば、イドリスも口を封じられてしまうのだった。  口を封じられたイドリスがどう出るかは、また別の問題である。彼自身が暴発せぬとしても、弟のラドモーズには注意しておくほうがよさそうに思えた。ジュスランは警護の部下に厳重なガードを命じ、そのことを隠そうとしなかった。  細かいところでは、リディア姫にもフランシアにも活動的な服装をするよう、スカートではなくスラックスをはくよう、ジュスランは指示した。いつ何ごとが生じても、すぐ動けるように。ジュスラン自身、これまで「|天の城《ウラニボルグ》」では非武装《まるごし》であったのに、護身用の拳銃を腰にさげるようにした。光線銃《レイガン》や荷電粒子銃でなく火薬式の拳銃を選んだのは、銃声によって護衛を駆けつけさせる効果を重んじたためである。拳銃をさげたジュスランの姿を見て、下士官のひとりが肩をすくめた。 「いったい何だってこんなことになったのだ。ジュスラン公とイドリス公との仲は、それほど深刻だったのか。戦闘突入寸前といった感じじゃないか」  その声をジュスランに伝えたのはフランシアである。グレーの軍服の腰にさげた拳銃を軽く手でたたきながら、ジュスランは侍女をなだめた。 「何、イドリスも私も陰謀ごっこを娯しんでいるだけだ。フランシアが気にすることはない。ただ、遊びが重大な事故を招くこともあるし、事故で生命を失うのはつまらぬことだからな」  ジュスランはいい、瞳に微かな自嘲《じちょう》をこめた。まだ他人の掌中にある権力をめぐって争闘するのは至愚《しぐ》というべきだが、自分や周辺の人々の生命がかかっているとすれば、超然としてもいられない。彼は藩王に対して、自分の危惧の念を明かすことはまったくなかった。無益なことだ、と、その点については見切っていたのである。  ジュスランが搭乗するのは戦艦「|朝焼けの女神《アウストラ》」、護衛につくのは巡航艦三隻、駆逐艦一〇隻、砲艦三隻、高速哨戒艇搭載の宇宙母艦一隻、軽武装の、補給艦二隻。「艦隊未満」の小集団であった。 「いかにイドリスが強引でも、この戦力で叛乱をおこすつもりだと言いたてることはできないだろうな」  高尚《こうしょう》とは表現しがたい意地悪な感想をジュスランはいだいた。このていどの戦力でバルガシュまで赴くのは、現地にすでにタイタニアの大兵力が展開しているからであり、現地までの航路がほぼ完全にタイタニアの「制宙権《スペース・コントロール》」下にあるからであり、そして異心なきを内外に証明するためであった。以上、表面的な理由だけでも三つを算《かぞ》えるが、裏面にも事情がある。ジュスランはいくつも策《て》を打ったが、布石《ふせき》のうちいくつが生きるかについて、満腔《まんこう》の自信があるわけではなかった。それに、自戒しておくべきだが、やりすぎということも世のなかにはあるのだ。  本来であれば、リディア姫が搭乗する以上、この艦に危害を加えれば外交問題となる。エルビング王国を敵にまわすことになる。だがエルビング王国が国をあげて敵愾心《てきがいしん》を燃やしたところで、イドリスはいっこうに痛痒《つうよう》を感じぬであろう。タイタニアはかつて幾つもの国を破産させ、元首を追放し窮死《のたれじに》させ、国そのものを過去の領域に押しやってしまった。エルビング王国ごとき彼の眼中にあるはずがない。同時に、ジュスランとしても、一朝《いっちょう》事あったときエルビング王国の物理的な援助を頼みとすることはできぬし、そのつもりもなかった。  三〇日後に、宇宙の諸勢力がどのような旗幟《きし》のもとに離合し、どのような形で争闘しているか、ジュスランには想像もできない。それは知的予測の対象ではなく、神秘的予言の対象であろうと思われた。もっとも滑稽なのは、これほど緊張を高めたあげく何事も生じない、という結果に終わることだが……。 「|朝焼けの女神《アウストラ》」の艦長に初めて対面したとき、ジュスランは軽い驚きを禁じえなかった。タイタニア全軍に未だ一〇〇名とはいない女性艦長のひとりだったのである。姓名はエドナ・フレデリックス、年齢はこの年二七歳、階級は大佐、士官学校から特別幹部候補生課程を修了した、いわゆるエリート軍人であった。男たちの列にあっても中背と称されるていどの身長で、黒い髪をショートカットにし、黒い瞳は旧式炉のなかの石炭さながらに強く輝いている。美人といってもよかったが、両眼の煌《きらめ》きを除けば、ごくありふれたというていどの美人だった。むろん有能で信頼しえる軍人の必要条件は容姿ではない。 「ジュスラン閣下をバルガシュまでお送りすべく、大命《たいめい》を拝し、名誉のきわみと存じおります。非才の身ではありますが、努《つと》めて大任を果たし、ご信頼に報いたく思います」 「よろしく、大佐」  と、ジュスランの応答は短い。彼自身、蒼然《そうぜん》たる知性の存在を証《あか》す両眼を除いては、とくにタイタニア的美貌の所有者というわけではなかった。両者の対面は、とくに将来を予期させるものではなかったのである。  ジュスランは三月二五日の段階でリディア姫とフランシアを「|朝焼けの女神《アウストラ》」号に搭乗させ、その安全を図《はか》った。彼自身は二七日まで搭乗しなかったが、この措置は多くの人々を納得させた。「ジュスラン公の立場ではむりもない」と人々はささやきあった。それがじつはとんでもない公私混同の措置であることを、ジュスラン自身は知っていたが、むろん自分からそう表明する必要もないことであった。        U    ジュスランがバルガシュに赴任するにあたり、文官として彼を補佐するよう命じられた人物はドナルド・ファラーであった。タイタニアで随一の選挙専門家である。  選挙対策の専門家であるドナルド・ファラーとしては、彼の特殊技能が生かされるわけでもない職務など「任にあらず、お断わりする」といいたいところであったろう。ジュスラン派、イドリス派などという色がつくのも回避したいところであった。誰がタイタニアの主権者となろうと、ファラーは特殊技能を有する技術官僚《テクノクラート》として生きていける。彼はタイタニアの藩王と自己の任務とに対して忠実であり、それ以上を要求される義務はなかった。  だが、ジュスラン卿にとってバルガシュは未踏の地であり、そこへ到着するまでの間、現地の事情に精通した者からレクチャーを受けたいと望むのも当然であった。ファラーはジュスラン個人でなく、藩王から任命された総司令官に属するのである。とすれば自分ごときが不服どころか感想を述べることさえ許されぬ、ひたすらつつしんで命《めい》を拝するだけである、というのが模範的タイタニア官僚としての彼の態度であった。  したがって、藩王アジュマーンの執務室に参上した彼は、大任をうけたまわった件に関し、挨拶を申し述べ、すぐに退出するつもりであった。だがアジュマーンは彼の挨拶を受けると「さがれ」とはいわず、思いもかけぬ話題を持ち出したのである。 「ファラーも気づいておるだろうが、最近、|天の城《ウラニボルグ》も何かと騒がしくなった」 「藩王殿下のご威光は隅々まで満ちているとしか私めには見えませぬが……」  ファラーの無器用な阿諛《あゆ》を、藩王は完全に無視してのけた。 「強大な敵が外におらぬからな。好きなだけ内紛に熱中できるというものだろう。コップのなかの嵐とはよくいったものだ」  タイタニアは全宇宙を呑《の》みこむほどに巨大なコップだ。そう思ったがファラーは口には出さず、ひたすら恐懼《きょうく》の態を示した。だがいつまでも無言の砦《とりで》にたてこもっていることはできなかった。藩王はジュスランとイドリスの名をはっきりとあげ、ファラーはどちらが次期藩王にふさわしいと思うか、と問うたのである。 「は、はい、さようでございますな、ジュスラン卿とイドリス卿とが選挙制度に則《のっと》って藩王位を争われるのであれば、私は非才の身ながらどちらかのお役に立てるかとも存じます」 「ファラーらしいな」  藩王は笑い、ファラーは安堵《あんど》が全身に広がるのを実感した。タイタニアにおける自己の存在意義に自信を抱いてはいるが、藩王のご機嫌を害《そこ》ねてよかろうはずがない。必死で知恵をしぼって答えた甲斐《かい》があった、と思った。ところが藩王アジュマーンはなおこの有能な技術官僚を解放しようとしなかった。このとき藩王は秘書官や侍従官も別室に退《さが》らせ、ファラーとふたりきりであった。ファラーにとってありがたいことではなかった。タイタニアの最高主権者は対面者にすくなからぬ精神的消耗を強《し》いる人物なのであった。 「ではアリアバート卿はどうか」  またしても難問であった。ファラーは困りはてた。 「比類ない名将と存じます。不慮《ふりょ》の負傷をなさったのはお気の毒なことで……」 「藩王位を争奪するにあたって、アリアバート卿がイドリス卿と連合することはあると思うか」 「そ、それは愚昧《ぐまい》の身にはとうていわかりかねます」 「まずなかろう。アリアバート卿はジュスラン卿と連合する。とすれば、よほどのことがないかぎり、イドリス卿には勝算がない」 「…………」  形式的な返答すらできず、ファラーがふたたび沈黙してしまうと、藩王も口を閉ざした。無言の藩王は無言なりに、巨大な彫像のごとくファラーを圧迫した。長いことではなかった。 「だが戦わぬかぎりイドリス卿は至高の座をえることはかなわぬ。戦うべきなのだ」  藩王の冷たく力感に満ちた眼光がファラーをえぐった。 「ファラーよ、忌むべきは血族間の闘争ではない。狎《な》れあいの平和こそ忌むべきだ。タイタニアは滅びてもよいが腐ってはならぬのだ」  食道から胃壁にかけて、目に見えぬ氷塊《ひょうかい》が滑《すべ》り落ちるのをファラーは感触した。現在、いちじるしく尖鋭化したかに見えるジュスラン、イドリス、両公爵の対立は、この藩王が煽《あお》ったのではないか、という疑念が、黒い閃《ひらめ》きで彼の脳裏をかすめ去った。 「あのふたりは、もはや融和することはあるまい。至高の座にはひとりしか坐しえぬ以上、ついには激突するしかない」  淡々とした藩王の口調が、ファラーにはおそろしかった。 「そして勝ち残った者がタイタニアを再生させ、中興の祖と呼ばれるであろうよ」  ファラーは心悸《しんき》が昂進し汗腺の活動が強まるのを自覚した。完璧《かんぺき》に制御された人工気候のなかで、彼の五感は寒暑の別を弁《わきま》えなくなってしまったようであった。 「で、でございますが、両公爵が争うようなことになりますれば、当面の敵につけこまれることもありましょう。流星旗軍などと申します輩に……」  かろうじて、慄《ふる》える声を押し出した。 「もともとファン・ヒューリックや流星旗軍という輩に、互角の敵たることを期待してはいなかった。彼らの存在意義は、タイタニアが内部分裂したときにこそ顕在化するのだ。分裂したタイタニア両派のいずれに、彼らが加担するか、それによって始めて宇宙は動く」  藩王はまた笑った。 「わかるか、ファラー」 「は、はい、藩王殿下……」 「よろしい、要するに、歴史の主導権はつねにわがタイタニアの手中にあるということだ。個々の人格や思案など関係ない。誰が勝とうとも、その者がタイタニアの家名を負《お》うていればよいのだ」  仮にジュスランとイドリスとが他の勢力を巻きこんで殺しあうことになってもかまわぬ。そう藩王はいうのである。神経網に霜がおりるような冷徹さであった。 「藩王殿下にとって、他人はすべてチェスの駒《こま》か……」  ファラーは軽く身慄いした。彼自身は藩王からチェスの駒としてあつかってさえもらえぬ身である。だからこそ、極秘に類することがらを、藩王はファラーに語るのだ。ファラーは厚遇されてこそいるが、要するに優秀な家畜であるにすぎなかった。幾代前の藩王であったろう、「タイタニアにあらざれば人にあらず」と、古代の覇王を気どってみせたのは。それこそまさにタイタニアの無地藩王《ラントレス・クランナー》のメンタリティであった。平凡な市民がペットの小動物に秘密を打ち明ける、それに似た意味で藩王アジュマーンはファラーに、ファラーごときに、真意の一端を打ち明けたのである。ファラーはむろん愉快ではなかった。だが、けっしてこの事実を他者に語ることはないと知っているファラーでもあったのだ。  三月二七日が来た。ジュスラン・タイタニア公爵出征の日である。アリアバート出征の際と比較して、華やかさに欠けるささやかな出陣式であったのは当然であった。藩王アジュマーンの左後方にイドリスが控え、生《なま》の薬草を噛んだような表情を隠しおおせずに、ジュスランの挨拶を聞いていた。 「藩王殿下には何とぞ御壮健でいらっしゃいますよう。大命を恥ずかしめることなきよう、微力をつくして後、帰還させていただきます」 「そうだ、たがいに壮健でありたいものだな、ジュスラン卿。バルガシュは遠い。何事につけ自愛せよ」  藩王は宇宙一の達人だ、と、ジュスランは思った。心にもない言葉を威厳を以《もっ》て口にするという点で。表情を消し、うやうやしく一礼して踵《きびす》を返す。旗艦「|朝焼けの女神《アウストラ》」の搭乗口へ歩を運びつつ、ジュスランは考えずにいられなかった。去るジュスラン自身と、残るイドリスと、はたしてどちらがより不運であるのだろう、と。        V    戦艦「|朝焼けの女神《アウストラ》」は艦隊旗艦の標準的な様式をもって建造された巨艦である。貴賓《きひん》室をはじめとして、純軍事的には機能性をさまたげるだけのさまざまな施設を艦内に有しており、そのスペースは当然、他の設備を犠牲とすることによって成立する。防御設備や火力を犠牲にするわけにはいかないため、補給部門がスペースを奪われることになり、したがって補給艦の同行は必然となる。  ジュスラン・タイタニアの場合、豪奢《ごうしゃ》な貴賓室で落ち着く暇は与えられなかった。「|天の城《ウラニボルグ》」を発《た》ち、通常空間を航行することわずか三時間で破局が到来したのである。ジュスランの小艦隊の後方、「|天の城《ウラニボルグ》」方面の空間に光点群が発生し、急速接近してきた。大小二〇〇隻におよぶ艦艇集団であった。彼我《ひが》の距離が一光秒となったところで、「|朝焼けの女神《アウストラ》」から通信波が飛ぶ。 「当方はバルガシュ遠征軍総司令官ジュスラン・タイタニア公爵の旗艦である。何の理由あって当方を追尾《ついび》するや」 「停船されたし、即時、機関停止されたし。イドリス公爵閣下よりの命令である」 「停船命令の理由は?」  艦長エドナ・フレデリックス大佐が冷然と問い返す。追尾者たちの返答は高圧的で、しかも要領をまったく欠いていた。 「極秘命令である。ただちに機関停止されたし」 「命令とは誰の命令か。本艦はバルガシュ遠征軍総司令官ジュスラン・タイタニア公爵閣下の隷下《れいか》にある。閣下以外の者から命令を受ける理由なし」  昂然とエドナは理不尽な命令をはね返す。ジュスランはささやかという以上の幸運に恵まれたようであった。易々としてイドリスの命令に従うような艦長であれば、ジュスランの未来は閉ざされる。そう思いつつ、ジュスランは艦橋の一隅で、フロアの中央に立つエドナの姿を眺めやっていた。 「ジュスラン卿の総司令官職を解くという藩王殿下の御命令は、いまだ受領せぬ。イドリス卿をもって藩王殿下の全権代理と為《な》すという公式報告も受けておらぬ。したがって本職の服従はジュスラン卿に対して向けられるのが当然である」  ここでついに追跡者たちは平和的交渉を断念したようであった。二〇〇隻の艦艇が左右に陣形を展開させつつ最終通告をたたきつけてくる。 「ただちに停船せよ! 然《しか》らざれば攻撃を加える」 「ほう、無法の極み、タイタニアがタイタニアを撃つというか」  エドナは短く笑いすてる。 「無抵抗で白旗を掲げるはタイタニアの慣習になし。理なく法なくして戦いをしかける慮外者には報いがあって当然であろう。覚悟あってのことと理解するが、よろしいな」  急速に危険度の水位が上昇するなか、エドナ・フレデリックスに対するジュスランの興味は募《つの》った。この黒髪の女性士官は、理屈っぽいのか単に好戦的であるのか、どちらであろう。 「砲門が開いた……!」  オペレーターの、報告というより、それは悲鳴であった。エドナの鋭い黒い瞳の上で眉が急角度にせりあがる。 「まだこちらの砲門は開くな。威嚇《いかく》にすぎぬ。こちらから撃てば口実を与える」  砲術士官が色めきたつのを制し、ジュスランに向き直る。炉心の石炭が彼を直視する。 「ジュスラン閣下、彼らが当方を攻撃してきた場合、反撃の許可をいただけましょうか。無抵抗で、との御意なればそのようにいたしますが」 「反撃を許可する」  即答したのは、戦闘指揮におけるエドナのセンスを信用したからである。 「ありがとうございます。首席航宙士《チーフ・パイロット》、左へ回頭、四〇度!」  エドナの声は鋭く緊張しているが動揺してはいない。反撃許可を出した後、ジュスランは黙然と艦隊司令官シートで腕を組んでいる。このような状況下で、実戦指揮に精通しない彼が指示を出すのは有害無益であると彼は心得ている。彼に必要なことは、実戦において高度の専門技術者を信頼し、彼らの活動を妨害しないことであった。ただ、一点、専門家の意見を尋《き》いてみたいことがある。 「彼らは本気で攻撃してくると思うかね、艦長」 「いつでも本気になる準備はしていると思われます」  エドナの返答である。 「ただ目的はジュスラン閣下を拘束することであって殺害することではなさそうです。