タイタニアA暴風編 田中芳樹 2段17行23文字 星暦二二九年、ブラウンワルト星域の会戦で星間都市連盟を破ったタイタニア一族はヴァルダナ帝国から「無地藩王《ラントレス・クランナー》」の称号を得た。だが「タイタニアなくして帝国なし」と名実ともに宇宙の覇王を公言する彼らは、星暦四四六年、八代目アジュマーンの時代を迎えた時、連盟の都市エウリアに出した最新の化学式半透膜の技術の売却要求を拒否されたことに端を発したケルベロス会戦で、一族のアリアバートが敗北の屈辱を喫した。奇蹟の勝利をエウリアにもたらしたのは、ファン・ヒューリック。一族の当主たちの陰謀が渦巻いて……。 カバーイラスト・道原かつみ カバーデザイン・秋山法子 タイタニアA暴風編《ぼうふうへん》・田中芳樹《たなかよしき》 軽井沢の森に夏を逃がれて、執筆に専念。四季のひとめぐりを経て登場する「タイタニアA」は、この秋に放たれた黄金の収穫だ。新作のすべてがベストセラーとなる人気と面白さの王、その桂冠は日本中の読み巧著から授けられたものだ。田中芳樹の本は、読む歓びを得るために待つ歓びも享受されなくてはならない。 タイタニアA暴風編 1989年11月30日 初版 1992年6月10日 14版 著 者 田中芳樹 発行者 荒井修 発行所 徳間書店 [#改ページ] 目次 第一章 五つの椅子  9 第二章 逃亡者たちの生活と意見  36 第三章 火花  55 第四章 二度めは最後の例ならず  76 第五章 野心のフルコース  93 第六章 砂漠のストレンジャー  115 第七章 衝突  137 第八章 残された三枚のカード  158 第九章 開戦  177 [#改ページ] ☆タイタニア陣営 アジュマーン・タイタニア(四〇歳)ヴァルダナ帝国貴族。タイタニア一族の第八代当主。「無地藩王《ラントレス・クランナー》」の称号を持つ。 アリアバート・タイタニア(二七歳)「タイタニアの五家族」の当主。公爵。 ジュスラン・タイタニア(二七歳)「タイタニアの五家族」の当主。公爵。 ザーリッシュ・タイタニア(二六歳)「タイタニアの五家族」の当主。公爵。 イドリス・タイタニア(二四歳)「タイタニアの五家族」の当主。公爵。 テリーザ・タイタニア(五〇歳)ザーリッシュの母。 バルアミー・タイタニア(一八歳)エストラードの息子。ジュスランの高級副官。子爵。 フランシア ジュスランの侍女。 リディア(一○歳)エルビング王国の王女。 ドナルド・ファラー タイタニア藩王府参事官。選挙技術家。 テオドーラ・タイタニア 伯爵夫人の座をめざす。 ラドモーズ・タイタニア(一七歳)イドリスの弟。男爵。 ハルシャ六世(三五歳)ヴァルダナ帝国皇帝。形式的な主権者。 アイーシャ(三一歳)ヴァルダナ帝国皇后。 ☆反タイタニア陣営 ファン・ヒューリック(二八歳)元エウリヤ市の都市艦隊司令官。ケルベロス星域の会戦で不敗のタイタニアを破り英雄となるが、エウリヤ市より追放される。現在逃亡中。 リラ・フローレンツ 逃亡中のヒューリックを助けた少女。死亡。 ミハエル・ワレンコフ(二七歳)ファン・ヒューリックの旧部下。元副官。中尉。 ルイ・エドモン・パジェス(二六歳)ファン・ヒューリックの旧部下。元情報参謀。中尉。 コンプトン・カジミール「|正直じいさん《オネスト・オールドマン》」号の船長。ミランダの夫。 ミランダ(二八歳)元カサビアンカ公国の公女殿下。 リー・ツァンチェン(二七歳)通称ドクター・リー。惑星バルガシュで哲学博士号を持つ。現在は「流星旗」軍の一船長。 アラン・マフディー(二二歳)元ヴァルダナ帝国軍中尉。現在は脱走者。 サラーム・アムゼカール(三〇歳)元ヴァルダナ帝国軍提督。シラクサ星域の会戦でタイタニアに敗れ、現在惑星バルガシュに亡命中。 [#改ページ]        第一章 五つの椅子            T    高く鋭く、鼓膜に爪をたてるような女の声がひびきわたったとき、ザーリッシュ・タイタニア公爵の従者たちは無言で顔を見あわせた。その声は、厚い扉の向こうからひびいてきたのだが、従者たちは、声の所有者が何者であるか知っており、悲鳴とも叫喚《きょうかん》ともつかぬ声が発せられた理由もわかっていた。それは予測していたことですらあった。そしてこの場合、知識と予測こそが一段と彼らの畏怖をさそうのであった。  星暦四四六年八月一〇日のことである。ヴァルダナ星間帝国の首都惑星リュテッヒ、その中緯度落葉樹林帯にカルビニアという湖沼地域があり、そこには宇宙を支配するタイタニア一族の荘園群があった。三〇キロ四方にわたって林と丘陵と湖水がつらなり、いくつかの宏壮《こうそう》な館は距離を無形の壁としてたがいのプライバシーをたもっている。その一角、ザーリッシュ・タイタニア公爵の館で、主人が母親から責めたてられているのであった。 「母上、お静まりいただけませんか。従者どもの耳にお声がとどきます」  息子の声も表情も苦《にが》さに満ちている。タイタニア四公爵の一員であり、堂々たる美髯《びぜん》の偉丈夫であるザーリッシュも、母親には弱い。彼の母親であるテリーザは、息子より三〇センチも脳天の位置が地上に近かったが、そこから息子めがけて、勢いよく唾《つば》を飛ばしていた。  ザーリッシュ・タイタニア公爵は、その筋骨たくましい巨躯にふさわしく、肺から膨大な量の空気を吐き出した。彼が軽く片手を動かせば、テリーザの身体は空中高く舞いあがるであろう。むろんそのような光景が現実化するはずはなかった。テリーザは、金属性の強い声で息子を糾弾《きゅうだん》しつづけた。弟であるアルセスの死について、兄である者の罪を鳴らしたのである。 「ザーリッシュ、お前はアルセスに嫉妬《しっと》していたのです。あの子が美しくて才能があるものだから、お前は嫉《ねた》んであの子を見殺しにしたのです。ああ、あの子こそ、公爵位にふさわしい、いい子だったのに!」  これほど不本意な非難を受けるいわれが自分にはあるのだろうか。ザーリッシュは厚い胸の奥で自問した。眼前にいるのが他人であれば、その自問を声にしてどなりつけたにちがいない。だがそれは不可能であった。  テリーザは、かつては美しかった。否、過剰な脂肪と、不節制による弛緩《しかん》さえ除去すれば、五〇歳になる今日でさえ、成熟した美貌《びぼう》の貴婦人として通用するであろうと思われる。だが、たるんだ肉と皮膚を激情に波打たせつつ、困惑する息子につめよる姿は、美と称するにほど遠いものであった。その主張にも、理性はない。噴火のごとくせきあげてくる感情を、息子にむかってたたきつけるだけである。乱打されるザーリッシュとしては、たまったものではなかった。実際、口だけでなく、テリーザは息子の胸ぐらをつかみ、脂肪で丸々とした拳をふるって息子を打ち、責めたてたのである。ついにザーリッシュは答えた。答えざるをえなかった。 「わかりました。かならず、憎むべき犯人を母上の御前に引きたててまいります。母上の御手で、彼奴《きやつ》めを思う存分に仕置《しおき》なさいませ」  かならず、と聞いて、テリーザはやや理性を回復した。激しく呼吸し、脂《あぶら》の浮いた両眼で長男をにらみあげ、ようやく声を押し出した。 「きっとですよ。もしいまの約束を違《たが》えたらお前を呪《のろ》いますからね」  ……この密室劇を後に知ったタイタニアの中堅幹部たちは唖然《あぜん》としたものである。 「何と何と、ザーリッシュ公は宇宙一の豪将だというが、これでは宇宙一強いのは、どうやら、公の母君であらせられるらしい」  そうささやきあって肩をすくめた。  彼らはザーリッシュを軽侮したわけではないが、やや興ざめしたのは事実である。というのも、故人となったアルセス・タイタニア伯爵が、タイタニアの下僚や兵士たちに、まるで人望がなかったからであった。また、彼らは、ザーリッシュ公が弟と不仲であったことも承知している。極論すれば、タイタニアにとってアルセス伯の死は、「いい厄介《やっかい》ばらい」と断言できるほどであった。ザーリッシュ公ほど豪胆な人物であれば、母親の狂燥《きょうそう》など無視し、その実力と地位にふさわしい公人としての行動をとるべきではないか。 「ファン・ヒューリックとやらいう男は、タイタニア全体の公敵であるはず。それが、ザーリッシュ公母子の私的な仇というようになっては、筋《すじ》がちがうというものだろう」  そのような批判はあるにせよ、正面からザーリッシュを論難する者はいない。ザーリッシュは自らも武人であり、部下も最前線の武人を好んで多く集め、「勇敢な兵士」や「熟練した艦長」と称されるような型の幕僚が多かった。彼らは勇気や忠誠心において高水準であったが、そのような美点は、視野の広さや戦略的思考の柔軟さを阻害《そがい》する点で、同時に欠点となりえる。彼らは、ザーリッシュをたしなめるより、むしろその意を迎えようとした。集団がひとつの目的にむかって団結する、という光景は、甘美な幻想として人々を陶酔させうる。ことに軍人や革命家、宗教家などにとってはそうである。  タイタニアの最高方針が決定されるより早く、ザーリッシュ公とその属僚《ぞくりょう》たちは活動を開始していた。ファン・ヒューリックという男とその一党を狩りたてるために。    タイタニアに対する不逞《ふてい》の叛逆者どもを討伐する責任者として、自分を推《お》してもらいたい。ザーリッシュがそう申しこんできたとき、ジュスラン・タイタニア公爵は正確に事情を察した。なぜそのような申し出を、ザーリッシュがせねばならないか。ザーリッシュと母親との間に、私的な葛藤《かっとう》があったからにちがいない。ザーリッシュの母親テリーザが、長男をうとんじて次男のアルセスを偏愛していたことは、タイタニア一族にとって周知の事実であった。そのアルセスが、ファン・ヒューリックという、タイタニアから見れば小さな存在でしかない人物のために殺害された。母親の情としてはむりからぬことだが、テリーザは逆上し、その激情に息子は踊らされている。 「どうやらアルセス伯は、死んでからまで兄に厄介をかけているようだ」  半ば気の毒であり、半ばばかばかしい。ファン・ヒューリックとその一党とは、再度にわたってタイタニア一族に害をなしたが、巨象の前の蟻《あり》にも似た存在で、これを討滅したところでザーリッシュの威望が増すというほどの雄敵ではない。現時点では、である。将来はどれほど巨大な存在に成長するか、未知数といわねばならない。タイタニアの伝統的な権謀力学《マキャベリズム》をもってすれば、その存在が大にならぬうちに芽を潰《つぶ》しておくべきではあるが……。  近日中に開かれるであろうタイタニアの最高会議において、どのような態度をとるか。ジュスランは思案せねばならなかった。執務室のデスクで考えこむジュスランの姿を、高級副官であるバルアミー・タイタニア子爵が黙然と見守っている。  バルアミーにしてみれば、ジュスランは親族でかつ上官であり、これだけでもすでに充分うっとうしい存在であった。それだけにとどまらず、ジュスランはバルアミーの生殺与奪《せいさつよだつ》のほぼ全権を握っているといってよい。故人となったバルアミーの父、つまり前軍務大臣のエストラード侯爵は、タイタニアの総帥アジュマーンの異母兄であり、自分が総帥たりえぬことに不満で叛意をいだいたが、それを実体化する以前に不慮の死をとげた。彼を煽動《せんどう》したのは息子であるバルアミーであり、その秘密をどうやらジュスランは知っている。ジュスランがその気になれば、バルアミーは反逆罪で処断されてしまうかもしれないのである。  だが、一方で、ジュスランほど理想的な上官も他にいないであろう。ただ「ジュスラン・タイタニア公の高級副官である」というだけで、人々は畏《おそ》れつつしみ、厚く遇してくれる。バルアミー自身、タイタニアの姓を有する子爵であり、他者から羨望《せんぼう》されるべき身であるが、一族の総帥である藩王《クランナー》と四公爵とは、やはり他者と格がちがうのである。バルアミーの微妙すぎる立場も、ジュスラン公爵の高級副官という地位によって補正され、強化された。高級副官という要職にバルアミーを置くことで、ジュスランは、彼に対する信頼を公示しているのだ。バルアミーに害をなそうとする者がいるとすれば、彼の後見役であるジュスランを敵にまわす覚悟が必要となるのであった。副官の人事ひとつを取りあげても、幾重もの政治的な配慮や力学がからまるのはタイタニアの中枢部なればこそであった。  バルアミーは先日、ヴァルダナ帝国の宮廷と政府に巣くう反タイタニア派の重臣たちを一掃した。大臣、将軍、書記官、参事官、元老院議員、勲爵士など、たいそうな肩書を持つ者二六名を処刑し、四〇名を流刑星に送りこみ、一一四名を家族もろとも国外に追放した。ジュスランを介して、藩王アジュマーンが命じたことである。そのていどの処理ができなければ、タイタニアの一族として遇される資格なしとみなされるのであった。そのことはバルアミーによく理解できた。彼はヴァルダナの宮廷に乗りこんで、粛清の見えざる巨大な鎌を振りまわし、司法大臣ヘラウァー、民政大臣ヌニエスら皇帝ハルシャ六世の重臣たちの首をまとめて斬り落としたのであった。その後、宮廷の政治的な床面から血を洗い流し、死者たちの後任人事を決し、いくつかの宮廷規則に改変を加え、ごく短時日に事を処理してのけた。一八歳の若者にしては、みずぎわだった手腕といわねばならない。 「バルアミー子爵は、ものの役に立つ男のようだ」  藩王アジュマーンがそう評したことで、バルアミーの功績は公認された。彼は父が事故死した件について責任を問われる立場にあったが、アジュマーンの一言によってそれは消失した。タイタニアの組織においては、しばしば功によって罪を償却《しょうきゃく》するという人事処理がおこなわれるが、これはその一例であった。バルアミーは人材鑑定のテストに合格したわけである。テストの題材に使われた大臣たちこそいい面《つら》の皮であったが、彼らが反タイタニアの策動をめぐらしていたのは事実であった。それも必ずしも決死の覚悟があってのことではない。権力や策略を玩具のごとくもてあそび、その報いを受けたといういいかたもできるであろう。 「たしかに自分はジュスラン公の部下だ。だが、だからといって卑屈になってたまるものか」  バルアミーは肩を張っている。そのことがジュスランにはわかっており、おかしくも感じるが、その気骨に好意を持ってもいるのだった。        U    ジュスラン・タイタニア公爵は、辺境の一小国であるエルビング王国の王女を保護している。リディアという名で、年齢は一〇歳である。タイタニアの本拠地である「|天の城《ウラニボルグ》」に彼女がいるのは、いわば借金のかた[#「かた」に傍点]であり、政治的な人質であるのだが、当人は元気で屈託《くったく》がなかった。自由に行動し、よくジュスランの執務室に顔を出す。 「ジュスラン公、暇なら遊ぼう」  女性が男性を遊びに誘うとあれば、色恋がらみになるものであろうが、誘うほうが一〇歳でしかないから、これは正真正銘に、辞書的な意味で遊ぼうというのであった。多くは、ジュスランにともなわれて「|天の城《ウラニボルグ》」の広大な内部を見てまわるのだが、ジュスランが多忙でつきあえない場合もある。するとリディア姫はいうのである。 「ではジュスラン公の執務ぶりを横で見ていていいか。もちろん邪魔はせぬし、行儀よくしているから」 「どうぞご自由に。椅子を用意させましょう」  こうして、ジュスラン公爵の執務室を訪れる人物は、部屋の一隅に置かれた椅子に座した童女から、興味深い観察の視線をそそがれることになる。人によっては、その視線を受けて落ち着きを失う者もいた。「解剖されるような気分だ」と語った人もいる。リディア王女は、小さな身体に壮大な気宇《きう》を秘めたお姫さまで、将来エルビング王国の役に立つ、あるいは逆に害をなすような人物を観察したいと考えているようであった。このような場合にリディア姫の世話をする役目は、高級副官バルアミー子爵がおおせつかる。  バルアミーにしてみれば、リディア姫のような子供と同列にあつかわれてたまるものではない。彼はタイタニアの一族、しかも現在の藩王アジュマーンの甥《おい》にあたる。彼の亡父は侯爵であり、彼自身も子爵であった。内心、タイタニアに対する借金も支払えないような小王国を歯牙《しが》にもかけていない。だが、社交作法からいえば、リディアは「殿下」であり、ジュスランが敬語を用いて接している以上、バルアミーも礼法を守らざるをえなかった。一方、「殿下」のほうでは最初バルアミーを「シシャク」と呼んでいたが、そのうち同格の友人という認識に落ち着いたようで、「バルアミー」と呼び、ついには略称して「バル」と呼ぶようになった。バルアミーとしては不本意きわまるが、いちいち反発したり訂正したりするわけにもいかず、受容するしかない。「バル」と呼ばれれば「はい、姫」と返答して相手をつとめる彼であった。  バルアミーは、自身、陰謀家たらんと志しているくせに、あるいはその気質に欠けているのかもしれなかった。  バルアミーやリディア姫に対する態度を見ると、ジュスランには教育家としての資質があることはまちがいなかった。他人の個性や才能に優れた点を見出すと、たいそう貴重なものに思い、無限にそれを伸ばしてやりたくなるのである。  人材を発見し、それを厚遇するというのはタイタニアの伝統である。ただ、ジュスランの場合、それは理念や政策ではなく、他人の個性や才能に対する傾倒が強い性格であるらしい。政治、行政、軍事、財政、経済など実務方面にとどまらず、その視線は学芸方面にもおよんで、彼は多くの学者、文人、美術家、音楽家などを援助した。基金をつくって、その運営は専門家に一任しているが、その恩恵をこうむったポリット氏という高踏《こうとう》派の詩人が感謝の意を表しに参上したことがある。ジュスランは彼に会わなかった。 「芸術家や学者は、権力や富を持った者に頭をさげる必要はない。厚遇されるのは当然だ、と、そっくりかえっていればよい。それをわざわざ礼を述べに来るなど、ポリット氏も案外に俗物だな」  その声がポリット氏の耳にとどき、彼は大いに赤面して引きさがったという。相手の耳にとどくようにいうあたりが、ジュスランの若さであろう。ひとつには、彼の地位にあっては、会う客の数をこれ以上は増やしたくないのである。  もっとも、芸術家を厚遇するくせに、ジュスランは芸術作品そのものに対しては、たいした執着心や観賞眼があるわけでもなかった。彼のオフィスや住居には、著名な画家、彫刻家、陶芸家、家具職人などの作品が並べられている。大部分が贈呈や献上の品物だが、その管理は、美術骨董品を専門にあつかう執事のひとりに委《ゆだ》ねられており、ジュスラン自身はほとんど関与しなかった。作品よりも、それを産《う》み出す才能のほうを彼は好んだのだ。実質的な利益としては、これらの作品を、各国の要人に対する贈答品として使っていた。ジュスランが「物惜しみせぬ人だ」といわれる理由がそこにあるが、その評判はジュスランの本質とやや異なるであろう。  ジュスランにとっては、ファン・ヒューリックというタイタニア支配体制に対する叛逆者も、同時代の偉大な芸術家である。正確には、偉大と称しうる存在となりおおせる可能性を有している。そのような人物を、むざむざザーリッシュとその母親などに殺させてよいものであろうか。ジュスランは否定にかたむかざるをえない。とはいえ、ファン・ヒューリックが再度にわたってタイタニアに損害を強《し》いた公敵であることは事実で、これを放置しておけば、タイタニアの威信が傷つく。威信などというものの愚劣さを、ジュスランは知悉《ちしつ》しているが、同時に、威信によってこそ一定の秩序と平和が保《たも》たれる、という現実も承知している。さらに、ジュスランの特異さは、そういった現実によって最大の利益を享受《きょうじゅ》する者がタイタニア自身であることを、皮肉っぽく認識していたことであった。 「平和と秩序と安定とは、権力の目的ではなく手段だ」  そうジュスランは「パックス・タイタニアン」の現実を評したことがある。もっとも、それが完全に正しい認識だと彼は思っているわけではない。「タイタニアあっての平和」というタイタニア自身の主張に、異なる角度から光をあててみただけである。  八月一五日、「|天の城《ウラニボルグ》」において、タイタニアの最高会議が開かれる。出席者は藩王アジュマーンと四人の公爵であった。ジュスランはアリアバートの隣に着座する。  一般にタイタニア四公爵の主座と目《もく》されるアリアバートの思考は、ジュスランのような陰影に富んだものではない。むろん、アリアバートは無能でもなければ低能でもなく、大軍の指揮官としても組織の管理運営者としても、これほど端然と処理できる人物は宇宙にすくない。独創性にはややとぼしいが、他人の発想を認めれば柔軟にそれを受容し、最善の形で改変を加えることができた。すくなくともこれまで二度つづけて失敗したことはなく、また、失敗を償《つぐな》って自らを成長させるだけの器局であることも証明されている。 「ザーリッシュであれば、ああはいくまい。アリアバートの才識に比べれば、ザーリッシュは単なる猛将にすぎぬ」  それがジュスランの評価であるが、ただ、ザーリッシュの場合、単なる猛将という一点からしても尋常ではない。ザーリッシュに優秀な戦略構想家が幕僚としてついていれば、彼は文字どおり実力によって全宇宙を制覇し、統一王朝をつくることすら可能であるかもしれなかった。だが、ザーリッシュは他人に対する好悪《こうお》の念が明らかすぎて、単純素朴な兵士タイプを好み、策士とはいわぬまでも曲線的な思考をする人物を嫌った。したがって、ザーリッシュの麾下《きか》には、彼を小型化したような勇将や勇兵のみが集まる。同一種の人間ばかりを集める傾向は、軍指揮官としてはまだしも、タイタニアの総帥として向かない。  ジュスラン自身はといえば、おそらくザーリッシュ以上に、タイタニアの総帥に不適格であろう。才幹や器量ではなく、気質的に。  ジュスランは、見えなくてもよいものまで見えすぎる。ということは、人は万物のすべてを認識することはかなわぬ業《わざ》であるから、一方で、見えなくてはならぬものが見えずにいるであろう。ジュスランはそう思う。そして、そのような思考をめぐらす傾向それ自体が、おそらくタイタニアの総帥としては不適格であろう。いっそ実務において無能であれば、ジュスランはタイタニアの主流から一歩を退いて、批評家の境遇に立つこともできたにちがいない。だが、ジュスランは、政治家として非凡な力量を具《そな》えていた。これまで十指にあまる諸国の国家経営に参画して、行政や財政を改革し、人材を適所に配置し、反対勢力をあるいは懐柔《かいじゅう》しあるいは無力化して、タイタニアの同盟国を増やし、安定させてきた。ことに内乱状態の国に乗りこんで事態を収拾し、あらたな体制を建設する点にかけて、彼の手腕は他に比べるものがないとされていた。  ジュスランは、自分自身の才幹《さいかん》を大したものとは思っておらず、そもそもタイタニア自体の存在を過大視していなかった。自分たちが歴史の通過者であり、永遠の栄華などありえぬということを彼は認識していたのである。 「恐竜のようなものだ。強大なるがゆえに滅亡をまぬがれぬ」と思い、その認識が実現する日を遠くに見すえていた。  タイタニアの存在を絶対視するのは、上昇志向の強い中堅幹部たちであろう。彼らにとって、タイタニアは単なる組織や集団などではなく、運命共同体であった。むろんタイタニアとは単一の組織体ではなく、無地藩王《ラントレス・クランナー》府、各公爵の家臣団、彼らに所有される企業や団体、私兵集団等の総称であり、これらはたがいに人材を交流させているため、ひとたび栄達の階段に足をかければ、無名の青年が壮年期には恒星系国家レベルの要人となることも珍しくはない。才能を自負《じふ》する者、上昇への野心をいだく者、世に出ようと望む者、彼らは競ってタイタニアの家紋の下に集《つど》う。形式的な主権を有するだけの国家群より、はるかに人材の豊富さと質の高さが維持されているのだ。この人的資源の充実も、タイタニアの勢威をささえる柱のひとつだった。才幹と野心をタイタニアは愛する。それが彼らの支配を害《そこな》わないかぎり。限界線は厳然として存在するが、それは絶対多数の人々にとって地平の彼方にあり、すくなくとも相対的に、タイタニアは寛大であったし、才能ある者にとって吸引力を感じさせるにたる対象であった。  むろん、異《こと》なる見解もある。結局のところ、大樹の蔭《かげ》に寄りたがるていどの人間どもが集まってくるだけではないか、という思いがジュスランにはする。彼は一般に、それほど気むずかしい人物だと見なされてはいなかったが、権力者にすり寄ってくる型の人間に対して、どうしても好意的にはなれなかった。彼自身が権勢の頂点ちかくにいるのだから、この感情は明らかに二律背反《アンビバレンツ》であり、権力者の寛容という「美徳」とは矛盾するものであった。さしあたり、まだその矛盾を必死になって整合させる必要に、ジュスランは駆られていない。いざそのような必要に直面したとき、自分がどのような態度をとるか、彼にはまだわからなかった。 「ジュスラン卿のように潔癖の度がすぎては、ブレーンもつくれまい」  そう評したのはアリアバートである。アリアバートには彼なりの見解がある。人の世には、知識や才能がありながらそれを発揮できない者が数多くいる。彼らに才能を発揮させる場を与えることこそ、権力と地位を持つ者の義務ではないか。 「彼らの人格を問題にすべきではない。吾々は彼らに才能を発揮する場所と経済的な保障を与える。彼らはタイタニアのために才能をもって応《こた》える。それ以上のことは必要ないと思うが」 「だが、アリアバート卿、才能を制御するものは、つまるところ人格ではないのか」  ジュスランは反論してみせたが、これは本気で異議をとなえたわけではなく、アリアバートと議論してみたくなったからである。じつのところ、ジュスランはごく近年まで、アリアバートという親族を、さほど高く評価していなかった。文武両面に、よく整理されて秩序だった才幹を有しているが、要するに、個性に欠ける優等生というだけのことではないか、と。その考えが変わったのは、ファン・ヒューリックに敗北して以後のアリアバートが、非凡な柔軟さと強靱《きょうじん》さを発揮して失地を回復したのを見てからのことであった。アリアバートの真価があらわれたように思えたのだ。  だが、討論を成立させる時間は与えられなかった。彼らは口を閉ざして沈黙の裡《うち》に起立し、右手の拳を左の肩口にあててタイタニア式の敬礼をほどこした。タイタニア一族の総帥たる無地藩王《ラントレス・クランナー》アジュマーンが入室してきたのである。  アジュマーンの容姿は、そのまま彫刻となりうるであろう。その彫刻の題は、「支配と権威」がおそらくもっともふさわしいにちがいない。彼の眼光と口もととは、ともに鋭さと力強さを兼備しており、態度はいうなれば堂々たる厳格さを具現《ぐげん》したものであった。全タイタニアが声をのみ、粛然として迎えざるをえない総帥の風格である。年齢的には未だ少壮と称すべきであるが、風格の重みがこの場合は加齢効果となってあらわれ、実際より年長に見えた。四〇歳なのだが、一種、蒼然《そうぜん》たる雰囲気がある。  無地藩王《ラントレス・クランナー》アジュマーンは宇宙における無冠の覇王であり、その権勢、実力、威望は列王の上にある。彼は社会人として家庭を営《いとな》んでいるが、幾人もの情人《ミストレス》を持ってもいた。タイタニアに、男女関係についての家風があるとすれば、それは開明的なものとはいえず、男性優位とのそしりをまぬがれぬであろう。アジュマーンは、藩王位をえて以来、ほとんど正妻との性交渉を断《た》ち、各国の名門名流から美女を差し出させ、閨房《けいぼう》を花々で満たしていた。妾腹《しょうふく》の子もすでに数人いる。 「あの冷厳で辛辣《しんらつ》なタイタニアの総帥が、いったいどういう表情で女を抱くのやら」  そのような声は、タイタニアの内外にいくらでもあったが、ささやき以上の大きさに成長することは、けっしてなかった。閨房でのアジュマーンがどうであれ、そこを一歩出た彼が冷厳で辛辣な支配者であることは議論の余地もない事実であった。もともと、タイタニアの支配者に対して求められる資質は、指導や先見や決断の能力であって、性的な倫理ではなかった。好色であれ、あるいはその逆であれ、支配者としての力量とは無縁のことがらであった。ただ、度をこして乱倫《らんりん》であれば、それは支配者としての欠格条項となる。部下の妻を、権勢を恃《たの》んで奪ったりすれば、当然ながら憎悪と怨《うら》みを買い、人格的指導力に欠けることになるであろう。また、能力もなしに好色の性癖のみ発揮すれば、それは嘲笑《ちょうしょう》されるだけのことだ。いずれにしても、アジュマーンは、権勢家として許容される範囲内において色を好み、現在のところ、何らの破綻《はたん》も生じさせてはいなかった。        V    会議用テーブルの上を、一〇件ほどの議題と案件が通過した後、休息をはさんで、この日もっとも重要な議案が提出された。いまやタイタニアにとって一大公敵となりおおせたファン・ヒューリックの件である。  タイタニアに敵意や反感をいだく者たちにとって、ファン・ヒューリックの名は小さからざる存在となっている。好悪《こうお》の念はべつとして、その事実を無視するわけにはいかなかった。ひとたび盛名をえた者は、それを背負って、当事者の初心とはやや異なる道を歩んでいかねばならぬものであるらしい。ジュスランから見れば、ファン・ヒューリックは大それた叛逆者というより、当惑する新人俳優のように思える。事実はちがうのかもしれぬが、彼の閲歴《えつれき》を見るとそのような情景が想像され、ジュスランは苦笑まじりのあわい同情を禁じえぬのだ。むろん口に出せる意見ではないが。  皮肉なことであるが、この状況下にあっては、タイタニアのほうでも迷惑をこうむっている。事象の順序はどうであれ、ファン・ヒューリックがタイタニア一族の者を殺害したのは事実であり、タイタニアとしては威信と面目にかけてファン・ヒューリックを逮捕し処刑せざるをえぬ。たかが――あえていえば、たかがひとりのアルセス・タイタニア伯のためにである。アルセス自身、生前は不満を鳴らしていたことだが、彼の人格は、タイタニア内部においてまったく存在価値を認められていなかった。無能者でも他人に好かれることがあり、嫌われ者でも有為《ゆうい》の人物はいる。アルセスはそのどちらでもなく、彼の早すぎる終焉《しゅうえん》を悲しんだ者は母親だけであった。タイタニアの支配者たちにとって、アルセスの死それ自体は何ら問題にならぬ。問題となるのは、アルセスの死が他者から強制されたものであったという事実である。タイタニアの姓を持つ者は、タイタニアの姓を持つ者によってのみ、生殺《せいさつ》を与奪《よだつ》されねばならなかった。その矜持《きょうじ》こそが、タイタニアが全宇宙の覇王であることを証明するのである。この矜持は厳しく守られるべきであった。たとえいかなる犠牲を払おうとも。  発言を求めて認められたザーリッシュが、巨体を半ば会議用テーブルに乗り出させつつ、藩王に請願した。彼の弟を殺したファン・ヒューリックを誅伐《ちゅうばつ》するにつき、彼をその責任者としてほしい、と。 「ザーリッシュ卿の希望はもっともだ。他の者より、この件に関して深刻になるべき当然の理由がある」  藩王アジュマーンはそう答え、ザーリッシュは両眼をかがやかせた。 「では、ファン・ヒューリックとやら申す不逞《ふてい》の輩《やから》、私に生殺をおまかせいただけますか」 「さて、希望が熱意につながれば重畳《ちょうじょう》なことだが、それがさらに成功に結びつくとはかぎらぬ。不幸にして、過剰な熱意というものは能力を空転させがちなものだ」  藩王アジュマーンの声には毒があるとはいえぬが、温かみにも欠けている。無機的なまでの冷徹さは、けっして個人的な悪意の所産ではなかったが、ザーリッシュとしては、冷汗を覚えざるをえなかった。偉丈夫の全身の広大な皮膚が、緊張のあまり硬化してしまっている。 「藩王殿下のご懸念《けねん》はごもっともながら、不肖《ふしょう》、自分は他の諸卿よりもその任にふさわしいと自負しております。かのファン・ヒューリックなる不逞の叛徒をほしいままにふるまわせた罪は、わが弟の無為《むい》無能にございますれば、何とぞ兄たる自分にその罪をつぐなわせていただきたく存じます」 「勇猛無比のザーリッシュ卿に正面の敵と見こまれるとは、ファン・ヒューリックなる者も災難なことだ」  藩王の声が、公爵たちの居並ぶ沈黙の海をゆるやかに回流した。彼の発言は、単なる冗談をよそおっても、しばしば重い意味を持つので、うかつに反応できないのである。 「いずれファン・ヒューリックとその一党を掃滅《そうめつ》するのは必然のこと。ザーリッシュ卿がその任にあたって何ら悪いことはないが……」 「もはや彼をわがタイタニアの陣営に迎えるという可能性は絶無でしょうか、殿下」  そう意見を述べたのはアリアバートであったが、たちまち反対意見に直面した。 「何をいまさら。奴はすでにタイタニアが差し伸べた手を振りはらい、あまつさえ、タイタニアの姓と爵位を持つ者を殺害したではないか。この期におよんで、さらに融和を求めることがあれば、タイタニアの鼎《かなえ》が軽重を問われよう」  火で焙《あぶ》られるように口調を激させたのはイドリスであった。 「ファン・ヒューリックをして罪に服せしむるべし。それ以外に選択の余地はない。ファン・ヒューリックていどの才能は、発掘すれば他にいくらでもあるはず。タイタニアの権威を棄《す》ててまで、彼の才能を生かすべき理由はない」  むしろこの際、タイタニアの団結をさらに強化するためにも、対外的にはタイタニアの決意を示すためにも、徹底してファン・ヒューリックの一党を狩りたて、厳刑に処するべきである。それがイドリスの主張であった。彼はアリアバートやザーリッシュよりも、熱烈な弁舌においてすぐれており、最年少でありながら会議の場をリードするかに見えた。  黙然と、ジュスランはこの情景を眺めやっている。 「バルアミーより、ぎすぎすとしている」  リディア姫がそう評したごとく、イドリスは圭角《けいかく》が鋭く表面に出すぎる。あの烈気《れっき》と野心を昇華させ、成熟した人格をもって自ら包容することができれば、イドリスはおのずと全タイタニアを支配するだけの偉材となりうるのではないか。そうジュスランは思うが、彼の人物鑑定眼が完全に正しいという保証はどこにもない。 「あるいはイドリスはタイタニアの主流に生まれなかったほうが幸福だったかもしれない」  そのようにジュスランは思うことがある。これは逆説でも皮肉でもなく、イドリスの強烈な向上意欲や競争意識に触れると、そう感じざるをえないのである。イドリスは、無名の家に生まれれば、その意欲のおもむくままにタイタニアに投じ、めざましい功績をあげ、栄達への階梯《かいてい》を駆け上り、その過程において深い充実感をおぼえたであろう。一段を上るごとに、さらに上方を望んで生命力を燃えあがらせたにちがいない。  だが、イドリスはタイタニア一族の本流という権門《けんもん》に生まれつき、すでにして四公爵の一員である。上にはタイタニア一族の総帥たる無地藩王《ラントレス・クランナー》の座があるのみで、イドリスは当然それを目標として思考し、行動し、策謀し、闘争せねばならない。アリアバートのように、現状において淡々と、また着実に任を果たし最善をつくすというありかたに充足《じゅうそく》しえないのが、おそらくイドリスの業《カルマ》というものであろう。イドリス自身が自負するほどの才腕と器局が彼にあるとは、ジュスランは思わない。だが、むろんイドリスは無能ではなく、徒手空拳《としゅくうけん》から身を起こして一星間国家の主権者にまでなりおおせるぐらいの力量は有している。過日は、アルセス・タイタニア伯爵を囮《おとり》としてファン・ヒューリック一党を討滅する、という任務に失敗したが、これは地域戦術レベルでの失策にすぎず、今後いくらでも失地回復の機会はある。一度負ければ破滅の淵に転落するファン・ヒューリックなどとは、基盤となる力の蓄積量がちがうのである。  イドリスがタイタニアの次期藩王となっても異とするにはたりない。ただ、そうなればタイタニアの気風が窮屈なものとなり、ジュスランなどにとってはまことに住みづらいものとなるであろう。  藩王の目がジュスランに向けられた。手の甲で音もなくテーブルの表面をたたいて思案している若い公爵の姿を見やって、藩王は極微量の皮肉をこめた声を投げかけた。 「ジュスラン卿の考えは?」  その声に刺激されたのは、イドリスの自尊心だった。先刻からジュスランは沈黙している。沈黙を望む者には、そうさせておけばよい。にもかかわらず、藩王がことさらに意見を求めるのは、ジュスランを重視しているからであろうか。そう思わざるをえなかった。イドリスの表情に向けて、藩王の視線が半瞬だけ走った。その間にジュスランは思考を現実の地平に引きもどし、手をテーブル上から引っこめて姿勢を正した。この場合、多くを語る必要はなく、多くを語る意思もジュスランにはない。彼は藩王の意思を洞察しており、それに異を唱える理由もなかった。そして、自分の洞察力にむしろうとましさすら感じながら、彼は返答した。 「ザーリッシュ卿の主張に賛同いたします。他の者よりザーリッシュ卿こそが、今回、任にふさわしかろうと存じます」  これでジュスランは、会議に先だつザーリッシュの申しこみに対して、望まれる回答で応《こた》えたことになる。俗にいう「貸しをつくった」ことになるであろう。だが、それはささやかなことであった。ジュスランにとっては、無表情でうなずく藩王の真意こそがおそろしい。藩王は、ザーリッシュにファン・ヒューリックの処置をゆだねることで、その件を、ザーリッシュ一家の私事に矮小化《わいしょうか》させたのである。後日、事態が変われば、ザーリッシュを排してファン・ヒューリックと盟約することもできるというわけだ。むろん、ザーリッシュがファン・ヒューリックを斃《たお》すことができれば、それはそれで将来の大敵を除去することになり、タイタニアにとって悪い結果にはならぬ。  ファン・ヒューリックの件が一段落すると、つぎの議案にうつった。大臣たちを粛清されたヴァルダナ皇帝ハルシャ六世が、当然ながら色を失い、不安な日々を送っている。放置しておくわけにもいかぬのでどうするか、というのであった。ふたたび意見を求められて、ジュスランは答えた。 「贈物を献上し、ハルシャ六世陛下を多少なだめてさしあげるのがよろしいかと存じます。粛清されたのはあくまでも叛意ある大臣どもであり、皇帝に対しタイタニアは害意をいだかぬことを示すべきでしょう」 「皇帝の機嫌をとるのか」  さっそくイドリスが、露骨な表現で疑義《ぎぎ》をさしはさんだ。ジュスランは再反論した。 「そのようないいかたをする必要はあるまい。ハルシャ六世を安心させてさしあげるのだ。皇帝陛下の地位と心理が安定していれば、野心家どもが妄動《もうどう》する余地も減る。いささかでも、ヴァルダナの帝室がタイタニアにとって必要であるなら、それに応じた処遇をするのは当然のことと思う」  タイタニアはこれまで形式を軽んじたことはなく、ヴァルダナ帝室に対して儀礼を守ってきた。法理的にヴァルダナ皇帝の臣下たるに甘んじてきたのであり、甘んじる以上、それにともなう礼節は順守するのが大人の態度というものである。それを見て偽善だと他人が思うのは彼らの自由だ。実際、偽善的な行為であるにはちがいない。 「ジュスラン卿の提案を是《ぜ》とする。タイタニアとしては、好んでヴァルダナ帝室と事を構えるつもりはない」  藩王アジュマーンが断を下し、やや皮肉の彩《いろど》りを声にこめてつづけた。 「タイタニアを非難する者は多くいるが、吝嗇《りんしょく》がその理由とされたことは一度もない。ハルシャ六世陛下には、充分な贈物をさせていただこう。機会を見てな」 「金品によって、皇帝の心がなぐさめられましょうか」  常識的な意見がアリアバートから出されたが、藩王アジュマーンは剛腹《ごうふく》に笑って、その懸念をしりぞけた。 「それは皇帝の心理の問題だ。