タイタニア@疾風篇 田中芳樹 2段17行23文字 星暦一年、銀河系では「星間都市連盟」が成立し、各都市は都市艦隊を所有するいっぽう商館を置いて市民の経済活動を保護していた。その間、連盟《リーグ》の最大の敵対勢力はヴァルダナ帝国であった。両者はしばしば戦火をまじえ勝敗がくりかえされたが、連盟の優位はゆるがなかった。だが、星暦二二八年ひとつの破局が生じた。タイタニアと呼ばれる一族が離脱し、ヴァルダナ帝国に寝返ったのだ。そして翌年、「ブラウンワルト星域の会戦」の火蓋が切られた。連盟は完敗し、末永くつづくと思われた「連盟の時代」に黒い影を落した……。 カバーイラスト・道原かつみ カバーデザイン・秋山法子 タイタニア@疾風篇《しっぷうへん》・田中芳樹《たなかよしき》 全田中芳樹ファン心待ちの大河新シリーズを、ここにお届けする。装画は道原かつみさん。最高の名コンビで、このスペース・オペラは出発する。これ以上、何の講釈が必要とされようか。読者は本扉を開くのみ。渾身の力で創造された壮大な宇宙に谺《こだま》するドラマに、あの代表作以上の感動で突き動かされるのみだ! タイタニア@疾風篇 1988年12月31日 初刷 1992年7月10日 26刷 著 者 田中芳樹 発行者 荒井修 発行所 徳間書店 [#改ページ] 目次 序 章 タイタニアの勃興《ぼっこう》 第一章 覇王たち 第二章 不幸と災難は居直りの両親 第三章 強者と弱者 第四章 袋小路でジャンプ 第五章 内なる敵の群 第六章 呉越同舟のバラード 第七章 ひとつの破局 第八章 叛逆の星 [#改ページ]      序 章 タイタニアの勃興《ぼっこう》      ……時代区分というものは、歴史の教科書を書いたり読んだりするときの便法にすぎない。そう考えられることが多いが、じつは時代を区分することは歴史研究の最終的なゴールであるといってよい。なぜなら、時代区分をどのように設定するか、その設定のしかたに、その人の基本的な歴史観がストレートに反映するからである。  かつて人類の活動範囲が地球という一惑星に限定されていた当時には、ごく簡単に、四つの時代区分がなされていた。古代、中世、近世、近代というのがそれであって、これに現代を加えることもあった。  この基本的な区分の上に、それぞれの分野における特殊な状況がつけ加えられることになる。美術史、科学技術史、文学史、経済史などにおいて、時代区分は、しばしば一般的な時代区分とずれ[#「ずれ」に傍点]を生じる。巨大な帝国の瓦解《がかい》も、彫刻をつくる技術と思想に対し、何らの影響も与えぬことがあるのである。  これを軍事史に比定してみると、最大の転機は火薬の使用にあったと見ることができる。だが、軍事思想の変化という点では、「孫子《スンツー》以来、基本的にまったく変化はない」というシニカルな見方も存在する。また、軍事思想の二大潮流たる「機械化と物量」対「遊撃」の完全な出現をもって時代を区分する見かたもあるが、そうなると、そもそもいつそれらが出現したかが問題となり、容易に結着を見ないのである。  政治・社会的な歴史区分においては、「星暦《SY》」の使用、すなわち人類社会の本拠が地球から他の天体へ移動した年をもって、「地球時代」と「後地球時代」とに分かつことが一般的である。これはまた、「西暦《AD》」が廃されて「星暦」が使用されるに至った事実とあわせ、明らかに、一定の意識の変革をもたらすこととなった。  いわゆる「ガガーリン暦」というものは、一九六一年にユーリイ・ガガーリンなる人物が歴史上はじめて宇宙飛行をおこなった年をもって、時代区分の境界とする。同様のものに「アポロ暦」があり、これは一九六九年に人類がはじめて地球以外の天体に足跡を印した年をもって、その元年とするのだが、「それは要するに蓄積されたシステムの成功というだけであって、人類全体のありように何らかの変化があらわれたとはいえない」(U・N・デヴァール)という見方が、おそらく正しいであろう。