そのかぎりでは私どもが有利でしょう」 「というと、いざとなればこちらは遠慮なく撃つということかな」 「御意。ジュスラン閣下のお許しをいただけましたゆえ」  エドナが断言した瞬間、その半面が青白く輝いた。発砲を報告するオペレーターの声がうわずる。スクリーンに細い光の帯がきらめき、湧きおこった光点が急速に拡大してスクリーン全体を無彩色につつみこむ。  装甲の表面にエネルギー・ビームが炸裂《さくれつ》し、貫通しえずに虹色の光彩を四散させた。明らかに出力を制御し、完全破壊を避けている。これこそ「|いんちき戦争《ボニー・ウォー》」の名にふさわしいと、ジュスランには思われた。エドナが応射を指令し、ビームの応酬は四〇分にわたってつづいた。ついに追跡者たちはジュスランたちの航路の前方に宇宙機雷を投射するに至った。ジュスランはここではじめてエドナに指示を出した。「|朝焼けの女神《アウストラ》」を中心とするジュスランの小艦隊は、追跡者たちに通信を送った。抵抗を断念し、「天の城」に同行する、と伝えたのである。  ……それから三時間を経て、「天の城」で焦慮と共に待機していたイドリスは、ジュスランが完全に逃亡を果たした、との報を受けて愕然《がくぜん》とした。ジュスラン逮捕に向かった艦艇集団の幹部たちによれば、きわめて悪どい詭計《きけい》にしてやられたのである。 「|朝焼けの女神《アウストラ》」艦内で造反が生じ、「恭順派」がジュスラン卿および艦長の身を拘束した。その報を受け、礼をつくして公爵を迎えにシャトルで乗りこんだ指揮官ノスティッツ准将は、待ちかまえていたジュスラン卿の部下に捕えられ、人質となってしまったのである。手も足も出ず、残された諸艦は「|朝焼けの女神《アウストラ》」を見送るしかなかった。 「逃がしたですむか、無能者どもが!」  イドリスは絶叫する。感情の上下動が甚《はなは》だしく、狂喜の頂点と失望の底辺とを、彼はこわれたエレベーターのように昇降した。とほうもない光景が彼を待っているはずだった。ジュスランを犯罪者として審《さば》きの場に引きすえ、イドリスが検断《けんだん》するという、つい一ヶ月前には想像もしえなかった光景だ。その光景は後日へと遠ざかり、イドリスは失敗という現実に対処せねばならなくなる。  藩王は自分《イドリス》をこそ無能者と蔑《さげす》むのではないか。イドリスは軍帽をわしづかみにしたが、床にたたきつける寸前にかろうじて自制した。無能な上に自制心も欠けると見做《みな》されては、藩王の信頼など得られようはずもない。イドリスは軍帽を手にしたまま、士官たちを睨《にら》みまわす。 「絶対にジュスラン卿とアリアバート卿とを合流させるな。予定航路上に兵力を配置し、必ずジュスラン卿を逮捕せよ」 「はっ」と士官たちは敬礼をもって答えたが、彼らの表情は「釈然」という表現から遠かった。ジュスラン卿を逮捕せよ、という命令にも当惑したし、殺さずに逮捕せよ、というのも中途半端である。仮にジュスラン卿が一方的な反撃に出た場合、彼らは手を縛られたまま死に至らせられる破目《はめ》となりかねなかった。タイタニアの士官たちは権威と命令に忠実であるが、命令自体の異様さと不徹底さとは彼らを当惑させるに充分であった。遠征軍総司令官として叙任され、「|天の城《ウラニボルグ》」を出立した直後のジュスランが藩王暗殺未遂犯として糾弾《きゅうだん》されるなど、容易に受け容れられる事情ではなかった。これはジュスランの事前の配慮が有効であったので、奇怪な事情の裏面に何やら密謀がめぐらされている、と、士官たちは疑惑せざるをえなかったのである。  イドリスは藩王の病室に赴き、しかたなく事の次第を報告した。彼と藩王との間は、雲母《うんも》の粒をちりばめた絹の衝立《ついたて》で仕切られていた。  その衝立の向こうから、寝台に横たわる藩王の声が重くひびいた。 「逃したのはしかたない。必要以上に気に病まず、予のいうとおりにしておればよい。予はイドリス卿の忠誠心をこそ貴重に思おう」  非難や叱責の一喝を浴びせられなかったので、イドリスは安堵した。彼は藩王の言葉を吟味すべきであったろう。だが安堵が猜疑心《さいぎしん》を押しのけてしまったので、自分が藩王の精神的な奴隷になりさがったこと、しかも藩王がそれと明言していることに気づかなかった。    イドリスの追撃をとりあえず躱《かわ》したジュスランは、通常航行と跳躍《ワープ》とを交互にくりかえして「|天の城《ウラニボルグ》」から遠ざかる。堂々たる征旅《せいりょ》であったはずが、いまや逃亡の旅となってしまった。 「跳躍の予定はすべて変更いたします」  エドナは律動的な口調で説明する。惑星バルガシュに到る航路は、すべてタイタニアの航法センターに登録されている。跳躍して通常空間に出る瞬間、集中砲火を浴びれば、反撃の余裕もなく破壊されてしまうであろう。 「大佐にまかせる」  ジュスランは「よきにはからえ」型の無為な上官役に徹した。彼は考えるべき構想や計画を膨大に抱えこんでいたのだ。イドリスがしかけてくるであろうレベルの策動につきあっている暇などなかったのである。        W    つい一年前、タイタニアの権勢は絶対にして不動のものと思われた。だが権勢とはそもそも薄氷の上に築かれた宮殿であり、その重さそれ自体によって沈没する必然性を持つ。永遠の栄華、恒久の権勢など宇宙の法則に照らしてありえないのに、人はそれを希《のぞ》む。歴代の権力者は自らの永劫《えいごう》、血の永続に執着するがゆえに、功臣を粛清し、批判者を流刑地に送りこみ、書物を焼きすて、栄光を求めて外国を侵す。おそらくは、永劫を望む心こそがあらゆる政治悪と権力悪との源泉であろう。  それにしても藩王の意図は奈辺にあるか。  考えこんで、ジュスランは頭の芯《しん》に疼痛《とうつう》をおぼえるほどであった。藩王が何を意図しているにせよ、実行が不手際すぎるようにも思われるが、それですら藩王の予定の一部であるかもしれない。 「タイタニアの無地藩王《ラントレス・クランナー》アジュマーン殿下、狙撃され負傷。生命には別条なし。犯人は射殺、背後にジュスラン卿ありとの疑惑あり」  宇宙を震憾させるその秘報が、非公式にタイタニアの通信網を駆けぬけた。ジュスランもそれを聞いた。 「何とうまくできた話だ」  ジュスランは苦笑せざるをえぬ。藩王アジュマーンが暗殺されたとなれば衝撃が大きすぎる。中核を失ったタイタニアは四分五裂の状態となり、外部では不満分子がいっせいに蜂起してタイタニアの支配体制は崩壊するかもしれぬ。だが負傷にとどまれば……。 「犯人はジュスラン卿だ、ただちに追え」  そう叫ぶイドリスの表情を、ジュスランは容易に想像できる。イドリスと藩王位との間に立ちはだかる妨害物の幾つかは、ほとんど一瞬の裡に排除されてしまった。イドリスは雀躍《じゃくやく》したであろう。藩王の真意や事件の全体像について考えあぐむより、この好機に乗じてアリアバートとジュスランとを一挙に競争者の座から追い落とすほうがよいに決まっている。ただ、イドリスはもっと暴走すべきであった。  逮捕だの審問だのといった手間をかけず、有無《うむ》をいわせず乗艦ごと爆発四散させてしまえばよかったのだ。口実は後から幾らでもつくものを。それとも、ジュスランを殺害して、その責任を押しつけられる愚を回避するつもりであったのか。  ほぼ二週間にわたり、二〇隻から成るジュスランのささやかな艦隊は、味方の追撃や妨害を躱し、逃避行をつづけた。「援軍|来《きた》る!」の報を通信士官がもたらしたのは四月一〇日である。 「援軍!?」  考えてみれば、これは奇妙な表現であった。ジュスランは外敵と戦っているわけではないのだ。だが、「味方」の追及をかわす状態で宇宙を逃走している「|朝焼けの女神《アウストラ》」の搭乗員としては、そう表現したくなるのも当然であった。タイタニアの人間にとって、追うのは手慣れたことだが、追われて逃げまわるのは心理的負担が大きい。友好的な通信を受けて狂喜するのも無理はなかった。艦橋に歓声があがる。エドナが「敵対勢力の偽装だったらどうするか、浮わつくな」と叱りつけたのでようやく鎮静化した騒ぎであったが、さらに通信が交換され、たしかに大小一〇〇〇隻の「援軍」がバルガシュから到着したことが確認された。  やがてスクリーンに姿を現わしたのは、タイタニアのグレーの軍服に将官の肩章をつけた三〇代前半の男である。中背で筋骨たくましく、眉目の鋭いその将官は、スクリーンごしにジュスランを直視して敬礼をほどこした。 「アリアバート卿よりの御命令で、新任の総司令官閣下をお迎えにあがりました。ザイン・カーン少将であります」  再び爆発する歓声。ようやくそれが収まると、ジュスランは出迎えの労を謝した。カーン少将の傍に若すぎるほど若い士官がおり、ジュスランは半ばそちらに気をとられた。  その若すぎる士官がシャトルに搭乗して「|朝焼けの女神《アウストラ》」を訪れたとき、大喜びで彼に駆け寄ったのはリディア姫であった。 「バル、元気だったか」 「はい、姫、おかげをもちまして」  その士官、バルアミー・タイタニア子爵が一礼する。自分ではうやうやしいつもりであったが、リディア姫の目には気どっているように見えた。姫は気むずかしげな表情で友人を批判した。 「バルは大昔からおすましやさんだったな。せっかく友だちに会えたのだから、もっと素直に喜んだほうがいいぞ」  大昔とはこの場合、一年ほど前のことである。ジュスランが笑い出したので、バルアミーは困惑から救われ、あらためてジュスランの無事を祝した。 「|天の城《ウラニボルグ》」を出る直前に、ジュスランは幾つかの策《て》を打ったが、そのひとつが功を奏したのである。惑星ティロンに在《あ》るバルアミーに秘かに通信を送り、惑星バルガシュに赴くよう勧めたのだ。バルアミーはイドリスに異心ありとの噂を「|天の城《ウラニボルグ》」に伝達している。イドリスに憎まれるのは必至であったし、バルアミーがティロンで逮捕されるようなことになれば、ジュスランとしては救いようがない。バルアミーはその指示に従い、急遽《きゅうきょ》、脱出を果たしたのであった。そして幾度か乗船を変え、バルガシュに到着してアリアバートに対面し、その艦隊に同乗してジュスランらを迎えに来たのである。 「正直なところ迷ったのです。ジュスラン卿をお救いにあがるか、それとも見捨てて藩王殿下に付くか」 「わたしも見捨てる気だったのか?」  真剣な表情でリディア姫が尋ねる。その問いかけが、偽悪の甲冑《かっちゅう》をまとおうとするバルアミーの本心を突いて、バルアミーは笑うしかなくなった。何といっても、彼は幼い姫君の忠実な騎士であるのだった。 「いえ、それができませんので、このように馳せ参じました。|天の城《ウラニボルグ》からの命令も受けずに行動いたしましたからには、もはや迷うことも許されません」  実際、バルアミーが客船でティロンを離れた三日後、「|天の城《ウラニボルグ》」からティロンへバルアミーを拘束するよう命令がもたらされている。間一髪だったのである。 「今後の事態について、ジュスラン閣下の予言が的中したわけですね」 「それほどのことではないさ。いくつかの可能性を考えただけだ」  ジュスランは苦笑まじりに軽く頭《かぶり》を振った。 「|天の城《ウラニボルグ》にいると、そういうことばかり考えるようになる。あれは魔王の城だからな」 「宇宙を支配する権威の源泉だと思いますが」  いささか青くさくバルアミーが異を唱えると、ジュスランは肩をすくめた。 「権威とは神の息吹でなく魔王の毒気のことだ。それがわかるのも|天の城《ウラニボルグ》にいればこそさ」  バルアミーは沈黙した。ジュスランの発言が真理か冗談か判断がつきかねたし、冗談であれば気の利《き》いた冗談で応酬せねばならぬ。そのように考えること自体、バルアミーが本来ユーモアやウィットと縁遠い若者であった事実を語るものであるようだ。  いずれにせよ、バルアミーはジュスランに与《くみ》することを現時点では選んでしまった。だが、これはジュスランと最後まで生死を共にするという意味ではない、と、バルアミーは自分に言い聞かせている。リディア姫が聞けば笑うであろうが、バルアミーは乱世の梟雄《きょうゆう》になりたいのであった。その乱世がどうやら急速に近づきつつある。彼はジュスランに問いかけた。 「どうやって今日を予期できたのです? 教えていただけますか」  バルアミーの両眼に真剣な光がある。彼はジュスランの思考法に学ぶべきものを感じとっていたのであった。  ジュスランは答える、半ば教えるように。 「私が天の城にいる間に事を起こせば、妨害される恐れがある。私にしても易々として陰謀を成就させるつもりはなかった。考えられるのは、私が|天の城《ウラニボルグ》を離れた直後だ」  そうすればジュスランの出立を、そのまま逃亡と決めつけて処断することができる。イドリスが計算しそうなことだった。ただ、「処断」の内実がいかにも中途半端で徹底を欠くのがイドリスらしいともいえるのだが。 「するとアリアバート卿のほうには、イドリス卿は重きを置かなかったのですか」 「私の死後、孤立したアリアバートを撃つのは困難ではない、と、イドリスはそう考えたのかな。じつは充分に困難なことだがな」  ジュスランは皮肉っぽく笑った。バルアミーは小首をかしげた。 「それにしてもイドリス卿はともかく藩王殿下の反応が遅かったようですね」 「ありがたいことだ」  ジュスランがそういったのは本心ではない。むしろ不気味である。ジュスランの行動に対し、ひとつひとつ藩王たちの対応が遅れをとっているのは、すべて計画上のこととも思えるのだ。アリアバートとジュスランとを連合させてこそ、タイタニアが揺らぐことを、藩王は熟知しているはずではなかろうか。本気で藩王が諸公爵の殲滅《せんめつ》に乗り出していたとすれば、とうにジュスランは逮捕され、アリアバートは辺境に孤立することになっていたであろう。そしてイドリスの指揮する大軍がバルガシュへと進発していたであろう。そうはならなかった。藩王の心事は、まことに測りがたい。  星暦四四七年四月一五日。宇宙を支配する疑惑と不安と動揺とのただなかにおいて、ジュスラン・タイタニア公爵は惑星バルガシュに到着した。これに先だち、彼はすでに遠征軍総司令官の職権を藩王アジュマーンの名において停止されている。 [#改ページ]        第七章 大分裂            T    アリアバートとジュスランの両公爵が再会を果たしたのは、四月一五日一八時のことである。それは私的なことであるはずだったが、歴史的な意義をも有する結果となった。タイタニア一族の「大分裂」という衝撃事に際し、藩王アジュマーンに対する造反派の両巨頭が会見する、という結果となったのである。 「あの両名をバルガシュで会わせてみろ。何を謀議するやら知れたものではないぞ」  そう叫んだのはイドリスであるが、その真意とは別に、彼は予言を的中させてしまうことになった。アリアバートとジュスランとは謀議するために会ったわけではないが、会えば茶飲み話だけですむはずもない。  リディア姫たちを旗艦に残し、バルアミーひとりをともなって、ジュスランは中央宇宙港からアリアバートの臥《が》する病院へ直行した。アリアバートの回復は順調で、四月の裡に無事退院できるとジュスランは聞いていた。バルアミーをロビーに待機させ、ジュスランひとりが病室にはいる。医師は面会時間を一時間と限った上で隣室に退き、両公爵は久闊《きゅうかつ》を叙した。一方はベッドに半身を起こし、他方は肘かけのない椅子に腰をおろす。 「回復が順調だとかでひと安心した。バルガシュのようすはどうだ?」 「偽りの平和というやつだ。ファン・ヒューリックたちもおとなしい。午睡《ひるね》を楽しんでいるというところかな」 「平和な夢から醒《さ》めたら、さぞ当惑するだろう。彼らが強固な戦略構想を持っていればいるほど当惑するはずだ」  宇宙を支配するタイタニア。それに反抗するファン・ヒューリックらのささやかな勢力。万人が描いていた図式は、この数十日で瓦解《がかい》してしまい、ファン・ヒューリックらの海中での勝利は多くの人に知られぬまま歴史の堆積《たいせき》物のなかに埋没してしまった。いまや両公爵の一挙手一投足《いっきょしゅいっとうそく》に、数千億の感覚器官が注意を集中させている。  アリアバートにしてみれば、ファン・ヒューリック一党を討伐するのに失敗したことは事実であり、何らかの形で責任をとらねばならない。全治三ヶ月の重傷を負い、バルガシュにおける独裁的権限をふるえるような健康状態にないことも確かである。また、イドリスから、責任をとれと追及されるのも確実であった。「|天の城《ウラニボルグ》」へ帰還してくどくど[#「くどくど」に傍点]と弁明もできぬ以上、アリアバートとしては辞任するしかなかったのである。  以後、事態の急変はアリアバートの予測を超えていたわけだが、これはアリアバートの予見力が貧困というより、事態のほうが非常識というべきであろう。すべてが加速していた。あるいは藩王アジュマーンも追いつめられ、急遽《きゅうきょ》決断を迫られたのかもしれぬ――藩王が真の主謀者であるとすれば。 「負けたことはしかたない。大局を一時的に忘れ、個人としての名誉回復を焦《あせ》ったおれの不覚だからな」  アリアバートは自己の敗戦をそう評した。 「このまま総司令官職にとどまっていても、いずれみたびファン・ヒューリックの前に敗者となるだろう。