彼が心なぐさめられぬとしても、それは彼が解決すべきこと。われらの知るところではない」        W    ヴァルダナ帝国の形式的な主権者である皇帝ハルシャ六世のもとへ、タイタニアより多数の献上品が届けられた。八月二〇日のことであって、それはハルシャ六世の戴冠記念日にあたる。無地藩王アジュマーン自身が宮廷を訪れて、短い祝辞を述べたが、それに関しては何ごともない。藩王の辞去後、宮廷には膨大な献上品が置き去られた。宝石、貴金属細工、絵画、彫刻、毛皮、そして遊興用のヨットに、血統正しい馬が二頭。帝室博物館への寄付金が五〇〇万ダカール。まことに、タイタニアを吝嗇とそしる者はいないであろう。だが皇帝は感銘を受けはしなかった。 「ふん、金品で歓心《かんしん》を買おうというのか。いつもながらタイタニアらしいやりかただ。自分たちの価値観をもって、他者の心を測りおるわ」  軽侮の思いを声にこめようとして、ハルシャ六世は失敗し、唇を神経質に慄《ふる》わせた。軽侮するには、タイタニアは巨大すぎる存在であった。  タイタニアの傀儡《かいらい》という境遇に甘んじることさえできれば、ヴァルダナ帝国の皇帝という地位は、むしろ他者の羨望の対象となりえるであろう。形式的ながら礼儀と敬意は充分に払われ、私生活においては栄華をほしいままにできる。国家的な大事が生じれば、タイタニアが威権と武力をもって処理してくれる。皇帝は、儀式に臨席し、詔勅《しょうちょく》に印章を押して署名するだけでよいのである。  ハルシャ六世の父帝、同名の五世は、タイタニアの掌《てのひら》から国政の実権を奪回しようとしなかった。タイタニアの意のままに詔勅を発し、閣僚を任免し、タイタニアの利益と行動を合法化するだけの存在として終始した。地上の権力に対する欲望と執着を放棄し、異なる方面で幸福をえた。複数の美女をタイタニアにあてがわれ、古典演劇を熱心に考証《こうしょう》して生涯に八冊の研究書を著《あらわ》した。いずれも厳密な考証態度と豊富な知識と鋭い分析力とにささえられ、名著として評価されている。彼が知性に恵まれていたことは疑う余地もないが、それを国政の方面に生かすことはなかった。これは惜しむべきことだろうか。だが、ハルシャ五世の三〇年にわたる在位中、ヴァルダナ帝国は政治・軍事・経済・社会の各方面にわたって、タイタニアの領導《りょうどう》のもとに安定を見た。彼の在位中、殺害されたり処刑されたりした閣僚はひとりもおらず、投獄と流刑にとどまっている。大小の戦役も前後三回にとどまり、いずれも外辺の宇宙空間における戦闘であって、非戦闘員の死者は出ていない。この他にタイタニアの私兵集団がタイタニアの利益のために戦闘行為をおこなった例はいくつもあるが、これは数に入れる必要のないことである。  このように、ハルシャ五世の在位中、ほぼ平和は保たれ、国民生活に破綻は生じなかった。反タイタニア運動に対する弾圧も緩和されて、慣用的な表現を用いれば「民は泰平《たいへい》を楽しんだ」ということになる。タイタニアの傀儡として終始した自分の立場について、ハルシャ五世は間接的に語ったことがある。 「ヴァルダナ帝室の権威など、民衆にとっては関係ないことだ」  それ以上、自らを正当化する台詞《せりふ》を口にすることはなかった。  彼の息子であるハルシャ六世は、父親のような心境に徹することができなかった。彼の心のほころびが宮中に反映し、しばしば反タイタニア運動が策動《さくどう》され、そのつど流血をもって鎮圧されていた。 「あのファン・ヒューリックという男であれば、予をタイタニアの桎梏《しっこく》から解放してくれるかもしれぬ。彼を味方にできぬものであろうか」  ハルシャ六世はそう思い、自分自身の考えに慄然《りつぜん》とした。タイタニアに対する彼の反発は、長期間にわたって蓄積されたものであったが、星雲状にわだかまっていたそれが、方向性を帯びたかに思われたのである。皇帝の胸中を知った者はただひとり、皇后のアイーシャであったが、彼女は夫に同調しなかった。 「陛下、お苦しみはわかりますが、そのようなお考えは幻想にひとしゅうございます。どうぞお迷いをお棄てくださいまし」  皇后アイーシャは夫より四歳の年少で三一歳になる。結婚して六年の裡《うち》に、男女ひとりずつの子をもうけた。帝国の下級貴族の娘で、容貌も才気もきわだったものではない。近日は肥満の傾向も見られる。だが、どうやら思慮の深さは夫を上まわるようであった。 「仮に、仮にでございます。ファン・ヒューリックなる者がタイタニアを打倒することができたとして、その後に彼がタイタニアの再来にならぬという保証がどこにございましょうか。彼はタイタニアを憎んでおりましょうが、一方、わがヴァルダナ帝国に忠誠をつくすべき理由もございませぬ」  盗賊を追い出すために猛獣を招じ入れる。そのような愚行を犯すべきではない。皇后アイーシャはそう忠告し、ハルシャ六世はその正しさを認めざるをえなかった。だが、人間の多くがそうであるように、理性的な結論は感情を満足させなかった。皇帝の心の底に、漠然とした不定型の不満がわだかまり、しだいに色を濃くしつつ増殖を開始した。それが、「どうせ後悔するのであれば、やらずに後悔するよりは……」という、衝動の理論化に結びつくまで、それほど長い時間を必要としないであろう。    ジュスラン・タイタニア公爵の皮肉な観察によれば、タイタニアは二流の人材の巣窟《そうくつ》である。雲集《うんしゅう》する人材のなかに、ドナルド・ファラーという四〇代半ばの男がいた。実際の年齢よりやや若く見えるという以外に特徴のない、平凡きわまる容姿の人物である。  この男は、ただひとつの特殊技能によって、タイタニアに不可欠の人材となりおおせている。その技能とは、外交とか行政とか財政とか軍事とか、そのようなものではなく、むろん学術や芸術でもない。彼の技能とは選挙であった。彼のスケジュール表には、何年の何月何日に、どの惑星で元首や議会の選挙がおこなわれるか、二〇年後の予定まで記されている。彼は選挙の情勢や候補者の動向について細大もらさず情報を集め、分析し、結果について予測する。予測がタイタニアにとって有利であればそれでよし、不利であれば有利に転じせしめるべく活動する。情報を操作し、金銭をばらまき、利益誘導をおこない、脅迫や暴力に訴えることすらする。一年の大半を、選挙がおこなわれる星系を飛びまわってすごし、その活動のために専用の宇宙船すら藩王アジュマーンから貸し与えられていた。ファラーの肩書は、藩王府参事官でしかないが、彼が選挙に干渉したために、地位をえた政治家、地位を失った政治家の数は、人名事典の一冊分に相当するといわれていた。  選挙に干渉するためには、巨額の資金が必要である。ファラーは、ほとんど無限の活動資金を与えられていた。パイプがタイタニアの金庫に直結しており、蛇口《じゃぐち》をひねるだけで金貨と紙幣が大量に流れ出してくるのである。その資金をばらまく過程で、あるていどの金額をポケットにねじこむ機会はいくらでもある。活動資金の〇・一パーセントを私物化しただけで、ファラーは王侯のような生活ができるであろう。そうしたところで、剛腹なアジュマーンは、とがめることもあるまい。  ところが、ファラーは、今日まで銅貨一枚すら自分のポケットにねじこんだことはなかった。藩王府の参事官ともなれば高給を喰《は》んでいることは確かだが、やはり清廉《せいれん》といわねばなるまい。それは彼に対するタイタニア中枢の信頼を高めた。選挙を食い物にして私腹を肥《こ》やし、政局を動かしたつもりで自己陶酔する薄ぎたない小悪党は、いくらでもいる。そのような輩と、ファラーは太い一線を画していた。目的のために彼らを利用しはするが、彼らを軽侮し、けっして狎《な》れあおうとしなかった。 「ファラーは全宇宙で一番の民主主義者だ。選挙制度というものを、あれほど愛している男は他におるまい」  苦笑しつつ、藩王アジュマーンがそう評したことがある。冷厳で容儀の重いアジュマーンですら苦笑せざるをえないほど、選挙に対するファラーの情熱と関心は純粋なものであった。仮に人間社会から選挙制度というものが消滅し、専制政治の世になってしまったとしたら、ファラーは絶望のあまり自殺するか、過激な革命家にでもなって専制政治を打倒するか、どちらかしかないであろう。  そのドナルド・ファラーが、タイタニアの公敵であるファン・ヒューリックを、惑星バルガシュにおいて発見したのであった。 [#改ページ]        第二章 逃亡者たちの生活と意見            T    タイタニアの公敵として知名度の高いファン・ヒューリック氏は、惑星バルガシュに悲運の身を置いていた。タイタニアのために母都市《マザー・シティ》を追われ、知人を殺された彼は、アルセス・タイタニア伯に対する復讐をとげた後、辺境星域に身を隠し、全タイタニアを打倒するべく、同志たちと語らって全宇宙規模の策謀をめぐらしていたのである……。  英雄伝説として、結果から過去を導き出すとすれば、そのように記述されるであろう。だが事実はいたって散文的なものであった。宇宙船「|正直じいさん《オネスト・オールドマン》」号に乗りこんで惑星バルガシュに到着した後、ファン・ヒューリックは、何をするべきか見当がつかず、何をしてよいかわからず、いたずらに日を送っていたのだ。もはやタイタニアと正面から対決する以外に人生の選択はありえない。そのことだけはわかっており、覚悟もできている、そのつもりである。だが具体的に何から手をつけるか、まるで思考が働かなかった。ファン・ヒューリックには実務の才能はあるのだが、現在のところ、構想力がそれに方向性を与えてくれないのである。これまで、彼の才能は課題遂行の形で発現されてきた。タイタニアの艦隊と戦闘せよと命じられて、ケルベロス会戦で勝ち、リラ・フローレンツの復讐をせねばならないと思って、アルセス・タイタニア伯爵を襲殺《しゅうさつ》したのである。 「タイタニアを斃《たお》して、その後に何が来るか」  タイタニアにかわる覇王が出現する、というのであれば、生命がけで戦うのもばかばかしい。その人物が権勢をえるために、ファン・ヒューリックが難敵を打倒してやることになる。ばかばかしいかぎりだ。彼はそう思うのだが、奇妙なことに、この男には、自分が覇者になるという発想がないのである。したがって、自分自身のために苦労しようという殊勝《しゅしょう》さも、この男には無縁だった。 「ヒューリック提督には宿題を出さなくてはだめだな。自分で予習復習をする柄《がら》じゃないから」  ドクター・リーことリー・ツァンチェンがそう評したのは、おそらく正しいであろう。ヒューリックは、当面の課題を処理してしまうと、その後はなかなか進んで事にあたろうとはしないのである。覇気に欠けている、と決めつけるわけにはいかないが、この男はあるいは短距離競走型であるかもしれなかった。精神的な瞬発力はともかく、どうも耐久と持続の能力に欠けるようである。それも、ドクター・リーにいわせれば、欠けているのではなく、出し惜しみしているということになるのだが。 「さまざまな事情から、大なるタイタニアと小なるファン・ヒューリックとは対決抗争する運命におちいったが……」  現在進行形の状況を、過去に完結した事件であるかのように、ドクター・リーは表現するのであった。彼にいわせると、たかだかヒューリックていどの小さな存在を追いまわすはめになって、タイタニアも迷惑である、ということになる。 「この対立関係が生じるについて、誰ひとり利益をえた者はおらず、当事者の全員が、自分は被害者であり受動者だと思いこんでいる。なかなかもって奇妙な事態だといわねばなるまい」  奇妙なのはドクター・リーも同様ではないか。分析されつつ、ファン・ヒューリックはそう思う。タイタニアの興亡を学術的研究の課題にしたいがために、その滅亡を促進することに加担するなど、本末転倒の極致というべきではないか。要するに、このドクター・リーという人物は、宇宙でもっとも理論武装したトラブル・メーカーだろうと、ファン・ヒューリックは思っている。現在のところは、である。万事につきどうもまだ結論を出すのは早すぎる、と、ヒューリックは考えているのだが、それが過大評価でないという保証もまたない。  ドクター・リーはというと、他人を評価するのは大好きだったが、他人から評価されることには無関心だった。たいていの人からは羨望《せんぼう》される精神構造の所有者だったのである。  惑星バルガシュは、無限に拡大しつつある辺境星域の要地であって、宇宙船と人間と物資とが大量に流れこみ、流れ出し、希望と活力と成功と失敗とが、にぎやかにダンスを踊っている。何万隻という宇宙船の列に、「正直じいさん」号はまぎれこみ、つぎに飛びたつ刻《とき》まで睡りこんでいた。だが、船内の人間どもは睡りこむわけにもいかず、それぞれの気分や気性に応じて、考えこんだり行動したりしているのである。  とにかくファン・ヒューリックは本人の意思とは関係なく有名人になってしまい、ドクター・リーの表現をもってすれば、「その名声、光に乗る」というありさまで、しかもその名声には通貨的価値がともなった。先日、彼の身に二五〇万ダカールの賞金がかけられたのである。ニュースでそれを知った当人は、椅子にすわりなおして〇の数を算《かぞ》えなおしたものだが、これは平凡な市民が家族四人で四半世紀にわたって水準以上の生活を営《いとな》むことができるだけの金額であった。まったく、タイタニアは、他にどれほど欠点があったにせよ、すくなくとも吝嗇《りんしょく》ではない。  それほど巨額の賞金が手にはいるなら、自分で自分を逮捕したいものだ。そう口に出そうとして、ファン・ヒューリックは思いとどまった。かつて同じジョークを口にしたこと、その相手が故人となったリラ・フローレンツであったことを想起し、幾重にも苦い気分に見舞われたのである。リラの件は過去の領域に属するできごとであり、彼女の死に責任があるアルセス・タイタニア伯は、いまでは耽美派《たんびは》の天国か常識人の地獄かで盛大な宴を開いていることであろう。ファン・ヒューリックに可能なことは、すべて為《な》した。あとは故人の冥福を祈るのみである。  そう割りきれればよいのだが、ファン・ヒューリックはそれができなかった。彼自身、思いがけないことだった。生前のリラが望んでいたようにタイタニアを打倒すれば、このこだわりから解放されるのだろうか。  ファン・ヒューリックは真剣に考えているのだが、他人から見れば滑稽《こっけい》であるにちがいない。この青年は密貿易船の事務長代行であるにすぎず、一惑星すら支配していないのだ。「タイタニアを斃す」など、痴者の白昼夢にすぎないであろう。  本来、タイタニアに対する彼の敵愾心《てきがいしん》は、故人となったアルセス・タイタニア伯爵個人に向けられたものであった。彼に野菜いりオムレツをつくってくれたリラ・フローレンツという少女がいて、彼女はアルセス・タイタニア伯のために死に至らしめられた。ヒューリックは彼女の復讐を果たさなくてはならなかったのだ。彼にとっては本来それだけのことであった。もともと革命とはパンをえるための戦いであるはずだ。オムレツのために戦ってどこが悪い! 「オムレツが宇宙の歴史を動かす、というわけだ。なかなかもって、食欲とは軽視すべきではない」  そう評したドクター・リーは研究と評論だけの人ではなく、行動の人でもある。ファン・ヒューリックの思惑《おもわく》などおかまいなしに、彼は反タイタニア統一戦線を結成する計画をたてていた。この統一戦線が誕生するあかつきには、軍事力の中核として、「流星旗」軍の存在が不可欠であろう。雪だるまをつくるとき、芯《しん》は小さくてもかまわないが、とにかく芯は必要なのである。ところが、流星旗軍の評判は、いまや下落の一方で、その名を聞くものは、眉と口もとを曲げつつ答えるのである。 「流星旗軍? あれはもうだめだな。タイタニアの引き立て役で終わりさ。いくら対抗しようといっても、タイタニアの藩王や四公爵に匹敵する人材なんていやしないじゃないか」  それが多数の見解というものであって、どうやら流星旗軍は、見すてられたロビンフッドになりさがったようであった。 「まあしかたない。着実にやっていくさ。一〇〇〇光年の道も一歩からというからな」  ドクター・リーが俗っぽい市民道徳を口にすると、めずらしくヒューリックが反論した。 「もっと有益な台詞《せりふ》があると思うがね」 「というと?」 「世の中それほど甘くない、というやつさ」  たいして高次元の反論でもないので、ドクター・リーの感銘を誘うことはできなかった。「大学教授になりそこなった宇宙海賊」、あるいは「宇宙海賊になってしまった大学教授」、どのように評するにせよ、ドクター・リーは、ファン・ヒューリックを素材にして、現実の地平上に大論文を書こうと勝手に決めていたのである。        U    人間が集まってグループを形成すれば、自然と担当分野が定まるという一例であろうか。ファン・ヒューリック一党において、経理を担当するようになった人物は、アラン・マフディーであった。彼は心から彼の預金を愛していたのに、うるわしい愛情もタイタニアの権力に阻《はば》まれてしまった。自分の預金に対する愛情を、正当に発揮することができなくなった彼は、金銭全般に対する博愛精神にめざめて、声をはりあげはじめたのだ。  アラン・マフディーの声量にかかわりなく、一党に活動資金が必要なことは事実であった。宇宙船「|正直じいさん《オネスト・オールドマン》」号は、栄光と誇りに満ちた武装密輸船であったが、残念なことに、富には満ちていなかった。死神より貧乏神を憎むことはなはだしいマフディーは、同乗者たちに経済観念が欠けているのを許容できなかった。 「鉱山惑星でも商船でも襲撃して金銭をかせいだらどうだ。タイタニアと本気でやりあう気なら、軍資金がいるんだ。銀河系の恒星ぜんぶが金貨に変わったってたりやしないぐらいのな!」 「本気」という前提にいささか疑問の余地があるものの、マフディーの主張の根本は正しい。人類社会全体が貨幣経済で成立している以上、軍資金がないことには、タイタニアに対して、けんかの吹きかけようもないのである。 「ええ、そうだろうが。何とかしろよ、何とか」  アラン・マフディーにしてみれば、ファン・ヒューリックを忌々《いまいま》しく思う理由こそあれ、好意や共感をおぼえるべき必然性はどこにもない。いっそのことタイタニアに売り飛ばしてやりたいくらいだが、そのような行為が自分自身の首を絞める結果を招くのは明瞭すぎるほどである。かつてタイタニアの下部機構に所属し、そこから脱走する形となってしまったマフディーとしては、タイタニアに失墜してもらわぬことには、失われた恋人を救い出すことができないのである。ファン・ヒューリックは、細胞レベルに至るまで気にくわぬ男だが、遺伝子の一部に異常なまでの軍事的才能が間借りしていることは事実なので、この男を大売出しにかけるわけにもいかなかった。そこで、ファン・ヒューリックの軍事的才能を経済的価値に転換すべく、マフディーは彼なりに思案をめぐらしている。ヒューリックの右を見ても左を見ても、おせっかいな策士たちが数式を立てているのだった。  とにかく、ファン・ヒューリックは、逃亡者として逃亡者らしくふるまうことに嫌気がさしている。ドクター・リーはそう観察している。とすれば、蓄積されたエネルギーが弾《はじ》けるにはあと一歩というところで、ドクター・リーとしては、風船を破裂させるための針をといでおく必要があった。ドクター・リーは、学問的真実のためには手間を惜しまぬ男であったのだ。そして、教訓ずきのおとなが子供に押しつけたがる童話においては、勤勉な人間がなまけ者に勝つようになっているのである。    こうして、タイタニア一族の首脳たちがファン・ヒューリックについて議論している間、当人はそれに対抗する手段を考えようともせず、多くの時間とすこしの金銭を喰いつぶしていた。「正直じいさん」の船室で考えこんでいたと思うと、ポケットに所有金をつっこんで出かけていき、同志たちに連絡もしない。歓楽街のラトゥール街だろう、と思って探しに行った旧部下たちが、すぐに彼の姿を発見したのは、どうもなさけない話であった。 「ヒューリック提督はどこにいる?」 「天井の下、女の上」  どうもジョークにもなりえぬような状況であった。ファン・ヒューリックはとくに好色とか淫乱とか称されるべき青年ではなく、健康な肉体と平凡な欲求の所有者であるにすぎない。他にやるべきことが見出せなければ、さしあたり、苦しいことより楽しい行為のほうを選ぶのが凡人というものであろう。ただし、無意識の逃避はたしかにあるので、ひとりでいるとついリラの表情や言動を想い出してしまい、ヒューリックはどうにもやるせなくなるのだった。  ファン・ヒューリックと行動をともにするふたりの旧部下、ミハエル・ワレンコフとルイ・エドモン・パジェスは、上官の手配書を見たとき、きわめて楽天的な感想をのべた。 「どうだい、ヒューリック提督もすっかり有名人になっちまったぜ。つい先だってまで、単なるお雇《やと》い司令官だったのにな」 「おれたちも、これぐらい賞金のつく身分に出世してみたいものさね」  むろん口先ほどに、彼らは自分たちの境遇を楽観しているわけではない。何しろあのタイタニアを敵にまわしたのだ。全人類社会を敵にまわしたも同様である。戦慄《せんりつ》を禁じえないことではあるが、考えてみれば、もうこれ以上おそろしい事態はありえないのだ。とすれば、開きなおって不遜《ふそん》に徹する以外、心の平衡をたもつ術《すべ》はなかった。ワレンコフもパジェスも、泣きわめいて後悔するより、笑いとばす途《みち》をごく自然に選んだのである。とはいえ、笑っているうちに顎《あご》がはずれてしまう場合もあるので、大男のワレンコフにしても中背のパジェスにしても、上官が本気を出す日の到来を待ちかねていた。  彼ら同様、ファン・ヒューリックが本気を出す日を待っている夫婦がいる。「正直じいさん」の船主であるコンプトン・カジミールと、その妻のミランダである。  ミランダは豪快な気性の所有者だが、粗雑な頭脳の持主ではない。その夫であるカジミール船長は、温厚で思慮深いかと思えば、決然として反タイタニア陣営に投じ、ヒューリックを仲間にかかえこみ、アルセス・タイタニア伯に対する襲撃に参加するなど、その行動は大胆をきわめた。「一番大胆な行為は、ミランダ女史と結婚したことだろうな」とはドクター・リーの評語であるが、ミランダ自身が笑って同意していることであるから、悪口とはいえない。  ある日のこと、ミランダとカジミール船長とが保有している人脈の糸に、ひとりの男がひっかかった。かつてカサビアンカ公国の公女殿下であったミランダは、なかなか豊富な人脈を持っていたのである。 「その男の名はサラーム・アムゼカール。どうだい、聞きおぼえがあるだろ?」  ミランダは、ファン・ヒューリックの記憶力を過大評価しているにちがいない表情で、そう確認してきた。  その名を想い出すのに、やや時間を必要としたが、結局、ファン・ヒューリックは正解に到達することができた。サラーム・アムゼカールといえば、ヴァルダナ帝国軍に籍を置いていた若い提督であり、シラクサ星域の会戦においてテュランジア公国艦隊の軍事顧問をつとめた人物であった。アリアバート・タイタニア公の完璧《かんぺき》な戦闘指揮によって敗北を喫し、母国に帰ることもならず、戦場から亡命したのだ。彼に才腕をふるう余地は与えられておらず、敗戦は彼の責任とはいえなかったのだが。それにしても、彼がヒューリックと同じ惑星の表面にいたとは。  だが、これは偶然というより、双方の選択がともに非個性的であった結果であろう。逃亡者が、さしあたり目的地としてバルガシュを選ぶのは、いわば常識であった。バルガシュに到着してから、この惑星の表面に溶けこむか、あらためて他星への旅程をたどるか、判断と選択がおこなわれるのだ。彼らに便宜《べんぎ》を供するために、さまざまな職業の人々とその集団が、この惑星において盛業を誘っている。整形外科医、証明書偽造技術者、密航業者、メイクアップ技術者など、けっして為政者から表彰されることのない人々が活動しているのだった。それらのルートから、ミランダは、失意の敗将に接触することができたのだ。 「アムゼカール提督は、タイタニアを憎んでいるし、人脈もあるからね。今後、力をあわせていけるだろうよ。あんた自身にはべつの思案もあるだろうけど、会うだけは会ってみたらどうだい」  無言でヒューリックはうなずいた。        V    アムゼカールとの対面を翌日にひかえて、それを当分、延期するはめにファン・ヒューリックがおちいったのは、九月最初の金曜日であった。彼はひとりの男に出会ったのだ。  その男は、年齢的には三〇代半ばというところであろう。醜悪な顔だちではないにもかかわらず、奇妙にファン・ヒューリックの悪感情をそそるものがあった。出会った場所は、「偶然の出会い亭」という名の酒場である。アムゼカールと対面する席を予約し、かつ下調べするために、ヒューリックとミランダは出かけたのだが、用心したつもりでも完璧ではなかった。ミランダが店のマスターと交渉している間、ヒューリックは店内の隅のテーブルでライ・ウィスキーをなめていた。と、テーブルの向こうに人影があらわれ、ことわりもせずに着座した。見たくもないものをヒューリックは見せられた。グレーの軍服と、それを自慢にしている人間とを。彼の表情を観察しながら、そのタイタニアはねっとりした口調で確認した。 「タイタニアに反逆して英雄|面《づら》をしている低能どもとは、きさまらのことだな」 「タイタニアに犬の首輪をはめられて忠臣面をしている低能どもとは、きさまらのことだな」  たがいに相手の毒舌をしゃらくさいものに感じながら、ファン・ヒューリックとタイタニアの男とは、敵意に満ちた視線をかわしあった。逃げる時機を逸したので、ファン・ヒューリックとしては、反撃の機会を探らざるをえなかった。相手が武器を所有しているかどうかも、まだ不明である。  たとえ五〇〇年の長寿をえても、この男と知己になることはありえない。その事実を、ファン・ヒューリックは覚《さと》っていた。首輪をつけられ、鎖につながれることを喜ぶ手合《てあい》と、彼は絶対に仲よくなれなかった。その気質が、結局のところ彼の人生を左右し、歴史に影響を与えることになった。ヒューリックが立ちあがると、それを制するように男も立ちあがり、尋かれもしない名乗りをあげた。 「おれはタイタニアの藩王府参事官ドナルド・ファラー閣下の秘書だ」  タイタニアの家来《けらい》のそのまた家来だな、と、ファン・ヒューリックは悪意をこめて考えた。悪意は、男のほうにこそより強かった。男は舌なめずりとともに予告した。 「きさまの悪運もこれまでだ。ザーリッシュ・タイタニア公爵が、あの剛力でお前を八つ裂きにするだろうよ。かわいい弟の仇だからな」 「かわいい」という表現に毒とも瘴気《しょうき》ともつかぬ成分がこもっていた。ザーリッシュとアルセスとの不仲は、タイタニア内部では有名な事実だった。それを告げた男の表情が激変するのを、ヒューリックは見た。肩ごしに振り返ると、ミランダがいた。マスターとの交渉を終え、オフィスを出てきたところだった。雷火をたたえた瞳になっている。男はにわかに身体を揺らした。逃げ出そうとしたのだ。 「お待ちっ」  音声が固体化されてぶつけられたような効果だった。タイタニアの軍服を着た男はよろめき、色を失い、全身の毛穴から狼狽《ろうばい》と恐怖を噴き出した。彼は目と口をあけたまま、身をひるがえそうとして、勢いよく転倒した。ミランダが、卓上の花瓶をつかんで投じ、その花瓶はうなりを生じて宙を飛ぶと、男の頭に命中して砕けたのである。 「いったいこいつは何者なんだ?」  ファン・ヒューリックが当然の問いを発すると、ミランダは背中で答えた。 「亭主の仇だよ!」  その一言で、ファン・ヒューリックは納得した。ミランダの夫であるカジミール船長は、アルセス・タイタニア伯の命令で声帯をつぶされた。やらせたのはアルセスだが、その残酷な命令を実行した者がいて、ミランダに追跡されていたのである。タイタニア内部での所属も変わり、安心していたであろうに、思いもかけず復讐者と出くわしてしまったのだ。天文学的な確率というべきだが、おそらく店の名が、一方の幸運ともう一方の不運とを招きよせたのだろう。 「さあ、とうとう再会できたよ。よくこれまで事故にもあわず元気でいてくれたねえ」  いかに表現に留意しようとも、ミランダ公女殿下が復讐への熱情で沸騰しているのは明らかだった。花瓶のかけらと、少量の血とともに引きずりおこされたタイタニアの男は、傷の痛みも忘れて必死に弁明をはじめた。 「待ってくれ。あれはアルセス・タイタニア伯がやったことだ。おれはただ命令にしたがっただけだ!」 「あの変態伯爵は、自分の罪を生命で償《つぐな》ったよ。今度はあんたの番さ。世のなか、順番はきちんと守らなくちゃねえ」  ミランダが襟首をつかんで引きずりはじめると、タイタニアの下っ端《ぱ》は悲鳴をあげた。まことにあわれっぽい、同晴を求めるような悲鳴だったが、ミランダを感傷の罠《わな》にはめることはできなかった。男の安っぽい演技を、ミランダは笑殺《しょうさい》してのけた。 「ああ、けっこうな悲鳴だね。うちの亭主は、どんなひどいことをされても悲鳴も出せないようにされてしまったんだ。きっと仲間をほしがってるだろうさ」  そのとき、周囲で笑いながら見物していた客たちの壁がにわかに崩れた。激しい物音に「タイタニアの奴らだ」という叫びがまじる。  グレーの軍服が無数に湧き出してきた。巨大な泡状の怪物が出現したようであった。制服と統制と従順と、みっつの要素が、タイタニアの兵士たちを無表情な半機械人にしたてあげている。窓の外に、ミランダは鋭く視線を放った。店内と街路をへだてる硬質ガラスの向こうで、グレーの人波がひしめいている。 「お逃げよ、ヒューリック、あんたをねらってるんだよ!」  ミランダの指摘が正しいことは、疑う余地もなかった。ファン・ヒューリックは飛びすさった。彼の頭部がつい半秒前まで存在していた位置を、硬質ゴム製の警棒が水平になぎはらった。よろめく相手の脚を、自分の脚で鋭く払う。タイタニアの兵士は、朽《く》ちた柱のように床に横転した。その悲鳴に、べつの悲鳴がかさなったのは、ミランダが、ゴム棒の一撃を、彼女の捕虜の顔面で受けとめたからである。不運な男は、味方のゴム棒で鼻柱を砕かれ、顔面を赤く染めて失神した。 「射殺してはいかん。生かしたまま逮捕するのが絶対命令だ。違反すれば、タイタニアの怒りはお前たちの頭上にこそ落ちかかるぞ」  タイタニアの怒り、という一語が、兵士たちの動きを規制した。混乱の渦の外でそう命じたのは、個性のないビジネススーツに身をつつんだ中年の男である。彼は低くつぶやいた。 「やれやれ、何とつまらん仕事だ。知恵をめぐらす余地もなければ、工夫《くふう》をこらす機会もない。私でなくともできる仕事だな」  それから気をとりなおしたように、この男は声を高めた。 「他の者は射殺してもかまわんぞ。どうせ生きていたところで社会の益にならん害虫どもだ。このさい徹底的に駆除してしまえ」  この男こそ、タイタニアにおける、つまり全宇宙における最高の選挙技術家ドナルド・ファラー氏であった。彼はアクションやテロを軽蔑していたので、今回の命令は、選挙対策の場合にくらべて、粗雑で乱暴であった。こんなくだらない仕事はさっさとかたづけて、彼は、本来の任務にもどりたかった。惑星バルガシュの代議員の半数を改選する選挙が二〇日後にせまっており、ファラーの巧妙な干渉がなければ、親タイタニア派は議席を減らすおそれが多分にあるのだった。その興奮と刺激にくらべれば、ファラーの眼前で展開されるアクションは、単に騒々しいだけであった。  むろん、ファン・ヒューリックとミランダにとっては、騒々しさが運命に直結した。ふたりは人波のなかを泳ぎまわり、殴《なぐ》りつけ、蹴とばし、身を沈めて殴打をかわし、肘《ひじ》打ちをたたきこみ、相手のゴム棒を奪いとって一撃をくらわせた。  ファラーは合計四〇回ほども舌打ちを強《し》いられた。だが「多勢に無勢」とは人間の力関係を律する最大級の真理である。グレーの軍服の群は、高潮のように叛逆者にむかって押し寄せ、つつみこみ、のしかかり、おさえつけた。何人かが突き飛ばされ、はねのけられたが、ついに彼らは半分だけ任務に成功した。男のほうは床におさえつけたが、女のほうは兵士たちの群らがるなかを魔女のような迅速さと巧妙さでくぐりぬけ、逃げおおせてしまったのである。  こうして、ファン・ヒューリックは、過日アルセス・タイタニア伯爵に捕われたのに引きつづき、今度はその兄であるザーリッシュ・タイタニア公につかまってしまったのであった。        W    我ながらよくつかまることだ、と、ファン・ヒューリックは半ば感心した。これは運が悪いのか、それとも自分がまぬけ[#「まぬけ」に傍点]なのか、そう思ったが、正解は他にあるであろう。タイタニアの組織力が、逃亡者たちの計算を上まわったのだ。マフディー中尉の論法をもってすれば、反タイタニア派よりタイタニアのほうが先に本気になったのである。  とらわれたヒューリックは、囚人としてことさら虐待されたわけではなかったが、むろん礼遇されたわけでもない。監視は厳重をきわめ、屈強としか表現しようのない男たちが、つねに複数で彼を監視した。おまけに金属製の首輪をはめられ、それに高圧電流が流れるといわれては、勇気より慎重のほうと仲よくせざるをえなかった。  ドナルド・ファラーは囚人に対して姓名を名乗ったりしなかったので、彼の正体を、ヒューリックは知る由《よし》もなかった。彼にとって氏名不詳のタイタニアは、つぎのように彼の運命を教えてくれた。 「ザーリッシュ公の御母堂は、生きたままでお前の体重を三キロ減らしてやると息まいておられるそうだ」 「ダイエットでもさせてくれるのか」  ファン・ヒューリックの返答は、想像力において貧弱であったらしい。そのタイタニアが哀れむように笑って説明するには、人間の皮膚は総重量が三キロであり、ファン・ヒューリックはザーリッシュ公の母親によって生きたまま全身の皮を剥《は》がれるであろう、というのであった。身の毛がよだつほど楽しい話で、ヒューリックの笑いは凍結してしまった。  ドナルド・ファラーにしてみれば、ヒューリックをとらえてザーリッシュ公に引きわたすなど、偶然のしかけた余技にすぎなかった。彼の情熱と関心は、選挙にしかなかった。  逃げ出す機会もなく、外部の事情もわからず、ファン・ヒューリックは一五回ほどの食事をとった。粗末ではなかったが、不振の食欲を刺激するような味のものではなかった。  それにしても、例のタイタニアがいっていたようなばかばかしい死にかたがあってよいものだろうか。そう思うと、ファン・ヒューリックは腹が立ってきた。彼はつねにタイタニアに敵対する境遇に身を置いてきたが、それは好きこのんでのことではない。ケルベロス会戦でアリアバート・タイタニアを破ったのは、彼がエウリヤ市《シティ》の都市艦隊《シティ・フリート》司令官という任にあったからだ。アルセス・タイタニアを襲殺したのは、あの変態伯爵がリラ・フローレンツを死なせたからだ。いつだってヒューリックは受動的な立場にあり、彼のほうからけんかを売ったことはないはずである。  だが、ヒューリックは考えたことをそのまま言語化はしなかった。受動的という表現が、それほど偉大な意味を持つとは思えなかったからだ。いささか自虐的な気分が彼をつかんでいた。追いつめられたら反撃する、ふん、草食動物の行動パターンではないか。むろん草食動物が肉食獣より劣るわけではない。とはいえ、同じ防御と反撃のパターンをくりかえして、飽《あ》きが来ないというのは、肉食獣にとってつごうがよい反応ではないのか。  ファン・ヒューリックが、さまざまに思案したのは、虜囚の身で、他にすることがなかったからである。だが、無為徒食の幽閉生活にも終着点はあった。それは向こうから歩いて彼のもとにやって来たのだ。ファン・ヒューリックがタイタニアの惑星バルガシュ駐在代表部の虜囚となって六日めのことであった。  留置場のドアが音もなく開き、グレーの軍服を着用した壮年の男が姿をあらわした。タイタニア軍事組織の中級士官であるらしいその男は、極端に短い頭髪と、硬く冷ややかな青い眼球の所有者で、ザーリッシュ・タイタニア公爵の幕僚カイツ少佐であると名乗った。 「来い。ザーリッシュ・タイタニア公爵閣下が、直々《じきじき》にきさまにお会いになるそうだ。きさまごときの分際にすぎたことだと思え」 「べつにおれは会いたくないがね」  ファン・ヒューリックの子供っぽい反発は、士官の感銘を一ミリグラムも誘わなかった。士官は酷薄そうな微笑を浮かべて捕虜に近づき、人権などという単語は知らないよ、といわんばかりの態度で腕をつかむと、無造作に引っぱった。ファン・ヒューリックは床の上を二メートルほど飛んで、待ちかまえていた下士官たちの輪のなかに立たされた。  グレーの壁に包囲されて、今度は八〇メートルほどの距離を歩行移動させられる。いくつかの角を曲がり、開閉するドアを通過し、ついにひときわ二次元的に大きい扉に達した。形式どおりの応答につづいて、扉はファン・ヒューリックの前で開き、彼の背後で閉ざされた。ここに至る手順が完璧なまでの機械性によって運ばれたため、ファン・ヒューリックとしては、恐怖や不安を醸成《じょうせい》させるだけの余裕もなく、貨物のように運びこまれてしまったのだ。  ファン・ヒューリックの前方に佇立《ちょりつ》している人物は、迫力と威圧感において彼を数段、凌駕《りょうが》する男だった。名を聞く必要もなかった。雄大な骨格、厚い筋肉、「武勇」という単語を擬人化すれば、この男の姿になるであろう。年齢はこの男がファン・ヒューリックより二歳下であるはずだが、外見と風格からいえば、この男のほうが年長に見える。  この男、ザーリッシュ・タイタニア公爵は、一〇秒半ほどの間、連行されてきた捕虜をながめやった。直立歩行するパンダでも観察するような目つきだった。やがて観察を中断すると、はじめて彼は口を開いた。 「ファン・ヒューリックとやらいう不逞《ふてい》な反逆者はお前か」 「ちがう」 「ちがうだと? この期におよんで自分の正体を隠そうというのか」  ザーリッシュは侮蔑の視線を捕虜の面上に投げつけた。 「仮にお前がファン・ヒューリック当人でないとすれば、いったい何者だと主張するつもりだ」 「双子の弟さ」 「ふざけるな、痴《し》れ者が!」  ザーリッシュの雷喝《らいかつ》が鼓膜を殴《なぐ》りつけ、ファン・ヒューリックは反論の態勢をととのえるのに五秒半の時間を必要とした。頭を振って耳道《じどう》の残響を払い落とし、ようやく彼はへらず口のエンジンを作動させた。 「ふざけているのはそちらだ。おれは反逆などした覚えはない。反逆とは、部下や臣下が主君に背《そむ》くことを指《さ》していうはずだ。おれはタイタニアの禄《ろく》を喰《は》んだことは一度もないぞ」 「こざかしい口をたたきおる」  舌打ちしたザーリッシュは、ヒューリックの予想に反して、腕力に訴えようとしなかった。 「まあいい。せいぜい舌に磨きをかけて、おれの母をやりこめることができるかどうか試してみることだ。縛られている者を痛めつけるのは、おれの嗜好《しこう》ではないが、母はちがうぞ。おれの母はアルセスの母でもある。それだけ言っておいてやろう」  ザーリッシュは踵《きびす》を返した。これ以上、ヒューリックと不毛な会話をかわす意思がないことを、その幅の広い背中が断言している。彼にとって、自分がとるにたりぬ存在であることを、ファン・ヒューリックは悟った。ザーリッシュにすれば、ヒューリックは「母親の二番めの息子の仇」でしかなく、母親の偏執と盲愛を鎮《しず》めるための生きた道具でしかなかった。そして、いずれ死んだ道具となるであろう。だが、このときヒューリックは決心していた。彼は充分に追いつめられていた。草食動物でさえ反撃するであろう現在の窮状《きゅうじょう》から、彼は脱してやると決意していたのきある。 [#改ページ]        第三章 火花            T    ファン・ヒューリック逮捕拘禁の報が「|天の城《ウラニボルグ》」にもたらされたのは、九月一〇日のことで、最初その報に接したのはバルアミー・タイタニア子爵あった。