ガガーリンやアポロ以後、宇宙は専門的技術家の占有物であって、そこが人類の居住空間となったわけではなかった。  超光速粒子《タキオン》と未光速粒子《ターディオン》とを交換することによって、光をこえる速度がえられる。そのシステムが完成したのは、二四二〇年のことであって、この完成こそが、人類社会を外宇宙へと爆発的に膨張させる契機となった。この認識は、事実と真実とがほぼ一致する、きわめて珍しい例であって、「産業革命」以来のものであるといってよい。  発展の時代は、楽観の時代である。流行する警句も、「失敗を恐れるな」とか「見る前に飛べ」といった類の景気のよいものが増える。人口も増加し、ピラミッド型の人口構成となる。太陽系内において、五〇〇億人前後で静止状態にあった人口は、六〇年間で一〇〇〇億を突破した。二五〇〇年には、一五〇〇億に達した。この間、超光速飛行とそれに付随する技術は、改良をかさねられ、人体に対する安全度も高まり、さらにそれが外宇宙への人口流出をうながして、人類社会の地理的領域は拡張をつづけたのである。  歴史を俯瞰《ふかん》すれば、人類社会が政治的に統一されていた期間は、地球統一政府時代のほぼ一世紀であるにすぎない。二三世紀には、混乱と対決の末に火星と金星が独立をはたし、地球と対等の政治的地位を確立した。以後、領域の拡張は、政治的分裂を加速するものとなった。  極端にいえば、無人惑星におもむいて自家製の旗を立て、独立を宣言すれば、新国家の成立が認められるといってよいほどであった。かくして、二四八八年には、国家の数が一万をこえることになったが、「泡沫国家《バブル・ステーツ》」の寿命は長くても一世代未満のもので、二五〇九年には八〇六にまで整理され、二五三〇年には三三八にまで減少している。この年に、ようやくさまざまな法制度が整備され、「星暦」が「西暦」にとってかわる。地球は劇的な戦いも経験せず、いつしか経済支配力の弱体化とともに政治的影響力をも失い、二四〇〇年代半ばには、すでに、「多勢のなかの一員」でしかなくなっていた。  この当時、人類の共通言語は「公共語《パブリック》」と呼ばれる。西暦当時の英語が基幹になっているが、英語の文法には非整合性も多く、また表記と発音の差異が目だった。したがって、表記を発音に近づける改良がおこなわれ、それによる普及度も高まったわけで、「表音英語」という呼びかたもある。いずれにしても、公共語の普及によって、人類はすくなくとも最低限度の意思疎通をおこなうことができるようになった。そして「星間都市連盟」の時代が、星暦とともに開始されるのである。「後地球時代」の第一期であった。   「星間都市連盟」は、単に「連盟《リーグ》」と呼ばれることも多い。普通名詞の固有名詞化、あるいはその逆は、その存在がいかに強力で影響度の高いものであるか、を意味するものである。この場合も例外ではなかった。  都市という概念について語り出せば、また多くのページを費《ついや》さなくてはならない。星間都市連盟の場合にかぎっていえば、それは人工天体にして独立した政治機能を持ち、主として商工業による経済活動をおこない、君主制をとらず、自発的な市民多数の意思によって連盟に参加する都市型国家である、ということになる。  この連盟が成立したのは、まさに星暦一年のことであるが、このとき参加した都市国家の数は一四でしかなかった。それが翌年には六〇に増え、星暦三〇年には一五〇に達したのである。連盟に参加する都市の市民は、同時に「連盟市民」の地位をえて、その権利を保護されることになった。  連盟は国家ではないから首都も存在しない。一年に一回、連盟に参加するどこかの都市で総会が開かれ、その期間はその都市が「連盟代表都市」となる。連盟は、雑多な事務を処理するために事務局を置き、その長として事務総長をおく。