一度、離れたところから状況を俯瞰《ふかん》してみたくなったのだが………」  アリアバートは枕頭《ちんとう》に視線を送った。青と白と赤と、三色のカーネーションが花瓶に溢れている。その背景は窓ごしの空で、一瞬ごとに暮色を増し、恒星光の退却に反比例して他の星々の光点が数と強さを加えつつあるのだった。 「タイタニアは目に見えぬロープだ。おれたちの身体だけでなく心も縛る。そこから脱《ぬ》け出すことができれば、と思ってな」  タイタニアの桎梏《しっこく》は、他者の尊崇《そんすう》を受け特権を享受《きょうじゅ》する公爵たちにとっても重かった。彼らはタイタニアの歴史をつらぬく価値観のもとで育《はぐく》まれ、成人したはずであるが、他者の瞳に映った自分の姿を見て愕然《がくぜん》とすることもある。ひとたび疑問をいだけば、高貴なる無知に安住してはいられない。  結果として、アリアバートは藩王の先手を打ったことになるかもしれぬ。だがそれはアリアバートにとって喜ぶべきことであったかどうか。先手を打たれた形の藩王がその状態をこころよく受容したとはジュスランには思えなかった。 「アリアバート卿は負傷してかえってよかったのだ。|天の城《ウラニボルグ》に召還されずにすんだのだからな」 「そのかわりジュスラン卿のトラブルに巻きこまれてしまった。迷惑なことだ」  さして巧みでもない冗談《ジョーク》をアリアバートは口にした。バルアミーだけが例外というわけではなく、一般的にタイタニア貴族は冗談の才が豊かではない。 「それでジュスラン卿には真相を聞きたいと思っていたのだ。いったい何ごとが起こったのだ」  当然の質問に対してジュスランは椅子に坐りなおし、アリアバート辞任以降の「|天の城《ウラニボルグ》」の事情について語った。  鎮圧しうる規模の叛乱は、支配体制の強化に有益である。これは古代都市国家以来の政略上の法則であり、それを目的として有力者を叛乱に追いこんだ例すら数多い。今回の事件もその一例であろうか。そう思いつつ、とにかくジュスランはアリアバートに対して自分の立場を告げた。 「明言しておくが、藩王殿下の暗殺未遂事件とやらに私はまったく関係ない。それどころか、事件が存在したことすら私は疑っている。実態として存在するのは、イドリス卿がおこなった公式発表だけではないか」  イドリスのいうことなど信用できぬ、と明言こそしなかったが、ジュスランの意は充分に通じた。アリアバートは事態を要約しようとした。 「結局、イドリス卿がジュスラン卿を罠《わな》にはめたというわけか」 「いや、それがそうとは断言できぬ。イドリス卿が私をはめたといえるのか、イドリス卿は共犯ないし従犯でしかないのか」 「…………」 「私としては多分、後者だろうと思っている。イドリス卿は気を悪くするだろうが、彼ひとりがいかに陰謀をめぐらそうとも、藩王殿下がそれに迷わされるとは思えないからな」  辛辣《しんらつ》な評価だが、異を唱える者はすくないであろう。アリアバートは肯定の表情を示し、枕頭に置かれたメモの一片を取りあげて低く読みあげた。 「藩王殿下、狙撃され負傷、ただし生命には別条なし。犯人はその場で射殺され、犯行を示唆《しさ》した者としてジュスラン卿の名が残る」  アリアバートは笑ってみせた。 「まったくつごうのよい話だ。藩王殿下が亡くなったとなれば、理非はともかくとして大勢はイドリスから離れる。現在、宇宙でもっとも藩王殿下を必要としているのはイドリスだろう」  アリアバートがイドリスの名から「卿」の称号を外《はず》したことにジュスランは気づいたが、その点には言及しなかった。彼が「|天の城《ウラニボルグ》」を発《た》った際の情況に話が移り、「|朝焼けの女神《アウストラ》」の女性艦長に談がおよぶと、アリアバートが口をはさんだ。 「エドナは技倆《うで》のいい艦長だ」  ジュスランの視線を受けて、アリアバートは自分がエドナ・フレデリックス大佐のファーストネームを呼んでしまったことに気づいた。彼はジュスランの顔を見返し、淡々として認めた。アリアバートはエドナと男女の関係があったのである。これはアリアバートの女性関係をジュスランが知った最初の例であった。アリアバートは女性関係の豊富さを勲章のように飾りたてて誇示するタイプではなかった。 「アリアバート卿は彼女の艦長としての技倆に惹《ひ》かれたわけではなかろう?」 「むろん知りあったときは彼女は艦長ではなかった。もう一〇年前だな」  このような会話を見ると、アリアバートはあるいはバルアミーより冗談が拙劣《へた》な男であるように思われる。 「現在は別れたのか」 「はっきりと別れたわけではない。彼女《あれ》にも軍務や生活があるし、いつとなく縁が薄れてしまっただけだ」  頭を振ってアリアバートは笑ってみせたが、淡い翳《かげ》りが端整な顔をかすめ過ぎていった。ジュスランが沈黙していると、アリアバートは付け加えた。 「それに彼女《あれ》はタイタニアの権威が通用するような女でもない。こちらの地位を振りかざして縛る気にはなれなかった。そういうことだ」  うなずいて、ジュスランは話題を転じた。エドナ・フレデリックスを旗艦の艦長とした人事。納得できない命令に従わず、最初の命令を毅然《きぜん》として遂行するエドナを、ジュスランの旗艦の責任者とした人事。それにジュスランは拘泥《こうでい》せざるをえない。何者かが計算してのことであろうか。何しろ藩王アジュマーンが相手ゆえ、小さな影の揺らぎにも気を配らずにいられない。だがひとまずジュスランは疑惑より事実をアリアバートに語るべきであった。 「とにかく不本意ながら私は藩王暗殺未遂の大罪を問われることになった。むろんこれは無実の罪だから私としては易々《いい》として服するつもりはない。私は自分自身の生命と名誉と権利とを守るために戦うつもりだ。たとえ相手が何者であろうと、だ」  ごく静かにジュスランは宣言し、彼の説明を終えた。        U   「藩王殿下と戦うのか……!?」  アリアバートの声が戦慄《せんりつ》を含む。彼は臆病ではない。彼を臆病と謗《そし》ることのできる者はタイタニアにはいない。逆方向からいえば、藩王アジュマーンはアリアバートを戦慄せしめる、宇宙で唯一の人物であるのだ。ジュスランは軽く手を振ってみせた。 「戦うなどといったが、それほど勇ましいものではないな。私は悟りを開いた聖人ではないから、悪あがきする。それだけのことだが、あのときイドリス卿に身命《しんめい》を預けることを拒否した以上、息絶えるまで悪あがきをつづけるしかないようだ」 「釈明は試みてよかろう。それを受けるか否かは先方の問題だ。本来ならおれが仲裁の労をとるべきだが、ひとつにはこのありさまでな」  ここで医師が診察と休息の必要を告げたので、いったんジュスランは病室を辞した。再度の対面は、両者が夕食をすませた後で、すでに完全な夜となっていた。 「だが、なぜ藩王がイドリスを後継者として選ぶのだ? それが解せぬ」  アリアバートは形のよい眉をひそめ、半ば独語《ひとりごと》めいて呟《つぶや》いた。 「ジュスラン卿が後継者となるなら、おれは別に異存はない。それがイドリスであっても、しかたがないとは思う。ただ、服従はしても、簡単に納得はしがたいが」 「当然だな」  アリアバートの心理を裏がえせば、ジュスランの心理となる。イドリスは両者より年齢も低く、実績・人望とも劣る。藩王はそれを承知しているはずだ。あるいは承知していればこそ、三公爵の勢力を均等化するため、イドリスに力を添えようとするのだろうか。 「あるいは何十年も考えつづけていたのかもしれない」  そう推測もしてみたが、ジュスランは深く立ち入るのを避けたかった。 「だが、やめておいたほうが現在《いま》はよさそうだ。藩王殿下の内心に立ち入り、その迷路で戦うのは。ただ藩王の行動に対して、こちらの生命と矜持《きょうじ》とを護るために対応しよう」  ここでジュスランは、もっとも重大な質問のひとつを提示した。 「アリアバート卿の部下たちは、アリアバート卿に忠誠を誓っているのだろうな」 「戦う相手がイドリスであれば、ほぼ全員がついてくるだろう。だが、相手が藩王となれば、半数もあやしいものだ」 「……まさにそれが問題だな」  ジュスランは呟き、無言でアリアバートはパジャマの袖を引っぱった。イドリスは自分だけの力で覇権の争奪に勝ち残ることはできぬ。藩王の権威を背景としてこそ、アリアバートとジュスランとに対抗することが可能となるのだ。そう考えて、ジュスランは自分が不用意に先走ったことに気づいた。 「いずれにせよ、私が藩王およびイドリス卿と戦うとしても、アリアバート卿を巻きこむのは心苦しい。ここで虜囚となるわけにはいかぬが、近日の裡《うち》にバルガシュを発《た》とうと思う」 「何をいまさら」  アリアバートは一笑した。声をたてて笑えるほどに、負傷は癒《い》えているのである。 「おれが局外中立を守れるような状況は、とうに過去のものだ。おれもジュスラン卿とともに戦わざるをえぬ。いや……」  片手をあげて、アリアバートはジュスランの開口を制した。 「別にジュスラン卿の責任ではない。おれ自身がイドリスと衝突してしまった。もはや引き返しなどできないのさ」  ……ジュスランがバルガシュに到着するより一週間も早く、アリアバートは「|天の城《ウラニボルグ》」からジュスランが到着すると同時に拘留せよとの命令を受けたのだ。 「藩王殿下に申しあげる!」  病室に運びこまれた通信スクリーンに向かって、そのときアリアバートは声を高めた。 「今回の件、そもそも最初から疑問が多すぎます。ジュスラン卿が藩王殿下に対し、危害を加えるなどありえない。まず彼に公正な弁明の機会をお与えいただきたい」  ところが通信スクリーンの、粒子の粗《あら》い画面に現れたのは藩王ではなくイドリスであった。藩王との直接対面をアリアバートは求めたが、イドリスは鼻先であしらった。 「藩王殿下が会えるはずはないではないか。殿下はお気の毒にも不逞《ふてい》なる暴徒に襲われ、床に就《つ》いておられる。暴徒に兇行を指示したジュスラン卿が罪を問われるのは当然だ」 「だからその証拠を示せといっているのだ。四公爵の一員たるジュスラン卿を物証なく暗殺|教唆《きょうさ》者として貶《おと》しめ、逮捕をもくろむとは、名誉と人権を無視した行為ではないか」 「いいたいことがあるなら藩王の御前で申しあげるがよかろう。何ら後ろ暗いところがなければな。自ら弁明の機会を放棄し、逃亡するとは、罪を認めたも同然ではないか。今後、彼がバルガシュにとどまって罪を免れようとするなら、犯罪者をかくまうアリアバート卿の責任を問うため実力を行使せざるをえぬ。覚悟がおありかな」 「大言もほどほどにしておくがよかろう。このアリアバートと用兵の優劣を競うというのか」 「こいつはおもしろい、大言とはそちらのほうだ。一度ならず二度までも、ファン・ヒューリックごとき流亡の鼠賊《そぞく》にしてやられた敗軍の将が、えらそうに兵を語るか!」  イドリスは嘲弄《ちょうろう》した。白刃を擦《す》りあわせるような両公爵の会話が中絶する。アリアバートがふたたび口を開くまで、光が三〇〇万キロ進むだけの時間を必要とした。 「……きさまに負けたわけではないぞ、イドリス」  アリアバートの声は低いが鋭くイドリスを刺しつらぬいた。 「きさまにファン・ヒューリックを凌駕《りょうが》する奇略の才があるというなら、事実によってそれを証明してみせろ。空前の大軍をひきいて攻め寄せてくるがいい。きさまにふさわしく、黄金《きん》鍍金《メッキ》の柩《ひつぎ》に寝かせて|天の城《ウラニボルグ》に帰してやるからな!」  アリアバートの生涯で最高の激語であったにちがいない。イドリスの顔面で多量の血液が血管内を移動し、咽喉《のど》の軟骨が上下動した。ようやく呼吸をととのえると、イドリスは呻《うめ》きに近い声を口の端から押し出した。 「それは宣戦布告と解釈してよいのだな、アリアバート卿」 「それ以外にどう解釈しようがあるというのだ。気どるな、ばか!」  最後の一言は、思いきり挑戦的な口調で発せられ、個性に欠けるといわれたアリアバートの顔に血気に満ちた精彩を与えた。イドリスの両眼が血走った。毛細血管が破裂したのだ。 「待っていろ、殺してやる!」  というきわめて直截《ちょくせつ》的な発言を最後として、通信は断ち切られ、恒星間通信スクリーンの画面は白濁した……。 「……というわけだ。たとえ藩王がおれを赦したとしても、イドリス卿はけっして赦さぬ。本気でおれを殺しにかかるだろうな。もはやおれに選択の余地はないというわけだ」  あきれてジュスランは同年の従兄弟を眺めやった。 「アリアバート卿がそれほど子供っぽい為人《ひととなり》とは知らなかったな。もっと温和な常識家と思っていたぞ」 「おれもそう思っていた。だがどうやら自分にだまされていたようだ。おれは多分そうなりたかっただけで、なりきってはいなかったのだな」  アリアバートの述懐は過去につながるものだった。両者にとって共通の過去である。ジュスランは沈黙を保った。声を出しての反応ができなかったのである。 「ジュスラン卿、おれの母を憎んでいるか」  予期した問いかけであったが、「いや」とだけ答えるのが精いっぱいだった。アリアバートのほうもその反応を予期していたようである。「ほんとうか」などとは問わなかった。 「憎まれて当然だ。だがおれが子供の頃、母がおれにいったよ。お前はけっして他人《ひと》に憎まれるな、憎まれるのは自分だけでいい、とな」  アリアバートは天井の隅へ視線を投げた。 「もっとも、母は息子のおれから見てもしたたかな女《ひと》だったから、それも一種の演技だったかもしれんがね。まあ、いずれにしても過去のことだ。破局に至ってしまったからには、今後のことを考えたほうがよさそうだな」  無言でジュスランはうなずいた。彼にはわかった。イドリスからの恒星間通信が断ち切られたとき、アリアバートは過去からつづいた精神的な配線の一部を断ち切ったのである、ということが。        V    ジュスランは、アリアバートが加療している病院から徒歩三分の距離に中規模のホテルを見つけて借りきり、そこを執務本部兼宿舎とした。「ホテル・アビオン」というそのホテルは一〇階建で、一階から六階までに執務本部機能が置かれ、七階に護衛兵の詰所《つめしょ》、八階に主要幕僚の居室、九階と一〇階がジュスランの住居である。バルアミーの個室は九階に、リディア姫とフランシアの個室は一〇階に配された。ジュスラン自身の執務室は六階、サロンは九階、寝室は一〇階である。  これらの具体的な手配は、ジュスランに託されてバルアミーがおこなった。彼はジュスランから高級副官に再任され、外部からはジュスランの腹心と見られ、それにふさわしい活動ぶりを示しつつあった。もうひとり、バルアミーを腹心と思っている人物がいて、彼はそちらの役目も果たさねばならない。その人物、つまりエルビング王国のリディア姫が所在なげにしているのを見かけて彼は声をかけた。 「祖父王《おじいさま》に会いたいのですか、姫」  リディア姫は即答しない。ほぼ一年ぶりに見る地上の光景を窓ごしに眺めていたが、噴水のある平凡な中庭を見おろしたまま返答した。 「何かおみやげがないと帰りにくい。王族たる者は、国に利益をもた、もた、らせねばならないのだ。わたしにはまだそれができないから、まだ帰れないのだ」  故郷が恋しいこともあるだろうに。そう姫の心情を忖度《そんたく》したのは、バルアミーの想像力が成長したことを示しているかもしれぬ。リディア姫はバルアミーに向きなおり、別のことを心配げに問いかけた。 「タイタニア軍がエルビング王国を攻撃するようなことになるだろうか、バル」 「いや、その心配は御無用と存じます」  バルアミーは断言した。リディア姫には気の毒だが、エルビング王国の存在などタイタニアの眼中にない。局外中立であろうが、藩王派と反藩王派といずれに与《くみ》しようが、衰弱した蚊が服地の表面にとまったようなもの、いっこうに痛痒《つうよう》を感じないだろう。  そう思ったが、ひとつの可能性にバルアミーは気づいた。事は戦略より政略の範囲に属する。反藩王派に与《くみ》した者がどのような報いを受けるか、「|天の城《ウラニボルグ》」は見せしめのためにエルビング王国を襲い、この貧乏で非力な恒星国家を破壊しつくすかもしれない。イドリス卿ならやりかねない、と、バルアミーが思ったのは、公正な評価とはいえず、悪意ある先入観というべきであろう。その先入観は、バルアミーが針路を定めるのにすくなからず影響した。ジュスランが「|天の城《ウラニボルグ》」を去り、藩王の名代をもってイドリスが権勢をほしいままにするとあっては、バルアミーの浮かぶ瀬はなかった。すくなくともジュスランの麾下《きか》に在るほうが彼の未来は開けるはずであった。それにここでは自分は必要とされているし、惑星ティロンに滞在していた時期の疎外感や孤立感とも無縁でいられる。幾つもの意味で正しい選択であるはずだった。 「今度|天の城《ウラニボルグ》に帰るときには、勝者の一員として」  そう心に決めてはいるが完璧《かんぺき》な自信からは遠い。いまさらに戦慄するのだが、このまま事態が推移すれば彼は藩王アジュマーンと戦うことになるのだ。藩王はタイタニアの力の象徴であり、かぎりない畏怖の対象であった。アリアバートとジュスランの連合をもってしても、はたして彼に勝てるのか。  だが内心の不安に、ひとまず彼は錠をおろした。騎士として、姫君の前では胸を張っていなくてはならぬ。 