高級副官という立場から、彼はただちに官たるジュスラン・タイタニア公爵にその旨《むね》を伝えた。はずなのだが、彼が報告をもたらしたとき、すでにジュスランはその件を知っていた。 「ヒューリック提督がザーリッシュ公の巨大な手で襟首をつかまれたらしいな」  先をこされたと知って、かるい失望がバルアミーの瞳をよぎった。 「なぜご存じなのですか」 「ザーリッシュ公から直接、藩王殿下に連絡があった」  所有権の再確認というところであろうか。皮肉っぽくジュスランはそう忖度《そんたく》している。この件に彼はすくなからぬ興味があったが、さしあたり彼が手や口を出す理由も根拠もない。彼は「|天の城《ウラニボルグ》」にあって、政治家としての任に多忙だった。  この年八月から九月にかけて、タイタニア五家族の一員であるジュスラン・タイタニア公爵は、八ヶ国の内政や人事に干渉し、そのすべてを成功裡に処理した。それは王位継承者の決定であったり、鉱山惑星の帰属に関する法的な結着であったり、さまざまな利害や主張が、要領の悪い蜘蛛《くも》の張った糸のようにもつれあっており、それを明快に処断したジュスランの声価は高まった。 「所詮《しょせん》、力を背景にしてのことだ。外交とか調略《ちょうりゃく》とかの名に値するものではない」  ジュスラン自身はそう考えているが、だからといって彼に寄せられる信頼や好意を拒絶する必要もないことであった。世すて人にはなりえぬ以上、タイタニアの内外において彼の声価が高まり、地位が強化されることは忌避すべきではなかった。高級副官として、バルアミーは多少はジュスランの功績に貢献している。 「ファン・ヒューリックの身を、ザーリッシュ公が政治的に利用するということがありえるでしょうか」  バルアミーの提出した疑問は、ジュスランに小首をかしげさせた。ザーリッシュはどこまでも武人であって、政略的な発想とは縁が薄いと思われる。むろん、同時にザーリッシュは聖者でもないゆえ、自分の権利や利益について、まったく無関心ではないはずであった。 「ファン・ヒューリックを逮捕した、その功績をザーリッシュ公が政治的地位の強化に利用することは当然ありえるだろうな」  もっとも、ザーリッシュにしてみれば、ファン・ヒューリックを虜囚としたことなど、とるにたりぬことであろう。私的復讐心を利害に優先させることもありえる。  それにしても、ファン・ヒューリックという人物は、タイタニアの手に囚《とら》われたことで自らの未来を封印してしまうような人物であろうか。その点、ジュスランには微妙な疑問と期待がある。アルセス伯の手から逃げおおせ、イドリス公の罠をかいくぐった実績が、ファン・ヒューリックにはあるのだ。ザーリッシュ公の巨腕からも、まんまと逃げおおせるかもしれない。いずれザーリッシュは、貴重な虜囚を惑星リュテッヒにつれてこねばならず、惑星バルガシュからの長い旅路に何ごとか生じずにすむとも思われなかった。  昼食の時間になったので、ジュスランはエルビング王国の王女リディア姫を席に招待することにした。政略や術策といった、清浄でも人道的でもない世界で刻《とき》を過ごすと、精神的な換気がどうしても必要になる。一〇歳のお姫さまは、閉鎖された「|天の城《ウラニボルグ》」の空気に、葉緑素とオゾンの香に満ちた風を流しこんでくれるようで、ジュスランは公然と彼女をひいき[#「ひいき」に傍点]していた。いまやリディアは「ジュスラン・タイタニア公の秘蔵っ子」ということで、彼女の祖国にいる祖父王らよりはるかに、「天の城」では重くあつかわれている。だが当人には、おとなたちの態度など意に介《かい》する必要のないことらしい。尊大になるでもなく、自然にのびのびとふるまっている。この日も、口うるさい家庭教師から解放されたことを喜んで、明るく楽しげに食事をしていた。よけいな気分に動かされたのは保護者のほうで、ジュスランはつい一般論の形で童女に尋ねてみた。誰かが誰かを失敗させようとしたらどうすると思うか、と。返事はこうであった。 「わたしにはよくわからぬが、誰かが失敗すると喜ぶ者がいるとすれば、自分の手で失敗させようとするかもしれぬな」  リディア姫の発言には、小さからざる示唆《しさ》が含まれているようにジュスランには思われた。デザートのヨーグルトシェイクをたいらげてリディア姫が自室へと帰っていくと、ジュスランはバルアミーを顧《かえり》みて、リディア姫の意見をどう思うか問うてみた。若い子爵の返答は、まことにそっけない。 「子供のいうことです。とるにたりないのではありませんか」 「だが核心を衝《つ》いている」  ジュスランはコーヒーをすすり、さめて消えさろうとする芳香の残滓《ざんし》のなかで思案にふけった。いまジュスランは、あの姫君が一〇年後にどれほど精神的な成長と知的な成熟をとげるか、期待し楽しみにしている。美女になるかどうかは微妙なところだが、単なる造形美など無意味に思わせるような、精彩と魅力に富んだ人物になってくれるだろう。人物、そう、男女差などどうでもよい。  一方、バルアミーの思案は声になってあらわれた。 「すると、ジュスラン公はこうお考えですか。ザーリッシュ公の功績をねたむ者が、あえてファン・ヒューリックを逃亡させるかもしれない、と」  固有名詞は出さないが、バルアミーが暗に指摘したのは、何かと圭角が外にあらわれるイドリス公爵のことであった。むろんジュスランにはわかっている。 「いや、そこまで小細工するような愚かな者はタイタニアにはいないはずだ。だが、タイタニアの名を借りてタイタニアを害しようと企図する者が出てくる恐れは多分にある」  ジュスランが思いあたったのは、イドリスの名が反タイタニアの策謀家たちに利用される可能性であった。過日、藩王アジュマーンの異母兄であるエストラード・タイタニア侯爵の名が、彼らに利用されかけたように。エストラード侯はバルアミーの父親でもあったが、いずれにせよ反タイタニア派にしてみれば、タイタニア一族の分裂と対立を図《はか》るのは当然のことである。彼らはタイタニアの堅牢《けんろう》きわまる城壁をさぐって、脆弱《ぜいじゃく》な箇処を発見し、そこに破城鎚《はじょうつい》を撃ちこもうとする。エストラード侯は、異母弟に対する遠大な奪権計画を現実化させる前に、不慮の死をとげた。それが現実化する過程においては、侯爵の息子こそが重大な役割を果たすことになったであろう。  ジュスランの視線、というより正確には思考の方向性を感じて、バルアミーは表情と神経網の一部を硬化させた。彼は父の急死という打撃から、ほぼ精神的再建を果たしていた。ヴァルダナ宮廷に蠢動《しゅんどう》する反タイタニア派の粛清に没頭し、寝食を忘れた。血と涙とを一掃した後に、三〇時間つづけて深い睡りをむさぼり、ベッドに起きあがったとき、彼の精神世界ではひとつの季節が過ぎ去っていた。父の死は過去の存在になった。悲哀と後悔にさいなまれぬ自分は冷酷な人間なのであろうか。そうも思ったが、不毛な悔恨にとらわれているより、はるかにましであろう。激務が、時間を圧縮して通過させるような効果を人の心理に与えることがある。それをジュスランは知っていた。ゆえに、藩王アジュマーンの指示をそのままバルアミーに伝えて、本来はいやな役目であるはずの任務を、バルアミーに課したのである。  ジュスランは、バルアミーにとって打倒すべき、あるいは超克《ちょうこく》すべき対象であった。バルアミーが無地藩王《ラントレス・クランナー》の座を欲するのであれば、九歳年長のこの族兄《ぞくけい》を凌駕《りょうが》せねばならぬのである。むろん他にアリアバートがおり、ザーリッシュやイドリスらが藩王位とバルアミーとの間に立ちはだかっている。だが、生前のエストラード侯も第一に警戒していたのはジュスランであった。未だ三〇歳に達しないジュスランであるが、その言動は奇妙に奥深い知見の存在を感じさせるのである。それは、ただ彼だけがタイタニアの中枢にあってタイタニアの存在意義を時間的空間的に相対化することができるからであろうか。戦術的な意味からも、バルアミーはそれを知りたく思うのである。  その日、ジュスランにとって午後の最初の訪問客は女性であった。立体写真を見ると、微量に蒼《あお》みをおびた白金色の髪と水色の瞳を持つ二〇代前半の女性で、顎《あご》が張ってはいるが、明らかに水準以上の美貌である。姓名はテオドーラ・タイタニア伯爵令嬢。そう称している。じつのところ、この姓を名乗ることは未だ公認されていなかった。        U    結局これもタイタニア内部での政治的な工作と処置を必要とする事情の産物であるのだが、テオドーラという女性がジュスランのもとを訪問したのは、とある伯爵家の相続問題に関してであった。  伯爵家の名はタイタニア。これは笑話に属する事実である。タイタニアの姓を持つ者は、かならず爵位を有する貴族であった。それはともかく、この伯爵家の当主が急逝して、法律上の嫡出子《ちゃくしゅつし》がいなかったため、伯爵位と、一〇億ダカールの資産とが宙に浮いた。法理的には、六人の相続有資格者がいる。  それぞれ母親の異なる庶出子《しょしゅつし》が三人。甥《おい》がふたり、姪《めい》がひとり。この六人が、法理的には、ほぼ平等に相続の権利を有していた。あるいは、資産が六等分されることになるかもしれぬが、爵位は分割するわけにいかぬ。そう無制限にタイタニアの家門を増やすことはできぬし、タイタニアの名乗りは宝石よりも稀少なものでなければならなかった。そして、今回の客は、故人の庶出子のひとりであったのだ。  この女性客を案内してきたのは、ジュスランの侍女であるフランシアであった。リディア姫を送りとどけて、ちょうど帰ってきたところであったのだ。  フランシアもいちおうタイタニア一族の端につらなる身分ではある。といっても、末流の末流であって、ジュスランとは二〇親等ほどは離れているであろう。姓もタイタニアではない。その姓は彼女の外祖父までしか使用を許されなかった。それでもタイタニアの縁につらなるとして紹介してくれた者がいて、フランシアはジュスランにつかえることになった。二年前のことで、現在のところこの出会いは、双方にとって、すくなくとも積極的な不幸をもたらしてはいない。  フランシアに対して、その女性は一瞥《いちべつ》も与えなかった。自然な権高《けんだか》さで、貴人の侍女などは無視してのけている。ジュスランだけを対等の相手として認識しているのであり、おそらくバルアミー子爵でさえ眼中にないであろう。 「お初にお目にかかります、ジュスラン公爵さま」  型どおりの、それが挨拶であった。  ジュスランは凡人であるから、美しい女性を見れば基本的に好感をいだくが、それは観賞の対象としてである。人間としての好悪、また尊敬や軽蔑の念は、観賞が終了して後のことになる。このような場合、相手の女性も、自分の美貌を外交上の効果的な武器として用いる術《すべ》を心えているものであるから、たかだか頭蓋骨《ずがいこつ》の表皮一枚のこととはいえ、交渉や対話の前哨戦《ぜんしょうせん》としては軽視できぬ。むろん例外はいくらでもあり、エルビング王国のリディア姫などは、ジュスランが幾重にも具《そな》えている心理的な障壁を薄紙のように蹴破ってきたのである。  テオドーラ・タイタニア伯爵令嬢は、奇をてらう挨拶こそしなかったが、平凡という形容に埋もれた女性ではなかった。挑戦的な姿勢と、迅速な計算能力との存在を、ジュスランは彼女の眼光のなかに感じとった。 「おくつろぎ下さい、レディ、ただいまコーヒーを運ばせますので」  女性に対するジュスランの応対は、いちおう礼儀にかなってはいるが、さして洗練されたものではない。彼の容姿も同様だが、彼の儀礼から彼の真価を見ぬくことは困難である。二、三、上流階級|作法《さほう》テキストに見られるような会話が無個性にかわされた後、訪問者は用件にはいった。すでにジュスランが心えていたことであるが、つまり、伯爵家の相続問題に関して、自分の味方をしてほしい、ということであった。最初はイドリス公爵に協力を要請したのだが、彼が期待に応《こた》えてくれなかったため、ジュスラン公に依頼することにしたのだという。 「イドリス公は協力を拒んだのですか」  その質問は当然のものであったが、女客は半ば眉をあげつつ不快げに答えた。 「イドリス公はわたしに肉体を要求なさいました」  ずいぶんと直截《ちょくせつ》的なことだ、と、ジュスランは思った。イドリスと彼女と、いずれに対しても。女客が口を閉ざし、ジュスランは何かいわなくてはならなくなった。 「なるほど、あなたは美しくていらっしゃる。イドリス公は男として本能を刺激されたのでしょう。彼は若くて行動的な男ですから」  女客はその反応に満足しなかった。 「それだけですか」 「それだけとは?」 「わたしはジュスラン公がもっとべつの反応をなさるものと思っておりました」 「イドリス公は卑劣だ、と、そういう返事を期待していらしたわけですな」  ジュスランの瞳に皮肉な光がちらついた。彼の心理には、寛大さと狷介《けんかい》さが並存している。最初から好意や善意を要求されると、彼の脳波は、「興ざめ」と記された反応パターンに近づくようであった。むろんイドリスが高潔な対応に出たとはジュスランは思わぬが、無償でテオドーラに協力する義務も彼にはないはずである。そもそも若く充分に美しい女性が、同年輩の男性に協力を求めるとき、異性に対する自らの吸引力を計算要素に入れずにいるものであろうか。おそらく彼女は、将来その身心をイドリスに委《ゆだ》ねる可能性をほのめかすぐらいのことはしたのではないか。そしてイドリスのほうは、将来を現在に置きかえることに、さして抵抗を感じなかったにちがいない。 「わたしはイドリス公の要求に応じるべきだったのでしょうか」 「それはあなた自身の価値観によるでしょうな」 「価値観?」 「さよう、タイタニアの名と伯爵家の門地に、あなたがどれほどの価値を覚えるかということです。イドリス公があなたに要求したもの、それが不当で過大なものとお思いなら拒絶なさることです。私としては、それ以上のことは申しあげられません」  口調は穏和だが、その内容は美しい訪問客を明らかに失望させた。 「ではあなたはイドリス公の要求が正当なものだとおっしゃるのですか」 「そうはいっておりませんよ、レディ。私はタイタニアの在《あ》りようが男女平等だとはけっして思いませんし、その在りようが正しいとも思いません。ですが、あなたがタイタニアの内部において地位と特権を望むのであれば、それ相応の代価が必要だという気がします」  ジュスランは口を閉ざした。彼は浪漫主義者ではなかったので、若く美しい女性の主張が競争者のそれより正しいと思いこむようなことはなかった。正式の調停や裁定に先だつ非公式の訪問と依頼は、むしろその反対方角への疑念を誘う。暫時《ざんじ》の沈黙は、ふたたびジュスランに開口を要求した。 「タイタニアは正義の味方ではないし、人道の騎士でもありませんよ、レディ。もしそうであるなら、一族で権勢を独占し、対立者を力ずくで排除したりするわけがない。残念ですがタイタニアは俗性の最たる集団です」  仮に彼女が美貌と肉体を武器としてタイタニアの男どもを手玉にとるのであれば、それはいっこうにかまわぬ。手玉にとられる男のほうが悪い。また、タイタニアの秩序、タイタニア的なるものを否定する者が、公然と叛旗をひるがえし、実力をもって敵対するのもよい。陰謀も詭計《きけい》も、それぞれにけっこうなことだ。自分の力でやるならだ。力に対してタイタニアは敬意を払う。盗賊は尊敬されるが、乞食《こじき》は軽蔑される。タイタニアの気風で、これは唯一の美点であろうとジュスランは思っている。 「ジュスラン公はエルビング王国の王女を無償で保護なさったとうかがいました。そのなさりようは、公ご自身のお考えと矛盾するのではありませんの?」 「私もときには気まぐれをおこすことがありますよ、レディ」 「わたしに対しては気まぐれをおこしていただけませんの、ジュスラン公?」  それは甘美な誘惑であるはずだったが、ジュスランは感銘をさそわれなかった。彼はイドリスではなかった。 「残念ですが、今年の予定量は費《つか》いはたしてしまったようです。それに、他人の気まぐれなどを本気で期待なさるレディとも思えませんな」  ジュスランは立ちあがり、近い将来にタイタニア伯爵夫人の称号を獲得するかもしれぬ若い女性を、鄭重《ていちょう》に送り出した。扉が閉じる寸前に彼を直視した、鋭いほどに強い眼光をジュスランは印象に残したが、それが好意には結びつかなかった。  敵をつくってしまったのだろうか。デスクにもどりながらジュスランは自問したが、現在の段階では未だ結果は不分明であった。かるく頭を振ると、ジュスランはインターコムのスイッチを押して高級副官を呼んだ。バルアミー子爵が興味の色を殺しながら姿をあらわすと、ジュスランは命じた。 「ザーリッシュ公に、祝意を述べた通信を送ってくれ。形式どおりでいい。それと一言だけつけ加えてほしい。奪還の策謀にご注意ありたし、と」 「それだけでよろしいのですか」  バルアミーの確認に、ジュスランは微笑未満の表情でうなずいた。彼としては、これ以上にもこれ以外にも、できることはない。ザーリッシュがジュスランの忠告をどのように受けとめるか、それはザーリッシュの心理の問題であって、ジュスランが関知する必要のないことであった。        V    宇宙をさすらう不幸のヒーロー、ファン・ヒューリック氏が、ザーリッシュ・タイタニアに襟首をつかまれて以後、彼を救出するための計画は、亜音速と表現してよいほど急速に練られていた。グレーの服の大群から脱出を果たしたミランダが、「正直じいさん」号に到りついてから一時間後に、ドクター・リーの計画は基本をかためられていたのだ。  どのような基準によって判定しても、ドクター・リーはザーリッシュをしのぐ策謀家であるにちがいない。彼は策謀の正道を踏むことにした。まず第一に、敵中の敵をつくるのである。タイタニアがいかに団結を誇る集団であろうとも、完全な一心同体ということはありえない。あれば正常な人間の集団ではない。必ず、集団を構成する素材の一部に、分子結合の弱い部分があるはずだ。かくして、ドクター・リーが選んだ素材[#「素材」に傍点]はイドリス公であったが、その人選は、数千光年をへだてた「天の城」においてすでに洞察されていたのである。とはいえ、洞察が行動に直結してはいなかったので、ドクター・リーとしては、自信を持って行動することができた。彼はタイタニアの中枢神経を不当に軽視していたわけではないが、恐竜がその巨体ゆえに滅びたことを知っていたのである。  反タイタニア派の人々は苦心と苦労を余儀《よぎ》なくされていたが、平凡な市民たちにとって、宇宙の覇権や国家主権の存亡など関係ないことである。タイタニアとヴァルダナ帝室との確執《かくしつ》や対立など、遠い雲上の争いでしかなく、平和で食うに困らねば充分なのであった。それを低次元というのは酷であろう。タイタニアの支配体制が確立される以前に、彼らのすべてがより幸福で満足していたというのだろうか。自由と称した不平等と無秩序の時代ではなかったのか。  そして、この消極的保守主義こそが、タイタニアの支配を安泰なものとする大きな要素であった。古来、「パンとサーカス」という支配の法則がある。パンは生活の安定を意味し、サーカスは娯楽を意味する。パンとサーカスさえ与えておけば民衆は満足し、権力者を批判したり政治を改革したりしようという意欲を失う。現状に満足しているのだから、「もし現在《いま》より悪くなったらどうするのだ」と思い、現在のささやかな幸福を守りたいと考えるのは当然のことであった。そのような心理が社会の無意識の思潮となるところ、いささか奇怪な状況が出現する。諸国の王族や貴族が、失われた権力や特権ゆえにタイタニアを憎悪し、もともとそのようなものを持ちあわせない小市民たちは、タイタニア支配下の秩序にひとまず満足している、という図式である。むろん、タイタニアの覇権は巨大な犠牲を必要とした。だが、人々の想像力というものは、自分自身に順番がまわってこないかぎり、犠牲に対しては働かないものである。  構想が壮大であるにせよ、動機が利己的であるにせよ、「正直じいさん」号の関係者たちはファン・ヒューリックを救出せねばならなかった。にんじん色の髪にネッカチーフを巻きつけた長身の青年こそ、彼らの未来を象徴する人物であったのだ。彼らはタイタニアの公然たる敵であり、つまり現在の宇宙における少数派であった。  少数派としても、少数のままに甘んじてはいられず、味方を増やさなくてはならぬ。その第一歩が、ファン・ヒューリックとサラーム・アムゼカール提督との対面であったわけだが、ケルベロス星域会戦の勝利者がタイタニアに囚《とら》えられてしまったので、世紀の会談は無期延期となった次第である。ファン・ヒューリックとらわる、の報は、アムゼカールの精悍《せいかん》そうな眉根に失望の皺《しわ》を刻《きざ》ませたが、それも長時間のことではなかった。彼には帰るべき国もなく、いまさら人生の秒針を逆進させることもかなわぬ以上、彼にできるのは、つぎのように申し出ることだけであった。 「ファン・ヒューリックを救出するという計画があるなら、おれも一枚加えてもらおう。タイタニアの奴らに泡を噴かせてやりたいのだ。どれほど小さな泡ぶくでもな」 「けっこうだ、ぜひ手伝っていただきたい。ファン・ヒューリックにとっては、いささかばつ[#「ばつ」に傍点]の悪い初対面になるだろうが、まあそれだけに印象には残ることだろう」  ドクター・リーはそう答えて、アムゼカールを自分たちの集団に招じ入れた。彼は外見ほど超然としていたわけではなく、内心、事を急がねばならぬと思っていた。ザーリッシュ・タイタニアがファン・ヒューリックを生かして解放することはありえず、あの美髯《びぜん》の偉丈夫が目的を果たせば、歴史の大きな可能性が失われることになる。ひいては、ドクター・リーは学術研究の貴重な材料を永遠に失ってしまうのだ。これは心が傷《いた》むことであったし、彼自身も未来を失うことになる。そうならぬために彼は全知全能をふるわねばならなかった。彼が同志たちに説明したのは計画の全体像ではなく、その一部だったが、それはザーリッシュ・タイタニアに対し、「流星旗」軍の名で警告を与えることだった。 「だが、ザーリッシュ・タイタニアが流星旗軍からの警告を受ければ、よほどに用心するのではないか。当初の予定を変えるか、そこまでいかずとも警戒が厳重になり、われわれの機会がへるかもしれない」  アムゼカールがそう意見をのべた。 「ザーリッシュが現状の流星旗軍を恐れると思うかね。ありえざることだ。なぜ獅子《しし》が虱《しらみ》を恐れねばならない?」  辛辣《しんらつ》な比喩《ひゆ》を、ドクター・リーは用いた。 「ザーリッシュ公は当初の予定を変えることなどせんよ。それは彼自身の人格と存在意義を否定することだ。流星旗軍の襲来を知らされれば、巨腕を撫《ぶ》して待ちかまえるだろう、そしてそこにこそ、弱敵のつけこむ余地がある」  正面から堂々の陣を張り、戦術の巧緻《こうち》をつくしてタイタニア軍を撃砕することがかなうのであれば、むろんドクター・リーもそうしたい。だが、それができる物理的条件がととのっていない以上、詭計《トリック》を用いるしかないのである。ゆえに、ドクター・リーは詭計を用いることにしたのだが、彼の場合、正面決戦の態勢をととのえたあげくに詭計を用いるということがないとはいえない。だが、将来はともかく、現時点において、詭計以外に救出手段が存在せぬことは確かであった。 「人類がその発生当初に、正々堂々と戦っていたら、とっくに滅びていただろう」  ドクター・リーはそう語った。象の巨体も、虎の爪も、狼の牙も持ちあわせぬ無毛の猿たちは、ただひとつの武器によって猛獣たちと戦わざるをえなかったのだ。ただひとつの武器、つまり悪知恵によって。        W    ファン・ヒューリックを護送して惑星バルガシュを出立すべく、ザーリッシュ・タイタニア公爵が準備をすすめていると、一枚の通信用ディスクが彼の滞在するホテルに送られてきた。差出人は「流星旗」軍とあり、中性的な機械音声が告げる内容は、つぎのようなものであった。 「ザーリッシュ・タイタニアに告ぐ。汝が不当不法に勾留《こうりゅう》せしファン・ヒューリック提督は、当方の賓客《ひんきゃく》にして貴重な人材である。よって要求する。ただちに彼を釈放せよ。然らざれば、汝らタイタニアの本拠地|天の城《ウラニボルグ》に至ることは不可能となるであろう」  この文面は、ザーリッシュを失笑させた。彼はもともと脅迫に屈するような男ではなかったが、これは笑止《しょうし》のかぎりであった。 「鼠賊《そぞく》どもが。このザーリッシュ・タイタニアを脅迫するとは、脳神経の束が焼き切れたとみえるな。だが、おもしろい。口にしたことの十分の一もできれば大したものだ。酒の肴《さかな》にさせてもらうとしようか」 「市内に流星旗軍と称する輩《やから》のアジトがございますが、襲撃させますか」  この質問を発したのは副官のグラニート中佐であった。本来、好戦的な気質の所有者であるザーリッシュは心を動かしかけたが、それを抑制した。惑星バルガシュはタイタニアの私領ではなく、歴然たる主権国家であるから、できればトラブルをおこしたくない。ファン・ヒューリックを捕えるに際して功績のあったドナルド・ファラーから、その旨、請願が来ていた。ファラーとしては、バルガシュ政庁と公然対立するような事態になれば、自分の仕事に今後、支障を来《きた》す。タイタニアも武力と暴力だけで宇宙を支配することはできない。トラブルを力ずくで処理するのはタイタニアにとって容易だが、不必要なトラブルを増産する者が有能有為とみなされぬのは、いずこの組織にあっても同様である。ザーリッシュはファラーをホテルに呼び、くわしく話を聞くことにした。  ドナルド・ファラーの話は意外なものであった。つまり「流星旗」軍は内部分裂し、タイタニアへの帰順を求める一派が出現しているという。その一派がザーリッシュ公のお役に立ちたい、と申しこんできた、と。  ザーリッシュは一笑した。 「流星旗軍ごとき手合《てあい》の助力を、タイタニアが必要とすると思うか。自分たちを高く売りつけるのも、ほどほどにしろ」 「おそれながら、公爵さま」  うやうやしく、だが媚《こ》びる色なく、ファラーは反論した。 「流星旗軍がタイタニアに対し不逞《ふてい》なる反抗をつづけていた事実は、全宇宙が周知のこと。その流星旗軍が帰順するとすれば、あらためてタイタニアの威武に全宇宙が舌を巻きましょう。そうお思いになりませんか」 「ふむ……」 「しかも今回は戦わずして。実戦と和平と、双方において流星旗軍を屈伏せしめたザーリッシュ・タイタニア公爵さまの政治的手腕は正当な評価を受けることになろうかと存じますが」  政治的手腕、という一語は、ザーリッシュの心理をくすぐった。彼が全タイタニアの総帥たらんと望むとすれば、武勲においては間然《かんぜん》するところがない。だが、自他ともに認めざるをえない弱点は、政治と外交について経験と功績がすくないことであった。その点で、彼はアリアバートやジュスランに対し、いちじるしい劣位《れつい》にある。流星旗軍の半ばが無血で帰順したとすれば大きな得点となるであろう。だがザーリッシュがファラーに答えたのは、つぎのような台詞《せりふ》であった。 「その帰順を求めているとやらいう者どもに伝えろ。本気でタイタニアに忠誠を誓う意思があるなら、帰順反対派の頭《かしら》だった者を一〇人ばかり死体にしてつれて来るように、とな。その旨、正しく伝えろよ」 「生かしたままではいけませんので?」 「ファン・ヒューリックめは生かしたまま母上のもとにつれていかねばならんが、他の雑魚《ざこ》どもにその必要はない。もし帰順派とやらがその条件を容《い》れぬとしたら、まとめてたたきつぶしてやるだけのことだ」  再反論しようとしてファラーは断念し、黙然と一礼した。ザーリッシュは甘い男ではなく、この反応は英雄的な気概ゆえと解釈しておくべきであろう。ファラーはザーリッシュ個人の家臣ではなく、これ以上つよく忠告する義務もなかったのである。   「だいたい反応は予想の範囲内だった。当初の計画はそのまま実行する」  ザーリッシュ・タイタニアの反応を知って、ドクター・リーは「正直じいさん」号の同志たちにそう告げた。彼がザーリッシュの反応を知ったのは、ドナルド・ファラーを通じてである。むろんファラーはドクター・リーの同志になったのではなく、流星旗軍の帰順を餌として策略に乗せられたのであった。ドクター・リーの人脈の地下茎は広範囲にわたっており、タイタニアの下部組織や地方機構にも触手が伸びていたのである。 「ザーリッシュは、流星旗軍の幹部たちの首を要求してきた。粗野に見えるが、なかなかどうして油断ならぬ要求だ」 「それも最初からあんたの計算にはいっていたんじゃないのかい、ドクター・リー?」  ミランダが質問の形で確認すると、教授になりそこねた海賊は一瞬、悪戯《いたずら》こぞうのような表情を目もとにたたえたが、すぐにそれをかき消した。せきばらいをして天井を見あげる。カジミール船長が温顔に、きかぬ気の弟でも見るような微笑をたたえた。リーは話題を変えた。 「さて、つぎは流星旗軍だな。名義を借りた以上、いちおう挨拶はしておく必要があるだろう」  ネオンサインが輝いているわけではないが、惑星バルガシュには流星旗軍の公然たるアジトが何ヶ所もあった。ドクター・リーは、非主流であり嫌われ者であったが、いまなお流星旗軍の幹部であるにはちがいない。幹部会議に出席する資格があり、それを招集する権利もある。ドクター・リーは正当な権利を行使し、ただちに六五名の幹部に招請を発した。二重三重の意味で、彼には、形式をととのえておく必要があったのである。  ミランダ、カジミール船長、マフディー、パジェス、ワレンコフ、そしてアムゼカールにそれぞれ指示を与えると、ドクター・リー自身は、流星旗軍のアジトのひとつに出かけていった。そこは歓楽街ラトゥールまで徒歩三分、繁華な商業地区の一角にあるクラブであった。人里はなれたアジトなど、出かけるにも不便であるし、敵対者が遠慮なく攻撃できる。そのようなものは愚かしいだけであった。 「ドクター・リーの発言は正しいが説得力がない」  という評価は、評される当事者が認めざるをえないところであった。結局、彼の才能と構想は流星旗軍の内部に発揮の場を求めてえられず、ドクター・リーは流星旗軍を見離したのだ。流星旗軍にしてみれば、「あんな奴に見離されて幸いだ」ということであったのだが、残念なことに、家を飛び出したはずの放蕩息子が舞いもどってきたのである。このやたらと頭が良くて口の悪い放蕩息子は、前非を悔いて帰宅してきたのではなく、爆弾をかかえて家族を脅迫しに来たのだった。  ドクター・リーの招請に応じて参集した流星旗軍の幹部は二〇名であった。招待状のうち四五通は無視されたわけである。参集した二〇名もいやいやであって、ドクター・リーの亡くなった伯父に対して義理を立てたというべきであった。その義理も、ドクター・リーの実物を前にし、発言を耳にしたとき、一〇〇光年の彼方へ吹きとんでしまった。出席した一同に挨拶し、酒を勧《すす》めると、ドクター・リーは、流星旗軍を糾合《きゅうごう》し、総力をあげてタイタニアに対抗すべきだ、と、激烈な煽動《せんどう》演説をおこなったのである。その過激さと非現実性にあきれた一同が、拒絶の意思を表明すると、リーは表情をさました。沸騰していた湯が、二瞬ほどで冷却して氷と化したような唐突な変化だった。 「そうか、誰も応じてくれないのか。それならしかたない。私は流星旗軍の名を守るために、最後の手段をとるとしよう」 「なに、どういう意味だ……!?」 「流星旗軍などというりっぱな名は、あんたたちにはふさわしくない。いまさらタイタニアの武威に恐れて抵抗の初心を忘れるなど、恥ずべき大勢順応だ。私は君たちから、流星旗軍の名をとりあげることにする」  呆然《ぼうぜん》としてドクター・リーを眺めやった一同は、驚愕《きょうがく》の箍《たが》がはずれると同時に、哄笑《こうしょう》を爆発させた。笑いの男性合唱がたっぷり五楽章ほどつづいて、フォルテからピアノへと変わりかけたとき、ドクター・リーの、嘲笑《ちょうしょう》にも傷つくことのない冷静な声が一同の頭上に投げかけられた。 「人間は、できの悪い冗談には笑えぬが、たちの悪い事実には笑えるものらしいな。まあ泣かれるよりはましだから、ご一同の反応は、ありがたく受けとっておく。本日はお疲れだった。解散させていただくとしよう」  一同は、笑い疲れて表情をつくる力を失った顔を見あわせ、視線を転じた。立ち去ろうとするドクター・リーの後姿が、ドアによってさえぎられた。  こうしてドクター・リーは流星旗軍に対する義理や遠慮をアンドロメダ星雲のむこうがわへ放り投げ、反タイタニア派によるファン・ヒューリック救出作戦が発動されることになったのである。 [#改ページ]        第四章 二度めは最後の例ならず            T    ザーリッシュ・タイタニア公爵は、惑星バルガシュの東サンジョアン地区にあるホテル・アルハンブラに滞在している。むろん彼は平凡な旅客ではなく、そもそもこのホテル自体がタイタニアの所有物であって、全館が彼の専用に供されることになったのであった。彼がいかに巨体であっても全フロアを使用することはありえず、最上階のスイートルームが彼と四人の情人《ミストレス》に供された他は、随員や兵士の宿泊に使用されている。地下のクラブはザーリッシュ公の指示によって兵士たちに無料開放され、彼らはつねならば近づくこともかなわぬ豪奢《ごうしゃ》な酒と女の庭園に踏みこんだ。彼らは主君の気前よさを絶讃しつつ、年代物のワインを瓶から直接に飲み下し、歌い踊り、コンパニオンの女たちにキスと抱擁を要求した。まったく、タイタニアの最末端にも最末端なりのささやかな特権があるのだった。  一方、ザーリッシュ公の客人であるファン・ヒューリック氏は、狭小なシングル・ルームの一室で幽閉生活を送っている。偉大なるザーリッシュ・タイタニア公と同宿たるの栄誉をになったわけであるが、感激する気にはなれなかった。室内に三台のモニターカメラ、ドアの外に武装した半ダースの警備兵、さらにエレベーター・ホールや階段の昇降口にも兵士が配置され、中庭をへだてた対面の客室からは、ガス弾の発射装置が不機嫌そうに、窓辺のファン・ヒューリックを睨《にら》んでいるのだった。殺風景としか評しようのない室内を見わたし、ヒューリックは皮肉に考えた。どうやらザーリッシュは、虜囚が巨人ガルガンチュワ級の腕力を有するものと考えているらしい。ザーリッシュ当人がひとりで監視していれば、ヒューリックはそれこそ手も足も出ぬものを。  ヒューリックの意見は、むろんタイタニア大貴族の耳にはとどかなかった。ヒューリックの身命に対して妄執《もうしゅう》をいだいているのは、ザーリッシュの母親であってザーリッシュ自身ではなかった。武器を持ったヒューリックが一万人も集まったのであればともかく、現在のところザーリッシュにとってこれはかなり私的な義務であるにすぎなかった。義務を果たすについては、さまざまに、わずらわしい瑣末《さまつ》事がともなう。たとえば、直接にヒューリックをとりおさえたタイタニアの男が、ザーリッシュに面会してこう質問したことなどだ。 「まちがいなく賞金は支払っていただけるのでしょうな」  いかにも小人らしい質問が気に入らなかったのであろう。ザーリッシュの力強い眉が不快げに動いた。そして、それだけで相手を畏怖させるには充分であった。男は色を失い、卑屈そうに眼光を消し、やたらと頭をさげて退出した。臆病と思われるのは、ザーリッシュにとって最大の侮辱であったが、吝嗇《りんしょく》といわれるのもそれに劣らず不快なことであった。彼は副官グラニート中佐を呼び、男に賞金を支払ってやるよう命じた。「現金でだぞ」と指示したところに、ザーリッシュの感情があらわれている。グラニートが手配のために去ろうとすると、ザーリッシュは彼は呼びとめ、宇宙空間において艦隊戦をおこなう用意はととのっているか、と尋ねた。いますぐにも、という返答をえてザーリッシュは満足し、襲いくる流星旗軍の蝿《はえ》どもをたたきつぶして凱旋《がいせん》する近未来の光景を心に描いた。会心の獰猛《どうもう》な笑いが美髯をゆるがせた。  ミハエル・ワレンコフとルイ・エドモン・パジェスは、その日、ホテル・アルハンブラの警備状況を肉眼偵察するために東サンジョアン地区に出かけた。ザーリッシュは自らの所在を隠すようなことはしなかったし、彼が虜囚を手もとに置いていることも明らかである。その意味で、襲撃目標は最初から明確なのだが、警備が重厚をきわめることも確実であった。そもそも、ザーリッシュ・タイタニア個人が難攻不落の歩く要塞である。  体格と膂力《りょりょく》の双方から見て、ワレンコフはさほどザーリッシュに劣るものではない。だが、いざ戦うとなれば、迫力で負けてしまうのではないか。パジェスはそう観察している。もともとワレンコフは、けっして好戦的な性格ではないので、彼が軍人になったのは、パジェスもそうだが、ひとえに生活のためであった。 「ドクター・リーは、宇宙空間でザーリッシュ公を襲撃すると見せて、じつは地上でヒューリック提督を奪回するといったが……」  パジェスはとがりぎみの顎《あご》をなでつつ、細い眉をしかめた。どことなく、猟師と猟犬を相手に策を練る狐《きつね》のように見える。 「どうもこの分だと計画だおれになりそうだな。つつくような隙なんてありはしない」  するとワレンコフが、たくましい肘《ひじ》で僚友の腕をつついた。彼の太い指が、パジェスの視線を誘った。彼らの傍の壁にポスターが貼られ、ある集会についての案内と来賓の名とが記されていた。パジェスはそれを読み、ワレンコフにむかって諒解の印に片目をつぶってみせた。        U    惑星バルガシュの中央宇宙港には、タイタニアの紋章を外壁に刻印した武装船が五ダースほども船首をそろえていた。さらに衛星軌道上には一〇〇隻単位、惑星から五〇万キロ宙点には一〇〇〇隻単位の軍艦が展開している。ザーリッシュは本気であった。誰が見ても本気で敵対者をたたきつぶす気である。 「何ごとだ、いったい。戦争でも始まるのか」  そう不審の声をあげたのは、宇宙港に降りたち、地上車の後部座席に身を沈めた中年の男性だった。個性に欠けるが上品なスーツを着こんでいる。 「ザーリッシュ公がこの宙域の軍を呼集なさったとのことです、伯爵さま」  そう助手席の男が答えた。 「ザーリッシュ公か。あの荒武者どのは、事を大きくするのがお好きじゃな」  後部座席の男は皮肉のスパイスを目もとと口もとにたたえた。地上車が動き出す。宇宙港の照明が地上車の窓を光の帯となって走り去っていった。 「伯爵さま、お声が大きゅうございます」  助手席の男が眉と声をひそめた。秘書役ででもあろうか、痩身《そうしん》でやや神経質そうな三〇代前半の青年である。 「ザーリッシュ公の配下の者に聴こえたら、お立場が悪くなりましょう。ご注意くださいませ」 「やれやれ、思うこともうかつに口に出せぬか。同じタイタニアの名を負っていても、雲泥《うんでい》の差だて」  男の名はエルマン・タイタニア、当然ながら爵位を有する貴族で、伯爵位にある。年齢は四七歳で、数ヶ国の宮廷顧問官や王室参事官、さらに名誉大使や財団理事や大学評議員など、三ダースほどの肩書を所有していた。風貌もだが、才幹にも実績にも、これまで特筆すべき点はない。無害で平凡な人物と見られていた。偏見とはいえなかった。  エルマン・タイタニア伯爵は、気楽で羨《うらや》むべき身分の人物といってよいであろう。タイタニアの一族にあっては本流でも末端でもなく、ほどほどの地位と富を確保して、悠々と自適している。強大な権力と高い地位を望むのであれば、タイタニア一族の者は常人より優れた才識と努力と実績を要求されるが、競争から離れてしまえば、飢える心配もなく、いくつかの名誉職をえて安楽な一生を送ることができるのであった。アルセス伯爵なども、奇妙に歪曲《わいきょく》された美的感覚とやらを持ちあわせず、平凡に徹していれば、不本意な死にかたをせずにすんだであろう。  