事務総長の選任は、総会の投票による。  連盟事務総長は、あくまでも事務の責任者であって、連盟の代表でもなく元首でもなかった。彼の任務は、連盟総会の準備と運営、統計と公式記録の作成および管理、事務局の運営、各種規約の整備、といったようなものである。なかでも重要な任務は、連盟に参加する各都市から、拠出《きょしゅつ》金をとりたてることであって、これがうまくいかないと、彼自身の給料も支払ってもらえないことになる。各都市とも、口を出したがるくせに金銭を出ししぶること、西暦の時代といっこうに異ならないのであった。  この連盟にはまた、常備の兵力がなかった。連盟に参加する各都市は、「都市艦隊《シティ・フリート》」を所有して独自の軍政と軍令をおこなっており、強大な敵軍と戦うときは、いくつかの都市艦隊が合同する。総会の承認をえて「連盟艦隊《リーグ・フリート》」と称するとき、司令長官が選ばれるわけだが、戦いが終わって連盟艦隊が解散すれば、司令長官は功労金を受けて退任することになる。したがって、「連盟軍中将」というような階級呼称は存在せず、生涯六度にわたって連盟艦隊司令長官をつとめたフィリップ・オークショー提督の公的な地位は、ハルポリス市軍大将であった。だいたいにおいて、都市艦隊の司令官は中将ないし少将であり、小都市であれば、佐官が司令官となる例もあった。オークショー提督は、最高の栄誉をもって報われたといってよい。  さらに連盟は、参加各都市や市民の経済活動を保護するため、銀河系内の各地に「商館《コントール》」と呼ばれる施設をおいていた。  連盟の四大|商館《コントール》と称されるのは、カフィール、エーメンタール、ティロン、バルガシュの各惑星国家に設置されたものである。商館は、星間都市連盟にとっては、大使館であり、領事館であり、通商代表部であり、居留民団本部であって、連盟全体の権利と利益を守るために、なくてはならない存在であった。情報も物資も、ここを中心に集散されたのだ。  この四大商館にも、それぞれの特色があった。  カフィール商館《コントール》の場合、館長は連盟商人であるが、その他に総館長という人物がいて、これはカフィール人であった。総館長の職務は、つまり連盟とカフィールとのパイプ役であって、商館から事業税や資産税をとりたてるのも、総館長の任務であった。もっとも、連盟から見れば、カフィールの要人を総館長にまつりあげ、何かと利を喰《くら》わして、結局は自分たちの代弁者にしたててしまうだけのことであった。  エーメンタール商館《コントール》の場合、そのような看板をかかげた建物が存在するわけではない。各都市の商人たちは、市内の各処に自由に事務所や営業所や住居をかまえ、よほど重大な集会でもないかぎり、行動も活動も好きなようにおこなっていた。三年に一度、集会によって商館長が選出されると、その人物の事務所なり住居なりが、三年の間、商館の連絡事務所として指定されるのである。  ただ、場所が移動しても、通信チャンネルはつねに固定されており、連絡先は明確であった。エーメンタールは政治的にも経済的にもかなり安定した惑星であったから、連盟《リーグ》のありようをそのまま小さくしたような、自由で自主的な制度を守ることができたのである。そしてエーメンタールの、地方的規模ではあるが洗練された豊かな文化を享受することができたのであった。エーメンタール大学の商学部と通商専科は、商館《コントール》の寄付によって設立され、エーメンタールを出て宇宙商人となり、いつしか連盟市民となる者も、けっこう多かった。  三番めの商館、ティロンになると、事情は一変する。この商館は広大な敷地を持ち、すべての連盟商人は、この敷地内に事務所ばかりか住居をも構えなくてはならない規則だった。敷地内には、それこそ一都市を構成しえるだけの社会資本がととのえられていて、その意思さえあれば、死ぬまで商館内で不自由なく生活することができた。