「姫、ティーラウンジに参りましょう。このホテルには果物パイが四〇種類もあるそうです。当分、おやつには困りませんよ」  すっかり甘いものに精《くわ》しくなった彼であった。  さて、ジュスランは総司令官としての職権を停止されてしまったが、正式に解任されたわけではない。仮に彼が解任されたとすれば、バルガシュに進駐したタイタニア軍は何びとの指揮を受ければよいのか。アリアバートが復職するのか。だがすでに「|天の城《ウラニボルグ》」からの通知を無視して、アリアバートはジュスランを迎えいれた。アリアバートがジュスランとともに「|天の城《ウラニボルグ》」に対して服属を拒否すれば、両者は逆賊としてタイタニア中枢より討伐されることになる。  タイタニア対タイタニアの内乱。  それは全宇宙を驚倒させるに充分な状勢であった。これまで人類社会は、「タイタニアと非タイタニア」という形で歴程を刻みこんできた。闘争と抗争とは「タイタニアVS反タイタニア」の図式をもって描かれてきた。その、いわば伝統的な図式が破れたのである。多数の人々は、想像力の外で展開されるに至ったあらたな図式にどうやって対処すべきか、にわかには決断も判断もつかなかった。  惑星バルガシュはあいかわらずタイタニア軍の占領下にある。それとも、反タイタニア軍の支配下に移った、と称すべきであろうか。事態を表現するのに彼らは思わぬ困惑を強《し》いられた。 「もしアリアバート卿が藩王の隷下《れいか》を離脱したというなら、バルガシュに進駐をつづける法的な根拠はない。撤兵を求めるべきだ」  という意見もあったが、現実性を欠きすぎたので多数の賛同を得られなかった。 「何とも奇怪なことになったな。わが政府はいずれに味方するのだ。それとも局外中立か」 「とにかくこのままではバルガシュは叛乱軍の本拠地としてタイタニア軍の全面攻撃を受けることになりかねんぞ」 「まったく何だってこんなことになってしまったのだ」  バルガシュの議員や官僚たちは額《ひたい》を集めて話しあった。ひそめたつもりの声が、興奮のためにすぐ大きくなる。 「この際AJ連合に与《くみ》して、永きにわたったタイタニアの支配体制を突きくずしてはどうだろうか……」 「AJ連合」とはむろんアリアバートとジュスランとの頭文字を採《と》ったものだが、この他に「両公爵協約」とか「反藩王派」とか、詩的とはいいがたい名称を、このとき彼らは一方的に与えられている。あるいは「反イドリス派」という名称がもっとも当を得ていたかもしれぬが、不思議と誰も口にしなかった。 「藩王アジュマーンは健在なのだ。AJ連合が造反したところで勝算はすくない。むしろ藩王と誼《よしみ》を通じてAJ連合を排除し、あらたなタイタニアの支配体制と共存するほうがよいのではないか」 「そううまくいくものか。AJ連合が排除されたら、藩王の勢威はより強大なものになり、わがバルガシュに対する態度はいっそう高圧的なものになるだろう」 「そうとも、何で吾々が藩王に協力せねばならんのだ。タイタニアの藩王派とAJ連合と、どちらが勝つにせよ、局外中立の立場をとるのが最善の方途《みち》だろう」 「傍観は手ぬるい。巧妙に介入し、両者の共倒れを図るべきだ。これこそタイタニア支配体制を崩壊させるためには絶好の機会といえよう」 「とんでもない、ゲーム感覚での介入など避けるべきだ。タイタニアが本来、団結の強い一族であることを忘れるな。うかつに手を出して、奴らが血の絆《きずな》を思い出したら、かえってまずい。大いにまずいぞ」  バルガシュ人のほぼ全員が、タイタニアがらみの政戦両略に関する評論家となってしまったようであった。異様な興奮が彼らを捉《とら》えている。壮年期の恒星のごとく強力で安定し、微動だにせぬかに見えたタイタニア一族の支配。それが大きく揺らぎ、まかりまちがえば崩壊するかもしれぬのだ。歴史の転換点は、麻薬よりも人を昂揚させるのである。 「何しろアリアバート卿とジュスラン卿には二万隻の大艦隊がある。宇宙で最強力の武装集団だ。|天の城《ウラニボルグ》のほうに、それに対抗できる人材があるか?」 「だがあれはタイタニアの軍隊であって、アリアバート卿の私兵ではないからな。藩王が明快に彼らを公敵と宣言すれば、二万隻のうちどれほどがアリアバート卿に従うことか」 「残りは矛《ほこ》を逆しまにしてアリアバート卿に襲いかかると? だがアリアバート卿は将兵の人望が篤いぞ」 「藩王《アジョマーン》に対する畏怖は、もっと深かろう」 「藩王か。まさに怪物だな、あれは」 「あの人物こそ何を考えているのか」  このあたりで人々は口を閉ざす。疲れもしたし、藩王アジュマーンの彫刻めいた顔を脳裏に浮かべると、表現しがたい威圧感を覚えるからであった。        W    アリアバートとジュスランは翌四月一日にも病院で今後の対策を協議した。ひとつの課題として、藩王アジュマーンに対する武力反抗を正当化する大義名分を考え出さねばならなかった。ジュスランには腹案がある。 「君側《くんそく》の奸《かん》を討つ」  ジュスランの言葉を聞いて、アリアバートは軽く手を拍《う》った。 「なるほど、目的はイドリスか。それなら大義名分が立つ。ジュスラン卿の件に関しても、藩王ご自身の発言はいっさい伝えられていないのだからな。イドリスがほしいままに発言しているのかもしれぬ」 「おそらくイドリスにとっては不本意きわまるだろうがな」  イドリスの排除を目的として、AJ連合が起兵を宣言する。その瞬間からイドリスは政略的存在となるのだ。仮にAJ連合が軍事的勝利をおさめ、藩王を追いつめたとき、藩王はイドリスを犠牲として和平交渉をおこなうことになるかもしれぬ。むろん、藩王陣営が軍事的勝利をおさめたときには、アリアバートとジュスランは人生そのものから退場し、後にはイドリスの凱歌《がいか》が響きわたるであろう。 「標的にされるイドリスも気の毒かもしれぬが、心ならず造反に追いこまれた吾々も気の毒だ。敵対するにせよ従属するにせよ、当面、吾々は藩王の巨大な掌《てのひら》の上で踊らざるをえぬ」 「つまり、三人の公爵をあわせても、藩王ひとりにおよばぬというわけだ」 「だからこそあの方は兄君をさしおいて藩王となられたのだ」  アジュマーンの兄とは、すなわちバルアミーの亡き父エストラードである。弟の威権に挑戦する寸前、不慮の死をとげ、その遺児はいまジュスランの陣営に在《あ》る。父子二代、ついにアジュマーンの下に安住はできぬもののようであった。  幾度でも確認しておくべきことだが、アリアバートもジュスランもタイタニアであった。この期におよんで白手《すで》で平和的解決を求めても無益であることを知っている。武力によって自らを守るしかないのである。人道的に正しいとはいわぬ。タイタニアが支配する宇宙の、それが悪《あ》しき現実であった。アリアバートが提案する。 「こういう策《て》はどうだ? ヴァルダナ帝国のハルシャ六世陛下に密使を送り、密詔《みっしょう》を賜《たまわ》り、藩王を討てと命じていただく。すくなくともヴァルダナ帝国の法においては、吾々は官軍の大義を得ることができるが」 「ハルシャ六世陛下は狂喜するだろうな。だがそれだけのことだ。あの御方がタイタニアを膺懲《ようちょう》することができるのは妄想の中でだけだ」  それに、皇帝の密詔を受けたことを政治的に利用するのであれば、それを公表せねばならぬ。公表すれば、藩王はハルシャ六世に強要して密詔の無効を宣言させるであろう。あるいはその機会にハルシャ六世を退位させてしまうかもしれぬ。それよりも、ごく一般的に、今後ヴァルダナ宮廷を尊重すると公表すればよい。実質的に何もする必要はなく、それでハルシャ六世の心証はジュスランらに対して良くなるし、それをもってハルシャ六世を圧迫すれば、「|天の城《ウラニボルグ》」側の評判が悪くなるだけだ。 「それと、エルマン伯には天の城へ帰っていただく。吾《われ》ら両名に異心なきことを藩王殿下に伝えていただかねばならぬからな」  これはジュスランの真意ではない。そもそもエルマン伯が「|天の城《ウラニボルグ》」へ帰ってアリアバートやジュスランを誠実に弁護してくれるとは、ジュスランは思っていないのである。有態《ありてい》にいえば、エルマン伯を自分たちの身辺から遠ざけておきたいのだ。この人物は百害あって一利なし、と、ジュスランは見ている。偽悪的な表現を用いれば、利用価値がない。比類ない大敵を相手として戦うとき、足もとの土を掘られてはたまったものではなかった。敬して遠ざけておくが最善なのである。幸い彼を「|天の城《ウラニボルグ》」へ送るべき人物もいる。ジュスランの捕虜となっていたノスティッツ准将であった。  捕虜となったノスティッツ准将は、きわめて不機嫌であった。彼の境遇では当然のことであろう。本来、降伏をよそおった詭計《トリック》などにかかる人物ではないのだが、相手がタイタニア四公爵の一員であるだけに礼節をつくして自ら敵艦に赴いた。その礼節を裏切られたのであるから、愉快であろうはずがなかった。その彼が釈放され、エルマン・タイタニア伯爵を護衛して「|天の城《ウラニボルグ》」へ帰還するようジュスランから依頼されることになった。ジュスランは鄭重《ていちょう》にこれまでの非礼を謝罪し、ノスティッツ准将に、いさぎよく戦場で会おうと告げて握手を求めた。ノスティッツがどのような気質の所有者であるか充分に知った上での政治的演技であった。ノスティッツは素直に感動し、まちがいなくエルマン伯を「|天の城《ウラニボルグ》」に送りとどける旨《むね》を誓約してジュスランの前から退出した。このときジュスランはひとつの目的をもって、出発までエルマン伯の行動に制約を加えないようにした。すくなくともノスティッツ准将より、ジュスランは遙かに人が悪かった。  軍事面での指導や配慮はアリアバートに委《ゆだ》ね、ジュスランは主として政治的外交的な策動に従事した。それもまずタイタニア内部のことからである。「|天の城《ウラニボルグ》」から同行したファラーについて、彼は奇妙な噂を聞いた。情報を収集したのはバルアミーだが、ファラーが藩王に呼ばれ、何やら重大事を耳打ちされたようだ、というのである。 「ファラーに問い質してみますか、閣下」 「むだだろう。藩王がファラーに真実を語ったとはかぎらぬ。バルアミー卿、藩王殿下は心にもない発言で他者を威迫することができる方なのだ。ファラーが何を告げられたにせよ、吾々を混乱させるために一方的に選ばれただけだと私は思う」  いずれファラーの処遇は決定せねばならぬ。むろん殺害はしない。「|天の城《ウラニボルグ》」に対して叛旗をひるがえす形となった以上、ジュスランとアリアバートは、これまでのタイタニア的な人間支配のありようにアンチ・テーゼを示さなくてはならなかった。理想だけで現実に勝利できるはずもないが、姿勢と方向を示しておくほうが有利というものである。味方を増やさないまでも、敵を減らしたいものであった。 「ファン・ヒューリックに対して何か策《て》を打ったほうがいいだろうか」  そうアリアバートに相談を受けたとき、ジュスランは小首をかしげた。 「いや、ファン・ヒューリックは放っておこう。いずれ彼のほうから、接触を求めて来ると思う。こちらは扉を閉ざさず、いつでもお茶を出せるようにしておけば、それでよい」 「接触してくるとして、その時期について予測できるか」  アリアバートに再開されて、ジュスランは再思することになった。 「数字をあげて確定するのはむずかしいな。だが、別の表現を使ってなら答えることができる」 「つまり?」 「つまり、イドリス卿が彼らに接触してくる、その前後だ」  ジュスランの返答に、アリアバートはうなずき、短く笑った。純軍事的才能に関して、イドリスがアリアバートに対し優越感を抱く理由は存在しない。藩王アジュマーンとしても、イドリスの才幹にどれほど期待していることか。 「藩王のことだ、ファン・ヒューリックの一党によほどの厚遇を保証して傭兵にするかもしれぬ。それどころか、実戦部隊の総指揮権を与えたとしても私は驚かんぞ」  ジュスランの意見を受けて、アリアバートはむしろ会心の微笑を形づくった。 「そいつはおもしろい。あおぐ旗が一変しても、ファン・ヒューリックとおれとは戦わなくてはならないというわけだ。二敗後の一勝といきたいものだな」  精神の強靭と柔軟さを感じさせる母方の従兄弟の笑顔を見ながら、やや異なる光景をジュスランは脳裏に描いている。ファン・ヒューリックたちはどのように将来を選択するだろうか。  この年四月二〇日、タイタニア無地藩王《ラントレス・クランナー》アジュマーンの名によって宣告が為され、アリアバートとジュスランとは公爵位を含むあらゆる公職と公的権利を剥奪された。一年前に「|天の城《ウラニボルグ》」に顔を並べた四公爵のうち、一名は死去し、二名は追放され、健在な者はイドリスただひとりとなったのである。 [#改ページ]        第八章 海賊たちのお勉強会            T   「何だってこんなことになったんだ!?」  一同を代表して叫んだのはアラン・マフディーもと中尉どのであった。食堂の大テーブルに集まりはじめた反タイタニア派の無頼漢たちが、朝食のパンをちぎる手をとめて彼を見やる。 「タイタニアが分裂だの内戦だの、どうしてこんなことになったんだ。ドクター、あんただったら何か説明できるだろう」  星暦四四七年四月下旬。アリアバートの部下パウルセンはなお潜水部隊を率いて惑星バルガシュの海中を回遊している。確かにバルガシュ軍の離脱部隊は海中に身をひそめているが、「|正直じいさん二世号《OOJ》」は彼らと別れて単独行動をとり、不逞《ふてい》な無頼漢たちはポート・サミュエルという亜熱帯の乱雑な港湾都市に潜入して一軒の家を借りきった。船員相手の下宿屋をしていた古い家で、目だたぬのと部屋数が多いのと家賃が安いのと、三つも長所《とりえ》がある。短所はその五倍というところだが。 「情報がすくなすぎる。資料も物証もとぼしい。このような状態で無責任に想像のみ羽ばたかせるのは学問ではなく、単なるギャンブルである」  えらそうにいうドクター・リーは、学問を政戦両略におけるギャンブルに利用していると、もっぱら評判の人物である。「タイタニアはいかにして滅亡するか」という命題を終生の研究課題とする彼は、すくなくとも思想的に宇宙でもっとも危険なテロリストであろう。ドクター・リーはタイタニアどころか全人類を滅ぼす方法を幾つも知っていたが、実行するにはいささか組織的実力が不足している。人類のためには幸いなことであったにちがいない。 「むろんどうしてもといわれれば仮説を開陳せぬでもないが、理論的完成度を追求せずして大衆的ゴシップへの迎合に走るのは、学徒として邪道であるからして……」 「ファン、野菜いりオムレツの具はジャガイモ中心がいいの、タマネギ中心がいいの!?」  これはセラフィン・クーパースという女性の声である。問われたのは、にんじん色の髪にブラシもいれていない青年で、眠そうな表情でテーブルに着いたところだった。この下宿屋を借りて以来、ファン・ヒューリックとセラフィン・クーパースは同室で生活するようになっている。「どうも放っておくわけにいかない」という思いが愛情の範疇《はんちゅう》にひっかかるものだとすれば、いちおう愛情にもとづく同棲なのであった。 「どこへ行ってもちゃんと女の補給だけは欠かさないお人だなあ」  と、とくに皮肉まじりでもなくルイ・エドモン・パジェスが感心するのだが、実際ファン・ヒューリックは精神安定上どうしても女性の存在が必要であった。「惚《ほ》れっぽい」という表現がむしろ実態に近いかもしれぬ。彼は昨年、ミランダの妹分にあたるリラ・フローレンツという少女と出会った。恋愛未満の状態で死別してしまったが、むしろ彼女の死後、彼の内部でリラの存在は肥大化して、その想いが、タイタニア貴族アルセス伯爵を襲殺《しゅうさつ》するという行動につながった。さらにそれがアルセスの兄ザーリッシュ公爵と対決して彼を死に至らしめる結果を生じた。現状をあえて説話風に単純化すれば、すべては女性ひとりに起因するのである。 「タマネギを減らしてくれたほうがいいなあ」  そう答えて、にんじん色の頭髪をかきまわす彼に、ミランダが声をかけた。 「もうすこし陽気にふるまってもいいと思うけどね。あんたはあのアリアバート公爵に勝ったんだよ。二度つづけてだよ」 「小細工ではね」  ファン・ヒューリックの口調はにべもない。海底での勝利は、むしろ彼をいらだたせた。戦闘で勝ち、万人が名将と認めるアリアバート・タイタニア公爵を負傷させ、ついに総司令官職の辞任にまで追いこんだのだが、勝利の実感はいっこうに湧かぬ。蜂が巨竜を刺したようなもので、むしろ自分の卑小さを自覚してしまうのだった。正面から大艦隊どうしで決戦して堂々と勝ちたいと思うのである。その軍国的騎士道主義に、ドクター・リーが冷水を浴びせかけた。 「ほう、不満だって。すると、このていどの貧弱な戦力、このていどの稀薄《きはく》な同盟意識、ゼロにひとしい戦略構想とをもって、堂々と正面から戦って勝てるつもりだったのかね、ミスター・ヒューリックは?」  ドクター・リーは一ミリグラムの努力も必要とせずに意地悪で尊大な口調をつくることができる達人なのであった。ファン・ヒューリックは口を開きはしたが、舌の長さでも機能性でもとうてい勝ちえないことが明白なので、負《ま》けいくさを戦う気にはなれなかったようだ。  彼の周囲では騒々しい議論が生じている。