権力から離れたタイタニア一族の者からは、しばしば学術や芸術活動に業績をあげる人物があらわれる。生活の心配もなく、好きな趣味に没頭できるのが大きな一因である。エルマン伯は、自身に創造の才はなかったが、いくつかの学校や基金を営《いとな》んで、そこから幾人かの人材が育つであろうと期待されていた。それは必ずしも芸術家や創作家にかぎらず、実務に長じた技術官僚《テクノクラート》としてタイタニアの組織で栄達する者もいるであろう。  その翌日は、惑星管理官《ロカートル》協会のセミナーが開催されることになっており、その開会式で祝辞を述べるのがエルマン伯の所用であった。タイタニアの貴族は、儀式や祭典に列席して祝辞を述べるのに適役とされている。たとえ形式であり虚礼であるとしても、社会で複数の集団や組織が並立している以上は、呼んだり招かれたりが必要であるし、どうせ形式をととのえるのであれば、花瓶に花が必要なごとく、来賓席にはタイタニア貴族が似つかわしいという次第であった。男爵号を持ち、何とか貴族の末席に身を置くことができている者のなかには、辺境を渡り歩いて小さな式典にまで顔を出し、謝礼と宿を提供されて生活している者もいる。タイタニアは強大で豪奢《ごうしゃ》だが、権力中枢から遠ざかるほどに、恒星の光の恵みが薄まるのはぜひもない現実であった。  エルマン・タイタニア伯爵は、沈黙のうちに地上車での時間をすごしたが、それも長い体験ではなかった。地上車が宇宙港と市街との中間地点をすぎた直後に異変が生じたのだ。夜の奥から湧き出た四台の地上車が、伯爵の車の前後左右を包囲し、車体を密着させてきたのである。運転手は狼狽《ろうばい》し、脱出を試みたが、五分ほど悪戦苦闘した末、抵抗を断念した。車は幹線道路をはずれた針葉樹林のなかに停車させられた。銃を手にした複数の人影があらわれると、秘書官は声を上ずらせて、遅まきながら誰何《すいか》した。 「何者だ、無礼な!」 「エルマン・タイタニア伯爵と知っての狼籍《ろうぜき》なのだな、これが」  平然と先まわりされて、秘書官は、いうべき言葉を失った。狼狽したように、後部座席の主人を眺めやる。伯爵は腕を組んで無言のまま、事態を傍観するようすであった。その顔を直視して、攻撃者のひとり――ドクター・リーが口を開きかけると、伯爵が穏やかに先を制した。 「命令されたり脅迫されたりするのは好かんな。見たところ君は私より年少だ。年長者に対して礼をつくしなさい。そうすれば私としても礼をもって応えようじゃないか」  そういわれたドクター・リーは、伯爵を鋭く観察した。伯爵の態度は悠然としており、声も沈着で、虚勢を張っているようには見えぬ。観察の時間がありあまっているわけではないので、二瞬ほどでドクター・リーは態度を決せねばならなかった。彼は無力化ガス銃をホルスターにおさめ、同志にも武器を引くよう指示してから、鄭重《ていちょう》に伯爵に降車を請うた。  ドクター・リーとミランダ、パジェスとワレンコフ、アムゼカール、ほか四名が、伯爵を襲撃したグループであった。目的は殺害ではない。ドクター・リーの多様な並行作戦の一環として、エルマン伯爵を誘拐し、人質として、ファン・ヒューリックとの交換を求めようとしたのであった。それと話を聞かされて、エルマン伯爵はおっとりと笑いを浮かべた。 「残念だが、私に人質としての価値はないよ。私はたしかにタイタニアの伯爵だが、同格の者は、そう、一〇〇人近くいる。たった一パーセントを失うために、タイタニアが脅迫に屈すると思うかね」 「おっしゃるとおりですな」  ドクター・リーは意外さを禁じえなかった。エルマン伯爵といえば無害無益の人で、タイタニアの中枢権力に近づくこともなく、それだけに才幹を苛烈《かれつ》な試練にさらすこともなく、俗にいう「飼い殺し」の身分に甘んじている凡人ではなかったか。だが、ドクター・リーの眼前にたたずむ中年の男性は、ごく自然な品位のなかに厚みのある知性を具《そな》え、なかなかに端倪《たんげい》すべからざる人物であるように思われるのだった。 「そんなことより、もっと有効な策《て》がある。私を君たちの交渉代理人にして、タイタニアの中枢と話しあってみんかね」  この申し出は襲撃者たちの意表を突きすぎ、反応は沈黙によっておこなわれた。 「理由はこうさ、唐突に思えるだろうが」  エルマン伯爵が説明したのは、つぎのようなことである。いまエルマン伯爵が反タイタニア陣営と通じ、人脈を築いておけば、将来、外交折衝をおこなう余地が生まれる。即時の効果があらわれることはないにせよ、今後幾世代にもわたってこのチャンネルが開放されていれば、時代の変化に応じて、両陣営の政戦両略により多くの選択肢を与えてくれることになるであろう。そうなれば、双方にとって幸いなことであり、また自分自身、今日までの無為《むい》から解放されて、残された今後の人生に意味を持たせることができる。ひとつ考えてみれくれぬだろうか……。 「話はわかった。なかなか理論的だ」  ドクター・リーにしてみれば、これは最大級の讃辞といってよい。彼はここではじめて自分の正体を明かし、「流星旗軍のドクター・リー」と名乗った。用心のため、他の者は名乗らなかった。 「だが、エルマン伯、あなたはそのつもりでも、タイタニアの他の者はどう思うだろうか。ザーリッシュ公など、あなたを一族の裏切者、赦すべからざる背信者と決めつけるかもしれない。その危険をご考慮の上で提案なさるのか」 「ザーリッシュ公はタイタニアの藩王ではない。すくなくとも現在のところはな」  含みの多い返答だった。ドクター・リーは脳神経回路を歩きまわる思考に加速を命じた。エルマン伯は現在と称して、じつは将来を語っているのではないか。このタイタニア貴族は、「反タイタニア陣営との対話チャンネル」を武器として彼個人の力を増大させ、タイタニアの権力中枢に外交家として確乎《かっこ》たる地位を築くつもりであるかもしれなかった。 「野党なき与党は堕落し、矮小化《わいしょうか》する。タイタニアを打倒することができぬていどの敵は、タイタニアを律するために必要だ。それが結局はタイタニアを永続させるだろう」 「それがあなたのお考えですか、伯爵」 「私だけとはかぎらんよ」  ここでミランダが口をはさんだ。 「つまるところ、すべてがタイタニアのために存在するってことかい。傲慢《ごうまん》なことだね」 「さよう、傲慢だとも」  重々しく、伯爵はうなずいた。 「だがその傲慢さは、事実と真実とにささえられておるのさ。真実のほうはいうまでもないな。事実のほうはといえば、見るがいい、タイタニアは健在にして無敵なり、だ」  エルマン伯は人が悪そうに笑い、ドクター・リーもミランダも反論しえなかった。たしかにタイタニアは武力のみをもって宇宙に覇を唱えてきたわけではない。氷の鞭《むち》が数閃《すうせん》する間には、甘美な蜜が振りまかれた。これまで最大の公敵であった星間都市連盟《リーグ》に対してさえ、外交と対話のチャンネルを封鎖することはなかった。タイタニアは和戦いずれにおいても人類社会の主導権を握りつづけ、必要に応じて味方を増やし、敵をつくった。今度は敵をつくる順番のほうだということか。  アムゼカールが苦《にが》い唾《つば》を口もとにためた。 「つまりおれたちはタイタニアの掌《てのひら》の上で剣の舞を演じているだけのことか。なさけないことだな」 「剣が掌を突き刺すこともあるだろうさ。そのときはタイタニアは滅びる。エルマン伯もご承知だろう」  ドクター・リーの視線を受けて、エルマン伯は動じる色もなかった。 「いっておくが、私はタイタニアの一族だ。タイタニアの不利を謀《はか》るようなことはしない。その意思もないし、義務もない。これは当然のことだと思うが」 「たしかに」  短く答えて、ドクター・リーはふたたび思考を加速させた。すでに決断は下されていたが、できれば確認しておきたいことがある。 「僭越《せんえつ》ながら推測させていただくに、エルマン伯は、次期の無地藩王《ラントレス・クランナー》について何やらお考えがおありのようだ」  エルマン伯の答えはなく、ドクター・リーもそれを求めてはいなかった。このとき彼らは、あるいは精神的な鏡をのぞきこんでいたのかもしれない。ドクター・リーは無言で一礼し、エルマン伯の提案を受ける意思を示した。意外きわまる協商《きょうしょう》が、こうして成立した。        V    予定より一時間ほど遅れて、エルマン・タイタニア伯爵はホテルに到着した。これはザーリッシュ・タイタニア公爵の宿とは異なる。同宿すればエルマン伯としてはまことに窮屈な思いをすることになったであろう。部屋に落ちつくと、エルマン伯は、まだ蛍光色の顔色をしたままの秘書官に命じて、ザーリッシュ公に対する挨拶の通信文を送らせた。直接の通話を避けたのは、彼自身の意思であるが、ザーリッシュ公のつごうを考慮したからでもある。ザーリッシュ公は情豪であり、寝室に儀礼的な通話を持ちこまれては不快を感じるであろう。 「エルマン伯爵、ああ、たしかそういう御仁《ごじん》がいたな」  伯の予想どおり、寝室で通信文を受けとることになったザーリッシュとしては、そのていどの認識でしかない。公爵と伯爵とでは、間に侯爵をはさむだけの階位差でしかないが、タイタニアの姓を有する公爵とは、すなわち宇宙の支配者であって、列王諸帝の上に立つのである。これに対し伯爵は、極端なところ血統保持者としての存在意義を有するにすぎず、両者の懸隔《けんかく》は、たとえれば銀河系と他の星雲との距離ほどに大きく深いものであった。  エルマン伯爵に対しては、形式どおり答礼の通信を送り、それでザーリッシュは同じ惑星上にいる同族のことを忘れ去ってしまった。彼はべつの同族のことを気にしていた。イドリス・タイタニア、彼は伯爵ではなく、ザーリッシュと同等同格の雲上人である。ジュスラン公から慶賀《けいが》と忠告の通信がもたらされ、それと同時に、出処不明ながら、イドリス公がザーリッシュ公の功をねたんでいるという情報ももたらされたのである。 「イドリスごとき孺子に何ができる。ジュスラン公にしても枯尾花《かれおばな》を気にするような年齢ではあるまいに」  ザーリッシュは吐きすてた。彼はイドリスより二歳の年長でしかないが、外見は一〇歳ほども年齢差があるかに思われる。ザーリッシュも、年長者であることをことごとに強調する言動を示してきた。ザーリッシュは、アリアバートとジュスランの両公爵よりは一歳の年少だが、こちらはその差を埋めるために髯《ひげ》をたくわえ、彼らより年長と一見されるように容貌をつくってきたのである。このように観察してくると、ザーリッシュが、年齢という微妙な要素を自らに利せしめるため、細心に配慮してきたことが瞭然《りょうぜん》とする。おそらく、アリアバートやジュスランが考えている以上に、ザーリッシュは政治的思考を働かせる人物なのであろう。もっとも、基本的に彼は武断派に分類される人であり、髯をたくわえる件などは、政略というより戦術的な威圧に属するやりくちであろうが。  いずれにせよザーリッシュは、ジュスランからの通信に重きを置かなかった。彼はタイタニアで最強の存在になりたいと念じており、それは宇宙で最大の存在になることを意味した。ザーリッシュはジュスランに一目《いちもく》置いてはいたが、この族兄《ぞくけい》の真価を理解していたとはいえない。ただ、それはおそらくジュスランも同様であり、血と遺伝子を分けあう間柄であっても精神世界を共有しえるとはかぎらぬことは、歴史上に無数の例が存在するのだった。    ザーリッシュは不愉快であったが、彼の虜囚の不愉快さも、なかなか念のいったものであった。身体の自由を奪われただけでなく、味覚の自由も奪われていた。野菜いりオムレツを食わせろと要求したのに、一度もかなえられなかったのだ。いまも彼の前にあるのは、植物蛋白《グルテン》のカツレツと、冷凍もののミックス・ベジタブルと、人肉を煮こんだのではないことだけが確かなえたいの知れないシチューだった。  食物にトランキライザーぐらい投入されているかもしれぬ、大いに可能性のあることだった。ファン・ヒューリックはそれほど諦《あきら》めのよい性格ではなかったはずだが、脱出計画を案出するにも、思考が粘着性を欠いた。知的持続力とでも呼ぶべきものが、明らかに彼を見離していた。 「スランプだなあ、カルシウムが不足してるのかな」  そうつぶやいて、彼は、植物蛋白《グルテン》のカツに合成樹脂製のナイフを入れた。入れて、二秒半ほどの間、考えこむ素振《そぶ》りをした。それからあらためてナイフを動かし、ついにはそれを放り出し、原始人のように指先に頼った。カツの熱さを低声でののしりながら作業をつづけようとして、不意に彼はそれを中断し、立ちあがった。「こんなものが食えるか!」とどなって、他の皿やカップをモニター・カメラに投げつけ、「こんな残飯、トイレに捨ててやる」と宣言すると、カツをつかんでトイレに駆けこんだ。そして三分後、トイレから出てきたときには、蒼白な顔になっていた。  ファン・ヒューリックは激しく嘔吐《おうと》していた。テーブルに手をついて身体をささえようとし、失敗して盆《トレイ》を引っくりかえす。まだ盆上に残っていた食器と食物とが不協和音の交響曲を高らかに奏《かな》でた。モニターカメラが、床に引っくりかえった虜囚の姿を映し出し、コーヒーをすすっていた警備兵の視神経に情報を送りこんだ。  警備兵は狼狽した。だいじな虜囚に死なれては、彼が責任を問われることになる。彼はコーヒーカップを放り出したが、すでに全容量を胃に流しこんでいたので、ささやかな洪水は生じずにすんだ。 「ファン・ヒューリック服毒」  周章狼狽《しゅうしょうろうばい》の四文字が突風と化してホテル内を駆けぬけ、高貴なるザーリッシュ・タイタニア公爵閣下も、同衾《どうきん》していた黒い髪の美姫を突きとばして起きあがった。ファン・ヒューリックが自殺を図《はか》ったかと思われたのだが、どうやら何者かに毒物を盛られたようだ、との報告がもたらされたのだ。あわただしく軍服に着がえて、彼は恐懼《きょうく》する部下たちの前に巨体をあらわした。  誰がそのようなことを命じたか。よけいな所業《まね》をしおった犯人をすぐに捜し出せ!」  公爵の怒号に応じて、ホテルの専属医師が進み出た。これは万人にとって意外なことであった。 「おそれながら、公爵閣下の母君よりのご命令でございます」  これは自白であると同時に告発であったから、豪毅《ごうき》なザーリッシュも一瞬、声をのみ、中背の繊弱そうな医師をにらんだ。 「嘘をつくな!」 「いえ、嘘ではございませぬ。母君のご命令は、ファン・ヒューリックなる者を死なずに苦しめよ、とのことでございました。ゆえに毒も致死量ではございませず、ファン・ヒューリックの生命に別状はございませぬ」  ザーリッシュの太い眉が痙攣《けいれん》した。母のやりそうなことだ、と思ったとき、彼は相手の弁明を受け容れざるをえなかった。呼吸を静め、彼はようやく抑制した怒気を音声化して吐きつけた。 「よし、わかった。ファン・ヒューリックを死なせたら、きさまはわが母上の命《めい》に背いたということになる。そのときはおれが母上の息子として、きさまの罪を問うぞ!」  ザーリッシュは巨大な拳で宙を撃った。風圧で人がよろめくかと思われるほど強烈な空撃であった。何もかも、この姿顔雄偉《しがんゆうい》な青年貴族には気に入らなかった。彼は、おそれいる一同に広い背中を見せて、大理石の床を踏み鳴らしつつ寝室へともどっていったのである。        W    胃|洗滌《せんじょう》がおこなわれたのは無意識のうちで、ファン・ヒューリックが意識の水面下から引きずりあげられたのは彼を呼ぶ声によってだった。 「ヒューリック提督、ファン・ヒューリック提督!」 「提督じゃない、おれは大佐だ、佐官分の給料しかもらってないぞ。だのに責任ばかり押しつけやがって……」  タイタニアの公敵とも思えぬ小市民レベルの愚痴《ぐち》をこぼす。 「あなたを助けに来ました」  その言葉の意味が意識下に浸透して弾《はじ》け、ようやく不幸なヒーローは両目をあけた。彼は死体運搬用のワゴンに乗せられており、顎にまで白布がかけられていた。視界には霞《かすみ》がかかって、生命の恩人の顔は白い精神的なヴェールの彼方にあった。 「メモを食事にいれたのはあんたか」 「そうです。指示どおりにやっていただけたようですね」  低く押し殺した声が個性を消している。 「ああ、しかし実際、死ぬほど苦しかった」 「単なる吐剤《とざい》です。ザーリッシュ公の母親に惨殺されるよりはるかにましだと思ってください」 「ああ、そう思うとしよう。だが、まだ尋いてなかったな、君は何者だい?」 「タイタニアの敵です」 「わかった。それだけ聞けば充分だ」  不安が絶無ではなかったが、ファン・ヒューリックは、それ以上の質問と疑惑を自らに禁じた。医師の正体はともかく、ザーリッシュ・タイタニアの味方でないことだけは確かであろう。ホテルにその設備を欠くということで、ファン・ヒューリックの身は病院に移された。タイタニア系の病院であることはむろんだが、半死者が脱走を図るとまで考えた者は存在せず、警戒は緩《ゆる》んだ。すべて数式のとおりに事は運んだ。この一件に関するかぎり、立案者はザーリッシュの心理を的確に読みとっていた。ファン・ヒューリックに「毒を盛った」当人が責任をもって治療にあたらされるであろうと予測したのである。可能性は必ずしも高くはなかったが、結果は吉と出た。 「では後半の幕をあけるとしましょうか」 「ひとつだけ心配があるんだが」 「何です?」 「しゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]が出てきたらどうしよう」  緊迫感を欠く質問に対して、医師の返答は冷たかった。 「死んだふりのふりが取れるだけのことですね。そのときは私はさっさと逃げ出しますからご心配なく」  こうしてファン・ヒューリック氏は、頭から白布をかぶせられ、ワゴンで死体安置室の方向へ運ばれていった。生者には、なかなかえがたい経験であったが、それは具体的には皮膚に伝わってくる死者たちの感触であって、陽気なものではなかった。羊を一四〇匹ほど算《かぞ》えたころ、医師がささやいた。 「警備兵です。体の力をぬいて!」  先ほど医師にいった台詞《せりふ》は冗談のつもりだったのだが、どうやら悪ふざけがどこかの神さまを怒らせたらしい。ファン・ヒューリックの胸から咽喉《のど》にかけて、奇妙な違和感がせりあがってきた。まずいと思う間もなく、侏儒《こびと》に咽喉の奥を蹴とばされたような感覚が炸裂《さくれつ》し、「ヒック!」と、彼の名を圧縮しすぎたごとき音が洩《も》れた。廊下に佇立《ちょりつ》していたグレーの服の兵士が身動きし、疑惑をこめた眼光を白布の上に投げかけた。マスクをかけたままの医師が、歩調を落とさず兵士の前を通過しようとしたとき、疑惑が躊躇《ちゅうちょ》に打ち勝ち、兵士は威嚇《いかく》のうなり声をあげた。 「見せてみろ、その死体を……」  兵士の話尾が消えたのは、彼の声を上まわる音量の波が聴覚領域に殺到してきたからだった。それは爆発音だった。握りしめた掌《てのひら》のなかで、医師が起爆スイッチを押したのである。爆発は無人のリネン室で生じ、はなばなしく火と煙と音を舞いあげた。それは暴動をおこした民衆を威嚇するための炸裂火薬の一種で、実害はさしてないが、人々を動転させるには充分だった。兵士の疑惑は爆風の端に乗って吹き飛び、兵士はホルスターをつかんで、爆発の生じた方向へ走り去った。同時に医師もワゴンを押して走り出し、混乱と無秩序の渦を突破してまさに病院外へ出ようとしたとき、べつの兵士に見とがめられた。 「おい、待て、とまれ!」  ごく短い音節の単語をみっつつらねると、兵士は、無力化ガス銃の銃口を医師に向けた。だが、銃口が与えられた役目をはたすことはなかった。引金《トリガー》に指をかけたまま、兵士の表情が空白になり、そのまま声もたてず、妨害者は床にのめって大理石と不本意なキスを強《し》いられた。医師はとまどいを一瞬で蹴飛ばすと、ワゴンを押し、白衣の裾《すそ》をひるがえして駆け出し、駆け去った。後には運の悪い兵士の気絶体が残された。そこへ姿をあらわしたのはルイ・エドモン・パジェスである。 「何がどうなってるのかよくわからんが、同業の競争相手が、おれたちの先をこしたらしいな」  ルイ・エドモン・パジェスがつぶやき、短針銃《ニードル・ガン》を作業服の内ポケットにおさめた。彼は一〇〇回の射撃を試《こころ》みて、七七回ぐらいは名手の技倆を示すことができるのだった。今回、七八番め以下の例とならずにすんだことに安堵《あんど》しながら、パジェスは姿勢を低くして街路を走り出した。街路には地上車の群があふれ、その半数にはタイタニアの紋章が印されていた。病院の周囲はグレーの軍服が有機体の壁をつくって、体内に侵入した病原菌の存在を察知した白血球さながら、敵意と責任感を放射していた。走りながらパジェスは心のなかで肩をすくめた。タイタニアは無能ではない。今回、秒単位の時間と、ミリグラム単位の運が彼らに味方しなかった。それだけのことだ。それだけのことではあるが、誰かがこの事態に責任をとらされることになるだろう。それがザーリッシュ・タイタニア自身だとすれば観物《みもの》だが……。  こうして流浪の英雄ファン・ヒューリック氏は、眼前まで肉迫した死神の顎《あぎと》から解放されたのである。二度めのことであるが、これが最後の例となる保証はどこにもなかった。 [#改ページ]        第五章 野心のフルコース            T    ザーリッシュ・タイタニア公がひとたびはファン・ヒューリックを捕えながら脱走されてしまった。その事実は、一日の時差で「|天の城《ウラニボルグ》」にもたらされ、残留していた三人の青年公爵の鼓膜を微妙に震動させた。アリアバート、ジュスラン、イドリスは、彼ら専用の談話室で、その件に関し意見を交換した。いずれ藩王アジュマーンより意見を徴《ちょう》されるであろうから、思案をまとめておく必要があったのである。 「ふん、自ら求めて声価を下げておれば世話はない。ザーリッシュ公も、自己の力量をよく測ればよいものを」  冷笑したのはイドリス公である。今回、ザーリッシュとしては冷笑を甘受《かんじゅ》せざるをえないであろう。最初にヒューリックを捕えた段階で、その功を「|天の城《ウラニボルグ》」に報告したため、虜囚の脱走を匿《かく》すことが不可能になってしまったのである。その点をあげつらったイドリスは、さらに、ザーリッシュの弱点を指摘してみせた。 「この一件で見えすいた。ザーリッシュ公が次期藩王に就位すれば、宇宙の大権はかのヒステリーの母君が掌握《しょうあく》することになろうさ。なかなかもって、心楽しくなる未来図ではないか」 「ザーリッシュ公がそれほど軟弱な男とは想像しにくいが……」  アリアバートは小首をかしげたが、ジュスランの見解は、むしろイドリスのそれに近い。ザーリッシュは正面の敵に対しては強剛無類だが、味方や身内《みうち》に対しては明らかに理性より感情を優先させる。それはよいとして、彼の対処法には粘着性が欠ける、これがおそらく問題であろう。母親が逆上しているとすれば、ザーリッシュはそれを制すべきであるのに、彼は事態を投げ出してしまった。母親の言動にうんざりし、猛獣の前に餌を投じるごとく、ファン・ヒューリックを投じようとした。その行為によって、ザーリッシュは、結局のところ幾人かの人格を侮辱したことになる。母親は、理性的な説得の通じぬ相手とみなされたわけであり、ザーリッシュ自身、艦隊戦や個人戦闘における豪勇の評価を薄くすることになったのである。イドリスの、ザーリッシュに対する批判は、悪意から発せられたものであったが、結果としてはじつに正確であった。ザーリッシュは母親に対して逃げの姿勢をしめしたのであり、藩王が母親の要求に対して筋《すじ》を通す対応ができぬとあっては、タイタニアの鼎《かなえ》が軽重を問われることになるのだ。小さく見えて、じつはザーリッシュの失点は大きい。  そのザーリッシュは激怒しているということであった。流星旗軍がファン・ヒューリックの奪還に乗り出すのは宇宙空間においてである、と信じていたのだ。それに先だって惑星上で襲撃されると思っていなかったことは、たしかに油断である。だが、それも根源を求めれば、彼が母親に対して先入観をいだいていた一事にあった。「息子の仇に毒を盛るていどのことはしかねない女だ」というわけである。アリアバートが情報士官に尋ねた。 「それにしても、ファン・ヒューリックの身柄を奪ったのは、たしかに流星旗軍なのか」 「それが流星旗軍のしわざと決めつけかねる節《ふし》もございまして……」  ヒューリックの身柄を奪われて、ザーリッシュは即座に武力の行使を決断し、実行にうつした。惑星バルガシュ上の宇宙港はことごとく閉鎖され、流星旗軍のアジトや幹部宅は武装した兵士の一群によって急襲された。銃撃戦が各処で展開され、流星旗軍の幹部二〇名以上が射殺された。アジトは爆破され、あるいは火を放たれて、小規模ながら全面戦争の様相を呈《てい》したのである。  惑星バルガシュ政府は、内心でたじろいだにせよ、行政責任者としてタイタニアの暴挙に抗議せざるをえなかった。最初の抗議は、ザーリッシュに黙殺されたため、バルガシュ政府は作戦を変更して、当地に滞在中のタイタニア幹部ドナルド・ファラーに対して抗議を申しこんだ。ファラーはバルガシュ政府以上に苦《にが》りきっていた。彼がとらえたヒューリックをザーリッシュは逃がしてしまい、しかもその後の実力行使によって、代議員選挙の結果に悪《あ》しき影響を与えようとしているのである。彼はザーリッシュのもとに駆けつけ、武力行使を停止するよう願い出た。  一方、ザーリッシュとしては、身のほど知らずのドナルド・ファラーに鉄拳を加えてやりたいところであったが、ファラーは藩王府の書記官であって、ザーリッシュ個人の家臣ではない。ほしいままに処断するわけにはいかず、それだけにザーリッシュの怒気は内攻していた。そこへ苦情を持ちこまれて、ついに彼は爆発してしまった。 「何をえらそうにたわごとをほざくか! きさまが流星旗軍についてよけいな口をきいたため、手かげんしてこのありさまだ。いずれ正式にきさまの罪を問うてやるぞ!」  声だけでファラーは吹っ飛んでしまったが、それで完全に恐れいってしまうことはなかった。恐怖もしたが、私憤と公憤がそれを凌駕《りょうが》し、彼はザーリッシュを掣肘《せいちゅう》するのに他力を借りる必要に迫られた。最終的には、むろん藩王アジュマーンの権威にすがるしかないが、その中途において、ファラーの立場を代弁し擁護してくれる一族中の有力者を必要とした。かくして、エルマン・タイタニア伯が悠然と姿をあらわすことになる。惑星バルガシュから「天の城」へ急行してきた伯爵は、いささか繁雑な手つづきと儀礼の末に、藩王との対面を果たした。制限された時間のうちに、伯爵は整然と事情を説明した。彼が意を用いたのは、ザーリッシュ公の失態を責めることではなく、反タイタニア陣営との連絡役をつとめるということについてだった。 「無為に一生をすごすのも悪くはございませんが、意外に私の血も乱を欲して熱く騒ぐことがございますようで」 「たしかに意外だな」  藩王アジュマーンの視線が、同年輩とはいえやや年長の伯爵の顔を刃でひとなでした。伯爵は恐怖するようすであったが、その態度は、綿のなかに鉄の芯《しん》を入れたようなものに思われた。沈黙の数瞬に、藩王は疑問の声をつづけた。 「だが、育てた猛獣に喰い殺されることもあろう。流星旗軍にせよ、そう称する別派にせよ、伯爵の手から永遠に餌を受けつけるとも思えぬが、そのあたりはどうかな」 「お言葉ではございますが、藩王殿下、予定調和ばかりでは人の世にはおもしろみが欠けましょう。私めといたしましても、タイタニアあってこその自分ということは、わきまえているつもりでございます。仮《かり》に猛獣どもが鎖を引きちぎるときには、この身が最初に彼らの胃を満たす結果となりましょう」  覚悟はできている、ということである。藩王アジュマーンは沈思《ちんし》したが、長時間のことではなかった。 「よかろう。星間都市連盟との外交チャンネルを閉ざしたことは、これまで一度もない。あらたにチャンネルをつくって悪いこともない。伯爵の提案を是《ぜ》としよう」  エルマン伯爵が、流星旗軍と称する反タイタニア集団と、タイタニア藩王府との間に開設される外交チャンネルの責任者となる。その一事が、藩王によって公認されたのであった。伯爵は無為の日々に終止符を打つことになった。        U    昔日《せきじつ》、宇宙に進出した人類は、科学技術の進歩速度を凌駕する爆発的な精神進化をとげるのではないか、という予測があった。神秘主義的な願望をこめたこの予測は外《はず》れ、人類は地球の表面を這《は》いまわっていた当時と、精神的に異なるところはない。野心が沸騰し、欲望が炸裂《さくれつ》し、憎悪が衝突する。人々は怒り、悲しみ、他者を嫉《ねた》み、愛する者の心変わりを疑い、自らの才能が不足しているのではないかと悩む。破滅を予感しつつ肉欲におぼれ、権勢や富への渇望に神経をすりへらす。  だが、それでなぜ悪いのであろう。文明と歴史と人間の観察家としてのジュスランはそう考えるのだった。およそ聖人君子|貞婦《ていふ》の集団など、観察や批判の対象として、おもしろかろうはずがない。そもそも、憎悪の感情を持たぬ者が何かを愛することができるとは、ジュスランには信じられぬ。これはかなり辛辣《しんらつ》な自己批評となりえるであろう。ジュスランは深刻に他者を憎悪することがなく、その反面、狂おしい愛を経験したこともない。現時点においては、だが。  自分自身を含めて、タイタニアは何処へ行くのであろう。その興味を、ジュスランは胸中にいだきつづけて、少年から青年へと成長した。現在は四公爵の一員であり、その権勢は列国の君主を眼下に見おろすものとなったが、タイタニア支配体制の強化と維持に力をつくす一方で、自分自身を含めたタイタニア全体の営《いとな》みを、皮肉をこめた視線で眺めやる習慣が血肉化している。ジュスランがたとえ狂おしい愛に身心を灼《や》いたとしても、彼の理性は、どこか霜のような冷ややかさで彼自身の情念を見すえ、分析するにちがいない。  だが現在のところ、ジュスランは周囲の親族たちを観察することで充分であった。彼が凡庸でないとすれば、彼自身もまた他者から観察される身であることを充分にわきまえていたという一事にあったかもしれない。      さて、父の急死により、バルアミー子爵はその門地を継《つ》いで侯爵家の当主となりえるはずであった。だが、彼は未だ一八歳であり、過去の例から見て、二〇歳に達するまでは侯爵位の継承を藩王より認められることはないであろう。だが、資産の相続は当然に認められる。バルアミーの亡父エストラードは、ことさら貪欲に利権を漁《あさ》るようなことはしなかったが、それでも巨額の資産を遺《のこ》し、その総額はテオドーラが相続するものの五倍を超すであろう。それを、故人の妻子四人で分割相続し、さらに故人の公認の妾や、彼女らの庶出子などにも分与しなくてはならない。それらの執行責任は、故人の嫡男《ちゃくなん》であるバルアミーのものである。ではバルアミーが彼自身に有利なよう、ほしいままに相続を左右できるかというと、そうではない。バルアミーの処置がいちじるしく公正を欠けば、不満を持つ者が藩王府に訴え出て、相続問題は藩王の裁定に委《ゆだ》ねられることになる。この段階で、すでにしてバルアミーの面目は失われてしまうわけだが、過去の例として、遺産あらそいが紛糾《ふんきゅう》した結果、一刀両断にその家門が廃絶され、資産は藩王府に没収されてしまうことがある。藩王の裁定も、当然、公正さを期待されるわけだが、藩王は独裁権力の所有者であり、融和より峻厳《しゅんげん》を選択する場合が往々にしてあるのだった。  バルアミーは充分にそれを承知している。彼は権力はともかく、資産にはさしたる執着はなかったし、タイタニア内部において地歩を固めようとしているこの時機に、無益な私的闘争にエネルギーを投入するつもりもなかった。欲する者には相応の分与をしてやるつもりである。この件に関し、バルアミーはジュスランに相談しなかったので、ジュスランもよけいな干渉はしなかった。 「それにしても相続問題の多いことだ」  テオドーラ・タイタニア伯爵令嬢のことを想いおこして、ジュスランはわずかに苦笑した。彼女の伯爵位継承を認めるよう、藩王アジュマーンに対し、イドリス公より請願がなされたのである。それに前後して、いくつかの噂《うわさ》がジュスランのもとへもたらされてきた。テオドーラは、ジュスランを訪問するに先だってアリアバート公を訪問し、彼女の伯爵位継承に関して協力を要請したというのである。意外だとは、ジュスランは思わなかった。 「相続を藩王殿下に認めていただけねば、わが伯爵家は断絶します。何とぞアリアバート公にお力ぞえいただきたく存じます」  そう説いたテオドーラであったが、 「法的に正しい手つづきがとられていれば、反対する理由は何もない。ご心配にはおよぶまい」  アリアバートは謹厳《きんげん》一方にテオドーラに対応したという。ジュスランには納得できることであった。アリアバートは、このようなとき、ジュスランよりはるかに硬質で筋《すじ》のとおった反応をしめす。それがわかったからこそ、テオドーラも、政略的な働きかけをせず引きさがったのであろう。あるいはテオドーラはアリアバートに失望し、軽視する気になったかもしれぬが、それではアリアバートの真価を理解しえないことになる。  ジュスランは藩王アジュマーンに呼ばれ、テオドーラ・タイタニア伯爵令嬢の相続に関して意見を求められた。 「一夜の情交の結果、伯爵位と遺産が掌中《しょうちゅう》に収まるとすれば、その令嬢も自分を高く売りつけたものだ。安売りする者よりは、はるかに賢明というべきだろうな」  藩王アジュマーンの声に、彼らしい毒がある。彼はザーリッシュ公の失策についてまったく言及しなかったが、こころよく思っていないことは確かであった。ジュスランは慎重を期しつつ、最小限度の返事をした。この件に関するかぎり、自分はとくに主張すべきことはない、藩王の御意にゆだねる、と。 「では、イドリス公の要望が叶《かな》えられる結果となろう。他の三公爵に、それぞれ主張すべき見識がないとすれば、あえてイドリス公の要望をしりぞける必要はない。この考えはおかしいかな、ジュスラン公」 「いえ、当然のことと存じます」  それ以外に、ジュスランは答えようがない。裏面の事情は明瞭すぎるほどであったが、それを言語化したところで意味のないことであった。テオドーラがイドリスとの同盟を選んだ、その過程で肉体上の関係も生じた。ただそれだけのことである。現在の力関係では、テオドーラがイドリスに支配され、屈服を強《し》いられるように見えるであろうが、ひとたび自己の意思でイドリスとの同盟を選んだ以上、テオドーラは自らが力を養い、イドリスと対等に、さらに凌駕するよう努めていくのだろう。それとも適当な地位と権勢に甘んじるか。いずれにしてもテオドーラは独立した一個の人格であり、当面ジュスランが干渉する必要もないはずであった。  さて、本来、ヴァルダナ帝国の宮廷内外に棲息する反タイタニア勢力を粛清する任務は、イドリス公に託されて然《しか》るべきであった。彼はヴァルダナの近衛司令官として、皇帝と廷臣団の双方を監視する任にあったのだ。反タイタニア派の完全なリストも作製されており、藩王の指令が下ると同時に、彼らの全員を捕殺《ほさつ》する態勢がととのえられていたのである。ところが実行はバルアミーの手に委《ゆだ》ねられ、イドリスとしては功を奪われたとの感を禁じえぬ。  イドリスの不満を宥《なだ》めたのは藩王の人事であった。エストラード侯爵の急死によって、ヴァルダナ帝国軍務大臣の重職が空席となったが、その席はイドリスの占めるところとなった。二四歳、ヴァルダナ帝国の歴史上、皇族を除いては最年少の軍務大臣である。しかも大粛清によって主要閣僚がことごとく、死による交替を強《し》いられたのだ。イドリスはヴァルダナ宮廷における最大の実力者となりおおせたのであった。  したがって、イドリスとしては、わが身の栄華を大いに誇ってもよかった。彼は圭角《けいかく》が表面に出すぎるとはいえ、疑いようもなく才幹に富んだ青年であり、思考も行動も積極的で、ジュスランなどよりはるかに、若さにふさわしい覇気を有しているといえよう。才幹に恵まれた青年がそれにふさわしい権勢を欲する、その点でイドリスの生きかたには、他者から咎《とが》められるべき筋《すじ》があるわけではなかった。ただ、彼自身の生きかたをつらぬく過程において、鋭く突き出した圭角が他者を傷つけずにはおかぬ。そのような実例がしばしば生じ、それによって血を流した者がイドリスに対して好意を持ちえぬこともまた当然であった。イドリス自身、自己の圭角に気づかぬではないが、彼にしてみればそれもまた有力な武器であった。温和で現状に満足するような生きかたは、伯爵以下の者なら許されるであろう。だがイドリスはすでにして公爵であり、藩王の座を射程におさめる位置に立っていた。高処《たかみ》をめざすことだけが彼に許される生きかたであった。すくなくともイドリスはそう信じて疑わないのである。  テオドーラ・タイタニア伯爵令嬢は、イドリスの推挙によってどうやら伯爵位を継承することがかないそうであった。翌年月には、伯爵夫人の称号を帯びることになるであろう。そのテオドーラは、幾度めのことか、イドリスの閨房《けいぼう》の客人となったとき、彼にこうささやいたのであった。 「イドリス公、ぜひ藩王《クランナー》におなりあそばせ」 「おれが藩王となれば、そなたの人生にも利益があるというわけか。そう思いこむのはけっこうだが、未来が必ずしもそなたの味方になるとはかぎらんぞ」  グラスのなかで氷が鳴り、その音が、イドリスの口もとを飾った笑みの冷たさと薄さに似つかわしかった。美女の甘言《かんげん》は耳にこころよいが、それに魂を奪われるイドリスではなかった。彼は女性に対等かそれ以上の尊厳を認めていなかった。彼にとっての女神はタイタニアの最高権力であって、生身の女性は彼にとってせいぜい欲望を処理する対象でしかなかった。すくなくともこれまでは。したがって、ザーリッシュが母親に対して抵抗できなかったり、ジュスランがエルビング王国の王女を保護したり、ということは、イドリスにとって笑止でしかない。  ローブをまとって酒をあおるイドリスの姿を、テオドーラは豪奢《ごうしゃ》な寝台から眺めやった。 「イドリス公にとって、ザーリッシュ公は藩王位をめぐる競争者になりえますか」 「ザーリッシュは豪勇だが、それだけの男だ。青銅器時代なら地球上に一国を打ち樹《た》てることができただろうよ。だが現在は青銅器時代ではないからな」 「アリアバート公は?」 「善意の時代に生まれていれば、名君といわれるだろう。だが、善意の時代など、人類が他の生物の上に君臨するようになってから、一度もなかった」  イドリスの辛辣きわまる評言に、テオドーラは興味をそそられたようであった。両眼に奇妙な光をたたえて、三人めの名を口にした。 「それではジュスラン公は?」  即答はなく、イドリスはグラスのなかで氷塊の狂騒曲をかき鳴らした。 「ふん、どいつもこいつも、奇妙にあの男が気にかかると見える。だが実際のところ、奴がどれだけ他人を驚かすにたりるような奇功をたてたというのだ。すくなくとも、おれは知らんぞ」  あらたに琥珀色《こはくいろ》の滝をグラスにそそぐと、ひと息にイドリスは自らの咽喉《のど》を灼《や》いた。テオドーラは額に乱れた髪を指で梳《す》くと、わずかに声の調子を変えた。 「イドリス公はわたしに伯爵位を下さいました。いただいた地位と力を、当然ながらイドリス公のために使わせていただきます」 「恩に着せられるのはごめんだな」  散文的な反応を返して、イドリスはグラスをテーブルに置いた。悦楽の刻《とき》が終わると、公人としての時間と場所が彼を待っているのだった。        V    イドリスは軍務大臣の座に着いても、近衛軍団司令官の地位を手離そうとしなかったが、九月下旬にはいって自らの後任を選んだ。