精神的な逼塞《ひっそく》感さえ克服できれば、の話であるが。  ティロンは豊かな地下資源に恵まれた惑星であったが、住民の気風がやや閉鎖的で、土着を貴《とうと》しとし、星間都市連盟に対して、かならずしも好意的ではなかった。連盟商人のほうも、惑星社会から疎外されることがわかると、短期間のうちに利益をあげてこの惑星から離れようとする。エーメンタールのように、惑星社会に対して利益を還元しようとはせず、ティロン人にとってはそれがまた腹だたしい。というわけで、ティロンにおける商館は、租界《そかい》めいた雰囲気を持つ。それでも、ティロンの地理的条件からいって、連盟はこの商館を維持せざるをえず、ティロンのほうでも連盟の経済的影響力を無視できず、かくして商館は存続しつづけるというわけであった。  そして四番め、最後の商館バルガシュである。この商館は、他の商館にくらべてもっとも辺境の宙域にあった。辺境とは、人類の活動につれて拡大していくものであり、したがってこの商館が担当する宙域は、たえず拡大していた。  商館設立の二〇年後に、その担当宙域は一〇億立方光年に達し、二〇〇の有人惑星が商圏にふくまれるようになった。無人惑星となると、その一万倍はあったろう。この商館は、つねに人類社会の最前線に立っていたわけで、エーメンタールの洗練された都市文化と異なり、あらあらしいまでの活力と野心と冒険性、そして投機性、野性、独立性に満ちていた。商館は無数の「|冒 険 商 人《アドベンチャー・マーチャント》」たちに対して、資金を貸しつけたり、法律的な手つづきをとってやったりする一方で、行方不明者を捜索するための専門チームまで持っていた。  なかでも、この商館の活動できわめて特色ある存在となったのは、「惑星管理官《ロカートル》」という職業である。  |ロカートル《(惑星管理官)》とは何か。それは天体の所有者から権限を委任され、惑星や衛星に移民を誘致し、開発をすすめる責任者のことである。本来、民間人ではあるが、あくまでも政府や領主の代理人であって、惑星住民の代表ではない。ロカートルが存在する惑星では、住民自治がおこなわれておらず、したがって後進地域とみなされたことは歴史的事実である。  ロカートルの収入は、彼が管理する惑星からどれほどの税収があがるかによって左右される。惑星開発に成功し、豊かな税収が確保され、税収の一〇パーセントがロカートル個人の懐《ふところ》におさまる、とでもいうことになれば、彼の生活は王侯貴族にひとしいものとなる。  領主ないし政府と、ロカートルとの関係は、契約による。年期、報酬、権限、身分保障などが、バルガシュ商館員の立ちあいのもとで定められる。どちらかが契約に背《そむ》くようなことがあれば、それはバルガシュ商館と、ひいては連盟を敵にまわすことになるのであった。  四大商館の他にも、連盟の通商・外交的拠点は数多くあったが、それらは「出張所《ファクトライ》」と呼ばれ、かなり規模が大きいものでも、商館《コントール》と称することを許されなかった。それだけ四大商館の格式は高かったのである。 「末は大統領か、商館長か」  という俗言が流布したように、商館長という地位は、民間における最高のものであった。    こうして「星間都市連盟の時代」がつづく。それは星暦〇〇一年から二二九年までの時代であって、一部の皮肉な論者にいわせれば、「スペースオペラの時代」とも称されている。スペースオペラについては、「創作活動における未来時制」(A・N・メンシュトキン)の精読を勧《すす》めるが、人類が未だ地球の表面にとどまって、天体を支配することを空想していた時代の産物であった。人類が実際に他の天体で活動をはじめると、それは、一般的な娯楽小説の総称となったが、つまるところ、活力と野心に富んだよき時代であったといってよい。「人類の道徳的進化は、いっこうに実現しなかった。