数日来、未解決の議論だった。タイタニアが分裂してしまった以上、今後彼らはどのように、かつ何者と戦えばよいのか。 「両派のどちらを討ち滅ぼしても喜ぶのはタイタニアの片割《かたわれ》だ。ばかばかしい話じゃないか」 「だが、喜んだところで奴らの力は半減するんだ。重要なのはそのことだろうが」  テーブルが鳴った。ドクター・リーが掌《てのひら》をたたきつけて一同の注意を喚起したのだ。 「まったくもってわずらわしいが、諸君が熱望するのであればしかたがない。学者としての良心を暫時《ざんじ》、休息させておいて、事態をすこし整理してみるとしよう」  誰が熱望したんだ、と、「生徒」たちは視線を交しあった。視線を集められたマフディーがあわてて首を振る。おかまいなしにドクター・リーは全員に着席をうながした。不平を鳴らす者はいたが、結局、全員が着席したのは、この無頼漢集団の奇妙なところであった。カリスマ的指導者など存在せず、皆がかなりかって[#「かって」に傍点]に行動しながら解体するでもない。何しろ全員がタイタニアに対しても反タイタニア諸勢力に対しても孤立状態にあるから、他に行くところもないのであった。 「生徒」たちに対してドクター・リーはいちおう社会的に知られた事実をあらためて説明し、そこから自論を展開した。 「単一の勢力が全体の過半を占めて巨大化する、これを古代の文学から採って巨人《きょじん》と呼ぶが、それが巨大化傾向の度が過ぎれば自然に分裂・分散に向かう。歴史上の法則で、いたずらに驚くことはない。むしろタイタニア打倒への時間的距離が短縮されたことを喜ぶべきだろう。ただ問題なのは……」  ここでファン・ヒューリックが、やや性急に口をはさむ。 「タイタニアの打倒は結構。で、どちらのタイタニアを打倒するんだ。藩王アジュマーンか、それとも反藩王派の両公爵か」 「彼らはもう公爵ではない」  と、ドクター・リーは、大学院研究生じみた緻密《ちみつ》さで訂正した。 「もと公爵だ。さて、問題となるのは、ただいまのファン・ヒューリック氏の質問に見られるような短絡的な選択が、歴史の流れを見誤るおそれを有することである。目先の利害にこだわって大局を見失ってはいかん。それにしても藩王の処置もいささか解せんな。合格点とはいえない」  ドクター・リーは尊大に採点してみせた。 「私だったら、|A《アリアバート》と|J《ジュスラン》と、両者の公的権利を同時に奪《と》りあげることはしない。一方だけの権利を奪りあげ、もう一方はことさら優遇する。理由はわかると思うが………」  三流大学の一流教授という態で、ドクター・リーが視線を動かすと、サラーム・アムゼカールが答えた。 「両者の分裂を策する、そうだろう?」 「そうだ。AとJ、この両者が結束しているかぎり、その勢力は弱体化しない。軍事と政治、じつによく互いの長を活《い》かし、短を補っている。これほどみごとなコンビが出現するとは、一年前には想像もできなかった」  一同がうなずいたり顔を見あわせたりするのを眺めやって、ドクター・リーは付け加えた。 「たとえ敵手であっても客観的に評価するのが学問的良心というものだ」  不必要なときに不必要な発言を好んでするものだから、ドクター・リーは不必要に敵をつくるのであった。セラフィン・クーパースが何気なくコーヒーポットを手にして立ちあがり、むくれた表情の「生徒」たちにコーヒーを注いでまわった。ルイ・エドモン・パジェスがカップを片手に質問する。 「で、客観的評価とやらによれば、今回の件は誰の策動によるものなんです?」 「誰かは知らない。もっともらしく運命とか歴史とかいう仮名を使用しているかもしれない。要するにその人物はタイタニアだけを巨大な舞台の主役として劇を上演するつもりだろう。他者はことごとく傍役《わきやく》ないし敵役《かたきやく》ということになる」 「おれたちを主人公にした反体制革命劇にはならないんですかね」  ミハエル・ワレンコフが〇・一トンの巨体で椅子をきしませた。鷹揚《おうよう》にドクター・リーが答える。 「それは将来の新作に待つ必要があるだろうな。さしあたり流星旗軍が舞台に上るかもしれん。出演料をもらってどちらかの陣営につくというわけだ」  アムゼカールが黒々とした眉をしかめた。 「流星旗軍には矜持《きょうじ》があるはずだ。易々としてそんな話に乗るだろうか」 「体裁《ていさい》をつくろうだけのものだ。欲望の前にどれだけ保《も》つことやら」  容赦なくドクター・リーはかつての同志たちを毒舌の刃で斬りすてた。 「ま、彼らの場合はしかたない。学問に志《こころざし》を持たぬ者は、つねに理想より実益を重んじて、べつに心の負担もないものだ。顧《かえり》みて、吾々の理想と現実との関係を直視すれば、これがじつはなかなか重大な局面にある」  おれたちの理想って何だったっけ、という懐疑の視線がドクター・リーに集中した。むろん一顧だにされなかった。 「吾々にも、分裂したタイタニアの両派から誘いがかかる可能性がある。しかもきわめて大きい。そのときどう選択するかだが……」  壁面のランプが急点滅して来客を告げた。教授になりそこねた黒髪の無頼漢は、不機嫌になりかけた表情を変え、パジェスに来客が何者かを調べさせた。エルマン・タイタニア伯爵である、との返答を受けて、彼は思いきり人の悪い笑顔をつくった。誰を落第させてやろうか、と考えている教師の表情に、同志たちには見えた。        U   「これはこれは、エルマン・タイタニア伯爵閣下、このようなむさくるしい場所にわざわざのお出まし、恐縮に存じます」  鄭重《ていちょう》にドクター・リーはタイタニアからの客人を迎えた。昨年、誘拐未遂をおこして以来、この両者が両陣営をつなぐパイプ役を勤めている。ただ、エルマン伯の地位は藩王アジュマーンによって公認されてはいるが、ドクター・リーのほうは反タイタニア陣営の総意を受けているわけではない。彼はサロンに伯爵を招きいれ、女性陣に注文した。 「伯爵閣下にお茶を差しあげてくれ。一番|高価《たか》いやつだぞ」  台詞《せりふ》の後半が、ファン・ヒューリック一党の財政状態を雄弁に証明している。お茶の質を価格で判断するなど下品なことだ、と、エルマン伯は思ったに相違ないが、表情にも口にも出さぬのが上流人の嗜《たしな》みというものであった。出された紅茶にエルマン伯は形だけ口をつけ、安物の白い磁器を受皿にもどすと、慎重に口を開いた。 「この数日、君たちにとっても私にとっても驚きを味わうことが多かったようだな」 「質量ともにね」  ドクター・リーが答えると伯爵は呟《つぶや》いた。 「残念なことだ。アリアバート卿もジュスラン卿も、タイタニア次期藩王の座を自ら遠ざけてしまった」 「イドリス卿は?」 「イドリス卿には人望がない。本来、無能とは思えぬが、現在のところ狭量ばかりが目につく」 「確かに藩王の威権を背景にしないかぎり、イドリス卿ひとりでA、Jの両者を相手どるのはきわめて困難ですな」  エルマン伯は直接、返答しなかった。ドクター・リーの意見に不賛成だったのではなく、AだのJだのという下品な略称が気に入らなかったからである。何といっても彼はタイタニア貴族であった。 「いずれイドリス卿は藩王殿下の後継者として公認されることを希《のぞ》むだろうが……」 「あなた御自身にその野心はおありではないのですか、伯爵」 「とほうもないことだ」  疲労の波動と見えたものは、かろうじてつくった伯爵の微笑だった。 「私は自分の器量を知っているつもりだ。運が良ければ私は|天の城《ウラニボルグ》の、つまり藩王府の執事長ぐらいは勤まるだろう。栄爵《えいしゃく》という面からいえば、ヴァルダナ帝国の宰相かな。だがそれが限度だ。タイタニア無地藩王《ラントレス・クランナー》の座は私ごときには重すぎる」 「重荷を背負って狂うという例も歴史上にはありますな」  ドクター・リーは楽しそうであった。エルマン伯を虐《いじ》めて楽しんでいるわけではなく、理論と事実との交流を学者らしく楽しんでいるのだが、周囲の人間からはそう見えないのが当人の不徳というものであろう。 「アジュマーン殿下はお勁《つよ》い」  それがエルマン伯の返答であった。言語の水面下に隠された意味は、深くかつ大きい。ドクター・リーは微かに両眼を細めてタイタニア貴族の表情を観察した。やがて口にしたのは、観察の成果ではなく、別の件についてである。 「さて、もうそろそろよろしいでしょう、伯爵。高貴なる御身をかくのごとき陋屋《ろうおく》にお運びいただいた、その御用件をうかがいましょうか」 「私はこのたび|天の城《ウラニボルグ》への帰還を果たすことになった」 「それはおめでたい、と申しあげてよろしいのでしょうな」 「それに関してだが」  伯爵は声だけでなく姿勢をもととのえた。 「君たち流星旗軍異端派グループを、|天の城《ウラニボルグ》に迎えたい。過去の経緯《けいい》はすべて水に流し、軍事技術の専門家として招きたいのだ。充分に報酬は約束する」  予期していたはずなのだが、それを超えて驚愕《きょうがく》が音もなく拡がっていった。予見を的中させたドクター・リーは、そのこと自体は別に誇ろうとはしなかった。 「伯爵はアリアバート公の顧問でいらしたはず。その点について心の整理はできでおいでなのですか」 「論じるようなことではない。私の忠誠はつねに|天の城《ウラニボルグ》の藩王殿下にある」 「吾々の身の安全のほうはいかがです? 天の城へ赴いたはいいが、到着したとたんに捕縛されて拷問死だの処刑だのということになっては、悲惨と滑稽のきわみですからな」 「私もタイタニアだ。卑劣な行動はけっしてしない。名誉にかけて明言する」 「テリーザ・タイタニア公爵夫人も、あなたがたの重要な一族ですが、彼女を説得できますか」  ドクター・リーの静かな質問がエルマン伯を絶句させた。 「彼女の言動は感情に支配されている。吾々は彼女の息子をふたりも殺した犯人です。憎悪されるのは当然ですが、実害を加えられるのは困ります」  ドクター・リーの主張は勝手きわまるが同時に正しいものであった。ミランダもマフディーも同意の象《しるし》として大きくうなずいてみせる。彼らは「|天の城《ウラニボルグ》」へ赴くことを是認したわけではないが、交渉の場において条件闘争をおこなうのは当然であった。言下に拒絶するという方法で、自分たちの選択肢を減らすわけにはいかない彼らなのだった。ことにマフディーの場合、タイタニアに対して金銭上の恨みがある。決裂するにしてもその前に相当額をふんだくってやれ、というのが本心であろう。さらにドクター・リーは重要な質問をつづけた。 「何よりも藩王アジュマーン殿下の真意は?」 「わからぬ」  明快な返答は、同時に苦渋に満ちている。伯爵は大きく呼気を吐き出し、白絹のハンカチを取り出して額《ひたい》と頸《くび》の汗をぬぐった。 「私にわからぬというだけではない、藩王殿下の御意は他の誰にもわからぬのだ。じつに端倪《たんげい》すべからざる御方で、凡人の洞察など無力というしかない」 「その点は同感です」  しかつめらしく、ドクター・リーは学術的同意を示した。 「すさまじい意志のエネルギーは感じますが、その方向性がなかなか読めない。単純に権力の維持を目的としているわけでもないようだし、破滅志向のニヒリストとも思えない。学術的興味をそそってやまない人物です」 「何よりも私にとっては主君だ。で、私の申し出は受けてもらえるのかな」 「私個人は引き受けてもよろしい。学者は最高の教材の側にいるべきですからな。アジュマーン・タイタニアの精神世界を生体解剖することができればありがたい」 「ドクター、私はそう狭量な人間ではないつもりだが、藩王殿下に対して必要以上に不敬な発言は控えていただけまいか」  エルマン伯が感情を抑制していると明らかにわかる口調で希《のぞ》んだ。 「失礼しました。以後つつしみます」  ドクター・リーの素直な反応は戦術的後退と称すべきものであった。ついで明確な返答を求められて彼は考えこんでみせた。 「あまりに重大事で、即答しかねますな。時間をいただきたい」  もったいぶったあげく、それがドクター・リーの返答であった。        V    エルマン・タイタニア伯爵が辞去すると、無頼漢どもの隠れ家はたちまち騒々しい議論の場に帰った。当時この家は「緑風荘《グリーン・ウインド》」という美しすぎる呼称を有していたが、その名残《なご》りは壁の一部に染《し》みこんだ緑の塗料だけであった。その壁に、言論の自由を謳歌《おうか》する無頼漢どもの話声が乱反射する。  エルマン伯の提案は彼個人から出たものということだが、藩王が裁可を下せば正式のものとなる。これまでタイタニアの公敵として排され追われてきた無頼漢たちが、一転して宇宙最大の権勢を味方にすることになるのだ。マフディーの表現では「えらく景気のいい話」ということになるのだが、「問題外」として一蹴《いっしゅう》しようとしたのはセラフィンだった。 「どんな好条件だろうと話にならないわ。だってタイタニアはわたしたちの敵じゃないの!?」 「どちらのタイタニアが?」  皮肉は声や言葉よりも事実そのものに含まれていた。絶句したセラフィンを眺めやって、ドクター・リーは咳《せき》ばらいし、講義を再開した。 「具体的な例が目の前に出てきたので、話がわかりやすくなったと思うが、このような事態は今後、全宇宙規模で幾らでも起こりうる。愉快ではない話だが、現代という時代そのものがタイタニアによって主導されているという事実は否定できない」  ひと息いれて水を飲むあたりが教授風ということになるのだろうか。 「奇妙なパラドックスだが、藩王派と反藩王派、いちおうそう呼ぶが、両派に分裂したことによって、タイタニアの影響力はかえって総体的に増大するわけだ」  大きな声が応じた。 「だったら手を出すことはない。両派をとことん争わせて、わたしたちは高処《たかみ》の見物としゃれこめばいいさ。うまくいけば、双方が疲れはてたところで漁夫の利ということだってあるじゃないか。好きなやりかたじゃないけどね」  ミランダがそう提案したのだった。夫の声帯を破壊したタイタニアに対し、彼女の憤りは深いが、現実的な戦略感覚が具《そな》わっており、暴走はしないのである。 「双方から条件を出させることさ。求められる立場なら、幾らでも報酬を吊《つ》りあげることができる。この際だ、せいぜい良い値を出させてやろうぜ」  そういうマフディーの声には興奮が滲《にじ》んでいる。彼のタイタニアに対する怨《うら》みは、巨額の金銭によって清算される類のものである。彼を横目に疑問を提出したのはアムゼカールだった。 「エルマン伯はなぜ吾々に甘い餌を撒《ま》いていったのだ。掌《てのひら》を返すというのはよくあることだが、ちと極端な気がする」 「それは、藩王派が実戦で勝算が薄いと見たからさ。何とかアリアバート卿に対抗できる人材がほしい。となると、過去の経緯《いきさつ》は置いて、ファン・ヒューリック以外にいないからね」  背に腹は代えられず。それがミランダの見解だった。彼女はファン・ヒューリックの戦術立案指揮能力を高く評価しているのだ。それはアムゼカールも同様だったが、彼はやや異なる見解を示した。 「だが逆の見かたもできるだろう。吾々が藩王軍の中核に位置したりすれば、タイタニア譜代《ふだい》の連中にとって愉快であろうはずがない。吾々を排斥するとか戦意を失うとかならまだしも、戦場の反藩王派に寝返りをうつ可能性すらあるぞ」 「それがエルマン伯の狙いだっていうのかい。ちょっと考えすぎのような気がするけどね」  ミランダは小首をかしげ、夫であるカジミール船長も思慮深そうに小さくうなずいた。 「どうだろうね、ドクター」  問いかけられてドクター・リーが話を引きとる。 「そもそもエルマン伯がなぜここまでやって来たか。やって来られたか。それを考えてみる必要がありそうだな」 「接触のためのチャンネルは維持してたんだろう、ずっと」 「こちらの条件ではなく、先方の条件だ。本来ならエルマン伯はアリアバート卿らによって軟禁されていたとしても不思議はない。それが自由に動きまわっているのには理由があるはずだ」  無頼漢たちは落ち着かぬ気分を味わった。思いついたのは、タイタニアによる奇襲の可能性である。彼らがこの家にひしめいていることをエルマン伯が確認した上で、武装した兵士が包囲し、乱入してくるのではないか。そう危惧したのだが、その可能性をドクター・リーは否定した。そういう水準《レベル》の話ではない、というのである。 「エルマン伯の行動を、おそらく両公爵は承知しているはずだ。あまりに不確定要素が多いから、適当に泳がせて反応を見ているというところかな。必要があればエルマン伯ごと吾々を宇宙の塵にしてもいいわけだ」 「それならいっそアリアバート卿たちに味方したらどうだ。交渉してみる価値はあるぜ。エルマン伯が今度のこのこやってきたら、とっつかまえてアリアバート卿に突き出せば、いい手土産《てみやげ》になる」  マフディーが提案し、ミランダに白眼を向けられた。 「よくそう軽く掌《てのひら》が返るね。タイタニアにいたころ、しこまれたのかい」 「虚名の正義なんてむだなものにこだわらないだけさ。だいたいおれはタイタニアのやりようの一部が嫌いなだけで、タイタニアそのものを憎んでいるわけではないからな」 「弁解する必要はないさ。