弟のラドモーズ男爵を近衛軍団司令官に叙したのだが、この人物は未だ一七歳の少年であったから、ヴァルダナ宮廷はむろんのこと、タイタニアの内部においても、この人事は不評を買った。だがイドリスは傲然《ごうぜん》として人事の正当性を主張した。 「一八歳でタイタニア五家族の一員の高級副官となった者もいる。とりたてて異とするにたりぬと思われるが」  ヴァルダナ皇帝ハルシャ六世は怒りと屈辱に蒼ざめつつも、勅任《ちょくにん》状への署名を拒否することはできなかった。署名するペンが激しく震えたのは、タイタニア全体に対する憎悪とイドリス個人に対する憎悪とが、たがいの波動を増幅させた結果であった。それでもかろうじて自制すると、皇帝はペン先を紙に押しつけ、紙の表面をかきむしるように署名した。無力であることの自覚は、病原菌をしのぐほどにハルシャ六世の身心を傷《いた》めつけたにちがいない。中途半端な覇気は誰よりも当人を不幸にするもののようであった。このときイドリスは、皇帝ハルシャ六世に対してどのような心理状態にあったであろうか。皇帝の感情など無視していたというのが一般の見解であるが……。  当の「男爵」ラドモーズ・タイタニアはといえば、衆目《しゅうもく》の一致するところ、兄イドリスの欠点だけを集めて捏《こ》ねあげた泥人形だという評判であった。否、粗暴さにおいては明らかに兄を超えていた。そもそもイドリスは、この異腹の弟をけっして好いてはいなかったが、ザーリッシュが弟アルセスの一件で公爵家の長として鼎《かなえ》の軽重を問われることになった例を見ている。彼としては、ラドモーズを巧妙に飼い慣らす必要があった。 「イドリス公こそ身びいきの度が過ぎて自らの手足を縛ることになるのではないか。兄君の役にたつような弟か、あれが」  タイタニアの内外に、そのような冷笑の風が生じたが、イドリスは平然としていた。アリアバートやジュスランは、忠告してやるという親切な気分もおきぬまま、最年少の公爵のやりようを見守っていたが、やがてイドリスの政治的配慮に対して舌を巻かねばならなくなった。イドリスは藩王アジュマーンに願い出て、ラドモーズを補佐する近衛副司令官を、藩王直属の高級士官のなかから選抜してもらったのである。 「わが弟ラドモーズは未熟|非才《ひさい》の身なれば、副司令官職たる人に実権をまかせ、さらに弟に武官としての教育をほどこしていただきたく存じます。将来かならず藩王殿下の御役に立たせたく存じますれば……」  つまり副司令官たる人物を事実上の近衛司令官とし、さらに四公爵の弟を指導教育する権能《けんのう》をゆだねる、それは藩王直属の士官を近衛司令官に任じるも同様であるはずだった。すくなくとも藩王としては、新軍務大臣イドリスの配慮を認めざるをえない。 「イドリス公の申しこみ、なかなか殊勝《しゅしょう》なことだ。よかろう、承知した」  藩王アジュマーンとしては当然ながらそう応じることになる。だが、なかなかに、この人事は綺麗ごとではすまぬのであった。イドリスは弟を若くして顕官《けんかん》の座につけることにより、まず公爵家の当主として、兄弟を引きたてるという責任を果たした。だが、ラドモーズは不肖の弟であり、兄を補佐するどころか逆に足を引っぱりかねない。イドリスとしては弟が失態や失策を演じぬよう、監視と教育を欠かせないが、イドリス自身が公私に多忙な身であり、正直なところラドモーズのおもりまでは手がまわらぬ。否、おもりだけならまだよいが、ラドモーズの失態に対して連帯責任を負うような結果になっては目もあてられぬ。そこでイドリスは保険をかけることにしたのだった。  ラドモーズが近衛軍団司令官の重任に耐ええぬとすれば、当然、副司令官が事実上、司令官の職権を代行することになる。その座を、未成年の司令官に対する教育指導権の所有者として定義しておき、藩王アジュマーン直属の高級武官をそこに据《す》える。つまり、ラドモーズに対する教育指導責任を、藩王にも負担させるのである。このようにしておけば、ひとたびラドモーズが問題をおこしたとしても、イドリスだけが責任を問われることはない。さらにいえば、イドリスは、ラドモーズが早晩《そうばん》、重任に耐えなくなることを承知の上で、万事を布石したのであった。 「イドリス公も、賢《さか》しいことをする。さしあたって気の毒なのは、副司令官職を押しつけられる人物だな。誰が苦労させられることになるやら」  アリアバートは苦笑しつつそう評した。ジュスランは同感のうなずきをしめしつつ、誰もがだいじなことを失念していると思わざるをえなかった。それはラドモーズ自身の心理である。未熟、不肖、無能と評されるラドモーズであるが、当人がそのように自己評価しているとはかぎらぬ。野心も欲望も矜持《きょうじ》も有しているであろうから、自力によらずして獲得した権勢を振りかざし、その刃で他者を、兄を、そしてついには自らを傷つけることもありえるのではないか。  ラドモーズに会ったことがジュスランには幾度かあるが、好感を覚えたことはなかった。イドリスの弟というよりザーリッシュの弟というほうがふさわしく、堂々たる骨格と厚みのある筋肉においては、すでに少年期を脱していた。眉も太く、顎《あご》はたくましく、眼光はふてぶてしく、一八歳のバルアミーより年長と見えるほどである。故人となったアルセス伯とべつの意味で、タイタニアの血の濁りを具現《ぐげん》する存在であるように思われた。いつかかならず、小さからざる問題をひきおこすに相違ないと思われたのだ。  ところが破局は、万人の予想を裏切る形と速度で彼らの上に訪れたのである。  九月末日、未だザーリッシュ・タイタニア公が虜囚を再逮捕することもできず、当然「|天の城《ウラニボルグ》」へ凱旋することもかなわぬ時機であった。バルアミー・タイタニア子爵は、公私両面にわたるいくつかの義務のなかで、もっとも気のすすまぬ任に従事していた。エルビング王国の王女であるリディア姫のお相手役である。バルアミーは、こましゃくれた子供が嫌いだった。リディア姫が単純にこましゃくれているのでないことは、バルアミーも承知しているが、童女のお相手役など、全宇宙の覇者たらんとこころざす野心家にふさわしい任務ではない。人生に雌伏《しふく》の時期が必要なこともまた承知しているが、いますこしやりがいのある任に就《つ》きたかった。  バルアミー自身は意識していなかった。リディア姫の存在が通気孔となって、どれほど彼の精神的な健康さがたもたれているかという事実を。父エストラード侯の横死《おうし》以来、彼の神経網は心痛で寸断されても不思議ではなかったのだ。  リディア姫は「|天の城《ウラニボルグ》」の内部をすみずみまで見たがったので、その日バルアミーは彼女を案内してセカンド・ポートに出かけた。惑星リュテッヒとの連絡用シャトルが入港したところであった。入港の状況を管制室から見せてもらって、リディアは喜んだが、問題はその直後に生じた。管制室を出たふたりは、走路《ベルトウエイ》に乗ろうとして、シャトルから降りてきた乗客に正面から出くわしたのである。それはヴァルダナの宮廷から退出してきたラドモーズ男爵であった。 「どこかで見た面《つら》だな。ジュスラン公の副官だったな、たしか」  名も呼ばず爵位も呼ばず、そういう呼びかたをラドモーズがしたのは、むろんバルアミーの自尊心を傷つけるためである。もともと不仲だったとはいえ、ありうべからざる非礼であった。バルアミーは年齢においても爵位においてもラドモーズを上まわる。今回ラドモーズが近衛司令官に叙《じょ》せられたとしても、一族中の序列が変わったわけではないのだ。  無言のまま、バルアミーは歩みをとめなかった。彼にしてみれば、非礼に対する当然の反応であった。だが、ラドモーズのほうはそう思わなかった。無視されれば過剰に反応する点で、ラドモーズはイドリスに似ていたが、反応を行動化するに際して、はるかに粗暴で無思慮であった。彼は大股にリディア姫に近づくと、いきなりその腕をつかんだのだ。 「ほほう、これがジュスラン公爵の被保護者か。ご尊顔《そんがん》を拝させていただこうかな。乞食におとる貧乏な王女さまのご尊顔をな」  引っぱりあげられて、リディアの身体は半ば宙に浮いてしまった。 「黙りなさい、無礼者、離しなさい!」  リディア王女は昂然《こうぜん》として相手の暴言に報いた。このような場合に沈黙していることは、彼女自身にとどまらず、保護者であるジュスラン公に対する侮辱を甘受することであった。童女の腕をつかんで、ラドモーズが離そうとしないので、リディアは大きく片足を引き、実力で自由を回復する手段に出た。  ラドモーズは非音楽的な叫び声を発して股間をおさえた。リディアの小さな足が勢いよくはねあがって、ラドモーズの股間に深刻な一撃を加えたのである。自らを解放したリディア姫は、すばやく跳《と》びすさって相手の支配圏から離脱した。  悲劇というより、これは喜劇の領域に属する事件であったにちがいない。だが、それが発生した場所は全宇宙を支配する一族の中枢であり、関知した者は一族の最高位近くに位置する若者たちであった。権威とは、喜劇を否定する存在であり、事はつねに拡大と深刻化への坂道を転げ落ちていくのである。 「この小娘! タイタニアの一族に手を出しおったな。思い知らせてやるぞ」  振りかざされたラドモーズの腕をつかんだのは、バルアミーであった。彼はつねに冷徹な陰謀家たらんと望んでいたが、深慮遠謀に徹するには、血管を流れる熱い液体の量がどうやら多すぎるようであった。ラドモーズの腕をつかむと同時に、片脚を横に払うと、均衡をくずしたラドモーズは自らの体重のために顔面から床に落ちた。こもった鈍い音がして、ヴァルダナ帝国近衛司令官の身体は床に這った。バルアミーがはじめて声を出した。 「場所柄をわきまえろ。藩王殿下のおひざもとだぞ。いたずらに暴力をふるってよいと思うか!」  正論だが、実力を行使した後に使う台詞《せりふ》としては説得力に欠けるであろう。床から起きあがったラドモーズは、両眼に怒気を渦まかせていた。鼻孔から落ちた血がグレーの軍服に赤黒い点を散らばせる。地鳴りめいたうめき声をあげてバルアミーにつかみかかったとき、見物人の輪が割れて長身の青年貴族が進み出た。アリアバート公であった。 「両人ともひかえよ! 衆人環視のなかで殴りあうなどタイタニア貴族のやることか。恥を知れ!」  アリアバート・タイタニア公の、戦場の雄としての一面がこのとき発揮され、バルアミーもラドモーズも圧倒されて立ちすくんだ。すでにこのとき、彼らの周囲には「|天の城《ウラニボルグ》」の住人たちがグレーの軍服を主体としてひしめきあっていたのである。バルアミーは背後にリディア姫の小さな身体をかばいながら、描きだされた波紋の大きさに呆然とせざるをえなかった。        W    タイタニアの一族どうしが「|天の城《ウラニボルグ》」内で争いごとをおこした。その事件はほぼ音速で「|天の城《ウラニボルグ》」の全|層《フロア》に伝わった。その報は、当初、タイタニアに所属する全員を緊張させたが、政治や軍事の方針や手段に関して公的な対立が生じたわけではないと知られると、弛緩《しかん》と失笑とが緊張を駆逐してしまった。 「一八歳のバルアミー子爵と一七歳のラドモーズ男爵とが、一〇歳の童女をめぐって争ったそうな。|天の城《ウラニボルグ》もどうやら、ままごと遊びのお城になりさがってしまったらしい」  噂は悪意によって生長し肥大する。膨張した評言は、タイタニアの権威を嘲笑《ちょうしょう》するものであったから、藩王府としても放置してはおけなかったし、ジュスランにしてもイドリスにしても無関係ではいられなかった。とりあえずバルアミーとラドモーズは謹慎を命じられ、アリアバートの指揮によって警備強化の体制がととのえられるとともに目撃者の証言が集められた。あらゆる成人たちの証言をしのいで明晰《めいせき》かつ正確であったのはリディア姫の証言であったが、彼女は当事者の一員に算《かぞ》えられたために証言価値を低く見られることになったのは残念なことであった。  ジュスランとイドリスを呼んで裁定を下すことになった藩王アジュマーンは、ふたりの若い公爵に冷たい視線を向けた。 「まさかこのように低い次元のことで、タイタニアの公爵どうしが争うことになろうとはな。心外との感を禁じえぬ」  低い次元のこととはジュスランは思わない。リディア王女の正当な権利と人格的な尊厳がかかった問題である。バルアミーにしても、リディアを守ろうとしてしたことで、咎《とが》められるべきはラドモーズの粗暴と無礼にあると思った。ただバルアミー対ラドモーズということになれば、形として先に手を出したのはバルアミーである。その点をイドリスは強く主張してくるであろう。  藩王アジュマーンとしても、このような事件を裁定する自分を想像することは、あらかじめ不可能であったにちがいない。公爵どうしのトラブルとなれば、唯一の上位者たる藩王が出て裁定せざるをえないのだが、今回は不毛感が先だつようであった。  イドリス公爵の表情も苦々《にがにが》しい。彼としては、いずれ次期藩王位をめぐってジュスランと対立抗争することは不可避であるとは考えていた。だが、せっかく地位を与えてやったばかりのラドモーズが、勅任状の署名のインクも乾かぬうちに、このようなトラブルをおこすとは予想外であった。せめてもっと大物と相撃ちになるというならともかく、相手がリディア姫とバルアミー子爵では、子供のけんかでしかないではないか。弟の粗暴と無思慮を、胸中で激しくイドリスは罵倒《ばとう》したが、それでも藩王裁定の場にあって、彼は弟の利害を代弁する役に徹せざるをえなかった。二重の不本意さが、イドリスの秀麗な顔に強烈な酸味を添《そ》えていた。  イドリスの胸中を、ジュスランは正確に洞察した。そして思わざるをえなかった、不本意の極致であっても、一家の利益を擁護するのが公爵家の長たる者の任である。その愚劣さをもっとも愚劣に表現したのが今回の「事件」であろう。「タイタニアの権威」が聞いてあきれるではないか。  とにかくイドリスとジュスランの間では、責任の所在をめぐって激論が闘わされた。 「一〇歳の子供のたわごとなど意に介する必要はない」 「これはイドリス公の発言とも思われぬ。一七歳の未成年がヴァルダナ帝国近衛司令官の任に耐えると判断なさったのは、どなたであったか」 「それとこれとは話がちがう!」 「ちがわぬ。そもそもの淵源《えんげん》は、イドリス公の監督が不充分だったことにある。リディア姫がわが公爵家の客人であることはタイタニアの万人が知るところだ。正当な礼節をもって遇されるべきを、無法にも腕をつかむなど、タイタニア一族のやることか」 「いや、バルアミー子爵がまともに礼を返していれば、このようなことにはならなかった。非はバルアミー子爵にある」  討論は二時間にわたってつづけられたが、裁定する藩王も含めて不毛な行為に疲労しただけであった。精神作業において無限の活力を誇るかに見える藩王アジュマーンも、事の愚劣さに辟易《へきえき》したにちがいない。冷厳な表情をくずすことはなかったが、その胸中は、下した裁定の内容によくあらわれていた。 「ラドモーズ男爵の近衛司令官就任の件は、これを撤回して白紙とする。イドリス公は、これにかわる人選を五日以内におこなうべし。さらにラドモーズ男爵には二週間の謹慎を命じる。一方、バルアミー子爵はジュスラン公爵の高級副官としての任を解き、惑星ティロンの駐在部参事官として赴任することを命じる。二週間以内に赴任すべし。またエルビング王国のリディア姫については、年齢からいっても責任は問えぬが、もともと|天の城《ウラニボルグ》に在住することが不自然であるのだから、故国へ送還することを考慮するようジュスラン公に勧告する」  その裁定を、イドリスはその場で受諾したが、ジュスランは納得しがたく、一日の猶予《ゆうよ》を請うた。表面だけの公正さをジュスランは受容できなかったのだが、その夜、アリアバートがジュスランの居住区を訪れて、つぎのように忠告した。 「バルアミー子爵はまだ若い。雌伏の期間に充分、耐えられるはずだ。また、リディア姫のことは、エルビング王国に返すことが不安であれば、おれが引き受けてもよい。いずれにしても、イドリス公が裁定を受けた以上、ジュスラン公が受けずにいては藩王殿下の心証が悪くなろう。自重してほしいものだが」  アリアバートの正しさをジュスランは認めた。藩王の裁定を受けいれる以外に方途《みち》のないことは、頭ではわかっていたのだ。この際、理性を感性に優先させるしかないということである。ジュスランはアリアバートの忠告に感謝の意を表した。 「なに、かまわぬさ。ジュスラン公に貸しをつくるのは、おれにとってまことによい気分だ。いずれ貸しは返してもらうが、多少の利息は覚悟しておいてもらうとしようか」  アリアバートは笑い、それによってジュスランの心理的負担を軽くした。アリアバートの、懐《ふところ》の深さとでも呼ぶべきものをジュスランは実感し、タイタニア一族が未曾有《みぞう》の破局にでも直面しないかぎり、アリアバートこそが次期藩王としてもっともふさわしい人材ではないかという思いをあらためていだいた。 [#改ページ]        第六章 砂漠のストレンジャー            T    惑星バルガシュは辺境星域の中心である。これは自然地理学的には必ずしも正確ではないが、人文的にはまったく正しい表現であって、通信、旅客輸送、貨物集散、金融、情報、人材の育成と就職、およそ社会的経済的な活動の大半が、この惑星を中枢として、辺境星域では営《いとな》まれているのだ。惑星エーメンタールの洗練と優雅はここにはないが、野性的な活力が分子レベルにまで浸透している。この惑星を軸として展開される外交や攻略も、かなり粗野なもので、「右手に棍棒《こんぼう》、左手に札束」と、エーメンタール人からは冷笑される類《たぐい》である。とはいえ、恫喝《どうかつ》外交だろうが金権外交であろうが、いちおうの形式や儀礼は必要なのであって、惑星バルガシュの主権は他者から尊重されてきた。それを無視して力ずくで横行するザーリッシュ・タイタニア公のやりようは賞賛されるはずがなかった。「バルガシュはザーリッシュ・タイタニア公の荘園ではない。形だけでもバルガシュの国旗に対する敬意を払ってもらわねば困る」  そうバルガシュ政庁から申しこまれたのはドナルド・ファラーであった。  ドナルド・ファラーはバルガシュの代議員選挙をタイタニア派の有利にみちびく件に関して、とうに諦念《ていねん》の境地に達していた。あらゆる政治的社会的な事情が、彼の活動を不利な方向へと押し流しつつあったのだ。バルガシュの住民たちは基本的にタイタニアの支配体制を容認しているのだが、全能神として崇敬しているわけではないので、あまりに力を誇示されれば反発したくもなる。それを知悉《ちしつ》しているファラーは、最初さまざまな策《て》を打ち、ザーリッシュの好戦的な鼻息を希釈《きしゃく》化するよう努《つと》めたが、不可能をさとらざるをえなかった。彼は無念の涙とともに彼の戦場を放棄し、やけ酒をあおぎ、空想世界でザーリッシュを半殺しにしてから惑星バルガシュを去ったのである。  ザーリッシュのほうは、ファラーごときの苦労や反感に対して一顧《いっこ》の価値も与えなかった。藩王アジュマーンに対して面目をたもつことと、母親の激情をなだめすかすことのみが、彼の脳裏を占めていた。たかが辺境の一惑星政府の怒りなど、タイタニアの威権と財力によって鎮《しず》めることができると思いこんでいた。彼は部下たちを叱咤《しった》して逃亡者ファン・ヒューリックの行方を探し求めた。そして、ついに再発見をとげたのである。一〇月七日のことであった。 「衛星軌道上の特務艦が地表の写真を四〇万枚ほど撮影してまいりましたが、そのなかにこのようなものがありました」  副官グラニート中佐が示した立体写真を見やって、ザーリッシュ・タイタニア公は大きく息を吐き出した。惑星バルガシュの地表は開拓されつくしたとはいえず、寒冷地と乾燥地と高山帯とを合して四〇〇〇万平方キロにおよぶ不毛地が展《ひろ》がっている。一〇キロ四方ごとに写真を撮影してコンピューターで解析した結果、無人であるはずのその地区に生命反応が見られた。そこは以前より反タイタニア派の武装小集団が出没していたタルハリという砂漠の一角であるという。 「その特務艦には大気圏内行動能力はあるな」 「もちろんです。閣下」 「では、ただちに現地へ赴《おもむ》かせよ。ファン・ヒューリックを探索し、捕えるのだ。万が一にも手に余れば増援隊をつかわす」  万が一にも、と、仮定の言を吐きはしたが、ザーリッシュの両眼はすでに激情の溶鉱炉と化して、自らが艦隊を指揮統率する意向をあらわしている。グラニート中佐は、バルガシュ政府の怒りと反感が増大することを懸念しつつも、主君たるザーリッシュ公の意向を優先させざるをえなかった。ただちに|TV電話《ヴイジホン》の前に立って、五、六ヶ所に指示を飛ばすと、ザーリッシュ公はグレーの軍帽を巨大な掌《てのひら》でわしづかみにし、常人の二倍に近い大きな歩幅でホテル・アルハンブラの部屋を出たのである。  この数日、ドクター・リーはご機嫌うるわしくなかった。ザーリッシュ・タイタニア公にはおよびもつかぬが、せっかく苦労して編み出したヒューリック救出計画が、善悪さだかならぬ第三者のために現実化の寸前で蒸発してしまった。いったいどこの何者が、ドクター・リーの華麗なる設計図に無粋なインクをひっかけたのであろう。順当なところ、タイタニアに反対する小独立勢力と思われるが、そう決めつけるのも危険であるかもしれない。いずれにしても、ドクター・リーは、彼をだしぬいた個人なり集団なりの正体を不明のままに放置しておくつもりはなかった。ようやく帰ってきたパジェスから、ファン・ヒューリックをつれさった人物の逃走した方角を聞き、独自の分析を加えつつ、タイタニアの動向を注視していたのである。タイタニアの動きさえ監視していれば、ヒューリックの行方は判明する。そのときこそ、そして今度こそ、ドクター・リーは、タイタニアの獰猛《どうもう》な鼻面《はなづら》をかすめて、ヒューリックを救出してやるつもりであった。    敵と味方の双方から行方を追われるファン・ヒューリック氏は、惑星バルガシュの地表にはいなかった。バルガシュの上空は、ザーリッシュ・タイタニアの配下によってほぼ完全な制宙権下に置かれており、この厳重な監視と包囲からまぬがれるのは不可能に近かった。では彼の身はいずこにあったのかというと、文字どおり地下に潜伏していたのである。タルハリ砂漠の地下には、この惑星の遠古代に火山活動によってつくられた空洞があった。一〇〇万年の過去に熔岩が流れ去り、その通過した跡が巨竜の腸のように曲がりくねった空洞となって残されたのである。その空洞、地表近く、巨竜の食道部に、ヒューリックの救出者は彼を運びこんだ。二〇名前後の小集団はことさら名乗りもせず、ヒューリックは、ごく簡単な謝辞とともに質問せざるをえない。 「なぜおれを助けてくれたか、その理由をまだ聞いていない」 「尋くのもいいが、その前にひとつ推理してみたらどうですかな」 「賞金は出るのかい」  そう返してから、ファン・ヒューリックは不吉な疑惑にとらわれた。まさか、この男は、ただヒューリックにかけられた賞金をわがものとするつもりで、いったん彼を救出したのではあるまいか。だが、仮にそうであるとしても、生命と運命を賭《か》けて事を敢行したわけであり、その決断と実行の能力は尋常ではない。とりあえず、ファン・ヒューリックは、蓋然《がいぜん》性のいちじるしく高い解答例を持ち出してみた。 「タイタニアに怨《うら》みを持つ者」  その解答例は、苦笑と失笑の混合体によって報われた。 「ハンマーで大地を打つようなものだな。はずれっこない」 「つまり正解というわけだな」 「とはいえんね。正解という単語の意味を侮辱するようなものだからな」  マスクをとった医師は、三〇代後半かと思われた。鼻の下に黒い髭《ひげ》をたくわえていて、それが小さなブラシの毛のようだ。まだヒューリックは恩人の名前すら知らず、それを問おうとしたとき、あわただしい足音が、空洞の入口、竜の前歯部分をなす熔岩のあたりからひびいてきた。旧式の熱線《ヒート》ライフルをかかえ、無個性な野戦服をまとった男が緊張の色とともに飛びこんできた。 「タイタニアの特務艦だ!」  医師とヒューリックは竜の前歯まで出て、空をのぞきこんだ。落日が視界を染めあげて、空は緋色《ひいろ》の巨大な絹布と化していた。炎上する大気の波を艦首で切り裂きつつ、怪鳥めいた黒影が降下してくる。特務艦といえば巨大でも重武装でもないが、それでも全長は一〇〇メートルを算《かぞ》え、火砲も二〇門は具《そな》えている。この時この場にあっては、比類しようもない武力の象徴であった。摩擦熱による空気の乱れが、あわい虹色の波紋で特務艦をつつんでいたが、減速によってそれが薄れると、艦体に描かれたタイタニアの紋章が傲然《ごうぜん》ときらめいた。自分が置かれた状況をつい忘れて、ヒューリックはそのありさまに見とれてしまった。まったく、タイタニアは上から下まで、気障《きざ》が似あう連中というべきであった。  空中停止した特務艦は、艦体下部から砲身を伸ばした。それは三本の細針が突き刺さったようにしか見えなかったが、死と破壊との陰気な予兆だった。一瞬半の間を置いて、ファン・ヒューリックの視界の一部がかがやいた。三本の火線が地表に突き立った。  轟音《ごうおん》とともに砂の柱が高く太く立ちのぼった。舞いあがった数千トンの砂は天地を晦冥《かいめい》させ、重力の限界に達すると乾いた雨となって、つい先刻までの自分の居住地に降りそそいだ。地上は砂煙におおわれ、眠りにつく寸前の恒星の光をさえぎった。  火力を抑制しているのは明らかに威嚇《いかく》のためであった。鏖殺《おうさつ》する意思はないのだ。その気であれば全砲門を開き、火線を集中させてくるであろう。タイタニア特務艦はただ一度の砲撃によって彼らの意思を明確にした。これを目撃した者に、恭順《きょうじゅん》を要求しているのである。おさまりつつある砂煙の上空に浮揚した特務艦は、不逞《ふてい》な反抗者たちが地表に出てきてはいつくばるのを待ちかまえているようであった。医師が舌を鳴らした。 「ザーリッシュ・タイタニアらしく豪儀《ごうぎ》なことだ。この岩砂漠全体をバーベキューの鉄板にするつもりらしいて」 「おれを探しているのかな」  間の抜けたことをファン・ヒューリックはいい、相手に、露骨な白眼の表情をつくらせてしまった。        U    空中停止したタイタニア特務艦の腹が開き、鈍い灰白色にかがやくシャトルが五機、地上へと降下してきた。銀色の繭《まゆ》が成虫から産《う》み落とされるかのような光景だった。おさまりかけた砂煙のなか、着地した繭が腹を開いて人影があらわれた。  完全武装の兵士たちがつぎつぎと地表を踏む。望見しただけでも二個小隊級の兵力であることが確実だった。戦車や重装甲車は見あたらないが、いずれ増援兵力が来れば、そのような代物《しろもの》にもお目にかかることができるかもしれない。さしあたり、熱線《ヒート》ライフルやレーザーガンが人数分あるだけで、圧倒的な兵力といえる。すくなくとも、なお正体不明のヒューリックの恩人たちがまともに対抗しえる相手ではないと思われた。 「物量作戦はザーリッシュ公のお得意だと聞く。どう対処するかね」  ヒューリックの問いかけに医師はうめいた。 「だが、ここはタイタニア家の属領ではないぞ。歴然たる主権国家だ。タイタニアがほしいままに武力を行使してよいものではない」 「おれにいっても無益だよ。ザーリッシュ公にいってみることさ。礼をつくしてな」  惑星バルガシュの政庁は、タイタニアの藩王府に厳重に抗議するだろう。だが、そのとき万事は終了してしまっている。バルガシュ政庁が抗議しという事実だけが外交文書に残される。あるいはタイタニアからバルガシュへ補償金ないし和約金が支払われ、双方にこだわりは残らないかもしれぬ。そのとき、ファン・ヒューリックはといえば、こだわりどころか骨一本すら現世には残っていないだろうが。  その暗い未来図を引き裂いたのは、空をつらぬいた空中艦の航跡であった。タイタニア特務艦にむけて急接近してくると、三〇万分の一光秒ほどの距離をおいて空中に停止し、信号による通信を送りこんだのである。 「こちらはバルガシュ政府の武装保安隊《APA》である。当地において違法、脱法の武力活動をなす者は、国法によってこれを処断せざるをえず」  点滅する信号の光は、ファン・ヒューリックの目にもそう読みとれた。 「ただちに発砲を停止し、当局の臨検をお受けありたし。くりかえす、ただちに臨検をお受けありたし!」  タイタニア特務艦は反応を見せなかった。明らかに、躊躇《ちゅうちょ》と逡巡《しゅんじゅん》を示したまま、空中停止している。バルガシュの軽装巡視船ごとき、持てる全破壊力の半分以下で「処理」してしまうことが可能であるが、それはバルガシュ政庁に対する完全な敵対行為を意味する。バルガシュとの全面戦争に突入しても、タイタニアが敗れるはずはないが、それはタイタニアの外交政策の破綻《はたん》を意味するのだ。ひとたび生じた敵は無情にたたきつぶすが、あらたな敵を生《う》み出すことはなるべく回避するのがタイタニアの基幹的な外交であった。それは下部構成員も承知している。ゆえに逡巡したのだが、ついに信号を送って答えた。拒絶の回答であった。 「タイタニアはタイタニア上位者の命令にしか服従せぬ。貴艦は政庁に事態を報告し、あらためて指示をお受けあれ。本艦はひとえに上位者の命令を遵守するのみである」  要するにタイタニア特務艦は、バルガシュ政庁の法的|措置《そち》よりもザーリッシュ公の怒りを恐れたわけである。そして自らの逡巡を振り払うように、ふたたび砲身を伸ばした。砲口の角度を変え、火力を抑制して三門を斉射する。太いダークオレンジの火線が、二〇度の俯角《ふかく》で空を割り、巡視船の船体をかすめて五キロほど離れた地表にエネルギーを炸裂《さくれつ》させた。露骨きわまる威嚇であった。 「発砲を停止せよ!」 「やかましい、聞く耳持たぬ」  そう音声化したわけではないが、タイタニア特務艦は行動によって意思を明確化した。さらに巡視船に対して威嚇射撃をつづける態勢をとりつつ、地上で待機する歩兵部隊に指令を送った。自分たちを産《う》んだ繭から離れて、歩兵部隊は動きはじめた。 「来るぞ……!」  押し殺した声は、事実を指摘するとともに精神の緊張をも表現していた。巨竜の食道部分に、彼らがただひとつ所有する大口径のマシンガンを据《す》えた。ファン・ヒューリックの手にも、旧式の熱線ライフルが手わたされた。手わたしたのは、セピア色の髪を短くしてなぜかサンバイザーをかぶり、迷彩をほどこした野戦服を着こんだ女兵士である。二〇歳をこしたていどの若さで、珍しい竜胆色《ジェンシアンブルー》の瞳をしていた。美人だが、絶世というほどではない。  狙撃者としてのファン・ヒューリックの力量は、可もなく不可もなしというところである。射撃練習においても実戦においても、ありふれた存在だった。それでも、銃撃戦が開始されると、狙点《そてん》をよくさだめて侵入者たちを射すくめた。一度はたしかに命中したが、致命傷ではなかったらしく、自分の銃を放り出して敵は後退していった。それにかわって連射音がヒューリックに集中し、彼はあわてて岩蔭に長身を隠した。敵はスコープを使っており、洞窟のなかにあって射撃はきわめて正確であった。  ヒューリックが身をおこそうとしたとき、またしても連射音がひびき、岩盤の表面に赤く青く火花が散乱した。着弾がはねあがってファン・ヒューリックの睫毛《まつげ》をかすめた。本来なら耳の上に跳弾《ちょうだん》を受け、彼の個人史は終焉《しゅうえん》をとげていたところだ。「あぶないよ!」という女の声とともに左手首をつかんで引っぱられたので、落命をまぬがれたのである。  その瞬間、洞窟内が純白の強烈な光に満たされた。誰かが発光弾を炸裂させたのだ。狼狽《ろうばい》の悲鳴があがったのは、発光によってスコープの増幅装置が破壊されてしまったからであった。タイタニアの歩兵部隊は盲目状態となった。うろたえ、立ちつくした一瞬に、反タイタニア部隊からの火線が襲いかかった。乱反射するのは銃声で、銃弾にはずれはすくなかった。よく訓練された射手たちである。一〇名ほどの死者を遺して、タイタニアの歩兵部隊はしりぞいていった。  ひと息いれて、ヒューリックが名を名乗り、生命の恩人である女兵士に礼をいうと、女は彼に興味の視線を向けた。 「ファン・ヒューリックって、たったひとりでタイタニアにけんかを売ってるとかいう、あの男だろ?」 「売っているつもりはない。先方が勝手に値をつけているだけだ」 「じゃあ、せいぜい高く売りつけておあげよ。そうでないと癪《しゃく》じゃないか」  若い女は笑い、そうするとヒューリックが驚くほど精彩に富んだ表情が彼女の顔を輝かせた。彼女の美は造形的なものというより内的な生命力の波動によるものだということを、ヒューリックは推定することができた。  とにかく一度はタイタニアの歩兵部隊を撃退した。地の利と、それ以上に敵が慎重を期したためである。タイタニアの歩兵部隊にしてみれば、いかにスコープがあるとはいえ洞窟内の地形に無知であり、敵の人数や配置もわからぬ。大口径火器を使用してファン・ヒューリックを殺してしまったりしては、ザーリッシュ公の怒りも思いやられる。ひとまず後退して再攻撃の計画を練ろうというのであった。これはまず妥当《だとう》な姿勢といってよかったが、洞窟から地表へ出た彼らを、意外な光景が待ち受けていた。大気の壁に人血を塗りあげたような空、そこに浮かんでいる船は彼らの母艦の他はバルガシュの巡視船だけであるはずなのに、いま一隻の船影が黒影を急速に拡大させてきつつあるのだ。その速度と方向性から、タイタニア特務艦に敵対しようとしていることは明らかだった。それは「正直じいさん」号であった。 「正直じいさん」の武装は、タイタニアの駆逐艦級にやや劣り、特務艦を凌駕《りょうが》するというところである。そしてこのような武装密輸船の身上は、速度と可動性であり、メカニックを愛馬のように御《ぎょ》する乗組員の技倆《ぎりょう》であるだろう。それによって「正直じいさん」の一党はアルセス・タイタニア伯爵の襲殺《しゅうさつ》に成功したのである。今回は、大気圏内という異例の条件があるとはいえ、艦対艦の一騎打であり、しかも「正直じいさん」号のほうが武力において優越している。それだけにかえって、カジミール船長は慎重であった。  中世の重装騎士の決闘を、それは連想させた。華麗さゆえではなく、その反対の方向においてである。大気の存在せぬ宇宙空間で、彼らは自在に動きまわるのだが、いまや大気圧の深海中にあって、その動きは鈍重なほど緩慢《かんまん》に見えた。ゆるやかに円を描いて空中を回遊しつつ、エネルギーの槍を相手の急所に突き刺す機会をうかがっている。  勇敢なバルガシュ巡視船は、なおも激しく信号による警告をつづけていたが、無法な二隻の決闘者によって完全に無視されてしまっていた。最初の一閃《いっせん》はタイタニア特務艦から放たれた。エネルギーの牙がきらめいて「正直じいさん」に襲いかかる。はずれた。否、「正直じいさん」がはずしたのだ。今度は「正直じいさん」がビームを発射し、特務艦に命中させた。きらめきとともに白煙が生じて、特務艦はわずかに空中でよろめいたように見えた。  そのとき一騎打の空域にあらたな船影が四つ急行してきた。        V    それはドクター・リーの指揮する四隻の武装艦であった。巧妙な連係によってタイタニア特務艦の左右へ包囲の環を形成しようとする。タイタニア特務艦としては上昇する以外に脱出の途《みち》がなかった。上昇の態勢を示そうとすると、その方向を察知した武装艦が妨害にかかる。双方のもつれあいはかなり長くつづいたように見えたが、実際は一分間に満たなかったであろう。脱出路を失ったタイタニア特務艦が強行突破を図《はか》って水平突進に出た。全砲門を開き、火線をあらゆる方向に伸ばしながら大気の海を直進する。包囲する側《がわ》は、敵の乱射から身をかわしつつ、たけだけしく応射した。火線が赤い空の画布を切り裂き、回避しそこねた艦体に弾《はじ》けて虹色の光の霧を散らす。「正直じいさん」の腹部に光と炎が弾けた。だが、一弾を命中させる間に、タイタニア特務艦は一〇弾を浴びていた。小さい火球が連鎖して宝石の帯のように特務艦をとりまいた。  タルハリ砂漠の上空に毒々しい爆発光の花が咲いた。いったんその上端までを地平線に没しきった太陽が、天頂部に転位したかのようであった。爆発音が波うって地表を激しくたたいたとき、光はすでに拡散し、生じた煙の塊《かたまり》が飛散して、かつて特務艦が存在していた空間は無に帰している。特務艦の破片が弱々しい金属の雨となって降りそそぐなか、地表であらたな爆発がおこった。地表のシャトルを、ドクター・リーが砲撃、破壊したのである。  状況は一変した。タイタニアの歩兵部隊は空中からの一方的な攻撃にさらされることになる。彼らは戦意を喪失し、重い武器を放りだし、組織的な命令系統を解いた。集団で行動しても、全滅を強《し》いられるだけである。各自が自分の才覚と勇気で窮地を脱するしかないのだった。ばらばらの方角に逃げ散る歩兵たちを、ドクター・リーは追わなかった。    宇宙一高い価格をつけられた逃亡者ファン・ヒューリック氏は、ようやく「正直じいさん」号の仲間たちと再会を果たした。悠々と久闊《きゅうかつ》を叙《じょ》しているだけの余裕はなく、あわただしく移動を開始しなくてはならなかった。地下洞にアジトをつくって細々と反タイタニア武力活動をおこなっていたグループも、流星旗軍の一部と合流することができて、心強くなったようである。彼らのリーダーである医師と、ドクター・リーとが何やら話しあっているのを横目に、ファン・ヒューリックは、パジェスやワレンコフにむかって恐縮してみせていた。 「いや、心配かけてすまん。まあ、おれのほうも三度もタイタニアにつかまれば人生の経験としては充分だね」  ファン・ヒューリックはそう負け惜しみを口にしたが、負け惜しみですまなかったのは「正直じいさん」号であった。タイタニアの特務艦はじつによく戦い、敵に二弾をあびせたのだが、それが二弾とも「正直じいさん」に命中したのである。  ドクター・リーが、冷静とだけは評しえない声をカジミール船長にかけた。 「気の毒だが、正直じいさん号はもうあきらめたほうがいい。形だけの修復はできるが、恒星間飛行には耐えられないだろう」  その意見に、コンプトン・カジミール船長は沈黙をもって応《こた》えた。もともと彼は声帯を失って声を出せないのではあるが、仮にそうでないとしても即答しがたいことであったにちがいない。「正直じいさん」は彼の所有する無機物というにとどまらず、彼の好《よ》きパートナーであり、彼の人生それ自体を具象化した存在であった。これはカジミール船長ひとりの特殊例ではなく、閲歴《えつれき》の古い独立商人とはそういうものであるだろう。そのような人々にとっては、船を破棄することと自らの人生に幕をおろすこととは同一なのである。  ミランダが肉の厚い掌を夫の肩に置いた。 「あんた、正直じいさんをそろそろ休ませてやろうよ。もう充分に働いてくれたんだしね。このあたりで息子か孫に席を譲ってゆっくり休む年齢《とし》になったのさ」  合理性に富んだ説得ではなかったが、カジミール船長はゆっくりとうなずいた。個人的な感傷で事態が左右される、そのような状況ではないことを、この思慮深い中年男はわきまえていたのである。 「どうやってあたらしい船を手に入れるんだ。何でもそうだが、この不人情な宇宙では金銭《かね》がなきゃ呼吸ひとつできんのだぜ」  財政通を自認するアラン・マフディーが散文的な疑問といやみを舌端《ぜったん》に乗せた。 「それを考えるのはあんたの仕事だろ。タイタニアの下っぱをつとめていたころの才覚はどうしたんだい。組織を離れたとたんに才覚が消えて、出るのがぐちといやみだけとは、なさけない話じゃないか」  痛烈なミランダの反撃に対して、マフディーがさらに再反撃しようとしたとき、ファン・ヒューリックが口をはさんだ。 「船はおれが何とかするよ」  あて[#「あて」に傍点]があっていったわけではない。