単に行動範囲が広がっただけのことである」(リアン・フウン・ダオ)という辛辣《しんらつ》な見解もあるが、一〇〇〇年や二〇〇〇年で種《しゅ》全体の精神的向上があるとは考えないほうがよかろう。人類という種には、もっと長い、向上のための時間が必要であると思われる。  歴史的に見て、都市連盟の敵対勢力として最大の存在であったのは、ヴァルダナ帝国であった。  連盟の商船団は、長い努力と巨大な情熱と卓越した航宙技術によって、宇宙における経済的優越を確立させたが、ヴァルダナ帝国だけは例外であったのだ。  両者はしばしば戦火をまじえ、勝敗がくりかえされたが、だいたいにおいて七対三で連盟の優勢が確保されていた。それは連盟がわが、艦船の機能、搭乗員の能力、通信、補給など「宇宙交戦能力」において帝国がわを凌駕《りょうが》していたからである。  ヴァルダナ帝国は強大で堅固であったが、経済的にも軍事的にも、連盟がわの洗練にはほど遠く、「力持ちのいなか者」(M・ソーニクロフト)であるにすぎなかった。自分たちの支配区域に連盟軍を引きずりこめば、かならず勝ったが、それをさとった連盟軍は、帝国軍を深追いすることをやめ、帝国への交易ルートを絶つようにした。するとたちまち帝国は音《ね》をあげ、歯ぎしりしつつ、交易の復活を求めるしかなかったのである。鎖国を気どることもあったが、するとその間に連盟がわは航宙や通信の能力を向上させてしまい、両者の間にはさらに差がつくという次第であった。最大の敵といってもそのていどだから、星間都市連盟の時代は永くつづくと思われた。  ところが、星暦二二八年、ひとつの破局が生じる。タイタニアと呼ばれる一族が、星間都市連盟から離脱したのである。    タイタニア家は、もともと都市連盟におけるもっとも有力で格式ある氏族のひとつであった。星暦二二〇年当時には、一〇の都市の市長と、一四の都市艦隊司令官と、都市連盟の総会議長と、連盟艦隊司令長官の座が、タイタニアの一族によって占められていたほどである。それからわずか八年後に、タイタニア一族は連盟から離脱した。一族そろって、連盟市民権を放棄し、すべての資産と船団を持ってヴァルダナ帝国に寝返ったのである。  この背信行為は、全人類社会に巨大な衝撃を与えた。つまり、社会的・政治的・経済的・軍事的なバランスがくずれたのだ。厳密な数値とはべつに、同時代人の感覚においていえば、 「連盟《リーグ》の力は半減し、帝国の力は倍化する」  という印象がもたらされたのであった。連盟の衝撃は大きかった。  こうして、タイタニア一族は、ヴァルダナ帝国の貴族に列せられたのだ。「無地藩王《ラントレス・クランナー》」の称号を受けたのは、領地を与えられたのを固辞したからである。元帥杖をたずさえ、枢密院に列し、その厚遇ぶりは歴代の旧貴族たちを唖然とさせた。さらに彼らを唖然とさせたのは、タイタニアがわの態度の不遜《ふそん》さである。  ときのタイタニア一族の長ネヴィル・タイタニアは、こう公言してやまなかった。 「自分たちは皇帝の臣下にあらず、対等の同盟者である。タイタニアなくして帝国なし、然《しか》して帝国なくしてタイタニアは揺るぎなく存立す」  すさまじいほどの矜持《きょうじ》に満ちた、それは豪語であった。しかもそれは、多少の誇張をともなうとはいえ、ほぼ事実であったのだ。そして、それゆえに、畏怖《いふ》と同量の憎悪を買わずにはいなかったのである。星間都市連盟から見れば、タイタニアは、赦《ゆる》しがたい背信者であり、専制支配者に従属した裏切り者であった。帝国のほうから見ても、タイタニアは、臣下の礼をわきまえぬ不逞《ふてい》な成りあがり者であって、このようなろくでなしの輩《やから》を厚遇するなど、ありえざることであった。 「杯中《はいちゅう》、敵手の血あり。眼中、君主の威なし。耳に快《こころよ》し敗者の歎、唇に快し勝利の酒」  これまた、タイタニアの初代、ネヴィルが、古式に則《のっと》って作った詩の一節である。