あんたの良心はタイタニア系の銀行の預金口座にあずけられているってこと、皆が承知しているからね」 「ああ、一日ごとに利息がついてな、おかげで現在《いま》ではおれは聖アランと呼ばれてもいいほどの善人になってるはずだぜ」 「へえ、そうかい、それじゃ悪い魂の部分をひねり潰《つぶ》せば、後には天使の部分が残るわけだね」 「な、何だ、やる気か」  うなり声をあげて、マフディーはすばやくワレンコフの巨体の背後に隠れた。ミランダが不敵な笑みを浮かべて一歩進み出る。このときドクター・リーがマフディーの窮地を救った。「暴れたい人は廊下に立ってなさい」とはいわなかったが、「まあまあ、ミランダ」と、まるで平和主義者のような態度で公女殿下を制する。 「ここで仲間どおし争っても意味はない。いわば吾々はカードのジョーカーなんだ。誰が入手したところで持て余すだけということもある。待遇が問題だ」  そっけなくファン・ヒューリックが応じる。 「おれだったらジョーカーを焼き捨てるね。そのほうが面倒がなくていい。なまじ持っていると、いつ奪われるか不安だし、それを使われて負けでもしたら悔いてもおよばないからな」 「誰もそのことに気づかないでほしいものだ」  ドクター・リーが、自身の採点ミスを発見した教授のような表情をつくった。ここでサラーム・アムゼカールが発言を求めた。べつに挙手まではしなかったが、暗黙の諒解なるものにより、ドクター・リーに対して研究発表をおこなう印象になってしまう。  アムゼカールの意見は次のようなものであった。そもそも、すべてはタイタニアが一族をあげて上演する一大演劇《おおしばい》なのではないか。アリアバート卿が海中での戦いで敗北したため、タイタニアの藩王はアジュマーン純軍事的にファン・ヒューリック一党を屈伏せしめることを断念した。そこで一族の分裂をよそおい、ファン・ヒューリック一党を傭兵として呼び寄せ、「天の城」内部に誘いこんで鏖殺《おうさつ》する、という奸計《かんけい》を樹《た》てたのではないか。 「エルマン伯は貴族としての名誉がどうとかこうとかいっていたが、タイタニアの歴史は権変《けんべん》の連続だ。他人が口をそろえて非難しても、タイタニアは痛痒《つうよう》など感じはしない。エルマン伯ひとりが汚名を被《かぶ》ればそれですんでしまう。どうだ、この考えは?」 「確かにタイタニアならやりかねないね……」  ミランダが太い引きしまった腕を組んで考えこんだ。何かというとミランダに反論するマフディーも居心地悪げに身じろぎしたのは、無視できぬ説得力をアムゼカールの発言に感じたからであろう。  さらに危険な可能性をパジェスが口にした。 「天の城」では故ザーリッシュ卿の母親テリーザ夫人をもてあましている、と聞く。息子たちの仇を討たせて彼女を満足させ、公爵位の要求を取りさげさせる、という一石二鳥の策が樹《た》てられているかもしれない、というのだった。  それには答えず、ドクター・リーが別の生徒に声をかけた。 「で、どうするかね、ミスター・ヒューリック」 「このまま手を束《つか》ねてタイタニアどうしの戦いを傍観しているのでは消極的すぎるな」 「では|天の城《ウラニボルグ》へ赴くか?」 「その前に、この惑星をどうやって出るかだろう」 「そいつは心配ない。エルマン伯がつれ出してくれるさ。そこまでは彼の計画の裡にあるだろう」  この際それは事務当局の仕事であって学者の任ではない。ドクター・リーはそう語った――ように生徒一同には感じられた。 「たとえそう決めたとしても、バルガシュ政府の態度はどうなんです? おれたちが彼らと異なる選択をすれば、当然、妨害してくるでしょう」  ワレンコフの声にマフディーの声が答える。 「あんな奴らにとやかくいう権利があるものか。必要経費すらろくに出さないくせして」  確かにそのとおりで、現在の苦しい財政状態では、会計担当のマフディーが私腹《しふく》を肥やそうとしても不可能なのであった。 「バルガシュのほうはまだ気にしなくていい。肝腎《かんじん》のタイタニアのほうに、色々と気になることが確かに多すぎるな」 「たとえば、ドクター?」 「たとえば、今回のタイタニア一族の内部対立と分裂、いささか図式が明快すぎるような気がする。悪の本拠地である|天の城《ウラニボルグ》、そこを追われた悲運の両公爵。善と悪だ。すこしばかりドラマチックに過ぎる光景だな」 「たしかにな」  アリアバートとジュスランの顔を、ファン・ヒューリックは脳裏に浮かべた。「一般受けする顔だったな」と、多少の劣等感とともに思う。 「するとイドリス卿は、イメージとしては悪の手先ということになるな」 「ご本人は無邪気に胸を弾《はず》ませているかもしれない。次期藩王位が手のとどくところに来た、と」  実際、アリアバートとジュスランとの両公爵が健在であるかぎり、イドリスはどこまでも次期藩王の第三候補者でしかない。その両公爵が同時に追放されたのだから、野心の炎が音をたてて燃えあがるのは当然であった。だが、炎が最後まで消えずにいられるかどうか。  そもそも「イドリス卿に叛意あり」という悪質な噂を辺境星域にばらまいたのは、ドクター・リーの犯行であった。それを収集して「|天の城《ウラニボルグ》」に報告したのがバルアミーであったのだ。それは中途半端な形で結着したかに見えるが、アリアバートとジュスランは当然ながらその噂を政戦両略に利用するだろう。  エルマン伯から再度の連絡があるまでに、いちおう全員が出立の用意をしておくように。そういってひとまずドクター・リーは、生徒一同を解散させた。        W    ドクター・リーとファン・ヒューリックは二階のベランダで湿度の高い海風を受けながらブレーン・ストーミングをつづけていた。アイスティーを運んできたセラフィンが、微かに傾斜したテーブルの表面にグラスを置き、ややためらいつつ声をかける。 「ほんとうに天の城に行く気なの、ファン?」 「そうだなあ。本来なら天の城なんぞ一生行けないはずなんだ。観光のつもりで行くという選択もあるにはある」 「殺されるとは思わないの?」 「むずかしいところだな。もし殺されたら、愚者の最たるものとして後世に名が残るだろう。アムゼカール提督やパジェスの意見が的中しているかもしれん」  あるいはさらに辛辣《しんらつ》な罠《わな》が待ちかまえているかもしれない。復讐に狂ったテリーザ夫人が私兵を率《ひき》いて無頼漢たちを襲撃し、激烈な戦闘の末に双方とも全滅する。すべては私闘として処理され、タイタニアは内と外と双方の憂患《ゆうかん》を一挙にかたづけてしまう。まったく、タイタニアなら、そのていどのことは実行しても不思議ではない。 「イドリス卿の心理状態がひとつの鍵だな」  ドクター・リーが指摘した。艦隊どうしの正面決戦によってアリアバートに勝つ自信があるなら、イドリスはファン・ヒューリックを必要としない。即座に捕えて処断するであろう。またイドリスに勝利の自信がないのであれば、一時的に矜持を眠らせてファン・ヒューリックに指揮権を委ね、アリアバートと戦わせることに賛成するだろう。 「ファン・ヒューリックに指揮権を与えて裏切られたらどうするつもりなのかしら」  セラフィンが疑問を呈《てい》したが、ドクター・リーは軽く片手を振って否定してみせた。 「その心配は、まったくない。ファン・ヒューリックがいきなり矛《ほこ》を逆しまにしたところで、タイタニアの将兵は従いはしない。彼らは藩王アジュマーンの権威に服属しているのだからな」  ファン・ヒューリック当人には何の権威もない。軍事技術者としての能力があるだけで、その指導性は一〇〇パーセント藩王の権威に依《よ》る。だからこそ藩王アジュマーンとしては、ファン・ヒューリックを傭兵隊長として兵力を与えた場合でも安心していられるわけであった。  ドクター・リーの説明に対し、セラフィンは再度、異論を立てた。 「そりゃタイタニアの将兵がファンに従うはずはないわよ。でも戦う相手が、アリアバートとジュスランの両公爵なのよ。最初から戦いづらいところへ、仮にファンが両公爵のために戦えと煽動《せんどう》したら、将兵は動揺するかもしれないわ」 「ふむ、そいつは考えつかなかった」  さすがのドクター・リーも、やや意表を突かれた態《てい》で考えこんだ。やがて、できのよい生徒を賞するようにうなずいてみせる。 「まったく理論的可能性というものは無数に存在するものだな。セラの考えはなかなかおもしろい。それで、その場合ファン・ヒューリックの動機は何かね」 「動機?」 「ファン・ヒューリックがそのような煽動をおこなう動機だよ。両公爵を勝たせて、ヒューリックにどんな利益があるというんだ?」 「藩王アジュマーンの独裁的支配体制が崩壊するじゃないの」 「そして両公爵が新体制を築く。生まれ変わった清新なタイタニアが、旧《ふる》いタイタニアに替わって宇宙を支配する。いやはや……」  ドクター・リーはわざとらしく両腕を拡げてみせた。ヒューリックも肩をすくめた。 「タイタニアは永遠なり、だ。実際こいつは冗談《ジョーク》ではすまないぞ、ドクター」  ただの権力闘争だとは、むろん自分も思わない、と、ドクター・リーは応じた。 「しかも藩王の椅子はただひとつ。両公爵の友好関係が永続するとは断言できない。とすれば、いずれふたたびタイタニアは唯一の座をめぐって争うことになるのだろうか」  ドクター・リーとファン・ヒューリックは視線をあわせた。たがいの目に、明快な結論は浮かび出ていなかった。    このころ「|天の城《ウラニボルグ》」においてはイドリス卿が絶対的な支配権を確立したかに見える。  何よりも藩王アジュマーンは暗殺未遂事件以来、人前にまったく姿を見せていないのだ。「藩王殿下の御意」を外部に伝えるのはイドリス公のみであった。医師八名、看護婦一五名、看護士六名、薬剤士二名から成る医療チームは藩王の居住区に宿泊し、藩王の妻子も邸内に籠《こ》もって人前に現れぬ。五家族代表会議の席は四つまで空《あ》いて、イドリスがただひとり坐すというありさまであった。その席で過ごす時間、彼が何を思い何を考えているか、他人にはうかがい知ることができなかった。  イドリスは対外的にはほとんど藩王そのものとなっていた。藩王アジュマーンの権威を背景としているとはいえ、「|天の城《ウラニボルグ》」の巨大な機構と膨大な人員とを管理して、その実務処理能力は現在のところ破綻《はたん》を見せず、その点に関しては意外に高い評価を得ていた。そのため、「ほんとうに藩王殿下はご健在なのか、イドリス卿がかって[#「かって」に傍点]に殿下の御命令をでっちあげているのではないか」という声と、「イドリス卿は藩王の傀儡《かいらい》にすぎない、すべては藩王のご指示によるもので、それこそ藩王ご健在の証だ」という声とが相半ばした。いずれにしても小さな声ではあったが。  そのイドリスが全宇宙に向けてひとつの放送をおこなったのは、この年五月一日のことである。グレーの軍服をまとったイドリスは、若々しい頬をやや紅潮させながらも落ち着いた態度で藩王名による宣告書を読みあげたのであった。 「惑星バルガシュに在《あ》るアリアバート、ジュスランの両名に告げる。両名はすでにしてタイタニアの家名、爵位、その他あらゆる位階と公職を剥奪《はくだつ》された。公民権のすべてを失った。現在、両名が惑星バルガシュにおいてタイタニアの一族と称し、兵権を専断するは、不当にして不法なる行為であって、藩王アジュマーン殿下およびヴァルダナ皇帝ハルシャ六世陛下の断じてお赦しなきところである。両名はただちに自らの身をタイタニア正規軍に引き渡し、|天の城《ウラニボルグ》に出頭して藩王殿下ご自身による裁判を受けよ。判決が下り罪状が確定するまで両名の安全は保証する。出頭の期限は五月二〇日正午とする。期限までに出頭せざるときは両名に叛逆罪を宣告し、あらゆる手段をもって両名の罪に相応する罰を与えるであろう。両名に良心と勇気あらば、ただちに出頭せよ」  宣告はさらにつづき、アリアバートとジュスランとに加担する者は国家と団体と個人とを問わずタイタニアに敵対する者とみなす、との威迫で終わっていた。バルガシュに在ってその宣告を聞いたとき、ふたりの公爵は自分たち自身の宣言をすでに用意していた。 「君側《くんそく》の奸《かん》を討つ」  それが両公爵の宣言であった。君側の奸とはイドリス・タイタニア公爵を指《さ》している。アリアバートとジュスランは、自分たち自身の心理的安定のためにも、タイタニア軍将兵の精神衛生のためにも、軍事的行動の標的《ターゲット》をイドリスひとりに絞《しぼ》りこんだのであった。両公爵の宣言によれば、イドリスはアリアバートの不在に乗じて「天の城」の全権を掌握しようと図《はか》り、藩王アジュマーンの暗殺を企《たくら》んで未遂に終わると、罪をジュスランになすりつけた。そして負傷した藩王を監禁し、その権威をほしいままに用いて専横のかぎりをつくし、ついには血族を鏖殺して悪虐無類の専制者たらんとしている。断じてこれを討ち、タイタニアの名誉を回復せざるべからず、というのであった。 「イドリスがさぞ怒るだろうな。これだけ悪役にしたてあげられたのでは」  アリアバートが苦笑したほどの好戦的な内容であった。 「彼は彼で、吾々を悪役にしたてようと懸命さ。あさましいが、これが戦争というものだ。悪を撃つという名分がなくては、人は殺しあえぬ」 「悪と善の戦いか」 「いや、悪と悪だな、多分」  ほろにがく笑って、ジュスランは宣言書を手にした。 「せめては、よりすくない悪でありたいものだが、さて、どんなことになるか……」 [#改ページ]        第九章 権力の城塞            T    アラン・マフディーのような鼠賊《そぞく》の名など知るはずもなかったが、同じ内容の質問を自らに発している青年がいる。 「なぜこのようなことになったのだ?」  青年の名はイドリス・タイタニア公爵。二五歳にして「|天の城《ウラニボルグ》」の主権者代理。対等の競争者たちがあいついで失墜ないし離脱し、唯一の上位者は入院加療中である。労せずして一身に権力を集中せしめた巨大な幸運の所有者であるはずだった。  だがイドリスは彼に悪感情をいだく者たちが謗《そし》るほど、現状に満足しているわけではなかった。彼は薄氷上の王者なのだ。藩王が寝台から起きあがって一喝すれば、彼は低頭して権力執行者の座を明け渡さねばならない。あるいはアリアバートとジュスランとの叛逆者連合が軍事的勝利を得れば、イドリスは権力のみならず生命を失う破目《はめ》になりかねぬ。イドリスは「|天の城《ウラニボルグ》」内にいるタイタニア幹部を呼集し、全員に忠誠を誓約させた。さらに宇宙の各処に配置された幹部に対しても、斉《ひと》しく誓約書の提出を命じた。 「タイタニアの藩王殿下と、その代理者たるイドリス公爵閣下に全面的な忠誠を誓います」  彼らはうやうやしく口ではそういう。文書にはそう記す。だがタイタニアの支配が弛《ゆる》み、不実に対する報復の物理力が衰えたとき、彼らは冷笑とともに掌《てのひら》を返すこと疑いなかった。そもそもそのように儀礼的な忠誠を嘲弄し、力こそ支配の理と嘯《うそぶ》いてきたのが今日までのタイタニアであったのだ。被支配者の忠誠などあてにせず、自らの覇権を力によってのみ維持するというのがタイタニアの矜持であった。他者の力に依存するタイタニアなど、一ミリグラムの存在意義も有しはしないのである。イドリスとしても、「他者の力を借りた最初のタイタニア」などになりたくなかった。ましてこれはタイタニア内部の戦いである。どうしてもアリアバートやジュスランの反応を意識せざるをえなかった。  イドリスはタイタニア全軍に「天の城」への集結を命じた。またヴァルダナ帝国軍務大臣の地位を利用し、その国軍も召集した。どうせ大事に用いることはできぬが、数だけでもそろえておけば、後方警備や補給ていどの役には立つであろう。遊ばせておくような余裕はない。 「アリアバートごときに負けるものか。二度も流賊に敗れた男ではないか。堂々と正面から撃砕してくれる」  それだけの自負と覇気とが彼にはあったが、問題は彼以外の万人が彼と信念を同じくしてくれぬことであった。「イドリス卿がアリアバート卿に勝てるとは思えぬ」という囁《ささや》きが聴《きこ》える。聴えるような気がイドリスにはするのだった。あるいはそれこそがイドリスの真の敵であると表現しえるかもしれぬ。他者に対する過度の競争意識が、あるときは相手を過小評価し、事態を客観的に把握することを妨《さまた》げる。観察や分析よりも主観と感情とが先行してしまうのであった。  ジュスランが搭乗した戦艦「|朝焼けの女神《アウストラ》」が「|天の城《ウラニボルグ》」を進発した直後に何ごとが生じたか、イドリスの記憶はやや混乱している。場面ごとの印象は鮮明であるのだが、その順列が不完全なのだ。透過壁ごしに、ジュスランの小艦隊が光点の列をつらねて遠ざかる、その光景を眺めつつ「帰って来なければよいものを」と思っていたイドリスの耳に、けたたましく女の絶叫が突きささったのであった。 「藩王殿下が撃たれたわ! 犯人をつかまえなさい! 犯人はきっとジュスランよ!」  イドリスは反射的に行動した。透過壁から向きなおったときには、すでに腰の荷電粒子銃を右手に抜き持っていた。グレーの軍服をまとった多くの人影が無彩色の波となって揺れ動き、怒号と悲鳴が鼓膜に乱反射して、何ごとが生じたのかとっさに感覚だけでは判断もつかぬ。彼に事情を告げた絶叫は、テリーザ・タイタニア公爵夫人のものだった。なおも大音量で叫びつづける夫人の姿は、孤独なオペラ歌手のようであった。その傍の床上に倒れているのは藩王アジュマーンであった。