彼を救うためにカジミール船長は愛船を傷つけたのだから、ファン・ヒューリックとしてはその好意に報わなくてはならなかった。その心情を読みとったのであろう、カジミール船長は温和な笑顔をつくりかけたが、急激にその表情を変化させて、暗くなりつつある空の一角に視線を送った。  地平線上に黒雲が群らがりたつかと見えた。それがタイタニアの艦隊であることは、理性と感覚の双方が認識したが、それでもなおかつ、暫時《ざんじ》の自失《じしつ》を見る者は経験させられたのである。艦艇数は一〇〇隻を超すであろう。タイタニアとしては持てる武力のごく一部にすぎないが、この場に集結した反タイタニア派を鏖殺《おうさつ》してのけるのに充分すぎるほどの数であった。ドクター・リーでさえ、平静が破れる寸前の声を発せざるをえなかった。 「いよいよザーリッシュ・タイタニア御当人のお出ましと見えるぞ」 「で、どうするんです、戦いますか」  パジェスがいったが、彼は単にそう尋ねてみただけのことである。戦って生き残れるはずがなく、船を棄てて地下に逃げこむしかなかった。あわただしく逃避行が開始され、巨竜の口から食道へと足音が乱れる。 「みんな何をびくついてるの? ザーリッシュ公がこんなところまで出てきたのは、いい機会だわ。あのでかい身体が|天の城《ウラニボルグ》の奥にこもっていたら手も足も出せないけど、わたしたちの銃弾のとどく距離に来たんじゃないの」  洞窟のなかにひびいたのはサンバイザーをかぶった女の声で、薄暗いなか、彼女が自分の近くにいることをファン・ヒューリックは知った。このとき洞窟内に逃げこんだ反タイタニア派の総人数は三〇〇名ほどで、彼らは本来の洞窟の住人たちに道を案内してもらわなくてはならなかった。スコープも人数分はないので、旧式のライトに頼るしかない。本質的に楽天家であるのか、ヒューリックは、むさくるしい男より若くて綺麗な女性に傍にいてもらうほうが喜ばしかった。ひとまず落ちついて武器や弾薬を土の上におろしたところで問いかけてみる。 「君は何か、親の仇でも討とうというので、こんなところにいるのかい」 「親ね、たしかに親にからんだことではあるわ」  わずかに声をひそめ、ヒューリックの瞳を若い女は覗《のぞ》きこんだ。 「わたしの父親は現在の無地藩王《ラントレス・クランナー》アジュマーン・タイタニアよ。母親は無名の女。藩王の気まぐれで摘《つ》みとられた野の花でしかないわ」  衝撃は音もなく静かにヒューリックの精神野に浸《し》みこんでいった。反応の選択に困惑した経験は、二八年の人生でいくらでもあるが、女性の出生について、どう反応すべきか困った立場に置かれたのは、はじめてだった。だが結局のところ、こういう場合には、相手の事情に立ち入りすぎたことを謝するしかない。 「そうとは知らなかった。すまん、赦《ゆる》してくれるとありがたい」  ファン・ヒューリックがにんじん[#「にんじん」に傍点]色の頭をさげると、若い女は真摯《しんし》そのものの表情で、さすらいの英雄を眺めやった。 「ふうん、お祖母《ばあ》ちゃんがいったとおりだわ。男ってどうしてこう御落胤《ごらくいん》ってやつに弱いんだろ。みんな身に覚えがあるからかな」 「え、すると……?」 「でたらめよ。わたしの父親は名もない酒場のピアニストだったの。ありふれた話だけど、タイタニアの息のかかった競争相手のために機会をつぶされてね……」  女は溜息をつき、やや表情をあらためた。 「流浪のお姫さまでなくて、がっかりした?」 「いや、そんなことはない」  苦笑を目もとと口もとにたたえて、ファン・ヒューリックは手を振ってみせた。 「こちらの浅はかさを思い知らされたがね、落ちついて考えてみると、お前さんがタイタニアの御落胤なんかでなくてよかったような気がする」  なぜそのような気がするのか、女は問わなかった。 「ごめんね、つまらないでたらめをいって」 「気にしてないよ」  そう明快に答えた後いささか不器用にファン・ヒューリックは話題を探したが、ロマンチックと無縁なものしか周囲にはなかった。 「で、やはりみんなタイタニアに憎悪や怨恨《えんこん》をいだいているのかい」 「それはそうよ。全員タイタニアには負《マイナス》の感情をいだいているわ。強大な成功者が、同時代の人間すべてに愛されるわけないものね」 「君らのリーダーもか」 「ええ、あの人は妻子と病院を同時に失ったの。タイタニア系の化学工場の事故で。完全に人為的なミスだったのに責任者は処罰されなかった」  リーダーの名はイブン・カシム医師だということを、彼女はヒューリックに教えた。 「タイタニアがことさら弱い者いじめをしているとは、わたしは思わない。象が歩けば蟻《あり》が踏みつぶされる。それだけのことよ。だけど蟻は象に踏みつぶされるために生きているわけじゃないわ」  いい台詞《せりふ》だ、と、ファン・ヒューリックは思った。彼はタイタニアと戦うために生まれてきたわけではないが、タイタニアに追われて逃げまわるために生まれてきたわけでは、それ以上にない。蟻として生まれたのはぜひもないことで、気質や状況からいって象の家来になることもならぬ以上、踏みつぶされることを拒否して戦うしかなかった。ファン・ヒューリックの頭脳は勢いよく回転を始めた。ザーリッシュ・タイタニアが彼を生かしたまま捕えることに固執しているかぎり、反撃の機会はいくらでもある。生かしたまま捕えようというのは先方のつごうであって、こちらが遠慮する必要はまったくない。近づく巨象を転倒させる方法を、本気で彼は考えはじめたのであった。        W   「鼠賊《そぞく》どもめ。奴らの肉をこまぎれにして砂漠の砂に混《ま》ぜこんでくれるぞ」  ザーリッシュが指揮シートから巨体をおこした。夕闇につつまれつつある地上だが、スクリーンには明瞭に灰褐色の地形が映し出されている。 「閣下の考案なさったあたらしい料理は、バルガシュの名物になるでしょうな」  幕僚のひとり、カイツ少佐が声をあげて迎合した。  この種の豪快な、あるいは粗野な冗談をザーリッシュは好む。剛《こわ》い髯《ひげ》に包囲された口を大きく開いて哄笑《こうしょう》した。周囲の幕僚たちも主君の笑声に応じて笑ったが、ただひとり応じなかった者は副官グラニート中佐である。ザーリッシュの乗艦「タイラント」の艦上において理性を感情に優先させている者がいるとすれば、三年にわたってザーリッシュの副官をつとめているこの男だけであったろう。わずかに灰色の線をまじえた褐色の頭を、グラニートは小さく振ると、あえて主君の熱意に水をさした。 「彼らを鼠賊と閣下がおっしゃるゆえに申しあげます。そのような輩《やから》、閣下があえて御自身で討伐なさる必要がございましょうか。閣下はタイタニアの重鎮、どうかご自重いただきたく存じます」  副官グラニート中佐の進言に、形だけうなずきはしたものの、ザーリッシュはそれを容《い》れる気はなかった。もともと見敵必戦《けんてきひっせん》型の、彼は闘将であって、しかも一度は掌中《しょうちゅう》の虜囚を奪いとられている。ファン・ヒューリックをふたたび、そして死に至るまで虜囚とし、彼の周囲に蠢動《しゅんどう》するこうるさい害虫どもを掃滅《そうめつ》してしまわねば、心の平安をえることはできないのであった。彼は無能ではないが、すくなくともこの時点においては、理性によって感情を制御する努力を放擲《ほうてき》し、闘士としての本能のままに突進した。これが宇宙空間において敵の大艦隊と戦うのであったら、ザーリッシュはその豪強をほしいままにして敵軍を撃砕し、極彩色の武勲を樹立したにちがいない。だが、いま彼は巨象を撲殺《ぼくさつ》すべき棍棒を振りまわして、とびかう蚊の群を全滅させようとしているのである。膨大なエネルギーが空転し、その輻射《ふくしゃ》熱が乱流と化して彼自身に返り、理性を蒸発させつつあることに、ザーリッシュは気づいていなかった。彼の幕僚たちもその狂熱にすでに感染しており、スクリーンを注視する幕僚のひとりが興奮の声を発した。カイツ少佐であった。 「極低周波弾を投じて、奴らを生き埋めにいたしましょうか、閣下」 「だめだ、それではファン・ヒューリックめを母上の御前に引きずっていくことができぬではないか」  一言のもとに幕僚の提言をしりぞける。なお忠言したのは副官グラニート中佐であった。 「閣下、ヒューリックを殺した旨《むね》、御母堂にご報告なさればそれですむことでございましょう。いまの提言どおりなさるがよろしいかと」 「グラニートは無用な口をはさむな! すでにおれが定めたことだ」 「は、失礼いたしました」  グラニートが反論もせず引きさがったのは、副官としての任務に情熱の不足を自覚しつつあるからだった。彼が従事しているのは公的な軍事作戦ではなく、ザーリッシュ家の私戦ですらなく、性質《たち》の悪い狩猟ゲームであるにすぎないのだ。苦々しく、その事実をグラニートは認識した。彼は三五歳の、ヴァルダナ帝国宇宙軍士官学校を卒業した軍事専門家である。中等学校を卒業してタイタニアの武装商船に乗り組み、宇宙海賊との戦闘で勇敢に戦って船長に認められ、その推薦でタイタニアの奨学金をえて士官学校に進学できた身であった。二〇年にわたってタイタニア一族につかえてきた忠良の軍人だが、思考力を持たぬ有機ロボットではなかった。私情を露出させ、タイタニア全体の利益と名誉をそこなうかに見えるザーリッシュの行動を、彼は支持することができなかった。  一事が万事だ。この方はつねに感情を理性に優先させるだろう。一個人であればそれもよいが、巨大な組織の長としては致命的だ。この方が藩王になれば、タイタニアは卵を累《かさ》ねてその上でダンスを踊るような危うさを避けられぬであろう。そうグラニート中佐は内心で断定せざるをえなかった。それにしても、かずしれぬ武勲に輝く宇宙一の豪将が、このような小事にかかずらわって弱点をむきだしにするとは! 「閣下、先刻よりうろついておりますバルガシュの虻《あぶ》めが何やらまた鳴きたててまいりました。いかがいたしましょうか」  通信士官の報告も、ザーリッシュの部下たるにふさわしく、弱敵への侮蔑に満ちている。タイタニアの力を、もっとも物理的な形で信奉する、グレーの軍服の集団であった。ザーリッシュは小《こ》うるさげな表情で美髯《びぜん》を揺らし、ほとんど考える時間も置かず、無造作に命令した。 「攻撃せよ」 「は、ですが、あれはバルガシュ政府の公用船でして、撃墜すれば彼らと事を構えることになりますが……」 「攻撃せよといっておるのだ。いずれバルガシュ政府とは話をつける。奴らに、タイタニアと全面対立する度胸があるものか」  口を開きかけてグラニート中佐が閉ざしてしまったので、主君を制止する者はいなくなった。もともとタイタニアにおいてもっとも好戦的な集団である。攻撃を命じられて不満に思う者はいない。  それでも、第一射から命中させることはさすがに避けた。砲門から二条のエネルギー・ビームがほとばしって至近距離の空間をつらぬくと、巡視船は落雷におびえる小動物のように反応し、無秩序な航跡を暗い空に描いて、可能なかぎりの速度で逃げ出してしまう。  あらたな嘲笑《ちょうしょう》でそれを見送ったタイタニア艦隊は、砲門を地上へ向けた。暗色のタルハリ砂漠の上に、一隻の老朽船が這《は》いつくばっている。やがて数条の砲火が一点に集中するさまを、洞窟内の人々は視界に映した。 「正直じいさん号が……」  ミランダが豊かな胸を慄《ふる》わせて歎《なげ》いた。地上に放置された老朽船は、黄とオレンジ色の炎で夕闇の一角を照らしつつ、火葬に付されていた。風が地下洞の奥まで炎のちらつきと燃焼音を運んできた。それが「正直じいさん」の葬送であった。黙然と立ちつくすカジミール船長の腕に、ミランダが労《いたわ》りの手を置いた。彼ら夫婦ほどではないにしても、数ヶ月にわたって「正直じいさん」号を家としてきた反タイタニア派の無頼漢《ぶらいかん》たちは、柄《がら》にもなく粛然《しゅくぜん》として炎の反映を眺めやった。ぼろ船とはいえもったいない、とつぶやいた者もいる。名を記する必要はないであろう。 「夜のほうが先に来てしまったが、そろそろ動きがあってもいいはずだな」  感傷、あるいはそれに近い精神作用の砂粒を払い落としてドクター・リーが現実的な課題を口にした。彼が反タイタニアの盟主にかつぎあげようとしている男は、先刻から黙りこんで何やら考えこんでいる。 「タイタニアと宇宙の覇権を争うはずの身が、辺境の惑星の、それもこんな地下洞で追いまわされているとはなさけないことだ」  ドクター・リーがつぶやくと、ミランダが大量の二酸化炭素を肺から吐き出した。 「追いまわされるうちは、まだしもさ。宇宙《そら》の上ならともかく、地面の下で死ぬなんて気がすすまないねえ」  ファン・ヒューリック以外の者にとって、現在の状況は、戦死から一歩の距離にすぎなかった。彼らを生かしておくべき理由や必要性は、タイタニアには一ミリグラムもない。投降したところで、ヒューリックの眼前に並べられて射殺されるのが唯一無二の結末であろう。 「ひとつ考えがある」  そうファン・ヒューリックが口を開き、一同は彼を注視して、その説明を聞きはじめた。ただひとりの例外は、「正直じいさん」号の事務長であった九〇代の老人で、炎も音響も無視して岩壁に寄りかかり、高く低くいびきの独唱をつづけている。  ザーリッシュ公がファン・ヒューリックを生かしたまま虜囚としようというのは、慈悲の心からではない。公正な裁判にかける意思からでもない。惜しむべき人材を味方につけて登用しようという器量からでもない。ひとえに、ファン・ヒューリックを母親の手によって惨殺させるためである。それが明らかである以上、ヒューリックには相手に遠慮する必要はまったくなかった。そして、彼の戦闘的な決意に呼応するかのように、地上と空中においては、この日幾度めかの状況の変容が生じつつあったのだ。 [#改ページ]        第七章 衝突            T    ただひとりの人間が、その事態を予想していた。否、その人物こそが事態を演出したのだ。ドクター・リーはこの場所に到達する前に、惑星バルガシュの軍司令部に通信を送り、タイタニアがバルガシュ領内において実戦におよぼうとしている旨、教示してやったのである。むろん巡視船からの報告もあったにちがいなく、その結果、落日の最後の余光が消えさった空に、一〇〇余の光点が出現したのであった。 「バルガシュ正規軍!」  索敵士官の叫び声が艦橋に満ちて、ザーリッシュ公の旗艦「タイラント」では低いざわめきが群らがりたった。恐怖ではなく、緊張ですらなかった。ザーリッシュの部下たちは、ごく一部の例外を除いて、主君の豪勇と自分たち自身の武力を信じきっていたのである。 「こいつは驚いた。バルガシュ政府は本気でおれたちとやりあうつもりらしいぞ」 「やれやれ、もっと自分に正直に生きればよいものを。くだらぬ面子《めんつ》などのために、あえて虎の尾を踏むこともあるまいに」  幕僚たちが嘲笑《ちょうしょう》を競いあうなか、二名だけが無言だった。ザーリッシュ公とグラニート中佐である。嘲笑の波が消えぬうち、今度は通信士官が声をあげた。バルガシュ軍から交渉を求める通信がはいってきたのだ。 「小官はバルガシュ正規軍のトゥルビル少将です。ザーリッシュ・タイタニア公爵閣下がそこにおいでであれば、話をさせていただきたい」  通信スクリーンに姿をあらわしたバルガシュ軍の指揮官は鄭重《ていちょう》にそう告げた。頭部の左右に白髪を残した六〇代の人物で、軍人というより大学の老教授という印象である。話しあいとは迂遠《うえん》な、という表情を露骨にあらわしつつも、ザーリッシュは拒絶はせず、相手の求めに応じた。トゥルビル提督は礼儀正しく、タイタニアに撤退を求めた。 「バルガシュは独立国です、小なりといえども。そしてつねにタイタニアに対して好意と礼節を守ってきたつもりですが、それをご理解いただけぬのでしょうかな」 「理解は貴官のほうにこそ求めたい。吾々はバルガシュに敵対する意思はない。ひとえに宇宙の秩序を乱す公敵を捕縛するのが目的である。協力を強《し》いているわけではない。ただ傍観してくれればよい。そのていどのことも聞きいれてもらえぬのか」 「宇宙の秩序を乱すことが罪であるなら、現在タイタニアがここでおこなっていることは、わが国の法秩序を乱すことです。そうではありませんかな、ザーリッシュ公」 「どうやら話しあいの余地はないようだな」  不快げに吐きすてると、ザーリッシュは砲術士官に合図した。威嚇《いかく》射撃の命令であり、それはただちに実行にうつされた。  五〇をこす砲門がいっせいに咆哮《ほうこう》をとどろかせた。エネルギー・ビームでなく砲弾を使用したのは、音響による威嚇の効果を計算してのことである。バルガシュ軍が空中停止しているその直下の地表に数百の砲弾が撃ちこまれ、炸裂《さくれつ》し、炎と煙と土砂と轟音《ごうおん》とを墳きあげた。静寂であるべき夜は、光と音の洪水に侵掠され、無数の細片に引き裂かれた。原色の大気が熱波となって渦を巻き、バルガシュ軍の艦艇を揺動させた。だが、それは逃走に結びつかず、陣形もくずれぬ。 「バルガシュ軍は退却の気配を見せません」 「よし、これまでだ。われながらよくぞ忍耐した」  白い強靱《きょうじん》な歯をむき出してザーリッシュは笑い、指揮席から巨体をおこした。力感にあふれた命令が下された。 「バルガシュ軍など無視せよ。ただ遠くから非難の声をぶつけるだけの腰ぬけどもだ。かまうことなく当初の命令を遂行せよ」  好戦的な命令が、部下たちのほぼ全員を一段と活性化させた。歓声すらあがったほどだ。タイタニア艦隊のうち、地上戦要員を搭乗させた一〇隻ほどの艦が高度を下げはじめると、他の艦もやや高度を下げ、砲門をバルガシュ艦隊に向けた。僚艦の作戦行動を援護しようというのである。そのありさまは、むろんバルガシュ側にもはっきりとわかった。 「タイタニアはどうやら平和的解決という項目を辞書から削除したようだ」  トゥルビル提督は憮然《ぶぜん》としてつぶやいた。 「自らが強いと思う者は、強さをもって法を破ることをむしろ誇りとするらしいな。やむをえぬ」  老提督は頭を振ると、表情をあらためて部下たちに対した。 「諸君には、わしの麾下《きか》にあったことを不運とあきらめてもらうしかない。バルガシュの軍人として、わしは、バルガシュの法が武力をもって破られることを看過《かんか》できぬ。タイタニアと交戦する!」  緊張の電流が幕僚たちの間に走った。ザーリッシュ・タイタニアの部下たちとことなり、彼らは自らの強さを無条件に恃《たの》んでいるわけではない。 「ですが、提督、タイタニアはまだわが軍に対して発砲したわけではありません。わが軍が先制攻撃をかければ、後日、バルガシュのほうこそ開戦責任を問われますぞ」  三〇代前半の若い幕僚が、蒼《あお》ざめた顔色で異議をとなえた。老提督の視線を受けて、さらに自説を主張する。 「ましてタイタニアに追われるファン・ヒューリックなる者、わがバルガシュの市民というわけでもありません。たかが一異邦人のために国家を争乱に巻きこむのは、失礼ながら越権《えっけん》の極致、ご自重いただきたく存じます」 「よくいってくれた、イルク少佐」  トゥルビル少将は怒らず、かえって部下を賞賛した。開戦の意見に反対する者の存在は、組織の健全さをしめすものだと老提督は考えている。これはトゥルビルの思考が典型的な軍人のものでないことを語るものかもしれない。だがいずれにせよ、トゥルビルもイルクもそれ以上、自論を開陳する余裕はなかった。スクリーンが白光を発し、これまでにない大規模な衝撃波が艦体を震わせた。タイタニアの降下作戦を妨害しようと接近したバルガシュの駆逐艦が、突出してきたタイタニアの駆逐艦と接触し、それを見たべつのタイタニア艦がついに発砲したのであった。  こうして、ついにタイタニア一族とバルガシュ政府との間に干戈《かんか》が交えられるに至ったのである。星暦四四六年一〇月のことであって、歴史上、両者の武力衝突は、これが最初の例となった。    ザーリッシュ・タイタニアの厚い胸郭《きょうかく》の奥に、後悔の火花が散らなかったとはいえない。だがその生命は半瞬未満で燃えつきてしまい、たけだけしい勝利と破壊への欲求が炸裂して煮えたぎった。もはや彼にとって、バルガシュ政府軍は妨害者ではなく正面の敵であった。 「地上部隊は鼠賊《そぞく》どもを鏖殺《おうさつ》し、ファン・ヒューリックを捕えよ。指揮はアトラソフ大佐にゆだねる。そして艦隊は……」  猛気が陽炎《かげろう》となってたちのぼるかのようなザーリッシュの姿だった。たとえ敵が兎《うさぎ》であっても、それを撃つのに全力をもってするというのが獅子《しし》の面目というものであろう。 「艦隊は正面からバルガシュの身のほど知らずどもを撃滅する。サラマンカ准将の集団は上昇して奴らの上方への退路を絶て。ヴェヒター准将の集団は時計方向へ進んで側面攻撃をかけよ。以後は命令と同時に、各艦の各個撃破に移行する」  ごく短時間のうちにこれだけの作戦を指示するあたり、戦闘指揮官としてのザーリッシュは凡庸《ぼんよう》というにほど遠い。グラニート中佐もそれは認めざるをえなかった。  ザーリッシュの指示にしたがって、タイタニア軍は単一の神経網を有する生物のように行動を開始した。正確にはタイタニアの艦艇数は二二〇隻で、バルガシュの一六〇隻を大きく凌駕《りょうが》する。大軍の指揮に慣れたザーリッシュにとっては算《かぞ》えるのも愚かしいほどの寡兵《かへい》であるが、とにかく敵を上まわる数であり、余裕をもって作戦指揮をおこなうことができた。  一方、バルガシュ軍は戦慄《せんりつ》にわしづかみされつつ迎撃するしかなかった。タイタニア軍は主力がバルガシュ軍の正面を抑えつつ、一翼を上方に、もう一翼を左へと伸ばして、バルガシュ軍をつつみこもうとしていた。とっさにトゥルビル提督が考えた対応策は、戦いつつ後退することであった。これは唯一の、しかもきわめて危険な戦術であった。戦術的後退が嘘いつわりのない敗走に直結した例はいくらでもあるのだ。だがトゥルビル提督はどうやら部隊を完全に掌握《しょうあく》しているようで、タイタニアの動きに巧みに対応して双方の距離をたもち、後退と応射に絶妙のタイミングを示して、包囲網の完成をさまたげた。双方の駆け引きは五分間ほどつづいたが、ザーリッシュの忍耐心を刺激するには充分であった。彼は直属部隊に急速前進を指示した。降下して敵艦隊の俯角《ふかく》から砲火をあびせ、上方移動しつつあるサラマンカ准将の部隊と連係して、上下から敵を挟撃しようというのである。戦術としてまちがってはいないはずだが、この指令は運命的な結果をもたらした。  ザーリッシュ・タイタニアは、彼が追い求める敵手の過去に注意を払わなかった。ファン・ヒューリックがタイタニアの公敵になりあがるまで何をしていたか、そのような瑣末《さまつ》事に対して興味をいだくことがなかった。ゆえに彼はファン・ヒューリックの閲歴でつぎのように記してある部分を読み落としたのである。「砲術士官出身」とある部分を。凡将でも愚将でもないアリアバート・タイタニア公がファン・ヒューリックに敗れたのは、この砲術家が常識外の火砲戦術を立案実行したためであったのだ。つい数ヶ月前の教訓を、ザーリッシュは失念した。というより最初から意に介していなかったというべきであろう。  ザーリッシュが四〇隻の僚艦をひきいて低空を滑り、バルガシュ艦隊の直下から攻撃をかけようとしたとき、強烈な衝撃が旗艦をゆるがした。砂漠の土砂が噴きあがり、長大な炎のフォークが艦底を突き刺したのである。 「……砂のなかに!」  悲鳴の破片が耳に突き刺さって、ザーリッシュは真実をさとった。砂のなかに鼠賊どもの艦艇がひそんで、タイタニア艦隊が低空を通過しようとしたときに下方から斉射したのである。鼠賊どもの艦が一隻砂上に遺棄されており、ザーリッシュは力を誇示してそれを破壊させた。これがつまり「正直じいさん」号の最期であったのだが、タイタニアにしてみれば、彼らの艦が一隻だけであることに不審をいだくべきであったろう。否、不審をいだいた者はいたのだが、おりからバルガシュ艦隊が到着し、彼らへの対処を優先せざるをえなかったのである。いくつかの条件が細い糸を交差させて現在の状況を織り出したわけだが、ファン・ヒューリックとドクター・リーといずれか一方だけが存在していたのであれば、このような奇策は実現しなかったであろう。 「機関室破損!」  通信の声に爆音が混入し、危険を告げる警報がヒステリックに聴覚を侵掠してきた。  ザーリッシュの旗艦「タイラント」めがけて、バルガシュ軍の砲火が殺到してくる。敵の旗艦に攻撃を集中させるのは当然の戦法である。艦体の数ヶ所に大小の火球が弾《はじ》け、金属とセラミックの装甲が薄い膜となって剥落《はくらく》していった。 「何という醜態だ!」  ザーリッシュは歯を噛み鳴らした。艦橋の床と壁は熱病を生じたように震え、警報は神経をかきむしってひびきわたる。一分前には想像もしえなかった状況の激変であった。壁面が弾けて青白い火花の舌を吐き出すのは、配電路が連鎖的に爆発を生じたからである。暗色の空中でよろめいた旗艦が、赤く青く不吉な光を発散させながら高度を下げていくありさまを見て、タイタニア艦隊は息をのんだ。 「旗艦が! ザーリッシュ公が!」  タイタニアの通信網を悲鳴が走りぬけたとき、炎を噴きあげた旗艦「タイラント」は空中浮揚の能力を失い、速度と平衡性の制御能力を奪われて、金属製の酔漢と化してしまっていた。 「着地しろ!」  ザーリッシュは怒号した。命令内容としては他にありえない。惑星バルガシュの大気が艦体をささええぬ以上、地殻をもってささえさせるしかないのである。  降下というより沈下という表現にふさわしく、旗艦「タイラント」は無力に地表へと接近していき、その周囲は炸裂するエネルギーの光芒《こうぼう》に満たされた。バルガシュ艦隊は旗艦を狙撃し、タイタニア艦隊は降下を妨害しようとして、狭小な空域に火線を集中させる。大気は熱く濁ったエネルギーのスープと化して沸騰せんばかりだ。「タイラント」は砂煙と熱風のなかを、艦体を揉《も》むように苦悶《くもん》しつつ降下し、降下し果てた。  大量の砂と少量の煙を夜のただなかに撒《ま》き散らしながら、ザーリッシュの旗艦は地に這《は》いつくばった。衝撃緩和システムが作動していなければ、この時点で搭乗者の大半が死亡していたであろう。だが、生は苦痛をともなった。悲鳴と苦痛のうめきとが聴覚を侵蝕するなかで、なお力感に満ちたザーリッシュの命令が周囲を圧してとどろいた。 「早く脱出しろ! 爆発するぞ」  額《ひたい》を截《き》って、薄い皮膚を破った血の流れが偉丈夫の半面を染めている。充満する煙は通気システムの処理能力を超《こ》えて、乗員たちの肺と気管を責めつけてきた。激しくせきこむ音は、悲鳴に混入して混乱の狂騒曲の一部と化した。艦体三ヶ所の脱出口から、グレーの軍服がつぎつぎとこぼれ落ちていった。  ザーリッシュは万人から賞賛されて然《しか》るべきであったろう。彼自身が負傷していたにもかかわらず、ザーリッシュは二名の部下を救い出したのである。ひとりを左肩にかつぎあげ、ひとりの腰のベルトをつかんで、美髯《びぜん》の偉丈夫は、大股に脱出口へと歩き出した。その姿は、部下たちにほとんど宗教的なまでの歓喜に満ちた勇気を与えた。脱出寸前、通信士官は、全部隊に向けてつぎのように連絡したほどである。 「ザーリッシュ公は健在なり。ゆえにタイタニアも揺るぎなし。僚友に告ぐ、戦意を失うことなかれ」  感情が理性を圧倒した結果、思いもよらぬ反応が生じた。タイタニア軍がザーリッシュを救おうとした反面、バルガシュ軍は敵の総帥が生存していることを知り、彼を葬り去ろうとして、ともに地上へと動きを示したのだ。タイタニア艦隊は自ら求めて不利を招くことになった。降下を図《はか》る彼らに、仰角《ぎょうかく》から敵の火線が集中してきたのだ。地表を走り出したザーリッシュたちの頭上に爆発光と煙がひろがり、火と破片の雨が降りそそいできた。  バルガシュ軍は勢いに乗じた。勝算のすくない戦いであったのだ。それがザーリッシュの指揮能力を奪ったことで、彼らは全《まった》き興奮状態におちいった。彼らはいまや戦術的後退を過去の彼方に放りすて、苛烈《かれつ》な砲火と銃火をあびせて敵の混乱を拡大させ、一船また一船と爆発炎上させていく。 「閣下! 提督! 反タイタニア派と結託したかのように思われては、後日、不利となりましょう。攻撃をおひかえ下さい」  イルク少佐が進言した。  それに対して、大学教授を思わせる老提督は、「おお、よくいってくれた」とはいわなかった。差出口《さしでぐち》する幕僚を肩ごしにかえりみて、彼はどなりつけた。 「ええい、小心者め、この期《ご》におよんで慎重論を唱えても何の役にもたたんわい。断固、全面攻撃あるのみだ。かかれ、かかれ!」  大学教授が一変して海賊の巨魁《きょかい》になってしまったようであった。絶句して立ちすくむイルク少佐を無視すると、トゥルビル少将は軍帽を床にたたきつけ、熱狂の叫びを発した。 「そら、二時方向の巡航艦をしとめんか。あの狼狽《ろうばい》しきった動きがわからんのか。主砲塔に集中砲火をあびせろというのに!」 「……何と、この人の本性はこれか。これまで端然《たんぜん》たる老紳士と思っていたが、じつは熱血戦争老人だったらしい」  あきれかえって頭を振ったイルク少佐は、いったん組んだ腕を解くと、理性を遠くへ放り出す表情でどなった。 「こうなったら毒食わば皿までだ。やってしまえ! タイタニアの犬どもを一匹も生かして帰すな!」  これまでの最慎重派が転向してしまった以上、バルガシュ軍の狂熱を制する者は誰も存在しなくなった。彼らは逆上した草食獣のすさまじさで敵に襲いかかっていったのである。  ザーリッシュは確かに勝利の軍神であった。彼の乗艦が戦域を離脱した瞬間に、タイタニア艦隊は勝利への確信を失ったのだ。このまま戦闘をつづけ、バルガシュ軍と雌雄《しゆう》を決すべきか。それとも乗艦を失った主君を救うべきか。よきにつけあしきにつけ、ザーリッシュ個人の個性と力量に全軍が頼りきっていたのであり、彼らは精神的に脊髄《せきずい》を撃ち砕かれて、立つことさえ困難になったのである。ザーリッシュは彼の軍において完全な独裁者であり、実力においても制度においても、次席の存在が認められていなかった。ザーリッシュに代わって総指揮をとるべき者がおらず、タイタニア軍の指揮系統はきわめて前近代的なものであることが、このような緊急時に暴露《ばくろ》されてしまったのである。 「だらしない奴らめ。このようなときにこそ武人としての真価を発揮せぬか」  ザーリッシュが憤激の声を発したとき、すでに降下をすませていたアトラソフ大佐の地上部隊が合流してきた。弾幕を張って空中からの掃射に対抗しつつ、ザーリッシュの身を守ろうとするが、それにも限度がある。 「閣下、洞窟へおはいり下さい。地上にいればバルガシュ軍から掃射されます!」  グラニート中佐が叫んだ。ザーリッシュは美髯を揺らしてうなずいた。洞窟内にファン・ヒューリックらの一党が潜んでいるのは明らかであったが、空中からの掃射を避けるには洞窟へはいる以外に方法がなかった。たとえ戦闘になっても、自分が負けるとはザーリッシュは想像もしていない。もともと叛逆者たちの人数も多くはなく、彼の周囲にいる地上戦要員だけで制圧できるはずであった。        U    無名の地下洞がこれほど多くの人間を迎えいれた例は、バルガシュの有史以来である。残念なことに、友情や礼儀とは無縁のお客たちであったが。  ザーリッシュ・タイタニア公を擁《よう》して地下洞に侵入してきた軍隊は八〇〇名を算《かぞ》え、これは迎撃側の二倍半に達する数であった。しかも迎撃側には九〇代の老人もおり、とうてい正面から抗すべくもない。散発的に銃撃戦をまじえながら、一分ごとに後退を余儀なくされた。タイタニアのほうは、落盤の危険を考慮して重火器や爆発物の使用をひかえたが、どうやら軽火器だけで敵を地下洞の奥に追いつめ、制圧できそうであった。ザーリッシュは衛生兵に額の傷を応急手当させると、まことに彼らしく部隊の先頭に立って地下洞の奥へと進んでいった。  一方の前進と他方の後退は、銃火をまじえつつ三〇分ほども継続した。ところが、後退をかさねた迎撃がわが地下洞内の高処に上り、プラスチック製の仮橋を引きあげてしまってから異変が生じた。タイタニアの部隊は洞内の低い窪地を進んで崖を上らなくては前進できなくなったのだが、その速度が急に鈍ったのである。それどころか隊列さえくずれ、統一されていた秩序が乱れるのが、ヒューリックの目にもはっきりと見えた。 「いったいどうしたんだ。あいつら」 「低酸素症《ハイポキシア》よ」  サンバイザーをかぶった女の声が答えた。 「あの洞窟の底には濃度の高い二酸化炭素が大量にたまっているの。閉鎖的な洞窟では珍しいことじゃないわ。こちらもいろいろと人為的に手を加えてはいるけどね」 「巨竜の盲腸というわけだ」  ファン・ヒューリックの表現が気に入ったらしく、女は短い笑声をたてた。 「わたしたちにとっては最後の要害だったのよ。罠《わな》にかかった相手がザーリッシュ・タイタニアだというのは、望外の幸福だわ。これから決死の反撃ということになるでしょうね」  女の手が熱線《ヒート》ライフルをつかんでいる。ヒューリックも自分にあてがわれたライフルをつかみ、低声の連絡をかわして前進しようとして、あることに気づいた。 「だいじなことを忘れていた。ひとつこのさい教えてほしい」 「いったい何?」 「君の名前をまだ聞いていない」  洞窟の薄い闇のなかで女はまばたきした。 「一流の女たらしだったら、もっと気のきいた誘いかたをするものよ」 「おれは一流じゃないからね。時と場所を選ぶ能すらない。現に見ててわかるだろう」 「わかりたくないわ」  笑いをおさめて女は声を強くした。 「だからいまは教えない。この地下洞を出て堂々と空の下を歩けるようになったら、わたしの名をあなたに呼んでもらうわね」  そう言葉を残すと、女は半ば這うように前進を開始した。無言でヒューリックもそれに倣《なら》った。一〇歩ほど離れた地点で、誰かの声がした。 「ザーリッシュ公をとらえろ! 人質の価値があるからな。殺すんじゃないぞ」  何と醜悪な戦いになったことか。この惑星の地下には、たしかに煉獄《れんごく》への直通路が存在しているにちがいない。そう思ったファン・ヒューリックは、事態の当事者として明らかに現実感覚を失調させていた。とくに閉所恐怖の症状が発現したわけではなかったが、地下にいると、どうも思考力も感性も膜をかけられたようにおぼつかない。 「なるほど、おれはどうやら宇宙の男らしい」  いまさら納得したのもばかばかしいことだが、しないよりはましかもしれぬ。早々に地下を出て宇宙空間に身を投じるべきであることを彼はさとった。だがそれも、タイタニアの地上部隊をかたづけてからのことだ。  銃撃戦が再開されていた。タイタニア部隊は地形的に不利であり、急性の低酸素症のために抵抗力をいちじるしく減殺《げんさい》されている。ほとんど一方的に射撃の的になり、窪地の底におりかさなるように射殺されていった。  一〇分間ほど火線と銃声の嵐が吹き荒れると、二酸化炭素の井戸の底からの応射はほとんどとだえてしまった。まだザーリッシュは健在だった。その姿めがけて、功名心にはやった反タイタニア派の兵士たちが崖をおり、殺到していった。 「鼠賊ども!」  人間の姿をした獅子が咆哮し、怒気と腕力を爆発させた。ドクター・リーの部下が三名ほど、爆風にあおられたように吹き飛んだ。ひとりは頬に平手打をくらい、ひとりは胃に蹴《け》りをたたきこまれ、ひとりは鎖骨に肘打《ひじう》ちを受けて三方向に倒れたのである。低酸素症ですら、この男の活力と闘志を削《そ》ぐことはできないようであった。躍りかかった四人めが身を低くして殴打を回避しざま、熱線ライフルの銃床でザーリッシュの膝《ひざ》を払った。だが巨体はわずかに揺れただけで、その男、パジェス中尉を蹴倒してしまった。パジェスに目もくれずザーリッシュは五人めに対した。  五人め、つまりワレンコフの巨体は、ザーリッシュにとって絶好の目標となった。さっさと逃げ出せばよかろうにと第三者は思うであろうが、それはザーリッシュの矜持《きょうじ》が許さず、さらには、やはり低酸素症で判断力が低下していたのでもあろう。 「すこしは感激しろ。タイタニアの公爵が、きさまごとき下賤《げせん》の鼠賊と格闘してやろうというのだ。またとない名誉と思え」 「べつに格闘なんぞしたくないけどね」  迷惑げにワレンコフはつぶやいた。つかみかかってくるザーリッシュの腕を勢いよく払いのける。二度まで払いのけたが三度めにつかまってしまった。ザーリッシュはワレンコフの襟首を、自らの手首を交叉させる形で強烈に絞《し》めあげた。ワレンコフの顔が急速に赤みを増し、彼は拳をかためてザーレッシュの腹をたてつづけに殴りつけた。重い拳が半ダースほども同一箇所にめりこむと、さすがに徹《こた》えたのか、ザーリッシュの手がゆるみ、ワレンコフは呼吸を回復した。ただし、吸いこんだ空気は二酸化炭素が優勢を占めていたので、彼はめまいをおぼえてよろめいてしまった。荒々しい呼吸音をたてながらザーリッシュは巨体をかがめ、子供の頭部ほどもある大きさの石をかかえあげて、それをワレンコフの顔面にたたきつけようとした。ワレンコフは重くよどんだ空気のプールを泳いで膝をついてしまった。闘士たちの動きは速度を欠いたため、喜劇的な要素をちらつかせたが、双方、生命がけだったのである。  愚劣な二者択一だった。ザーリッシュ・タイタニア公爵とワレンコフ中尉と、どちらか一方が、無意味な死をとげねばならない。とすれば、聖人ならざるヒューリックとしては、友人の生命と運命を優先させるしかないであろう。 「動くな、ザーリッシュ公! 石を置いて両手をあげろ」  窪地を直下に見おろす崖の上で、ヒューリックは熱線ライフルをかまえた。つぎの瞬間、信じられぬことがおこった。ザーリッシュの両眼が異様な光を発したかと思うと、石が飛んでヒューリックの足もとを襲ったのである。ヒューリックは身心ともに動転し、均衡をくずし、砂礫《されき》の滝に乗る形で崖の急斜面を転落してしまった。身体の各処を打って息がつまる。ようやく起きあがりかけたとき、ザーリッシュの巨体が眼前に迫り、その巨大な手が彼の襟首をつかんでいた。すさまじい迫力をこめたうなり声が宣告した。 「きさまは所詮《しょせん》、おれに殺される運命だったのだ。その運命をいま全《まっと》うさせてやるぞ」 「賢い坊やは、悪者を生かしたままつれて帰らないと、ママに叱られるんじゃないのかい」  この一言がザーリッシュの巨体にどれほど大量の怒気をみなぎらせたか、事前には想像もつかないほどだった。タイタニアの貴族は半瞬にして蛮族と化した。両眼から爆発光が飛び出し、間を置かずに巨腕がひらめいた。硬い拳がヒューリックのみぞおちの直下にくいこんだ。にんじん色の髪の青年は、言論の自由を守るため、はなはだしい苦痛を強《し》いられた。  胃壁が破れたのではないかと思ったが、そこまでのことはなかった。だが苦痛に嘔吐感が混入して、ファン・ヒューリックは長身を折りまげ、激しくせきこんだ。毛細血管が破れたのであろう、文字どおり血走った両眼でザーリッシュは捕虜の苦悶を眺め、咆《ほ》えるように笑うと、地面に向けて突きとばした。勝利感をこめてたけだけしく声をかける。 「起《た》て。死ぬ寸前まで殴りつづけてやるぞ」  この期に至っても、ザーリッシュは、捕虜を生かしたまま母親のもとにつれ帰ることを断念してはいなかった。これは単に執念だけにとどまらず、実利的な発想もともなっていた。ザーリッシュの身に銃口が向けられたとき、捕虜の身を盾にすることができるという計算である。このような粗豪さと計算能力との結びつきが、ザーリッシュを当代の猛将としてきたのであった。  すわりこんだまま死ぬのは嫌なので、ヒューリックは何とか立ちあがろうとした。濃い二酸化炭素のなかで格闘したため、頭痛が激しく彼を責めたてはじめた。ようやく立ちあがったヒューリックに、ふたたびザーリッシュが重い殴打を放とうとして、全身を凍結させた。ヒューリックの手に熱線ライフルが出現したのだ。魔法のようだが、そうではなかった。