文学的には何らの価値もないが、ここまで傲然《ごうぜん》と自らを誇ることが、タイタニアには許されたのであった。 「眼中、君主の威なし」という一句は、ヴァルダナ帝国の廷臣《ていしん》たちを怒らせたが、ときの皇帝ハルシャ二世は苦笑して彼らをなだめた。 「彼は事実を語っているだけだ。とがめてもしかたあるまい。いわせておけ」  もしとがめたら、タイタニアは平然として帝国に敵対するであろう。そのことは廷臣たちにも理解でき、彼らは沈黙した。  さて、星間都市連盟に対する優位を確立したので、皇帝は苦笑してすませたが、劣位を押しつけられた連盟のほうでは、とうてい笑ってすませるわけにはいかなかった。タイタニアの背信を赦すことはできず、また、タイタニアを失ったことによる打撃を回復するためには、ヴァルダナ帝国に対して同量以上の打撃を与えるしかなかったのだ。  すなわち理性と非理性のすべてが、タイタニアを撃つべし、という連盟の意志を強固なものとしたわけである。連盟は総力をあげて準備をととのえ、連盟史上最大の戦力をもって帝国との間に戦端を開いた。「われらが戦うのは帝国にあらず、タイタニアである」と宣言し、タイタニアの孤立をはかった。策謀は功を奏して、タイタニアは孤軍で連盟と戦わなくてはならなくなった。皇帝ハルシャ二世にしても、タイタニアと星間都市連盟が共倒れになってくれれば、願ってもないことであった。  こうして翌二二九年、「ブラウンワルト星域の会戦」がおこなわれ、連盟軍は完敗した。ネヴィル・タイタニアは数にして二倍の連盟軍を文字どおり全滅させ、連盟の権威は地にもぐってしまった。ただ一度の会戦が、永続するかに思われた「連盟の時代」に、黒い幕を落としたのである。  これ以後、宇宙航行の歴史は、そのままタイタニアの歴史になる。平和的、あるいは反平和的な手段によるタイタニアの覇権確立の過程。それは気の弱い人間をたじろがせるほど苛烈《かれつ》で、血の匂いに満ちている。ネヴィル・タイタニアは流血も悪名も恐れず、人類社会でもっとも有能な利己主義者としてふるまい、多大の成果をえた。  タイタニアは人類の道徳的代表者ではなかった。彼らは力によって自分たちの権利と利益を守る集団であった。タイタニアの利益をそこなうと思われるものは、容赦なく排除された。星間都市連盟の商船団は襲撃され、掠奪された。帝国においても、反タイタニア派の重臣は暗殺され、追放され、粛清された。  皇帝ハルシャ二世が五〇代半ばで急死したことさえ、裏にタイタニアの手が動いているという噂がある。その噂自体、もともとタイタニアから流されたものであるから、事態のいまわしさは想像を絶する。  タイタニアの強盛と栄華も、後継者の力量しだいでは、永続しえなかったであろう。だが、ネヴィルの息子ヌーリィは、父を凌駕するほどの辣腕家であった。怪物的な印象を他者に与えるネヴィルが、自分の息子を評して、 「あいつはおれの子とも思えぬ。何かもっとべつの存在だ」  と吐きすてたほどである。ネヴィルは女を好み、酒を好み、怒りにまかせて部下を処断した後に悔いを見せるなど、凡人としての一面があったが、ヌーリィは、数字と法律を両手に載《の》せた灰色の実務家であった。内心はともかく、表面はつねに冷静で理性的であり、父親が晩年に犯した誤断や失敗をたくみに処理して、タイタニアの実力と影響力を向上させつづけた。ネヴィルはヌーリィを嫌っていたが、後継者として無視するわけにはいかなかった。星暦二六九年、ネヴィルは七六歳になり、四〇年にわたる家長の座をしりぞいて、ヌーリィを第二代当主の座にすえた。  その後、九年にわたってネヴィルは生存したが、それは失意と孤独の晩年であった。ヌーリィは自己の権力を確立するために、内部粛清の刃をふるい、三人の弟、ふたりの妹婿をすべて殺し、さらに父を補佐してきた幹部三六名のうち二八名までも、口実をもうけて処刑したのである。