そして銃口を藩王に向けたまま、不自然な姿勢で駆け去ろうとする男の姿。やはりグレーの軍服をまとっている……。  衛兵たちは発砲を躊躇《ちゅうちょ》していた。なまじ発砲すればタイタニアの貴人たちを傷つけるかもしれぬ。彼らの反応を見て、イドリスは罵倒した。 「役たたずどもめ! きさまらはできそこないの彫刻か!」  イドリスが水準以上に勇敢で有能であるのに、兵士たちの人望が薄いのは、このような言動に一因があるであろう。身分の低い者たちにも感情や自尊心があるのだという、もっとも基本的な対人認識が、しばしば欠落するのだ。「貴人は恩を知らず」とは古代からよくいわれる箴言《しんげん》だが、他人が自分に服従し奉仕するのが当然だと思っているから、相手を傷つけたり裏切ったりしても平然としていられるのだった。だがイドリス自身はこのとき他の誰よりも果敢に行動した。単身、逃げる狙撃犯を追って走った。前方からも幾人かの衛兵が駆け寄り、狙撃犯めがけてライフルの銃身を撃ちおろす。生かしたままの逮捕を狙ったのだが、かえって狙撃犯の乱射を受け、二名が床に横転した。そこヘイドリスが追いつき、降伏を呼びかけた。狙撃犯の銃口がイドリスの胸の中央に狙点《そてん》を定めかける。半瞬早くイドリスは引金《トリガー》を絞り、狙撃犯の顔面、右眼の直下をビームでつらぬいた。ビームは狙撃犯の後頭部に直径一センチの射出孔をつくり、血が宙に細い橋をかけた。 「死ね、死ね、死ね!」  連呼と連射が、くずれ落ちた狙撃犯の身体を躍り狂わせた。ビームが命中するたびに、筋肉や腱《けん》が刺激に反射して、狙撃犯は跳《は》ねまわる。軍服の服地が裂け、皮膚が弾《はじ》け、飛散する血が床に幾何的な紋様を描いた。 「閣下、テロリストはもう死んでおります。それよりも藩王殿下の御身を!」  黒い口髭をはやした中年の士官に後方から抱きとめられて、イドリスはようやく冷静さを回復した。銃を放り出し、医師を呼ぶよう命じて藩王に駆け寄る。床に仰臥《ぎょうが》した藩王アジュマーンは、肉の厚い大きな掌《てのひら》を右の腹部に押しあてていたが、意識を失ってはいなかった。両眼は炯々《けいけい》として遥かに高いドーム状の天井を睨みあげている。 「藩王殿下、お気をたしかに!」 「……イドリス卿か、犯人はどうした?」 「ご心配なく。私が射殺いたしました」 「殺したのか」 「当然の報いであります」 「なるほど、確かにそうだ。だが死者に口は利《き》けぬぞ」  傷の苦痛すら、藩王の口調から皮肉な響きを消し去ることはできなかった。藩王の短い言葉に愕然として、イドリスは自分が射殺した男の倒れた方向を見やった。医師が駆けつけ、看護婦や衛生兵が群らがり寄る。  彼らに藩王の身を委《ゆだ》ねて、イドリスは狙撃者に歩み寄った。兵士たちが道を開く。まだ若い狙撃者の、半ば血に濡れた顔を見おろすと、イドリス卿は怒りと憎悪をこめて蹴りつけた。鈍い音がイドリスの記憶を呼びもどす。テリーザ夫人が叫んだ言葉だ。将兵の群を睨みわたして、彼はどなった。 「ジュスラン卿を行かせるな! 奴に事情を聞かねばならん。つれもどせ!」  このときイドリスはむろん純粋に司法捜査上の必要だけで命令を発したわけではない。この期におよんでジュスランを「|天の城《ウラニボルグ》」へ召還する、その政治的な意味を彼は充分に承知していた。だが、この場合、誰がイドリスの立場にいても他の命令を出しようがなかったはずである。 「おれが進んでジュスランを陥穽《かんせい》にはめたわけではないぞ。むしろ事を構えたのは奴のほうだ。何も心に疚《やま》しいことがなければ、おとなしく喚問に応じて帰投すべきではないか。そうしなかったというのは、奴が疚しいからだ」  現在でもそう思いつつ、だがジュスランが藩王暗殺未遂の主犯であるとイドリスは確信しているわけではなかった。  解剖された狙撃者の肉体に薬物反応があったという事実は、裏面の陰謀の存在を証明するものであった。もはや確認しようもないが、精神操作がおこなわれていた可能性もきわめて大きい。狙撃犯の身元については、イドリスの指示を受けた憲兵大佐ゴールドウィンによって早急な調査がおこなわれた。狙撃犯の名はE・ホワイト、階級は一等兵、独身でヴァルダナ本星の出身ということから、ヴァルダナ宮廷に対して忠誠心をいだく過激王党派かとの疑いも持たれたが、ごく平凡な家庭環境で、背後の糸はすくなくともヴァルダナ宮廷の方向へはつづいていないようであった。  ただしイドリスはヴァルダナ皇帝ハルシャ六世を圧迫するための武器として、その一項を記憶した。ハルシャ六世に対するイドリスの態度は一貫して非礼で非友好的であったが、このときはさらに甚《はなはだ》しく、事件の真相が解明され、宮廷の関与せざることが証明されるまで皇帝一家が宮廷を離れることを禁じ、監視体制を強化した。 「イドリスめ、イドリスめ」  古典演劇の出演者さながらにハルシャ六世は若い公爵を呪咀《じゅそ》した。呪咀する以外に彼に何ができたであろう。  ところが呪咀のさなか、遠く惑星バルガシュに在るアリアバートとジュスランとが、イドリスの専横を非難し、反イドリス勢力の結集を呼びかける宣言文を発した。そのなかに、「ヴァルダナ宮廷に対して礼節を欠き、臣下としての分を弁《わきま》えぬ」イドリスを批判する一文があった。他力本願のハルシャ六世は大いに溜飲《りゅういん》をさげたのであった。        U    両公爵に「君側の奸」と決めつけられたイドリスのほうは、憤激にのみ身を委《ゆだ》ねてはいられなかった。まず一族内のことから処理しようとしたのは、あるいは彼の発想法の基本を示す行動であったかもしれぬ。彼は故ザーリッシュの母親であるテリーザ夫人を執務室に招いた。事実上の尋問であった。 「公爵夫人、うかがいたいことがあってお招きいたしました。あるいはすでにお察しのことかと存じますが」 「さて、何のことかしら」  夫人の眼球は忙しく移動して落ち着きがない。 「おとぼけなきよう願いたい。先日、公爵夫人はおっしゃった。これはジュスランの仕業だ、と。そうおっしゃったのは、いかなる根拠があってのことなのです?」 「おや、不思議だこと」  テリーザ夫人がわざとらしく咽喉《のど》の厚すぎる肉を慄《ふる》わせた。 「何が不思議だとおっしゃるのです」 「だって、ねえ、イドリス卿がまるでジュスランを弁護しているように聴《きこ》えたものだからね」 「私は公正でありたいだけです、公爵夫人」 「おや、そう、そうなの。さぞ喜ぶと思ったのに」 「藩王殿下のご災難を、なぜ私が喜ばねばならんのです。ごまかさずにお答え下さい。夫人、もしかしてあなたはご自分で刺客《しきゃく》を動かし、藩王殿下を害したてまつり、ジュスラン卿に罪を着せようとしたのではありませんか」  イドリスとしては、夫人にショックを与えて心理的劣位に追いこみ、すべてを告白させるつもりであった。だが劇薬の効果は強すぎた。テリーザ夫人は絶叫を放ってのけぞり、椅子ごと床に倒れた。白眼を剥《む》き、口角に小さな白い泡が群らがっていた。  以後、テリーザ・タイタニア公爵夫人はヒステリーを再発させ、特別病室に閉じこめられた。豪華な調度はすべて角が丸く削られ、壁面には厚く綿が埋めこまれ、豪華としか形容しようのない食事も紙製の食器で供され、兇暴な激情の奔騰《ほんとう》に備えている。女性医師二名と、屈強な看護士六名が彼女の病室に配された。その処置を終えて、イドリスは精神的にひと息ついた。重要なことは聞き出せなかったが、この処置によってテリーザ夫人は禁治産者も同様となり、彼女が五家族代表会議に席を有する、というタイタニア全体にとっての悪夢は、現実化されずにすんだのである。これが結末とすれば、故人となったザーリッシュが憤怒の咆哮を発するにちがいないようなお粗末な結末であった。  ひと息ついたところで、イドリスはいま一件の対女性処分に乗りだした。対象となったのはテオドーラ・タイタニア伯爵夫人で、彼女がテリーザ夫人の政治的野心を煽動した旨《むね》、複数の方向から密《ひそ》かな報告がもたらされたのであった。呼び出されてテオドーラが執務室にはいってきたとき、イドリスは椅子すら勧《すす》めなかった。全身の毒を両眼と舌に集めて彼女に対する。 「逃げずにいたとは感心だな」 「なぜわたしが逃げねばならないのでしょう、イドリス卿、藩王殿下の腹心さま」 「とぼけるな、雌狐《めぎつね》!」  イドリスは罵声をたたきつけた。白刃をたたきつけるように。テオドーラは表面上、平然たる態度を崩さず、ひややかな視線をイドリスに投げつけておいて、デスク前の肘《ひじ》かけ椅子に腰をおろした。「誰が坐っていいといった」とは、さすがにイドリスも口にせず、すぐ検断にはいる。藩王の負傷以前には閨房《けいぼう》で交際した仲だが、偽りの甘ささえ捨て去って、イドリスは審問官の役に徹した。複数の報告書を突きつけ、テオドーラがテリーザのもとを訪れて、五家族代表会議に席を求めるよう教唆煽動《きょうさせんどう》した罪を鳴らす。 「うかがいますが、それが何の罪になるのです?」  テオドーラは薄い笑みさえ浮かべて応《こた》えた。 「どなたかを蹴落とそうというのではありません。空《あ》いた席にひとりの候補者を坐らせようというだけのこと。それがなぜテリーザ夫人であるか、それは政治的な選択というだけで、罪に問われることではないと存じます」 「何をぬけぬけと」  イドリスは歯を軋《きし》らせた。 「お前の政治的選択とやらは、テリーザ夫人に座を与えておいて、それを背後から操《あやつ》り、実権を握ろうというのだろうが。身のほど知らずもいいかげんにするがいい」  イドリスの苛烈な糾弾を受けながら、テオドーラはなお平然として、藩王代理者の視線を正面から弾《はじ》き返した。 「仮にそうだとしても、それはテリーザ夫人とわたしとの問題です。そもそも五公爵の一員ともなれば、スタッフやブレーンがいて当然。わたしがテリーザ夫人の友人としてその役を果たして何が悪いのでしょう」 「友人が聞いてあきれる。一方的に利用し操るのを友情というなどと、どの辞書に書いてあるか」 「友情に関してあなたにお説教されるいわれはありません。友人がひとりもいないあなたなどに!」  テオドーラの目的がイドリスを傷つけることにあったとすれば、彼女の目的は充分に達せられた。蛍光紙の色に化したイドリスの顔色は、二秒弱で旧に復したが、抑圧された激情が声にこもって、衛兵を呼ぶ叫びがヨーデルになりそこねた。命令に応じて入室してきた六名の屈強な兵士たちも、当惑の表情を隠しきれぬ。 「衛兵! この女を自宅において軟禁せよ。外出は禁じ、来客はすべてチェックするのだ。電話や郵便の類も検閲《けんえつ》し、毎日定時に報告せよ」  白い塗料でコーティングされたようなテオドーラの顔を眺めやり、イドリスは吐きすてた。 「雌狐にたぶらかされるなよ。おれが直接命令せぬかぎり、けっしてこの女を軟禁から解いてはならん」 「御意のままに。それで期限はいつまででございますか」 「おれが許可を出すまでだ」  イドリスは左手を下から上へ振って退出を命じた。優雅と称してもよい態度でテオドーラは立ちあがったが、彼女の内心の呟きはイドリスには届かなかった。 「ふん、小心者! 自分に持ちきれぬ権力の重荷をかかえこんで勝手に押しつぶされるがいいのだわ。一〇〇日後の情勢が楽しみだこと……」  衛兵に囲まれてテオドーラが出て行くと、イドリスは閉ざされた扉に向かってもう一度「雌狐め」と呟き、苦々しい気分を声にしてさらに吐き出した。 「まったく、頼りになる味方はひとりもいないではないか。何もかもおれひとりでやらねばならんとは……」  権力の独占は同時に孤立の確認でもあった。五家族によるこれまでの統治体制には一定の長所があったようである。イドリスは断じて認めたくなかった。外征におけるアリアバート、内政におけるジュスラン、両者の指導力が卓越したものであることを。プラス2がゼロを超《こ》してマイナス2に転じた現在、数値の変化はそのまま責任の加重となってイドリスの双肩《そうけん》にのしかかってくる。イドリスはひとりでよく課題を処理してはいたが、それも未だタイタニア両派間に戦端が開かれぬからで、実戦状態に突入すれば、すでに飽和したイドリスの処理能力が破産することは明瞭であった。 「たとえ半日でもここを離れるわけにはいかんな。おれが|天の城《ウラニボルグ》を留守にしている間隙に、藩王殿下を擁《よう》して何者かがクーデターを起こしでもしたらとんでもないことになる」  クーデターを起こすほど力量を有する者は「|天の城《ウラニボルグ》」に存在せぬ。そう思いつつも、不安を一掃することはできなかった。イドリスはヴァルダナ宮廷に軍務大臣として帰任することをやめた。大臣の地位を擲《なげう》ったわけではないが、部下に代行させ、自身は「|天の城《ウラニボルグ》」にとどまったのである。  こうしてヴァルダナ帝国皇帝ハルシャ六世陛下は、思いもかけぬ余慶《よけい》にあずかることになった。イドリスの姿が宮廷から消えたのだ。代行者たる軍務次官もイドリスの部下で、皇帝に離する監視者であるには相違なかったが、イドリスはただハルシャ六世を圧迫するタイタニアの象徴というにとどまらず、個人としてハルシャ六世に憎悪されていたのだから、ハルシャ六世を狂喜させることになったのである。  このように陰々たる例だけでなく、イドリスはさらに公然たる非難を受けていた。 「考えてもみるがいい。藩王の負傷と療養によって何者が利益をえるか。|天の城《ウラニボルグ》において独裁権を握ることが叶《かな》った者は誰か。衆目《しゅうもく》の一致するところ、万人の指《さ》すところ、それはイドリスである。この事件、この破局の首謀者はイドリスであって、他の何者でもない。吾々が求めるのはイドリスから不当な地位と権力とを剥奪することであって、藩王殿下に対し一片の叛意もない。吾々こそ藩王殿下の忠臣であり、イドリスこそが奸臣である。タイタニアたる者は団結して奸臣《かんしん》イドリスを討て」  これがアリアバート、ジュスラン、両公爵の宣言の一部であると知らされたとき、イドリスは怒号した。 「奴らはもう公爵ではない、一介の犯罪人だ! 犯罪人の統帥《とうすい》にタイタニアの正規軍が服従するというのか。奴らは大義というものを知らんのか!」  アリアバートらの指揮下からバルガシュ遠征軍の将兵は離脱する気配がないという。その報がイドリスを動揺させた。マリシャル大佐という士官が発言した。藩王暗殺未遂事件のときイドリスを背後から抱きとめた黒い口髭の中年の士官である。 「公爵閣下、要は藩王アジュマーン殿下がご健在であり、殿下のご信任は全面的に閣下の上にあること、それを万人に納得させればよろしゅうございます」 「具体的にどうしろというのだ?」 「恐懼《きょうく》のきわみではございますが、藩王殿下に通信スクリーンの前にお立ちいただき、ご自身の肉声にてイドリス閣下への信頼を表明していただくのです。さすれば遠征軍の将兵たちも迷いを捨て、|天の城《ウラニボルグ》への忠誠を回復いたしましょう」 「おれの口からいくらいっても、将兵どもは信用せんというわけか」 「閣下、そのような……」 「いや、わかっている。由《よし》ないことをいった、忘れてくれ。大佐の意見は心しておく。これからも気づいたことは遠慮なくいってほしい」  イドリスでも部下の忠言に感謝することがあるのだった。だが藩王を病床から引き出すこともできぬ以上、良策も実用化できぬのであった。  唯一、救いらしいものといえば、藩王アジュマーンの妻子たちがイドリスを掣肘《せいちゅう》しようとしないことであった。ひたすらアジュマーンの看護につとめ、イドリスに接することもすくない。  タイタニアの伝統として、藩王や四公爵の妻子は政権中枢に関与せぬし、関与させぬ。古代の王朝においては、皇后および一族が国権を私物化せぬよう、太子となる男児が誕生すれば母后に自殺を強《し》いる例すらあった。タイタニアはそこまで徹底してはいないが、血統を至高とする支配原理でありながら、あるいはそれゆえに、姻戚《いんせき》の介入を強く排除してきたのであった。  いずれにせよ、イドリスは身辺から彼を補佐してくれる者たちを選び出さなくてはならない。それも早急に。        V    イドリスが弟のラドモーズ男爵をあらためて執務室に呼びつけたのは、五月一〇日のことである。とにかくイドリスにとって用いるべき血縁といえばラドモーズ以外に存在しなかった。末弟のゼルファは長兄を尊敬しているが、この年一三歳であるから、将来はともかく現時点においては腹心と頼むわけにいかぬ。いかに不満があろうと、ラドモーズを引き立てるしかないのであった。かつてイドリスの競争者であったザーリッシュも、弟アルセスの非才に悩まされたものだが、こうなるとアリアバートやジュスランに不肖の弟が存在せぬことすら、イドリスにとっては癪《しゃく》の種となるのであった。奴らも誰かに足を引っぱられればよいものを!  ラドモーズのためにイドリスは一ダースほどの地位を用意したが、過大な実権を握りうるような地位は慎重に取り除いた。重要ではないが形式として必要な儀礼をつかさどる地位を選んだのだ。兄の配慮をラドモーズは看取《かんしゅ》したようであったが、感謝の意は表さなかった。提示されたすべての地位を拒んだ弟に、イドリスは苦々しげな視線を向けた。 「ラドモーズ、お前に権限を与えたところで誰が納得すると思う。第一、若すぎるではないか。