サンバイザーの女が、崖の上からヒューリックの手もとへ、おどろくべき正確さでライフルを投げおとしたのである。        V   「ばかな……」  ザーリッシュのうめき声をファン・ヒューリックは聴いたように思う。だが、それは実際に声であったのか。聴覚領域に幻覚の小妖精が飛びこんできたためかもしれなかった。半ば口を開いたまま、ザーリッシュは表情を凍結させてヒューリックをにらみすえている。否、正確には、敵の手もとにあって彼を威嚇するライフルの銃口を。 「降伏しろ、ザーリッシュ公!」  個性を欠く台詞でヒューリックは要求した。声に出した瞬間、自らの要求が受け容れられないことを彼はさとった。ザーリッシュは血走った両眼でヒューリックをにらみすえたまま巨腕を伸ばし、今度こそ死に至るまで彼の咽喉《のど》をしめつけようとしていたのである。  ファン・ヒューリックは旧式の熱線《ヒート》ライフルの引金《トリガー》をしぼった。ザーリッシュ・タイタニア公の厚い胸板で、誇り高いグレーの軍服が布地を弾《はじ》けさせた。一ヶ所にとどまらず、ほとんど一瞬のうちに五ヶ所の穴がタイタニア貴族の巨大な胴に穿《うが》たれた。ことさら意図したわけではなかったが、熱線の温度が低レベルに設定されていたので、傷口が炭化せず、それは血の泉となってグレーの軍服を赤黒く染めあげた。飛沫は加害者の服にも飛散して、叛逆者の服地に支配者の高貴な血が奇怪な紋様を描いた。非現実感がさらに高まったのは、血まみれの大男がたくましい腕をほぼ水平に伸ばし、ヒューリックの襟首をつかまえたときである。  常人ならとうに倒れて絶息しているはずであった。だが現実に、血の臭気をただよわせた太い指がヒューリックの咽喉にかかり、絞《し》めあげにかかった。ヒューリックの指は引金を引きつづけ、密着した銃口がザーリッシュの胴体に死の熱線を送りこみつづけた。意識野が薄暗くなり、それが回復したとき、ヒューリックは小さくせきこんで痛む咽喉をなでた。彼の足もとには、つい数秒前までタイタニアの大貴族であった死体が横たわっていた。  ワレンコフやパジェスを引きずりおこし、他の人々の協力をえて、ようやくヒューリックは二酸化炭素の危険な井戸からはいあがった。サンバイザーの女が水筒を手わたしてくれた。ようやく人心地をえてヒューリックが礼をいうと、女はつぶやくようにいった。 「あなたが自分の手でザーリッシュ公を殺すとは思わなかったけど……」 「とらえられて生きながらえるような男とは思えなかった。よしあしをいっているのじゃない、そういう種類の人間がいて、その生きかたや考えかたを変えるだけの器量がおれにはないということさ」  ヒューリックは口を閉ざした。死者を前にしてしゃべりすぎたような気がした。女は水筒に蓋《ふた》をしながら彼の顔を見つめている。 「ザーリッシュ・タイタニアが死んだか……」  事実を確認するドクター・リーの声が、たいそう遠く無機的なひびきをヒューリックの聴覚神経に伝えてきた。  まさかこんな場所でこんな死にかたをするとは、ザーリッシュは思わなかったであろう。もっと彼にふさわしい豪快で壮烈な死が待っていると信じていたにちがいない。タイタニア四公爵のひとり、宇宙で最強の将帥《しょうすい》と自負していた男が、辺境の惑星において、しかも不毛の荒野の地下に屍を横たえるに至ったのである。これほど不本意な死にようが、あまた存在するとも思われなかった。 「自分より弱い相手に殺されたとあっては、いずれ化けて出たくもなるだろうな」  ドクター・リーにそう答えて、ヒューリックは立ちあがった。疲労と脱力感は残っていたが、頭痛は去っていた。  洞窟の一角に、捕虜となったタイタニアたちの軍服姿がかたまっていた。二〇〇名ほどの人数のなかから、士官らしい人物を選択して、ヒューリックとドクター・リーは名を問うた。 「グラニート中佐だ。ザーリッシュ公の副官をつとめていた」  過去形を使用したとき、士官の顔を苦渋《くじゅう》の翳《かげ》りが音もなく流れ落ちた。ヒューリックとドクター・リーは顔を見あわせ、短く相談をかわした。ドクター・リーが故人の副官に宣告した。 「ご主君の遺体は引き渡す。貴官らの本拠地に運んで鄭重に葬られるがよかろう」 「おれに生恥をさらせというのか」 「生きること自体、恥をかさねることさ。主君の遺体をこんな場所に放りだしておくほうが恥がすくないと思うなら、自分ひとりで逃げるなり自殺するなり勝手にするんだな」  突き放しておいて、ドクター・リーは捕虜たちを立ちあがらせた。捕虜を養ってやるような財政的な余裕は彼らにはなかったのである。敗北感に打ちのめされ、武装解除された彼らを地下洞の入口まで送り出して、ドクター・リーはヒューリックに問いかけた。 「バルガシュ政府がこれで完全に味方になったと思うかね」 「敵の敵は味方という論法でいけば……」  いいさして、ファン・ヒューリックは、あらたな危険の出現に気づいた。もしバルガシュ政府が軍事的な失敗を外交的に回復しようと企図したら、その選択肢はただひとつ、彼ら自身の手でヒューリックたちを討伐することである。それ以外にタイタニアの怒りをなだめる方策は存在しない。ヒューリックたちは、タイタニアとの抗争にバルガシュ政府を引きずりこんだわけだが、それは味方でなく敵を増やす結果となるかもしれぬ。もっとも、すでにタイタニアを敵にまわした以上、敵が増えたところでとうに対処能力の限界をこえている。心配するだけ精神的エネルギーの浪費というものであった。  この時刻、空中戦の勝敗も決していた。タイタニアの艦隊は不名誉な潰走《かいそう》を開始していたのである。個人の力量に頼っていた私兵集団の弱点をさらけだし、半数に撃ち減らされて、タイタニアは逃げ出したのであった。夜の大気は屍臭に満ち、地表では撃墜された艦艇の残骸がオレンジ色の炎をなお燃えたたせていた。敵が消え去った夜のなかに浮遊しながら、トゥルビル少将とイルク少佐は、呆然と声をかわしあった。 「やったな」 「はあ、やってしまいました」  両者は顔を見あわせ、同時に大きな溜息を吐き出した。それを契機に、彼らの体内から放逐されていた理性が席を回復し、イルク少佐は司令官の意を受けて全艦の着陸と被害の調査を命じた。 「タイタニアと全面戦争ということになるでしょうか」 「たぶんな。とすれば、わしは輝けるA級戦争犯罪者だ。いまのうちに遺書を書いておくとするか」 「お気の弱いことを」  イルク少佐は、汗にぬれた額に貼《は》りつこうとする前髪を、勢いよくかきあげた。 「こうなればバルガシュ政府だけではなく、全宇宙の反タイタニア派を糾合してタイタニアと決戦するしかありません。でなければ処刑か、死に至るまでの逃亡が待つだけです。タイタニアを打倒できるかどうか、ひとつ賭けてみようではありませんか」 「貴官もなかなか過激だな」  自分自身のことを遠くの棚に放りあげ、あきれた老提督がそう評すると、苦笑まじりに副官は肩をすくめた。 「すでに皿も食ってしまいました。こうなったらつぎはテーブルをかじるしかありませんからな」  テーブルの味や栄養分については、あえて彼は語ろうとしなかったのである。 [#改ページ]        第八章 残された三枚のカード            T    ザーリッシュ・タイタニア横死《おうし》の報は「|天の城《ウラニボルグ》」に巨大で深刻な波紋を投げかけた。タイタニアの支配権は初代ネヴィル以来、絶えざる武力の挑戦を受けつづけており、五家族の当主が戦死をとげた例は過去にいくつもある。イドリス公の亡父なども戦傷がもとで死去したのである。ゆえにザーリッシュの横死はけっして空前の兇事ではなかったのだが、現在の無地藩王《ラントレス・クランナー》アジュマーン殿下の就位以来、先年まで微動だにしなかったタイタニアの威権が揺れるかのように感じた者たちも実在したのであった。 「弟についで兄もか。不運な家系というしかないな」  そう歎息する者もいる。だが、感傷にふけるよりは、今後の政治的軍事的な展開を話題にする者が多かった。タイタニアの内外を問わずである。 「だがそれにしてもタイタニアの軍組織も脆弱《ぜいじゃく》なものではないか。指揮官を失ったとたんにバルガシュ軍ごときに負けるとは」 「いや、タイタニア軍の実力など存外そのていどのものかもしれんぞ。思えばつい半年ほど前には、アリアバート公がケルベロス会戦で敗北したではないか」 「タイタニアもけっして無敵ではないということかな」 「吾々はもしかしたらタイタニアの虚像に脅《おび》やかされていただけのことかもしれぬ。どうもここのところそう思われる節《ふし》が多すぎるぞ」 「鏡に罅《ひび》がはいる前兆かもしれぬな。こうなるとバルガシュの出方が楽しみだて……」  タイタニアに反感や怨恨《えんこん》をいだく人々の間では、そのようなささやきが熱をおびて交されていた。これまでに幾度も期待しては裏切られてきた経験を、彼らは共有している。虚像を打ち砕くために自らを滅ぼすことになっては目もあてられぬ。当初は傍観に徹することになるであろう。  ザーリッシュとアルセス、ふたりの息子を短時日の間に失ったテリーザ・タイタニア公爵夫亡人は狂乱しているという。アルセスほどにはザーリッシュを愛していなかったはずであるが、やはり母子の本能的な情は絶ちがたいということであろうか。それは同情を惹《ひ》いて当然のことであるが、未亡人の狂乱が家臣や侍女に向けられ、花瓶を顔にたたきつけられて重傷を負った侍女が出たことから、眉をひそめる人々が多かった。 「まさか御母堂を葬儀に呼ばぬわけにはいくまいが、あのような狂態をさらされてはタイタニアの威光に傷がつこう。藩王殿下はどのように処理なさるか……」  タイタニアに属する人々の目は、独裁者アジュマーンに向けられている。吉兇いずれにせよ藩王が最高方針をさだめ、他者はそれにしたがわねばならぬ。そのアジュマーンは、ザーリッシュの急逝を公表した後、二四時間にわたって対外的な沈黙をたもった。  ザーリッシュの死は悲劇的なものであるはずなのに、藩王アジュマーンが最初に感じとった感情は苦々しい怒りであった。それも長くはつづかず、冷淡な打算と理性がとってかわった。死者は生き返らぬ。ザーリッシュを生き返らせることはかなわぬ。だが彼の死はタイタニアが最大の政治的利益を獲得するために、可能なかぎり利用されなくてはならない。  あえていえば、ザーリッシュ個人の生命は惜しむにたりぬ。比類ない豪将であったが、そのタイタニア指導部における席は、別人をもって埋めることのできぬものではない。軍事のアリアバート、政治のジュスラン、両公爵が健在であり、何よりも藩王アジュマーン自身がゆるぎなく立っているのである。タイタニアは依然、宇宙における最大の権力集団であり、ザーリッシュの死は太陽の小黒点というにすぎなかった。  この間に、バルアミー・タイタニア子爵が惑星ティロンへと赴任している。  このような重大な時機に「|天の城《ウラニボルグ》」を離れねばならぬことは、バルアミーにとって痛恨であるにちがいない。しかもイドリス公の不肖の弟と両成敗という形で、半ば追放といってもよい処分の結果であった。  バルアミーが追いやられるティロンという惑星は、星間都市連盟の四大商館のひとつが置かれる地であり、経済活動が盛んで、けっして不毛の荒野というわけではない。また、かならずしも星間都市連盟に対して好意的ではなく、その反動としてタイタニアのほうにむしろ傾斜している。タイタニア代表部の参事官で、しかも爵位の保有者ともなれば、名士として遇されるであろう。それらの事情は承知しつつも、バルアミーにしてみれば、やはり異域に流刑の身となったという感情はぬぐえなかった。 「|天の城《ウラニボルグ》」の第二宇宙港《セカンド・ポート》にバルアミーを見送った者は二名だけであった。ジュスラン・タイタニア公爵と、エルビング王国のリディア姫だけである。一〇歳の元気な姫君は、この日、いつもの闊達《かったつ》さをやや欠いていた。子供ごころに責任を感じていたのである。 「バル、悪いことをした。バルはわたしをあの乱暴者から救ってくれたのに、こんなことになってしまって……」 「いや、気にしないでください、殿下。以前からあのラドモーズという奴は気にくわなかったのです。もっと思いきり殴りつけてやればよかったと考えておりますよ」  バルアミーが本心からそういっているのでないことは個性を欠く台詞《せりふ》の羅列からも明らかだった。だが、リディア姫の心に負担をかけぬよう気づかうあたり、一八歳のバルアミーも以前に比べれば人格にゆとりのようなものができたかもしれぬ。それはこの族弟《ぞくてい》にとって好ましい変化であろう、と、ジュスランは思い、リディア王女の新鮮な人格感化力にあらためて賞賛の念をおぼえた。 「バルアミー子爵、なるべく早く|天の城《ウラニボルグ》に呼びもどす。だがくれぐれもあせらぬようにな」  ジュスラン自身の挨拶《あいさつ》も、さほど独創的なものとはなりえなかった。実際あせりさえしなければ、バルアミーが不当な失地を回復する機会はいくらでもあるとジュスランは考えている。上官であり族兄である人の言葉に対して、バルアミーは多言をもって答えようとはせず、「では行ってまいります」とのみ挨拶して敬礼すると、踵《きびす》を返して輸送船の搭乗口へ歩み去った。遠ざかる後姿を見送って、リディア姫が考えこむように口を開いた。 「わたしがいるとジュスラン公の迷惑になるのではないか。バルも遠くへ行ってしまったし、わたしが悪いのだ」  この元気なお姫さまが悄然《しょうぜん》としているありさまを見るのは、ジュスランにとって心楽しいことではなかった。彼はリディア姫の肩に掌を置いて軽くたたいた。 「姫、無用なご心配はなさらぬことです。美人があまり思い悩むと老《ふ》けこみますぞ」  拙劣《へた》な冗談であった。 「バルアミー子爵も近いうちにかならず呼びもどします。もともと彼は姫をお救いするために無礼者と渡りあったのです。姫がご自分を悪いなどとおっしゃると、バルアミーの戦いも不正のものとなってしまいますぞ」 「そうか、わかった」  慧敏《けいびん》なリディア姫には、ジュスランの論理が納得できたようであった。すこし元気をとりもどしたらしいリディア姫は、好奇心を復活させてジュスランに問いを投げあげた。 「でも、こんなことがあって、つぎの藩王にイドリス公がなったりしたらジュスラン公は何かと困るのではないか」 「さて……」  ジュスランは言葉を濁した。うかつに答えられない質問であった。正確には質問ではなく、リディア姫の感想であるのだが、いかに慧敏とはいえ子供にすらそう思われているということは、成人《おとな》たちの目に、ジュスランとイドリスの不和という構図が歴然たるものであるという事実を証明するものであろう。ジュスランにとっては好もしい事実ではなかった。アリアバートもイドリスとけっして友好的な関係ではないが、ことさら不和説が流れることがないのは、「おれに人徳がないということかな」と、ジュスランとしては苦笑せざるをえない心境である。 「リディア姫は、イドリス公がお嫌いですか」  いささか不公正な反問をジュスランは弄《ろう》した。リディア姫の返答は、率直にして明快であった。 「好かぬ」  勢いよく断言してから、リディア姫はすこし考えるところがあったようだ。 「わたしは好かぬのだが、それはイドリス公のせいではなくて、わたしが勝手に嫌っているだけだ。だから、ええと、公正ではないかもしれぬ。でも、とにかくわたしはジュスラン公やバルのほうが好きだ」 「光栄に存じます」  まじめくさってジュスランは答えたものであった。        U   「いずれ誰かが欠けるとは思っていたが、ザーリッシュ公が最初とはな」  藩王の声が重いひびきをともなって流れた。最高会議室のテーブルには五つの椅子が置かれ、そのひとつは空席となったままである。空席の主について、それ以上直接に語ることはなく、藩王は話題を変えた。 「バルガシュ政府は交渉を申しこんで来ておる。彼らとしてはタイタニアとの全面戦争を避けたいと思うのは当然なことであろうが、これに対して諸卿の意見を徴したい」 「いまさら遅うございますな」  即答したのはイドリスである。この鋭気に富んだ青年にふさわしく、容赦のない、たたきつけるような口調であった。ラドモーズの件など歯牙《しが》にもかけぬ態度が、あいかわらずだな、と、ジュスランに思わせる。  イドリス公は内心で喜んでいるだろう、彼と藩王位との間に立ちはだかる厚い壁の一枚が除去されたのだから。自身の手を汚さずして、イドリスは甘い果実を手に入れることができたのだ。  そう考えて、ジュスランは自己に対する嫌悪感に駆られた。イドリスの心理に対する彼の洞察はおそらく正しいであろうが、そのような洞察をすること自体が、とうてい高尚な精神作用とはいいがたいのである。 「イドリス公は、即時間戦を望むか」 「然《しか》り」  イドリスの論旨は明快である。この戦いはザーリッシュ公の弔《とむら》い合戦であること、バルガシュ政府が狼狽《ろうばい》して戦備をととのえぬうちに急戦すれば勝算が多いこと。それらを指摘し、一日も早く開戦すべきであることを主張した。  イドリスの意見を聞き終えると、藩王アジュマーンは、つぎにアリアバートの意見を求めた。アリアバートの意見も開戦であったが、イドリスのそれよりは慎重であったといえるであろう。 「非友好的な対応をバルガシュ一国でくいとめ、他国に波及させぬためには、今回、武力行使を辞することはかなわぬと存じます。藩王殿下のご命令をいただければ、このアリアバートがただちに戦争計画案をまとめさせていただきますが」 「ふむ、非軍事的な対応をする余地はないと思うか」 「いえ、それはバルガシュの出方によると存じますが、すくなくとも武力行使を辞さぬとの姿勢を見せつけておくがよかろうと思われます」 「迂遠《うえん》な……!」  イドリスが露骨に吐きすて、アリアバートが反射的に鋭い視線を向ける。微妙な瞬間にジュスランが発言した。彼の意見はアリアバートよりさらに慎重であったが、これはけっして無条件平和論と同義ではない。 「まずバルガシュ政府に申しこまれてはいかがかと存じます。ファン・ヒューリックとその一党を逮捕して当方へ引き渡すよう要求する、と」 「その要求、バルガシュ政府が容《い》れると思うか」 「容れなければ全面戦争となるだけのこと。バルガシュ政府としても全力をつくしましょう。つくさぬときはそれを開戦理由とすればよろしいかと」 「時間稼ぎをされるだけのことと思うが」  そう口をはさんだのはイドリスで、それに応じたのはアリアバートの沈着な声だった。 「刻限を切ればよろしい。その間にこちらも開戦準備をととのえることができる」  姿勢を正し、藩王アジュマーンに対し一礼する。 「そのときは不肖ながら私に軍の指揮権をいただきたく存じます」  藩王はうなずいた。いまひとつ問題がある。これは外交ではなく内政に属する課題である。 「ザーリッシュ公に後を継ぐべき子はいるのか」  それは深刻な疑問であった。ザーリッシュは法的には独身であり、したがって嫡出子は存在しない。タイタニア五家族の一員が欠け、その席が空《あ》いた。何者かをもって空席を埋めねばならぬ。ザーリッシュには多くの情人がおり、複数の庶子が現存する。なかの一名が相続を認められるとしても、幼少の者にタイタニアの最高級の権力を分担させるわけにはいかぬ。成人に至るまで代理者を立てるか、空席のままにしておくか。ふとジュスランはバルアミーの亡父エストラード侯のことを想いおこした。彼が在世していれば、おそらく一時的にせよタイタニア最高会議に座を占めることになったのではないか。  いまひとつ運に恵まれぬ父子だ。現段階のことであるにせよ、ジュスランはそう思わざるをえなかった。エストラード侯は、その葬儀もきわめて簡素におこなわれ、喪主のバルアミー自身、ヴァルダナ宮廷の粛清に奔走して、葬儀の運営に専念できなかったのである。エストラード侯は死後、元帥号を授与されたが、これはどこまでも形式でしかなかった。  藩王はアリアバート公に対バルガシュ全面戦争の計画立案を命じ、ひとまず会議を散会させた。会議室を出、並んで廊下を歩みながら、アリアバートがジュスランにむかって低く語りかけた。 「ザーリッシュ公のあの巨体が二度と吾々の前にあらわれぬとは、つい先日まで想像もしなかったな。まったく人の生命などはかないものだ」 「世に不変の存在などありはせぬさ。宇宙自体、いつかは無に帰そうというものを、まして人の営為《えいい》など語るにたりぬ。横死せねば老衰するだけのことさ」  ジュスランの発言はアリアバートに軽い驚きを与えた。 「すると、ジュスラン公は、タイタニアが滅びるのも必然と思うのか」 「いや、そうではない、アリアバート公。タイタニアのありようが人の営為であるとすれば、反タイタニア派の陰謀や行動も同じことだ。すくなくともタイタニアが実力において劣る相手に負けてやる必要はないと思う」  自分の軽率さをジュスランは悔やんだ。彼の発言をイドリスが耳にしたら、タイタニア貴族としてあるまじき利敵的敗北主義と決めつけて糾弾してきたにちがいない。アリアバートは信頼に値する人格の所有者だが、それに甘んじて慎重さを失うのは軽率というものであろう。ジュスランは話題を変えた。 「アリアバート公が軍をひきいてバルガシュと戦うとして、見通しはどうだ」 「戦闘には、まず勝てると思う。問題は勝利の成果を維持しえるかどうかだ」  戦いに勝ち、バルガシュ政府に城下《じょうか》の盟《めい》を誓わせ、さて然《しか》る後にどのような外交的利益を獲得できるか、である。バルガシュを滅ぼしてしまうのが戦いの目的ではなかった。 「バルガシュに残留している者どもも落ちつくまい。グラニートも損な役まわりだな」  ザーリッシュ公の副官であったグラニート中佐は、主君の遺体をバルガシュにおけるタイタニアの支部へ運びこみ、その死を「|天の城《ウラニボルグ》」に報告していた。副官としてザーリッシュ公の安全を守ることができなかった点につき、つつしんで藩王の裁定を受け、罪に服するとの申したてがおこなわれている。 「グラニート中佐をどのように遇するかによって、タイタニアの度量が問われることになろう。責任を問うのは当然として、処分が厳酷《げんこく》に過ぎては幕僚たちを萎縮させることになる。罰を恐れて進言をおこたるようになっては、タイタニアのためになるまい」  その点に関しては、ジュスランは明快に意見を述べ、アリアバートもそれを支持した。イドリスも反対せず、グラニートはとりあえずバルガシュにとどまってザーリッシュの残兵たちを統率するよう藩王からの命令が下されたのである。いざタイタニアとバルガシュとが全面戦争に突入ということになれば、グラニート以下のタイタニア戦闘部隊はかなり微妙な位置に立たされる。タイタニアとしては、彼らを対バルガシュ政戦両略の有意義な手駒《てごま》として使わねばならなかった。アリアバートもジュスランもそのことを充分承知しており、その点、彼らはけっしてお人よしに寛容論を唱えているだけではなかったのである。        V   「イドリス公は、皇帝を利用なさろうとお考えではないのですか」  テオドーラ・タイタニア、つい先日、伯爵夫人の称号を正式に約束された女性がそう問いかけたのは、イドリスの閨房《けいぼう》においてであった。週のうち二夜は、イドリスの閨房の客となっているテオドーラである。この男女は、あるいは宇宙でもっとも野心的な一対であるかもしれぬが、それは心が通《かよ》いあっていることを意味しない。イドリスは嘲《あざけ》るように反問した。 「どういう意味だ?」 「皇帝を圧迫し、追いつめてタイタニアに対する敵対行為を起こさせる。それを理由に皇帝を廃立なさる。そうではありませんこと?」  皇帝ハルシャ六世は未だ三五歳であり、彼が廃立されれば六歳の皇子が即位して幼帝となるであろう。当然、親政は不可能で、全権を委《ゆだ》ねられる摂政職が設置されねばならない。さらに当然ながら摂政の座に就《つ》く者はタイタニアの一族でなければならず、現に軍務大臣であるイドリスが最有力の候補者にあげられることになろう。むろんイドリスは摂政の座それ自体を欲しているわけではない。ヴァルダナ帝国の国家機構と軍隊組織を背景に、タイタニア内部における地位を確立し、次期藩王をめぐる苛酷な競争において勝者たらんと欲しているのであった。最終的には、タイタニアの総帥と、ヴァルダナの皇帝と、双方の地位が同一人物の掌中《しょうちゅう》に握られてもいっこうにかまわぬはずである。開祖ネヴィル以来すでに八代、実力と形式とが完全な融合をとげてもよいであろう時期であった。  だが、壮大な未来への展望を、イドリスはあたらしい情人に語ったりはしなかった。冷たく短く笑って吐きすてただけである。 「こざかしいことをいう女だ」 「お気にさわりました?」  テオドーラは笑った。嫣然《えんぜん》たる笑いであったが、イドリスは微妙な不安と不快をそそられた。自分の胸中を読まれたような思いを禁じえぬ。イドリスは女性に対して同志的な精神の結合を求めてはいなかった。今回、伯爵夫人となる女性を相手に情事をかさねたという以上の意味を、イドリスは持たせていなかったのである。イドリスの表情をテオドーラは探り、ベッド上で姿勢を変えると、だいそれたことを口にした。 「ザーリッシュ公の門地《もんち》を、わたしが継げるようにとりはからっていただけませんか」  即答はなかった。言語としては、である。唖然《あぜん》としてテオドーラを見返したイドリスの表情が、彼の心理を雄弁に物語っていた。イドリスは、彼自身より強烈な上昇志向を有する人物を、はじめて知ったのである。 「あきれた女だ。そなたはようやく伯爵家の門地に手がかかったばかりではないか。どうせなら伯爵より公爵がよいというわけか」  ようやくそう口を開いたイドリスは、舌端に怒気を乗せて鋭く押し出した。 「つけあがるのもほどほどにしろ。タイタニアの公爵は、他の貴族と格がちがうのだ。同じタイタニア一族でも、伯爵はただ栄光と富貴を分かち与えられるだけ。だが公爵はそんなものではないぞ」 「存じております。宇宙を支配するタイタニア一族、その一族を支配するのが五家族の方々《かたがた》。でも、五家族すら永遠に固定されたものではないでしょう?」 「おい……」 「ザーリッシュ公がご健在であれば、あの方はイドリス公にとって大志をさまたげる存在となったはず。でもわたしなら……」  荒々しく手を振って、イドリスは情人の弁舌を封印した。 「それほど公爵になりたければ藩王殿下に頼め。おれがいかに推《お》したとて、所詮は藩王の胸ひとつだからな」 「藩王殿下に……」 「殿下はあのように冷厳に見えて、けっこう色の道には熱心な方《かた》だ。そなたにその意思があれば、閨房に迎え入れてくださるだろうよ。おれの部屋などよりはるかに広くて豪奢《ごうしゃ》な閨房にな」  わざとらしく高笑いすると、イドリスは、服を着て出ていくようテオドーラに命じた。彼女はそれにしたがったが、残されたイドリスは、二倍の広さになったベッドに横たわったまま、沈着さを欠いた表情で空《くう》を見つめてつぶやいた。 「まさか藩王殿下があの女のたわごとをお聞き入れになるとも思えぬが……」  イドリスの秀麗な顔に、軽い困惑と猜疑《さいぎ》の翳《かげ》りが射《さ》しこんだ。彼がテオドーラにいったことはむろん本意ではなかった。捨て台詞《ぜりふ》の類であり、彼女の野心が不可能事であることを教えてやったつもりである。ところがテオドーラの野心はイドリスの一言によって刺激され、方向性を与えられたかのようであった。仮にイドリスの示唆《しさ》どおりテオドーラが行動し、藩王アジュマーンに取りいって野心の果実を入手することに成功したとすれば、イドリスとしては自分自身の助力によって強力な競争者をつくりあげてしまうことになるであろう。「まさか」とかさねて否定しつつ、イドリスはこの重要な時機によけいな心配ごとをかかえこんだ失策に、舌打ちを禁じえなかった。        W    一一月五日、バルガシュ政府の外務大臣コルヴィンが、エルマン・タイタニア伯爵にともなわれて「|天の城《ウラニボルグ》」を訪れた。見るからに凡庸そうな初老の男で、「天の城」に到着したときから恐怖に打たれていたらしく、蒼白《そうはく》な顔と慄《ふる》える手を隠しようもなかった。冷たい汗を拭《ぬぐ》おうとしてハンカチをとりだし、そのハンカチをとり落として拾うためにかがみ、姿勢をくずして床に転ぶ、というていたらくであった。タイタニアの中下級の軍人や職員は失笑を禁じえなかった。当初アジュマーンが面会を拒否してみせると、周章狼狽《しゅうしょうろうばい》して「天の城」内を駆けまわり、幾人もの有力者に助力を頼んだかと思うと、発熱して宿舎で寝こんでしまうありさまだ。ようやく藩王に面会しても、ろくに口もきけず、低頭して口をもつれさせるだけなのである。 「よくもあのような役たたずを派遣してきたものだ。バルガシュ政府には真剣に和を求める意思はないと見える」  イドリスが唇を曲げて嘲弄《ちょうろう》したのもむりからぬことであったが、ジュスランは、コルヴィンに同行してきたエルマン伯爵のことが気になる。 「あの伯爵どのも食えぬお人だ」  今後エルマン伯はタイタニアと反タイタニア武力集団との間に立って外交折衝をおこなうという。そのような役まわりの人物が必要なことは確かだが、自ら藩王に申し出てその地位をえたあたりの伯爵の立ちまわりようが、いささかあざといものに感じられるのだ。  コルヴィン外相が見かけどおりの惰弱《だじゃく》な無能者であるとは、ジュスランには思われなかった。バルガシュ政府の代表は、まことに貧弱でとるにたりない人物であるように見える。だが、あのおどおどした醜態は、あるいは演技ではないのか。あれが事実とすれば、あのように無能な人間が外相という要職を占《し》めうるていどに、バルガシュ政府は鈍物ぞろいの組織であるのか。そのあたりを考えると、ジュスランとしてはひとつの結論をえざるをえなかった。  バルガシュは必死で時間|稼《かせ》ぎの策に出ている。当然のことで、平和あってこそバルガシュは辺境星区の首都として繁栄と発展をつづけることができるのである。タイタニアと全面戦争に突入しても、バルガシュに勝算はすくない。戦争を回避するにしても、外交方針を確立してさまざまな策を講じるには時間がかかる。とりあえずタイタニアが急戦の途《みち》を選ぶのを阻止するため、コルヴィンが表面上の道化《どうけ》役を買って出たのではあるまいか。  一方、タイタニアのほうでは、つねに大艦隊が臨戦態勢にあり、藩王の命令が下りしだい即時間戦できる。ただ法的には軍務大臣を通して皇帝ハルシャ六世が宣戦布告をおこなうことになる。皇帝の宣戦布告がなければ、タイタニアの作戦行動は私兵の私戦ということになり、ヴァルダナ帝国の軍や後方支援組織を動かすことは不可能になるのだ。むろんヴァルダナ帝室がタイタニア藩王府からの宣戦布告発布の要求を拒絶したことは過去に例がない。すくなくともそのような事実が公然化した例は絶無である。  宣戦布告文は皇帝自身が書くのではない。宮廷書記官長が起草《きそう》し、皇帝政務秘書官長が検閲《けんえつ》し、皇帝が署名する。書記官長も秘書官長もタイタニアの息が充分にかかった者たちであるから、問題の生じようがない。宮廷内にタイタニア派の者がいることを、ハルシャ六世は耐えがたく思うのだが、彼の亡父は平然たるものであった。自分はタイタニアと事を構える意思はまったくないから、タイタニア派の者が左右にいてもいっこうにかまわぬ、その者が宮廷人としての職責を果たせばよい、というのが父帝の意見であった。他の件と同様、この件に関しても、ハルシャ六世は父帝の方針を踏襲《とうしゅう》することができなかった。タイタニアが宣戦布告を求めてくるたびに、彼は皇帝としての誇りを傷つけられ、内心でタイタニアの敗北を願わずにいられなかった。陰湿といえば陰湿であるが、無力な彼としては、それだけが権臣の専横《せんおう》に復讐《ふくしゅう》する唯一の手段であったのだ。ゆえにケルベロス会戦におけるアリアバートの敗北や、今回のザーリッシュの横死は、深い辛辣《しんらつ》な喜びを彼に与えた。  ハルシャ六世は、軍務大臣となったイドリス公を憎悪し、同時に恐怖していた。この二種類の感情は、それぞれ二重構造をなしており、タイタニア全体に向けられたものとイドリス個人に向けられたものとが、分かちがたく癒着《ゆちゃく》していた。前任の軍務大臣であるエストラード・タイタニア侯爵は、所詮《しょせん》タイタニアの一族であるとしても、守るべき礼儀と踏むべき形式とを心えており、必要以上の心理的圧迫をハルシャ六世に加えてくることはなかった。だがイドリスは苛烈《かれつ》で無礼で容赦がない青年であった。彼と顔をあわせるたびに、ハルシャ六世は神経網をサンドペーパーでこすられる思いがするのだった。これがアリアバートなどであれば、ハルシャ六世は、その敗北を喜びつつも、個人的な復讐心に駆られることはない。  だが、異なる見解も成立しえる。  ハルシャ六世は、脳裏にタイタニア打倒の策略をめぐらしていた。倨傲《きょごう》にして専横をほしいままにするタイタニア一族を打倒し、不当に奪われている権力を奪回する。タイタニアが蓄積してきた武力、財力、組織、人材、外交的影響力、すべてがヴァルダナ帝室の掌中《しょうちゅう》に帰する。彼ハルシャ六世は、ヴァルダナ帝国の中興の英主として歴史に不滅の名を遺《のこ》し、永遠にヴァルダナは栄えつづけるのだ。  その極彩色の想念のなかにあって、イドリスは、御しやすい手駒の役を割りあてられていた。イドリスは四公爵中、最年少であり、他の三公爵に対して異常なほど競争意識が強く、藩王位に対する野心も強烈で明確である。その点がかえって与《くみ》しやすいのではないか。そうハルシャ六世は評価していたのだ。他の三公爵はといえば、ザーリッシュには見ただけで威圧され萎縮させられてしまうし、ジュスランは奇妙に底知れぬものを感じさせて警戒心を誘う。アリアバートは温厚な常識人として行動し、一見して与《くみ》しやすく思われるが、精神の核にどこか陰謀だの政略だのを寄せつけぬところがあって対抗しがたい。  イドリスはハルシャ六世より一一歳も年少であり、その点がさらに皇帝の反感をそそるのであった。それは、イドリスごとき青二才に生殺与奪《せいさつよだつ》の全権をにぎられているという屈辱感から来ている。そしてハルシャ六世は、いつしかつぎのような陰謀を構想するに至ったのであった。 「イドリスが藩王位をうかがっているとアジュマーンに教えてやったらどうであろう。イドリスならありそうなことだ、と、アジュマーンも思うのではないか。イドリスがアジュマーンによって粛清でもされれば、これは私の目的にとって大いなる一歩となろう……」  ハルシャ六世は暗い情熱をこめて考えつづけた。その陰謀が成功し、無実を叫びつづけるイドリスが縛られて処刑場へ引きたてられていくありさままで想像して、ハルシャ六世は陶然《とうぜん》となったほどであった。だが、この「陰謀」は現在のところ不幸な皇帝の脳裏を離れては存在しえなかった。実現させるだけの具体的な手段がなかったし、何よりもハルシャ六世には信頼に値する部下がいなかった。  一方、藩王アジュマーンのほうは、ハルシャ六世の胸中をかなり正確に洞察している。 「考えるのをとめることはできまい。どのような陰謀であれ、実行されぬうちは妄想にすぎぬ。それをいちいち咎《とが》めていては、吾々はおそらくひと月ごとに皇帝を廃立《はいりつ》せねばなるまい」  藩王の寛容さは、この場合、ハルシャ六世に対する侮蔑から来ている。いかに大それた陰謀をめぐらしても、ハルシャ六世には、実行する力も部下もいないことを、アジュマーンは知悉《ちしつ》していた。とすれば、好き勝手に皇帝を内宇宙《インナースペース》で遊ばせておけばよい。彼自身の妄想のなかでタイタニアの全員を焼き殺そうと切りきざもうと、アジュマーンの知ったことではなかった。  死者は去ってふたたび帰らぬ。輪廻転生《リーインカーネーション》などというたわごとは一部の宗教家や宗教企業家にまかせておけばよい。タイタニアのなすべきことは、ザーリッシュの死を政治・外交レベルで最大限に利用することであった。それは藩王アジュマーンのみならず、健在の三公爵がひとしく認識するところであった。 「泣く暇があったら考えろ」  とは、タイタニアの開祖ネヴィルが末の息子を若くして失ったとき自らを叱咤《しった》した台詞である。ザーリッシュの死に、藩王アジュマーンも他の三公爵も涙しなかった。イドリスは自分以外の三公爵を潜在敵手としかみなしていなかったし、アリアバートもジュスランもザーリッシュを嫌悪してはいなかったが、心を分かちあう友誼《ゆうぎ》をおぼえてもいなかった。その死にかたも、どちらかといえば興《きょう》をさまさせる類のものであった。すくなくともタイタニア五家族の内で、実在せぬ悲哀をよそおう習慣はなかったのである。  ザーリッシュ公の葬儀はタイタニア全組織をあげて盛大に挙行されることになる。その式は、タイタニアの意図を全宇宙に対して雄弁に布告するものとなるであろう。バルガシュを公敵とみなし、これを討伐するということ。そして一方、バルガシュ政府は弔問《ちょうもん》の使者を送るか。送るとしてもどのていどの地位の高官を派遣するか。葬儀の当主の逝去であり、嫡子が不在であるので、喪主は藩王アジュマーン自身がつとめ、藩王府の外交儀典部門が葬儀の実務を引き受けることになっていた。「|天の城《ウラニボルグ》」はあわただしい雰囲気をただよわせ、そのなかをバルガシュの外務大臣コルヴィンが右往左往している。  この時期になると、コルヴィンが外交使節の仮面をかぶった探索者であることは明らかだったが、彼の存在を藩王アジュマーンは黙認していた。ただひとりの探索者を恐れるより、彼にタイタニアの実力を見せつけておくほうを選んだのである。ただ、コルヴィンを呼びつけて、戦時禁制人《せんじきんせいにん》についての宣告書を手わたした。  戦時禁制人とは、敵国の軍人や政府高官などが中立国の船に搭乗することを禁止するという法的行為である。今回の例でいえば、バルガシュの軍人が中立国の船に乗って自国の軍に投じようとする場合、タイタニアはその中立国の船を撃沈する権利を持つことができるのだ。この場合、バルガシュの正式な軍人でなくとも、バルガシュ軍に協力しようとする者に対してはすべて法的措置を執《と》ることができる。事実上、すべての敵対行動者を監視するなど不可能なことであるが、タイタニアの態度を公的に表明する効果を生む。アジュマーンにしてみれば、宣戦布告の先|触《ぶ》れのつもりであり、コルヴィンもそれを諒解した。卒倒するかと思われるほど顔色を変えたが、かろうじて踏みとどまると、よろめきつつコルヴィンは藩王の前から退出していったのであった。  アリアバート・タイタニア公爵による対バルガシュ戦争の作戦計画が立案を見たのは一一月一〇日である。それはザーリッシュ公の壮麗な葬儀の前日であり、翌日、「|天の城《ウラニボルグ》」の周辺宙域には大小六〇〇〇隻の艦艇が完全武装の姿をあらわして故人の死を悼《いた》む空中行進を挙行し、万里の宇宙空間をへだててバルガシュ人たちの心胆《しんたん》を寒からしめたのであった。 [#改ページ]        第九章 開戦            T    星暦四四六年の二月から一二月にかけて、惑星バルガシュの政界は過去に例のすくない困惑と混乱にみまわれた。タイタニアと全面戦争の危機に直面したのである。そもそもの原因をさぐれば、ザーリッシュ・タイタニア公がバルガシュの主権と法とを無視し、強引に軍事活動を展開したことにあった。だが、タイタニアがその非を認めて謝罪してくるはずもない。バルガシュとしては、タイタニアとの全面戦争に突入するか、外交技術のかぎりをつくして和を求めるか、すさまじいほど深刻な二者択一を迫られることになった。和を求めても、よほどに厳しい条件を突きつけられることは明白であった。それは国家の存亡にかかわるほどの条件であろう。  トゥルビル提督に身柄をあずけ、軍宿舎のひとつに軟禁された「|正直じいさん《オネスト・オールドマン》」号の同志たちはつぎのような会話をかわした。 「あのときザーリッシュ・タイタニアを生かしておいたら、もうすこし活路が開けただろうか」 「いや、たぶん同じことだな。