ネヴィルを半世紀にわたって補佐してきたジャン・フェラールなどは、家族全員を殺された。フェラールはネヴィルに歎願状を送り、せめて幼い孫たちを助命してくれるよう頼んだが、歎願状はヌーリィの手に落ちた。ヌーリィは病床にある父の眼前で、歎願状を引き裂き、フェラールを処刑したことを告げた。老ネヴィルは激怒し、病床から起《た》って息子につかみかかろうとして床に落ち、心身の衝撃で死に至った。  これほど酷虐な所業を、なぜヌーリィが断行したか。その謎は、ほどなく明らかにされた。  老ネヴィルの葬儀もすまぬうちに、ヌーリィの酷虐に反発した人々は、ヌーリィを当主の地位から追うべく策動をはじめた。タイタニア内部の不満分子に、帝国や連盟の要人も加担し、広汎な「反ヌーリィ戦線」が結成された。そして翌年、まさに実際行動をおこそうとした寸前に、ヌーリィの氷刃が一閃《いっせん》したのである。 「一網打尽とは、これを指《さ》していうのだ」  と、ヌーリィは秘書官に語ったというが、この苛烈な粛清によって直接間接に殺された者は六万五〇〇〇人に達した。  内外の敵を血泥の底に沈めつくすと、ヌーリィは文字どおりの独裁者となりおおせた。彼の悪名は魔王にひとしいものとなったが、じつのところ「反ヌーリィ戦線」以外には、まったく手を出そうとしなかったので、意外と一般市民には憎まれなかった。彼の目的は、彼の手による秩序の確立にあったのだ。  ヌーリィには五人の息子がいて、それぞれに一家を成した。  これを「タイタニアの五家族」と呼び、五家族の直系だけがタイタニアの姓を称することができる。そして、家族会議の議長、すなわち一族の長も五家族のなかから選出される。彼は「無地藩王」の地位をえて、一族からは「藩王殿下」と敬称され、絶大な権力を内外にふるうのである。  タイタニアの実力は、ヌーリィによって揺るぎないものとなり、内部制度もととのえられた。そして、三代目シャトレー、四代目ヴァール、五代目バルネフェルトと代を累《かさ》ねるうちに、その権勢と格式は、きわめて安定したものとなり、対抗者を見出すことはできなくなってしまった。 「ひとつの血族が人類と宇宙を支配している。しかも、その血族は形式的には一国の臣下であるにすぎない。その武力は、私兵集団でしかないのに、すべての国軍より強大である。それこそがタイタニアである」  そう語った第三代当主シャトレーは、胸を張って続けた。 「宇宙はタイタニアとともにあり」  一見、何げない発言であるように思われる。だが、じつはこれほど傲然たる覇気をしめす発言も珍しい。「タイタニアは宇宙とともにあり」ではなく、その逆なのだ。彼はまさに、偉大なるネヴィル・タイタニアの孫であった。  さまざまな経緯や現状から、タイタニアは忌《い》まれ、嫌われ、憎まれていたが、もはやタイタニアなくしては宇宙の秩序が成立しえないことも事実であった。  代々のタイタニアの当主は、偉大とまでいえぬにしても充分に有能な人物で、よく一族を統率し、組織を運営して、祖先から受けついだ権勢を維持しつづけた。たとえ一族内部に対立や抗争があるとしても、外にむかって彼らは団結し、共通の利益を守りぬいてきたのである。  彼らは皇帝の称号も宇宙の政治的統一も欲しなかった。彼らが望み、かつ実行したことは、人類社会全体に寄生しつつ、その主要部を支配することであった。ただ、一方で、「無地藩王」の称号を誇りとするように、宇宙空間こそが自分たちの庭である、という自負《じふ》も、たしかに存在したのである。  Tytania。タイタニアン・エイジ、またはパックス・タイタニアンの名によって、その名は歴史上に不朽のものとなった。星暦二二九年が、そのはじまりである。    星暦四四六年、タイタニアの時代は揺るぎなくなおつづいているかに見える。この当時の無地藩王《ラントレス・クランナー》は、八代目の当主アジュマーン・タイタニアである。