せめて二〇歳になるまで身をつつしんで待っていたらどうだ」 「おれは一七歳でヴァルダナ帝国の近衛司令官になった」  その不遜《ふそん》な言種《いいぐさ》がイドリスを噴火させた。 「武勲があってのことか! おれがその地位に就《つ》けてやったのではないか。お前がやったことはといえば、無用な諍《いさか》いを起しておれの顔に泥を塗っただけだ。わかっているのか!」 「兄上はよほどおれに恩を着せたいようだが、兄上のつごうというものはなかったのか」 「つごう?」 「おれは兄上にとって勢力を殖《ふ》やすための道具に過ぎないのだろう。兄上に嫌われているのはわかっている。その嫌いなおれを出世させるのは、兄上がいずれ藩王になるための手段でしかない。兄上の利己主義どおりに事が運ばなかったからといって、そうまでおれが悪くいわれねばならんのか?」  ラドモーズの両眼に怒気の炬火《かがりび》が燃えるのをイドリスは視認した。奇妙な悪寒《おかん》がイドリスの背筋《せすじ》を上下し、彼は弟の長口舌《ちょうこうぜつ》に聞きいる破目《はめ》になった。 「おれは自分なりに兄上のためを思っているつもりだ。いま兄上が藩王に代わって実権を握っていられるのも、もとはといえば……」  ラドモーズは急に口を閉ざした。何者かが見えざる手で彼の口を塞《ふさ》いだようであった。 「どういう意味だ、それは」 「聞かないほうがいいぞ、兄上。聞けば兄上の立場が悪くなる」 「……何だと?」  ふたたび赫《かっ》としてイドリスは弟の顔に視線の矢を突き刺したが、急激に、これまでと異なる不安がせりあがるのを自覚した。こいつは思わせぶりに何をいっているのだ? イドリスはあらためて弟の表情を観察した。ラドモーズの表情は鈍い。ある種の爬虫類《はちゅうるい》を連想させる。だが鈍い表情は甲冑《かっちゅう》となってラドモーズの内心を隠すものでもあった。イドリスが不穏な沈黙に短時間でも耐えられず、ふたたび弟を問いつめたとき、インターコムが低く鳴声をあげた。兄弟のいずれが救われたかは定かではない。藩王の侍医からの連絡で、高貴なる負傷者がイドリス卿を呼んでいるというのであった。  イドリスは成果ないままに弟を帰し、蒼惶《そうこう》として藩王の病室へ駆けつけた。侍医からの注意を受け、一対一で負傷者に対する。挨拶に時を費《ついや》さず、藩王はベッドに横たわったまま問いを発した。 「イドリス卿、その後、情勢はどうなっておる?」  予期していた、というより当然の質問であったが、イドリスとしては真《まこと》に答えにくい。虚偽ではないが言を飾らざるをえなかった。 「|天の城《ウラニボルグ》においては上下を問わず藩王殿下への忠誠はまったく揺らぎを見せてはおりませぬ。殿下のご災厄に乗じて私権をほしいままにせんとするアリアバート、ジュスランの両名に対し、義憤に燃え、必ずや彼らを膺懲《ようちょう》せんと誓いを新たにしておりますれば……」  虚しい熱弁を、低い声が無情に断《た》ち切った。 「イドリス卿」 「は、はい」 「|天の城《ウラニボルグ》外の情勢はどうなっておる?」  藩王をごまかすことはできぬ。いまさらながらにイドリスは悟った。顧《かえり》みれば、四公爵は藩王アジュマーンを畏敬《いけい》しつつ、つねに彼から重い威圧と被支配感を受けてきたのだ。しかもこれまで四人が分かちあっていたものを、いまやイドリスひとりが引き受けねばならぬのである。この認識は、昂揚よりもむしろ重苦しい覚悟を必要とした。 「アリアバート、ジュスランの両名は、反省も悔悟も示すようすを見せませぬ。むしろ隷下《れいか》の軍隊を煽動し、各地の不逞《ふてい》分子にまで呼びかけて藩王殿下に公然と叛旗をひるがえさんとする模様です」  表情を消した両眼が天井を眺めている。藩王アジュマーンは彫像のごとく不動であった。イドリスが自分自身の声とそれにつづく沈黙とに耐え、そして耐えかねる寸前、天井を眺めあげたまま藩王はようやく声帯を活動させた。 「アリアバートとジュスラン。あの両名がな。予はあの両名には期待と権限とを与えたつもりであったのだがな」 「あの両名は謀叛人《むほんにん》であります、殿下!」  負傷した藩王を前に、ややおとなげないと自覚しつつ、イドリスは口調を激せしめた。 「あの両名は、私が藩王殿下を軟禁し、専横をふるっていると誣告《ぶこく》しております。何と低劣な虚言、とうてい赦《ゆる》せるものではございません」 「それが事実であればよかったが」 「は……?」 「それほどの覇気がほんとうにあれば、ただひとつの椅子は自《おの》ずとただひとりの手中に落ちたであろうに」  声を失ったイドリスに向かって、藩王は微かに手を振った。退出の合図である。病室を出るときイドリスは軽くよろめいた。酩酊《めいてい》したかのようなありさまに、待機していた侍医は軽く眉を動かしたが、賢明に発言を避け、黙然と若い公爵の後姿を見送ったのである。        W    ジュスラン・タイタニアは一族内の法規を以てしては、すでに公爵ではない。爵位の他にあらゆる公職と地位を剥奪され、単なる一平民となってしまった。だが惑星バルガシュに展開するタイタニア軍の将兵は、以前と変わりなく彼らを公爵と呼んでおり、両者も悪びれずその呼称を受けとめている。 「心配するな、ジュスラン卿、財産のほうはむりだけど、爵位のほうはエルビング王国が授《さず》けるぞ。アリアバート卿にもだ」  リディア姫が断言し、ふたりの公爵はまじめくさって礼を述べた。アリアバートは四月いっぱいで入院生活を終え、将兵の前に姿を現し、歓呼を浴びた。彼はジュスランの宿舎を訪れ、退院の挨拶をした。 「ジュスラン卿も健康と安全に留意してくれ」  握手しつつ、彼はそういった。 「とうていおれひとりの威権を以《もっ》てしては、藩王とは戦えぬからな。ジュスラン卿の人望と政治力が頼りだ」 「戦う相手は藩王ではない、イドリスさ」 「そうだった。兵士たちに聞かれてはまずいな。心するとしよう。だが、おれ自身に対してはその決意こそが有効なようだ」  アリアバートはすでにバルガシュ進駐のタイタニア全軍に訓辞していた。イドリスの専横に厳しく批判を加え、彼が入院加療中の藩王を軟禁している、自分たちは彼の無法を赦すことができず、あえて兵諫《へいかん》を決意した、敵は藩王にあらずイドリス卿である、と告げたのである。  アリアバートおよびジュスランの隷下《れいか》から離脱することを望んだのは、金軍の四パーセントに過ぎなかった。藩王アジュマーンの健在が確認されていれば、この数字は二〇倍にも上ったであろう。だが実際のところ、藩王健在説はイドリスの口から語られるだけであったから、結局、イドリスを信用するかどうか、ということに帰《き》するのである。 「藩王殿下はすでに亡くなったか、危篤状態か、どちらかなのではないか」  との噂が軍中に流れていた。またイドリスひとりの人望と、アリアバートおよびジュスランとの人望を較べれば、後者が圧倒的であった。イドリスの不徳というしかないが、彼が次期藩王位を渇望するあまり先行ぎみの両公爵を蹴落とそうとした、という図式は、兵士たちにとって受容しやすいものであったのだ。積極的にイドリスを憎むというほどではないが、両公爵なき後のタイタニアをイドリス卿が独裁的に支配する、という未来図は彼らにとって心楽しいものではなかった。どうせタイタニアの支配を受けるなら、イドリス卿より両公爵のほうがよほどましではないか!  そのような将兵の動向のなかにあって、少数の離脱者はバルガシュを去る準備を進めた。両公爵の公認あってのことだが、彼らの代表となったエルマン伯が出立の挨拶にジュスランを訪れたのは五月一五日である。型どおり挨拶を受けた後、ジュスランは穏やかに問いかけた。 「それで、ファン・ヒューリックたちとの談合はうまくいったかな、エルマン伯」 「やはり御存じでいらっしゃいましたか」  苦笑未満の表情をエルマン伯は閃かせたが、すぐ礼法のヴェールで内心を秘匿した。模範的な中年紳士の態度で、彼はジュスランに告げた。 「私はタイタニア貴族として、自らにも他者にも恥じる点はまったくございません。ただ、彼《か》の流賊たちの存在を忌《い》まれるのであれば……」  彼らを攻撃なさい、まとめて一隻の艦に乗せておくから、そうエルマン伯はすさまじい提案をした。すでにドクター・リーらが可能性を指摘していたことではあるが。 「なるほど、タイタニア的なやりかたとはこのことだな。だが、やめておこう」  エルマン伯の提案を、ジュスランは軽く笑って退《しりぞ》けた。 「ファン・ヒューリックたちに伝えていただこうか。無事に|天の城《ウラニボルグ》へ入城されるよう祈っている、と」  紳士的の一語で形容しようもないジュスランの寛容さは、エルマン伯の猜疑《さいぎ》心を刺激したようである。彼は柔和そうに細めた目で執拗にジュスランの表情を探ったが、得るところは何もなかった。バルアミーがジュスランの代理としてエルマン伯を中央宇宙港まで送っていった。そのときファン・ヒューリック一党の姿を見たいと思ったが、それは実現せず、彼はものたりぬ気分で宿舎に帰って来た。中庭を散策しながら何やら思案しているジュスランに報告をすませる。恒星光の下、緑が濃く、植物たちの生命力が匂いたつような初夏の午後であった。 「いまさら不覚悟な質問をするようで気が引けるのですが……」  バルアミーは思いきって問いかけた。 「ほんとうに藩王殿下と戦うのですか?」  口に出した直後に後悔した。臆病とか優柔不断と思われるのは嫌だった。なるべく正確に表現するなら、バルアミーはジュスランから頼もしい言葉を聞きたかったのだ。 「バルアミー卿も私も|天の城《ウラニボルグ》で生まれたな。あそこではそのようなことを考えるだけでも恐しかった。遠く何百光年も離れていればこそ考えることができるのかもしれぬ」  バルアミーを見返して、ジュスランは短く笑った。 「藩王殿下個人に対しては何の怨恨もない。だからこそ戦えるのだと思う。アリアバート卿も私もな」  いまさら戦意を問うなど愚かなことだった、と、バルアミーは赤面する思いだった。 「エルマン伯ばかりかファン・ヒューリック一党までもこの惑星から無事に離脱してしまいました。なぜそれをお許しになったのか、お考えあってのことと思いますが、よろしければお聞かせ下さい」 「そうだな、これまでの伝統的なタイタニアの手法を吾々が用いたのでは、戦う意味も勝つ意味もない。すくなくともタイタニア外の人々から見て、多少は変革が期待できるような姿勢を示しておいたほうがいいと思うのだ」  空気が流れ、一陣の風がジュスランとバルアミーの頭髪を乱した。 「本来、これはタイタニア内部の私戦であるにすぎない。というより、戦争などすべて私戦でしかないが、それでも多少なりと歴史的な価値を有する場合もある。今回、伝統的なタイタニアの手法や価値観に対して、吾々が異を唱えることで、はじめて今回の戦いは公《おおやけ》の意義を持つだろう」  それすら錯覚に過ぎないかもしれぬが、現状に消極的ながら満足している多数派市民の意識下にひそむフラストレーションに訴えることができる。 「外部の者がそう見れば、吾々の戦いは多くの共感を得ることができるだろう。積極的な味方になってもらう必要はない。味方など、勝てば幾らでも増えるものだ」  台詞《せりふ》の最後の部分を口にするとき、ジュスランの表情はそっけなかった。「|天の城《ウラニボルグ》」に寵《こ》もりつづけるイドリスと異なり、外交や通商や安全保障等の問題をかかえて宇宙の各地を訪ねたジュスランである。タイタニアの消極的支持勢力が、幾らかの変革と、絶対的な安全とを望んでいる、と、彼は知っていた。 「生命を賭けてともに戦え」と強要せぬかぎり、彼らはジュスランらに悪意を持たないでいてくれるであろう。 「それで実戦のほうはどうなるでしょうか」 「アリアバートは勝つよ。堂々たる会戦であれば、彼に勝てる者はいない」 「はい、私もそう思いますが……」  全面的な賛同をバルアミーは留保した。事実としてアリアバートは二度にわたり、ファン・ヒューリックに名を為さしめている。彼が奇兵を用いてアリアバートを三度、敗北に追いこむ可能性は充分にあろう。 「だとしても一戦で吾々を撃滅することはできない。そして問題はむしろそのときだ。ファン・ヒューリックらが武勲を重ねることに、イドリスが心安らかでいられるかどうかだ」  ジュスランの両眼に辛辣な光が宿った。彼は紳士であったが、同時にタイタニア貴族であった。エルマン伯およびファン・ヒューリックのバルガシュ脱出を黙認したのには、りっぱに政略的な理由がある。彼らが「|天の城《ウラニボルグ》」に入城し、軍事的にも政治的にも大きな不安定要因となることをジュスランは予測したのであった。期待ではなく予測である。予測の精度を高めるために、ジュスランは今後さまざまに手段を弄するつもりであった。 「ジュスラン卿、彼らはもともと不逞《ふてい》の者どもです。内部で策動をめぐらして|天の城《ウラニボルグ》を乗っとるということはありませんか」 「|天の城《ウラニボルグ》の内部で何が起ころうと知ったことか!」  それは激烈な口調であり、バルアミーは一瞬だが呼気を呑みこんでしまった。永きにわたってジュスランがかかえこんでいた心情の一端を、バルアミーはかいま見たのである。 「|天の城《ウラニボルグ》を離れて、あらためてわかった。あれは城でも宮殿でもない、牢獄なのだ、と。あの内部にいると、宇宙から切り離されて、一族内の葛藤《かっとう》と陰謀だけが人間界のすべてであるように錯覚してしまう。宇宙の中心であると関係者は思いこんでいるが、そうではない。隔離された流刑地、それが|天の城《ウラニボルグ》の正体だ」  ささやかな庭園の小さな噴水を、「|天の城《ウラニボルグ》」そのものであるかのようにジュスランは見やった。 「イドリスは彼《か》の流刑地にひとり残された囚人なのだ。彼が残ってくれたからこそ吾々は脱出できたようなものだ」 「だとしたら、やはり恩人と戦うことになりますね」  バルアミーにそういわせたのは、「|天の城《ウラニボルグ》」を権威と権力の源泉であると思っていた。自分と異なるジュスランの見解に何とか亀裂を生じさせたかったというのが無意識の欲求であったかもしれぬ。 「そう、所詮《しょせん》、私もタイタニアだ。汚名を甘受して殺され、後世から同情の涙をそそがれるより、現実世界において自分の権利を守るほうを選ぶ。叙事詩の主人公となったところで無意味だ。私はアリアバートとともに戦って勝つ」  淡々と語るジュスランの横顔を、バルアミーは黙然と凝視した。科学的な理由もなく呼吸が苦しく感じられる。 「そして藩王アジュマーン殿下を隠退させ、イドリスを追放し、|天の城《ウラニボルグ》を解体し、アリアバートを藩王として私は彼を補佐しよう。そして彼と私とが健在のうちにタイタニアを穏やかに縮小させよう。ありふれた一名門として、ほどほどに繁栄していくのがタイタニアの未来図として望ましい」  ジュスランが自分の構想についてこれほど明確に語ったのは初めてのことだった。バルアミーは圧倒された。それは彼自身の野心や構想とは大きく異なるが、ジュスランの口から語られると、すでに半ば既成のものとなった感があった。バルアミーは不意に強い衝動に駆られた。かつて父の生前に聞いた秘密を彼は質問の形で発せずにはいられなくなった。数秒の葛藤。ついに彼は衝動に屈した。 「閣下がアリアバート卿に藩王位を託されるというのは、血を分けたご兄弟だからですか。非礼な質問で申しわけありませんが」 「お父上から聞いたのか」 「は、はい」 「たしかに非礼な質問だな、バルアミー卿」  ジュスランの声にも表情にも顕著《けんちょ》な変化はなかったが、バルアミーは身心ともに姿勢を正さずにはいられなかった。淡々として、ジュスランは重い事実を投げ出した。 「アリアバートと私とは従兄弟だ。だが同時に兄弟でもある」 「……?」 「つまり、アリアバートの母親は、私の母親の妹だ。そして、アリアバートの父親は、私の父親でもある。私たちは母方においては従兄弟であり、父方において兄弟というわけだ。これが正確な事実だ、バルアミー卿」 「では……」  バルアミーは絶句した。ジュスランの父親は、姉妹であるふたりの女性と同時に通じたのだ。しかもこの姉妹はそれぞれに別の男性と結婚していた。アリアバートとジュスランとの誕生日は、同じ月のうちにある、と、バルアミーは聞き知っていた。つまりほぼ同時期に彼らは受胎したのである。 「これがタイタニアだ。血の支配を絶やさぬという優先目的のためには、基本的な人倫さえ無視されるのだ。その歪んだ価値観の象徴が|天の城《ウラニボルグ》だと私は思っている」  ジュスランは口を閉ざした。いうべき言葉を持たず、バルアミーは耐えがたい沈黙の裡《うち》に立ちすくみかけた。彼を無形の桎梏《しっこく》から救い出したのは少女の元気な声であった。 「ジュスラン卿、バル、いっしょに昼食《おひる》を食べよう。腹が減っては戦《いくさ》も勉強もできないぞ」  緑の庭を駆けてくるリディア姫の姿を眺めて、ジュスランはバルアミーに笑いかけた。 「あの姫はいつも正しいな。空腹のときに深刻な顔で考えこんでいても、ろくな結論は出ない。せいぜい賢者の忠告に従うとしようか」  ジュスランが手を振って姫に応《こた》え、一瞬の後、バルアミーもそれに做《なら》った。星暦四四七年五月一九日、イドリス・タイタニアがアリアバートとジュスランとに与えた出頭期限の前日であった。