もっと悪い結果になっていたかもしれん」  ファン・ヒューリックたちがザーリッシュを生かしたまま捕虜としたと仮定する。そうやっておいてタイタニアに何らかの要求を突きつけても、唯々|諾々《だくだく》とタイタニアが受け容《い》れるはずがない。事態の急に狼狽《ろうばい》するバルガシュ政府を脅迫してザーリッシュの身を返還させる。あるいはヒューリックたちを逮捕し、ないし殺害させる。ザーリッシュ自身も逃がれるための手段をさまざまに講じ、タイタニアの支部も救出作戦を展開してくることだろう。  第一、あの地下洞でザーリッシュを射殺しなかったら、ヒューリックのほうこそ扼殺《やくさつ》の運命を甘受しなくてはならなかったのである。 「まあとにかく、なってしまったことはしかたありませんな」  あっさりとワレンコフが総轄した。 「これからどうするかが問題ですて。ヒューリック提督のお考えはいかがです」 「さしあたり時間を稼ぐさ」  ヒューリックは無造作に答え、のんびりと脚を組んでみせた。 「タイタニアが大軍をもって進攻してくれば、バルガシュも肚《はら》をくくるしかない。そして勝利するための方策を増やそうとすれば、おれたちをみすみす殺したりできるはずがないさ。悲観する必要はないって」  表情や口調ほどに、じつはファン・ヒューリックは超然としていたわけではない。自分の判断が誤っているのではないか、多寡《たか》をくくっている間に、逮捕なり暗殺なりの不名誉な破局が彼と同志たちに向けて忍び寄りつつあるのではないか。その不安は彼の影にひそんで、つねに彼と同行していた。それでも彼はひとつの可能性に自他の命運を賭《か》けるしかなかったのだ。 「タイタニアが大軍を動員してバルガシュと正面決戦するとすれば、総指揮官はアリアバート公以外にいない。かつて、まぐれにせよアリアバート公を敗北させた者は宇宙におれだけだ。バルガシュ政府はそれを知っている。和平に一〇〇パーセントの確信がないかぎり、おれを害することはできない」  そう計算し、幾度も検算している。とはいえ、一〇〇パーセントの確信がないという点では、ヒューリックもバルガシュ政府と同様であった。ときおりヒューリックは物が見えすぎることがある。バルガシュ政府の高官たちの胸中を推測してみると、和平への確信がない以上に勝利への確信がないのだ。脂汗《あぶらあせ》を流して苦悩したあげく、思考回路をショートさせてもっとも安易な選択に身を投じるかもしれなかった。  そのような不吉な光景を想像もしてみるが、さしあたりファン・ヒューリックは軟禁の身で、バルガシュ政府の高官たちに面談することすら許されていない。とすると、退屈やよけいな心労に蝕《むしば》まれぬ方法はひとつ、女性をくどくことであった。 「もう名前を教えてくれてもいいだろう」  一日、大食堂で、ある女性にいってみた。 「そうね、でも気をつけなきゃ。悪い精霊が耳をそばだてていたら、わたしの一生は暗いトンネルのなかにはいってしまうものね」  笑った女は、砂漠の地下洞にいた反タイタニア派の女兵士である。ここではサンバイザーはかぶっていないが、着用しているのはあいかわらず迷彩をほどこした野戦服であった。  彼女の笑いを傍に置いて、ヒューリックは尋ねた。 「名は?」 「セラフィン・クーパース。友だちにはセラと呼んでもらってるわ」  こうしてようやくファン・ヒューリック氏が関心ある固有名詞を知るのに成功したころ、バルガシュ政府は心の安らぎと正反対の極点に立たされていた。タイタニア無地藩王《ラントレス・クランナー》アジュマーンから和平の条件が突きつけられたのだ。その内容は、条項にして四〇におよび、厳しいどころか苛酷をきわめた。  戦争責任者の引き渡しはともかくとして、バルガシュ政府を集団心臓マヒに追いこみかけた条件はつぎの一項であった。 「惑星管理官《ロカートル》の資格審査権を、永久的にタイタニアに委譲すること」  この条件を受容することは、バルガシュには不可能であった。ロカートルは辺境星域における惑星開発と行政の専門職であり、その資格審査権を委譲するということは、未来|永劫《えいごう》にわたって「辺境の首都」の地位を放棄することであった。この条件に比べれば、領土がどうの賠償金がどうのというのは、春風のそよぎのようなものだった。 「タイタニアは本気で和平などする気はない。奴らは最初から無理な条件を突きつけて、吾々を開戦に追いこむ肚だ」 「ザーリッシュ公の横死など、奴らにとっては悲しむべきことではない。もっけの幸いでしかないのだ」 「タイタニアらしいやりくちではないか。奴らは親族の死すら自分たちの利益のために利用しようというのだ。死者の骨までしゃぶりつくそうというのが奴らの本性さ」 「あのような奴らと共存などできぬ。これまで平和を保《たも》ちえたのは、バルガシュが良識と品性を守ってきたからだ。だが品性とは人間に対して守るべきで、野獣に対しては無力だということがわかった。奴らを躾《しつ》けるには鞭《むち》しかないのだ!」  すさまじい激昂の声が、バルガシュ政府の内外に湧きおこった。 「まだ交渉の余地はある。激発したらそれこそタイタニアの術中にはまるぞ。落ちついて最善の道を探るべきだ」  和平派は必死に同朋をなだめたが、彼らの数と勢いは急速に減少していった。タイタニアはバルガシュ人たちの堪忍《かんにん》袋に銃弾を撃ちこんだのだ。バルガシュ人の忍耐心は蒸発して、発火を待つばかりという状態であった。  だが、バルガシュ政府としてはそう簡単に「戦争だ」とわめくわけにはいかなかった。何とか打開の方途を探ろうとしたが、奇蹟的な名案などあるわけもない。討議をかさね、結論を先にのばし、そのあげく主戦派から「優柔不断」と非難されるのだから、損な役まわりというしかなかった。  トゥルビル提督は、政府高官たちの困惑と苦悩をよそに元気いっぱいだった。先に河を渡ってしまった者の強みである。 「屈辱的な和平ということになって、わしがタイタニアに殺されるのは是非《ぜひ》もないが、わしひとりでは死なんぞ。議会にえらそうな面《つら》を並べた政治屋どもを一〇〇人ぐらいは道づれにしてやるわい」 「いっそ議事堂ごと艦砲で吹きとばしましょう。テーブルをかじり倒したら、つぎは食堂をたたきこわすだけです」  イルク少佐は軍帽をぬいで顔をあおいだ。トゥルビル少将と彼は、バルガシュ軍部にあって慎重なる良識派などと評されていたはずだが、運命の女神が仕事に手をぬいた結果、いまや対タイタニア主戦派の最強硬部分を形成する身となっていた。  バルガシュ政府は議論百出して収拾がつかなくなったため、トゥルビル提督やファン・ヒューリックなど軟禁されていた官民の反タイタニア派を最高議会の安全保障委員会に呼びつけ、意見を聞くことにした。むろん全員が非武装で、彼らの一名に対し四名の兵士が監視にあたり、手錠をはめられぬだけ感謝しなくてはならぬというところであった。  五〇〇秒ほど形式的な人定質問がおこなわれた後、椅子にそっくりかえった最高会議議長が、立ったままのヒューリックにご下問《かもん》あそばした。 「君はタイタニアと戦って勝つ自信があるかね」  率直というより粗雑な質問であった。このような質問を投げつけてくる輩を満足させるべき義務は、ファン・ヒューリックにはなかった。 「条件によりますね」 「条件とは……報酬かね」  この反応には、ヒューリックは唖然《あぜん》とした。マフディーが喜びそうな台詞《せりふ》、というより、粗野な宇宙開拓史ドラマを|立体TV《ソリビジョン》で鑑賞しつづけた結果であるかもしれない。コマーシャルつき六〇分の時間内に、正義のヒーローがかならず邪悪な異星人を退治してくれる。自分はビールでも飲んで別世界のアクションを楽しんでいればよい。立体TVをながめている者に害がおよぶことはけっしてない。 「君はタイタニアのアリアバート公爵に勝利した男だ。敵が味方の一〇倍の数でもかならず勝てるという戦術があるだろう」 「そんなものはこの世に存在しませんよ」  氷点すれすれの冷淡さで、ヒューリックは答えた。バルガシュ政府がタイタニアによって解体され、宇宙から消え去ったとしても、歴史上たいして歎くべきことではないのかもしれない。そういう気すらしてきた。 「それじゃ君は勝つみこみもないのにタイタニアと渡りあっているというわけか」  議長の、わざとらしく目をむく表情を無視して、ヒューリックは答えた。 「アリアバート・タイタニアは名将です。ケルベロス会戦では意表を衝《つ》いたから勝てましたが、あんな策《て》が二度と通用するとは思えませんね」  これは本心であるが、多少は演技のパン粉がまぶしてある。アリアバート公爵を敵にまわして、用兵や戦術でそうそう勝てると思われては困るのであった。ヒューリックの横顔に視線を走らせつつ、ドクター・リーがさりげなく口をはさんだ。 「ファン・ヒューリック個人がアリアバート・タイタニア個人に勝つ必要などない。要は反タイタニア陣営がタイタニアに勝てばよい、そうではありませんか」  惑星バルガシュといわず反タイタニア派と表現したあたりが、ドクター・リーの巧妙、あるいは狡猾《こうかつ》なところである。バルガシュだけを勝利させ、かつ救うことを約束する意思は、ドクター・リーにはない。  ヒューリックら「無責任なよそ者ども」を非好意的な視線でなでまわしていた議員のひとりが、威圧するつもりであろう、拳《こぶし》をつくってデスクの表面をたたいた。 「事は明白きわまる。この連中を鎖につないでタイタニアの本拠地に連行すべきだ。この連中こそタイタニアに対して戦争責任をとるべきなのだ。こいつらさえ引き渡せば、タイタニアもあえて武力に訴えたりはするまい」 「論旨《ろんし》の前半は、まったく正しい。ですが後半は痴者の夢想にすぎませんな」  ドクター・リーが落第点をつけてみせた。皮肉で容赦ない面接試験官の表情であった。 「妥協も譲歩も相手による。ザーリッシュ公を殺されたタイタニアは、あなたがたバルガシュ政府を完全に屈伏させないかぎり威信を回復できないのです。あなたがたが一歩しりぞけば、彼らは二歩踏みこんでくる。それがわからないはずはない。わからないふりをしているだけだ」  議員が沈黙すると、ドクター・リーも口を閉ざし、かわってアムゼカールが論陣を張った。        U   「おれはアムゼカール、かつてヴァルダナ帝国の軍人だった。アリアバート公に敗れたくち[#「くち」に傍点]だ」  悪びれずにそう名乗ると、アムゼカールは精悍《せいかん》な眼光で議員たちをにらみまわした。 「アリアバート・タイタニアと戦って勝てる者がバルガシュにいるか? いないだろう。いるのは他国の人間だ。ファン・ヒューリックに全軍の指揮権をゆだねること。それだけがバルガシュの生き残る道だ」  鼻白みつつ、議員のひとりが反論した。 「戦えばよいというものではあるまい。タイタニアは魔王の一族ではない。たとえ彼らに屈しても滅ぼされることはなかろう」 「あんたたちは過去の歴史から何を学んだのだ。かつてヴァルダナ帝国は星間都市連盟と拮抗《きっこう》する強国だった。だが現在では、タイタニア一族の植民地だ!」 「…………」  深海魚のように暗く重い沈黙におちいったバルガシュの政府高官たちを見わたして、アムゼカールは舌鋒《ぜっぽう》をさらにふるった。 「タイタニアに降伏すれば、形だけの独立は認められるだろう。タイタニアは形など重んじない、実益があれば奴らは満足なのだ。問題はむしろあんたらにある。タイタニアの首輪をはめられて尻尾を振り、それで恥じいらずにいられるかどうかだ」  この辛辣《しんらつ》な喩《たと》えは、和平派から反論の台詞《せりふ》を奪ってしまった。 「では問うが、タイタニアと戦って勝算はあるのか!?」  追いつめられて和平派はついに叫んだ。 「勝算もなしに戦ってどうする。この流亡者たちは、自分たちとタイタニアとの私闘にバルガシュを巻きこもうとしているだけだぞ!」 「そのとおりだな」  ごく低い声で、しかもぬけぬけとドクター・リーがつぶやいた。たしかに彼らは自分たちのためにバルガシュを対タイタニア戦争に巻きこもうとしているのであり、利己主義と非難されても返す言葉はない。ただし最初からファン・ヒューリックやドクター・リーらは絶対平和の使徒ではなく、正義のヒーローでもなく、タイタニアに支配されることを拒否しつづけるという意味においての「解放志向者」であるにすぎなかった。自分たちが少数派であることは承知の上で、それでもタイタニアの支配に抗しつづけるには、いくたりかは味方がいてくれたほうがいいに決まっている。そして、偶然と必然との奇妙なパズル・ゲームの結果、バルガシュを見こんだのであった。  見こまれたバルガシュこそ、いい災難である。だがファン・ヒューリックとしては、「この期におよんで泣言を並べるなよ。タイタニアにはいつくばって慈悲を請うのがいやなら戦うしかないだろうが!」という気分であった。もっとも、半分以上は、彼自身に言い聞かせている言葉である。  和平派はさらに叫んだ。 「このような流浪の無頼漢どもに国運を委《ゆだ》ねて、諸君は悔いることなしに明日を迎えることができると思うのか!」 「満足して今日死ぬより、悔いだらけの明日を迎えるほうが、はるかにましじゃよ」  トゥルビル提督が昂然と胸をそらして応酬した。他に方途がないことを承知して、この老軍人はすっかり開きなおっている。一時は責任をとって自殺することも覚悟したが、彼が自殺したところでタイタニアが納得して矛《ほこ》をおさめるはずがなかった。であれば戦うのみである。そもそもザーリッシュ・タイタニアがトゥルビル提督の紳士的な勧告にしだがって撤兵していれば、誰も死なずにすんだのだ。  そのトゥルビル少将に対して、「いい年齢《とし》をして、すこしは自重すればよいものを」という批判があることも事実だった。政治的判断というものはCMいり六〇分の宇宙開拓史ドラマと異なり、分裂抗争する諸派がそれぞれに主観的な正しさを持ち、他派の主張に反発するべき理由をかかえているものだ。今回バルガシュにおける対タイタニア和平派と主戦派との対立も、自分たちが歴史的に正しいと信じ、相手陣営が母国を誤った方向へ導こうとするのを阻止せねばならぬと信じていた。ただ、ときおり拠《よ》って立つ足もとがよろめくのは、結局のところタイタニアの力を畏怖《いふ》するからである。畏怖するゆえに一方は和平を望み、他方は威圧的な支配からの解放を希《ねが》って、対立をつづけていたのであった。  対立が解《と》けぬさなか、「|天の城《ウラニボルグ》」になお滞在している外務大臣コルヴィンのもとから、寒気をもよおすような情報がもたらされてきた。 「タイタニア軍はアリアバート公を総指揮官として、最少でも二万隻の艦艇を動員する計画とか」 「に、二万隻!?」  議長は色と声の双方を喪った。  タイタニアの総兵力は艦艇一〇万隻といわれるが、一万隻以上の軍が動員された例はこの四半世紀に見られない。それが今回、二万隻の動員をおこなうとすれば、タイタニアの決意の強烈さを思うべきであった。 「こ、こけおどしだ。大軍を動かせばいいというものではないぞ。鳥合《うごう》の衆という古語があるではないか」 「ほう、アリアバート公爵が指揮するタイタニアの精鋭を鳥合の衆とおっしゃるか」  かなり意地悪く、ドクター・リーは相手の虚勢を言葉の針でつついてみせた。 「それは頼もしい。とすれば吾々がバルガシュ軍に協力しようなどとは、おこがましいかぎりですな。どうぞご自分たちの力だけでタイタニアを撃退なさい。勝利を祈らせていただきます」  議長の神経と肺と胃と心臓とを充分に痛めつけておいて、一同は退席した。与えられた時間を有効に使ったつもりだったが、宿舎に帰る早々、彼らは意外な危険に迫られた。追いつめられた草食獣が逆上すると何をしでかすかわからないが、この日、タイタニアの二万隻動員計画を知って理性への配線を切ってしまったのは和平派の一部であった。諸悪の根源はファン・ヒューリックとその一党であるとみなし、デモを組織して、そのうち五〇人ほどが銃器を持ち、宿舎に乱入してきたのである。彼らは一階のホールに満ちあふれ、ヒューリックたちは人数もすくなく、武器もなく、対抗する術《すべ》はないと思われた。ところが、 「ばかめ、物の道理がわからんのか」  二階の吹き抜けからホールを見おろしてファン・ヒューリックはどなった。全身のエネルギーを声帯と眼光にこめて、押しかけてきた暴徒たちをにらみつける。暴徒たちは気をのまれ、前進をやめた。 「タイタニアがバルガシュの武力などを恐れると思うか。タイタニアが恐れているのはおれだ。アリアバート公を破ったただひとりの男だ」  胸をたたいてみせる。安っぽい演技と自覚してはいるが、生命がけにはちがいない。暴徒たちがたじろいで顔を見あわせる。その機会をとらえて、ヒューリックはたたみかけた。 「おれを殺したりしたら、それと同時に、タイタニアは大軍をもってバルガシュに乱入してくるぞ。バルガシュを守護する城壁を、バルガシュ自身の手で破壊してくれるのだから、タイタニアにとってこれほどありがたいことはない。お前らのやろうとしていることは、タイタニアを利する行為だ!」  暴徒たちはうめき声を洩《も》らした。暴挙をおこなう者の九九パーセントは、自分たちを熱烈で純真な愛国者だと思いこんでいる。利敵行為と決めつけられて動揺と混乱を来《きた》した。 「そこのお前、タイタニアからいくらもらって祖国を売る気になった!?」  不意にそう叫んで暴徒のひとりに指を突きつけたのはマフディーだった。とっさに彼もヒューリックの演技に共演したのだ。指を突きつけられたのは、若い中背の男で、顔をひきつらせたきり反論の声も出ない。むろん事実を指摘されたからではなく、とほうもない冤罪《えんざい》を着せられたからである。 「お、おれたちはちがう。おれたちは国のためを思って……」  反論に苦労する間に、イルク少佐が部下をひきいて駆けつけ、暴徒たちを追い散らした。ヒューリックたちの姿を見たとたんに発砲していれば当初の目的を達しえたことであろうが、口先で撃退されてしまったのは、なさけないことであった。ドクター・リーがイルク少佐に礼を述べ、ファン・ヒューリックとマフディーにむけてわざとらしく拍手してみせた。 「いや、大した演技力だ。ふたりして寸劇のコンビで飯が食えるな」 「何とでもいえ」  にわかに大量の汗が皮膚の表面に噴き出して、ファン・ヒューリックは長身を椅子にへたりこませた。その傍の椅子にマフディーもすわりこんで、肩をすくめてみせる。 「一ダカールにもならない演技なのに、つい熱をいれてしまった。今日はこれですんだが、明日からはどうするんだ」 「そいつはバルガシュ政府が決めてくれるだろうさ」  ドクター・リーの予想は的中した。バルガシュ政府はついに決断を下した。下さざるをえなかったのである。 「こうなったら他に方途はない。ファン・ヒューリックらにあるていどの軍権を与えて戦闘に参加させ、またタイタニアに反感をいだく諸国や諸勢力と同盟して大事にあたるべきだろう」  対タイタニア大同盟! それは過去二世紀の間、幾多の戦略家や外交家が熱望し夢想してやまなかった計画である。構想されては実行の途中で潰《つい》えてきたのは、タイタニアの巧妙な政戦両略のゆえであり、また大同盟それ自体が同床異夢《どうしょういむ》の脆弱《ぜいじゃく》さを避けえなかったからであった。Aが主導権をにぎろうとすればBが反発し、Cが大同盟において自己の利益を主張すればDがそれを妨害する。その間隙《かんげき》をタイタニアが針でつつけば、たちまち砂の城は崩壊してしまうのだ。  だが困難を承知で、というよりまことにやむをえず、バルガシュは大同盟を志向せざるをえなかったのである。こうしてついにバルガシュの政治的軍事的方針が定まるにおよんで、ヒューリック、リー、アムゼカール、カジミール夫妻、マフディー、パジェス、ワレンコフらは、トゥルビル少将の部隊に、臨時幕僚として編入されることになった。        V    バルガシュほど騒々しくはないが、タイタニアの本拠地である「|天の城《ウラニボルグ》」でも噂《うわさ》話は盛んである。 「ジュスラン公は政治家としての力量には定評があるが、実戦の指揮官としてはどうかな。アリアバート公や故ザーリッシュ公にはおよぶまい」 「だが、ザーリッシュ公亡き後は、アリアバート公はタイタニア軍の至宝《しほう》的な存在だ。彼が出陣する前に、タイタニアは誰やらべつの指揮官を派遣するのではないか」 「イドリス公はどうだ?」 「……そうさな。さしあたり大軍を指揮するより、あの御仁《ごじん》は弟君を操縦するほうが急務だろうて」  最後はひそやかな笑声になるのだった。イドリスはもともと信望絶大という人物ではなかったが、不肖の弟であるラドモーズのために、さらに信望の量が減少していた。衆目《しゅうもく》は明らかにラドモーズを非とし、惑星ティロンに追放されたバルアミーに同情的であった。  そのラドモーズが、ようやく謹慎を解かれ、兄のもとを訪れていった。 「兄上、おれは兄上の弟として恥ずかしくないよう何ごとにも努《つと》めるつもりだ」 「けっこうなことだ。せいぜい励《はげ》むがいい」  イドリスの声に兄弟の情は感じられない。ラドモーズがバルアミーより遠くの辺境へ追いやられても、イドリスの心はいささかも傷《いた》まないであろう。兄の心を知ってか知らずにか、ラドモーズは熱心な口調でつぎのように語りかけたのである。 「そこで頼みがある。アリアバート公が出陣するとき、おれを幕僚として従軍させてもらいたいのだ」  無言で眉をあげるイドリスに対して、ラドモーズはさらに語をつづけた。 「贅沢《ぜいたく》はいわぬ。高級副官でも参謀長でもよい。とにかく今回の出陣で、おれにも武勲をたてる機会がほしいのだ」 「殊勝《しゅしょう》なことだな」  誠意を欠くイドリスの反応であった。「高級副官でも参謀長でもよい」とは、よくぞほざいたものだ。このふたつの職種がよほど楽なものとラドモーズは思いこんでいるように、イドリスには思われた。彼はあげた眉を今度はひそめて話者に転じた。 「ラドモーズ、お前にはヴァルダナ近衛司令官の地位を先日くれてやったはずだな。帝国軍人であれば垂涎《すいぜん》してやまぬ顕職《けんしょく》だ。その地位をお前はいったいどうした?」  兄の厳しい言葉を受けて、今度沈黙したのはラドモーズのほうであった。顔つきも身体つきも一七歳の少年とは思われぬ、一種の獰猛《どうもう》な精気がみなぎっており、イドリスのほうが線が細く見えるほどであった。むっつりと黙りこむ姿が、おそれいるというよりふてくされているように感じられる。 「お前がタイタニアの一族でなければ、一七歳でそのような顕職に就《つ》けるわけがない。そのことを自覚し、身をつつしんで職責をまっとうし、他人から謗《そし》りを受けぬようにすべきなのだ。それをバルアミーごときと乱闘におよんで、藩王殿下のご不興をこうむるとは、何という愚劣さだ!」  語をつらねるにつれ、イドリスの怒りは募《つの》った。弟である以上、ラドモーズは兄の野心を理解し、それが達成されるために協力すべきであるのに、かえってイドリスの足を引っぱろうとするのである。生前のザーリッシュをイドリスが軽視していた理由のひとつに、弟であるアルセスひとりの手綱すら御することができなかったという点がある。ところが、顧《かえり》みてイドリス自身も、不肖の弟をもてあましている。その事実を認識するほどに、イドリスは苦々しい怒りを禁じえないのであった。  ラドモーズの器量才幹がイドリスにまさるものであったら、公爵家の門地はラドモーズの手に落ちたであろう。年功より才器を優先するのがタイタニア藩王の裁定基準である。その意味ではラドモーズが非才であることにイドリスは感謝しなくてはならぬのだが、あまりに無能不見識で兄の足を引っぱられてはもっと困るのである。 「おれが一七歳のときには、もっと覚悟と責任感があったぞ。タイタニア五家族の一員たるにふさわしくなろうと努《つと》めてきたのだ」  イドリスがわずかに語を切ったとき、ラドモーズが奇妙に強い眼光で兄を見返した。 「おれとて公爵家の長になれるのだったら、それくらいは努める」 「なに? 何を生意気な!」  怒声をあげる兄に対してふたたび沈黙しながら、ラドモーズは目だけを光らせていた。  不意にイドリスは悪寒をおぼえた。弟であるラドモーズが、得体《えたい》の知れない怪物であるかのように感じられたのだ。こいつはわが弟ながら、常識や節度を無視して暴走しかねない男だ。先日はたかだかバルアミー子爵と殴りあいを演じたていどのことだが、いずれもっと大規模なトラブルを呼びおこす可能性がある。  とすれば、近衛司令の地位を失ったのは、かえって幸運というものではないか。ラドモーズにとってではなく、イドリスにとって。この際ラドモーズ自身が望むようにアリアバートの征旅《せいりょ》に従軍させ、アリアバートに監督責任を押しつけてやったほうが、好つごうというものかもしれぬ。  ラドモーズの下にも、イドリスには弟がひとりと妹がふたりいる。末弟のゼルファは長兄を尊敬しており、気性も悪くないが、まだ一二歳では兄を補佐することはかなわぬ。あと五年ほどはイドリスが単身で家門を背負うしかなさそうであった。  アリアバートに頭をさげて弟の登用を依頼するのは、イドリスの自尊心が許さなかった。とすれば方法はひとつしかない。イドリスは藩王アジュマーンに面会を求め、ラドモーズに名誉回復の機会を与えてくれるよう懇願した。アジュマーンは鋭い視線をイドリスに投げつけたが、無言でうなずき、その旨をアリアバートに伝えるよう約束した。翌日になって、イドリスは、アリアバートがつぎのように語っていると伝え聞いた。 「ラドモーズ男爵は、礼儀はともかくとして勇猛な若者だと聞く。大いに武勲をたてれば兄イドリス公を凌《しの》ぐほどの名声をえることができるかもしれぬ。励んでもらいたいものだ」  この発言はイドリスを負《マイナス》の方向へ刺激した。彼は不機嫌に考えこんだが、それも長いことではなく、結局、ラドモーズを従軍させるという請願を撤回してしまった。アリアバートは残念がってみせたが、これは表面上の演技であるにすぎない。 「どうやらうまくいったようだ。ジュスラン卿の知恵を借りてよかった」  アリアバートは相談相手に感謝し、ジュスランは苦笑をまじえつつうなずいたものだった。  アリアバートは彼としてもはじめての大軍を指揮統率して、バルガシュとの全面戦争にのぞもうとしている。全知全能をかたむけて作戦の立案と実行に没頭しようとするとき、ラドモーズのように思慮も協調性も欠く一族の者に前線をかきまわされてはたまったものではなかった。ラドモーズの参戦を一言のもとに拒絶してもよいのだが、それでは開戦前の人心を微妙にそこねる。アリアバートはジュスランに相談を持ちかけ、ジュスランの助言にしたがって、ラドモーズに対するイドリスの複雑な心理を動かしたのであった。 「イドリス卿も、不肖の弟のためになかなか大変なことだな。さて、ラドモーズ卿のほうはこれで満足するかどうか」  ジュスランは自分たちが背負っている血の重さと濁りについて思いやらずにいられなかった。        W    父系からいえば、アリアバートとジュスランは同年の従兄弟である。公式の系図にもそう記されている。それ以外の事実が存在することは認められない。だが、けっして公的には認められることのない血の流れが存在していた。  タイタニアは、つまるところ血族による権力支配体制であり、血統が絶えれば体制は瓦解《がかい》する。ゆえに、血族間の結婚、養子などの習慣がおこなわれた他、子供の産まれぬ夫婦が受精のために非常の手段をとる非公然の例も多かった。A家の嫡男《ちゃくなん》がじつはB家の当主の遺伝的な息子であるというのは、藩王八代の間に珍しくない。血族による権力支配は、「血を絶やさぬ」という一事を絶対の正義に据《す》えたとき、平凡な市民が唖然とするほどの濁った愚かしさを育《はぐく》むのである。  アリアバートは私生活を他者に語ることをジュスラン以上に好まなかった。聖人ではないから単数ないし複数の情人《ミストレス》が存在することは確かだが、噂以上のことはジュスランも知らない。ジュスラン自身、他人の情事などに関心はなく、イドリス公とテオドーラとの関係を気にするとすれば、どこまでも政治的な意味あいにおいてであった。それにしても、イドリス公は、弟ラドモーズと情人テオドーラと、なかなかに平穏ならざる人物を両腕にかかえこんでたいへんなことだな、と、これはジュスランの皮肉な感想である。  ラドモーズ男爵の件でジュスランに礼を述べるにあたって、彼のフラットを訪問したアリアバートは、リディア姫のためにピーチババロアとエクレアを持参してきた。 「女性の好みはよくわからんが、こんなもので姫君は喜んでくれるかな」  タイタニアの若い勇将はフランシアに菓子の箱を手わたし、ジュスランと向かいあってウィスキーを酌《く》みかわした。話題は当然、今回の出征に関してのことになる。軍事技術面に関して、アリアバートの予測は明快であった。 「バルガシュはおそらくファン・ヒューリック一党を傭兵《ようへい》として一定の権限をゆだねるだろう。だが彼がバルガシュ軍の総指揮権をにぎりでもしないかぎり、タイタニアに敗北はない。局地戦で譲っても、全体ではかならず勝つ」  いったん語を切ってから、もの静かにアリアバートはつけ加えた。 「圧倒的に」  その言葉を、ジュスランは誇大なものとは思わなかった。もともとアリアバートは空虚な大言壮語をもてあそぶような人物ではなく、実績と自信との間隙はいちじるしく狭い。ひとたびはファン・ヒューリックに敗れたとはいえ、彼の安定した軍事的力量に対して、藩王アジュマーンの信頼も揺らぐことはなかったのである。  一時間ほどでアリアバートは辞去した。彼のフラットで寝《やす》むまでの数時間、さらに戦術を練《ね》り、部隊をいかに動かすか、知謀のかぎりをつくして思考するのであろう。 「アリアバート公はよい人だな」  菓子をもらったからではないだろうが、リディア姫はそういって感心した。王女の見解にむろんジュスランも賛成であるが、嬉しいのは対人評価がリディア姫と一致することなのだ。いかに聡明でも一〇歳の子供と自分を同一水準に置いて考えるあたりが、ジュスランという人格の奇妙な一面であるにちがいない。  大動員の実務責任はアリアバートの双肩にかかるが、藩王アジュマーンも全タイタニアの主としてさまざまに決裁をおこなわねばならぬ。人事、編成、補給、ヴァルダナの宮廷工作など多岐《たき》にわたる仕事の合間に、アジュマーンはエルマン伯をともない、軍用宇宙港の施設を視察した。エルマン伯はバルガシュの外務大臣コルヴィンを送還する件で報告に来ていたのである。高い手すりごしに宇宙港の艦艇をながめおろしつつ、アジュマーンは随行者に問いかけた。 「エルマン伯よ、久々に|天の城《ウラニボルグ》を訪れて、何か観察の収穫があったであろう」 「申しあげてよろしいのでしょうか」 「かまわぬ、申してみよ」 「ではおそれながら。私めが愚考いたしますに、将来のタイタニアは、アリアバート公とジュスラン公と、ご両所の協力関係によって指導されることになるのではないかと存じます」 「外をアリアバート公が征し、内をジュスラン公が治めるというわけか」 「御意でございます」  見識ぶるかのようなエルマン伯の返答は、藩王を皮肉な気分にさせたようであった。 「だが英雄並びたたずと俗にいうぞ。両人が人望を分かちあえば閥《ばつ》もできる。閥ができれば小人どもが虎の威を借りて対立もしよう」 「それはタイタニアにとって不幸なことでございましょう。ゆえに、ご両所の協力関係を崩すことが、反タイタニアの野心家どもにとっては急務ということになりましょうな」 「野心家か。野心家とはタイタニアの外にのみ存在するわけではあるまい」  藩王は刃に似た笑いで口もとを飾った。冷たく、しかも厚い刃だ。 「イドリス公はどうだ。予の見るかぎり、藩王位に対する野心と執着は、他の二公爵を上まわるものがあるが」  返答には、やや間があった。 「藩王殿下のご観察、私めもおそれながら同感でございます」  それ以上は語らぬ。自らの意見を開陳《かいちん》せぬ。アジュマーンは自分より低い位置にあるエルマン伯の顔に一瞥《いちべつ》を投げかけた。今度浮かべた笑いは、錆《さ》びた剃刀《かみそり》の薄刃に似ていた。エルマン伯は物理的な痛覚すらおぼえたほどであった。 「まあよい。いずれ予の死後のことだからな」  他者が口にすれば、不吉と不敬の最たるものとみなされるであろう。アジュマーンにのみ許される、これは言論の自由であった。 「時の大河というものは、いくつも滝をかかえているものだ。わずか一、二年で状況が激変して、想像もつかぬ新時代がはじまる。それについていけぬ者は溺死《できし》するしかあるまい」  藩王は、よく磨《みが》かれた床を歩んだ。力感と威圧感に満ちているが、猫属の猛獣に似た優雅さをともなっている。七歩ほどの距離を置いて藩王にしたがいながら、エルマン伯爵は表情を消していた。それこそ彼が思案をめぐらせている証拠であることを、藩王は知っていた。背中に目があるごとく、正確に承知していたのだ。 「エルマン伯」 「は、何でございましょう、藩王殿下」 「アリアバート公と同行せよ。彼が敵の講和を受けるとき、外交顧問として彼を補佐するように」 「かしこまりました」  うやうやしく伯爵が一礼すると、彼の頭部の向こうで藩王の足音が遠ざかっていった。        X    一二月半ば。バルアミー・タイタニア子爵の身は惑星ティロンの地表にある。緯度や高度によって寒暖の差はあるが、全体として湿度の高い惑星で、冷たい水気が若者の頬に湿った掌《てのひら》を押しつけてくる。宇宙港のゲートを出て歩み、九歩めでバルアミーは出迎えの同僚参事官に相対した。 「参事官として赴任なさったバルアミー・タイタニア子爵でいらっしゃいますね」 「そうだが、出迎えに来てくれたのか」  返事をしたときには、心の準備をととのえている。声をかけてきたのは女性だが、若さと美しさには欠けていた。痩《や》せて血色の悪い四〇代の女性で、造型美に恵まれぬかわり、灰色の小さな目には知性が溢《あふ》れているように見える。若いバルアミーにとって、男女の愛情の対象にはならないであろうが、信頼の対象にはなりえるかもしれない。すくなくとも無能で人望のない女性が参事官の要職に就《つ》くことができるような組織では、タイタニアはないはずであった。  だがそれもタイタニアの姓を持たぬ者であればの話だ。地上車に乗りこみながら、苦々しくバルアミーはそう考えた。ラドモーズ・タイタニア男爵のような、愚劣で粗暴な若者がその家門ゆえにヴァルダナの近衛軍団司令になりあがったという事実がある。退廃と堕落への第一歩ではないのか。 「イドリス公爵ならまだしも、ラドモーズ男爵ごときと抱きあわせで処理されるとは。おれはそのていどにしか藩王からは見られていなかったのか」  屈辱感が熱い脂《あぶら》をしたたらせて神経網を灼《や》いた。頬がほてり、陪席の女性参事官がさりげなく横目づかいをした。  地上車はグレーの制服を着用した下士官によって運転されている。権勢とは機械化や自動化のことではなく、より多くの人力を駆使することだ。タイタニアは宇宙で最大の権勢を有し、したがって宇宙で最大の雇傭《こよう》主であった。地上車は市街をゆるやかに縫ってタイタニアのティロン駐在代表部へと向かっている。 「あれが星間都市連盟《リーグ》の商館です」  女性参事官が骨ばった指を向けたのは、高いティロン砂岩の塀と巨大な鉄づくりの門を有する雄大な建造物であった。門は透水性セラミックを敷きつめた広場に面し、正面の建物は窓からの光を宝石のようにつらねている。その宝石の数はにわかに算《かぞ》えることもできぬほど多く、左右に伸び、奥へつづき、それを複数のビルの輪郭がとりかこんでいる。急速に濃くなりまさる暮色のなかで、その偉容はバルアミーの視界に強い印象を与えた。 「それ自体がひとつの都市だな」  感歎したが、バルアミーの内心には異なる感想がある。この壮麗な都市的構造物は、星間都市連盟の威権より、むしろこの惑星における弱体を物語るものだ。古代、地球上における人類史を顧みても、強国よりむしろ亡国の君主こそが、しばしば堅固な城塞を築いた例が見られる。高く厚い城壁の内にたてこもらねば、安全を確保できなかったのだ。伝統的に、惑星ティロンの住民は星間都市連盟に対して非友好的であるという。ゆえにタイタニアに対しては好意的中立というのがティロン政府と国民の基本的な態度であった。 「バルアミー子爵はすぐにもティロン社交界の花形におなりになれましょう。年が明けないうちに当地の名士がダース単位で娘の花婿《はなむこ》にと申しこんでくると思いますわ」 「それは楽しみです」  熱意も誠意も欠けた声でバルアミーは応じた。タイタニア貴族としてはひとつの生きかたである。地方の名士の娘と結婚し、その惑星レベルで富と権勢をえて悠々と生涯を送るというのは。だがそれはバルアミーの価値観にそぐわない。ゆっくりと時をかけておだやかに燃焼し、温かい灰から冷えた灰となる。それが他者の生きかたであれば口をさしはさむ気もないが、バルアミー自身にそれが押しつけられるのであれば、彼は生命を擲《なげう》ってもそれに抵抗し、灼熱《しゃくねつ》してついに爆発するような生きかたに走るであろう。 「一日も早く|天の城《ウラニボルグ》にもどれるようにする」  そうジュスラン公爵はいってくれた。彼の言を信じてよいものだろうか。「|天の城《ウラニボルグ》」を追われて以来、彼の唯一の同行者である孤独感が、かるい疑惑の笛を吹き鳴らした。ジュスラン公にとって、もしかしてバルアミーは邪魔者ではなかっただろうか。  ゆるやかに進む地上車の座席でバルアミーは沈黙をつづけ、陪席の女性参事官も何かを感じとってか声をかけようとしない。 「開戦だ! 開戦だ!」  だが、不意にうわずった声が耳道へよろめきこんできた。 「タイタニアとバルガシュが全面戦争に突入したぞ! ヴァルダナ皇帝がバルガシュに対して宣戦布告した!」  街角でどなりたてる男がいて、彼の指先が街頭のニュース専用TVの画面をさしている。市民たちが顔を見あわせ、足を速めてTVに群らがっていった。バルアミーは運転席の背をたたいて地上車を停めさせた。車外に出る。群衆にまじって二、三歩あゆみかけたが、女性参事官が声をかけた。タイタニアの代表部に行けば街頭のTVなどよりはるかに豊富で正確な情報が入手できる、と。一瞬ためらってバルアミーはうなずき、踵《きびす》を返しかけた。  不意に、異常なほどの息苦しさがバルアミーをとらえた。彼は激しい呼吸を数度くりかえし、両眼を閉じた。平衡感覚がわずかに失調して、バルアミーは片ひざを地面についてしまった。下士官が声をあげて若い上官を助けおこそうとしたが、バルアミーはその手を払いのけ、しばらくそのままの姿勢をとっていた。貧血か、と下士官は思ったようだが、そうではなかった。  理由はわかっていた。あるいは、わかっているように感じられた。貧血とは逆のことだ。多すぎる血のせいだった。バルアミーの体内に渦まいて流れるタイタニアの血が、地上を離れて宇宙に飛翔することを欲し、潮のように騒ぐのだ。タイタニアとバルガシュが全面戦争に突入するというこの時機に、遠く宇宙の中枢を離れた辺境の惑星につながれていなくてはならないとは何という無念であろう。 「宇宙はタイタニアとともにあり」  そう開祖ネヴィルは豪語した。表現はどうでもよい。タイタニアの血は宇宙の広漠たる星の大海にあってこそ充足をえられるのだ。鳥が地上の生物でないように、タイタニア一族も地上の種族ではないのだ。その事実を、バルアミーは全身で実感していた。  ようやくバルアミーは身をおこし、額に細い汗の流れを光らせながら夜空に視線を放った。白い紗のような銀河が、宙空に蠱惑《こわく》的な帯を投げ出していた。あの夜空の奥へ、彼は一刻もはやく帰らなくてはならなかった。一刻おくれるごとに彼の体内の血は薄まっていくだろう。彼はタイタニアであり、そうありつづけるために宇宙の存在を必要としていたのである。  星暦四四六年は動乱と混沌《こんとん》のうちに過去へ歩み去ろうとしている。タイタニア一族とバルガシュ共和国、双方の艦隊が実際に正面から激突するのは、新年の鐘が鳴りひびくなかであろうかと思われた。