藩王となって満五年、ちょうど四〇歳になる。銀灰色の髪をした彫刻的な容姿の男で、冷厳にして辣腕なること、第二代当主ヌーリィの再来であるといわれていた。  この年、アジュマーンは、星間都市連盟を構成する有力都市のひとつ、エウリヤ市に対してひとつの要求を突きつけた。エウリヤ市が、海洋惑星開発のため研究をつづけて完成させた最新式の化学式半透膜の技術を、一億ダカールで売るように、との要求である。この技術は、今後三〇年にわたって、毎年二億ダカールの利益をエウリヤにもたらすものと予想されていたから、アジュマーンの要求は、強盗の論理そのものと思われた。エウリヤは要求をはねつけた。だが、タイタニアの要求をはねつければ、ただですむはずもない。  かつて宇宙の大海を支配していた星間都市連盟も、タイタニアの隆盛に反比例して衰退し、二流勢力になりさがっている。それでもなお、タイタニアに対抗する勢力としては無視できなかったし、しばしば反タイタニアの諸勢力を糾合して、その覇権に傷をつけることもあった。ゆえに、エウリヤ市としては、その勢力を背景にタイタニアに抗することができるはずだったが、この一〇年ほど、エウリヤは連盟内の非主流派としてふるまい、拠出金の支払いもとどこおっていたので、エウリヤの救援要請に対して連盟は非好意的であり、総会すら開こうとしなかった。  総会が開かれなければ、連盟艦隊も編成できない。とすれば、エウリヤ市は単独の都市艦隊でタイタニアの侵攻に対処しなくてはならなかった。  エウリヤ市にとっては目がくらむほどの災厄であったが、全人類社会においては、それほど注目されるべきできごとでもなかった。どうせタイタニアが勝つに決まっているのである。そしてこの将来《さき》もタイタニアの時代がつづくのだ。子供にすらわかるような明白な未来が、エウリヤ市の前途には待ち受けているように見えた。 「ケルベロス星域の会戦」に先だつ、これが宇宙の状況であった。 [#改ページ]        第一章 覇王たち            T    星暦四四六年五月一七日。タイタニア一族の会議は、愛情と親和に欠けた雰囲気のなかで開かれた。そのこと自体に、何ら不思議はない。タイタニアには団結はあっても愛情はない、というのが、一般に知られる事実であった。愛情や親和などを同族に対して要求するほど、柔弱《にゅうじゃく》な彼らでもなかった。柔弱さはタイタニア内部においてもっとも忌避される欠陥であった。黒檀《こくたん》の会議用テーブルについた四人の男は、グレーと黄金の軍服にグレーのハーフコートをまとい、グレーの軍帽をテーブル上に置いている。左胸の階級章だけが赤色|矮星《わいせい》のように燃える色彩をしめしていた。  四人とも、タイタニアの姓を持つ人物であった。すなわち、五家族の当主たちである。この場に不在の五人めは、第八代|無地藩王《ラントレス・クランナー》アジュマーンであった。四人とも若い。三〇歳に達した者はひとりもいなかった。タイタニアのなかのタイタニア、貴ぶべき血の濃さと権勢を身にそなえた、宇宙の覇王の一族である。  二七歳のアリアバート・タイタニアは美男子だったが、その端麗な顔だちは、不思議と、人々に強い印象を与えなかった。「無名の彫刻家が富豪の令夫人に媚《こ》びて造形したような顔だ」と、彼の父親が称したことがある。「アリアバート? ああ、美男子だね」と言って、それですんでしまうような、個性にとぼしい一面があった。型にはまりすぎていた、という表現もできるであろう。白っぽい光沢をおびた金髪、青灰色の瞳、均整のとれた長身の彼は、この日、やや青ざめ、意気消沈しているように見えた。  これに対して、やはり二七歳のジュスラン・タイタニアは、アリアバートに比べれば平凡な顔だちであり、体格にも特筆すべき点はなかった。ただ、髪の色と同じ褐色の瞳が、奇妙に奥深い光彩をたたえており、それがまことに印象的であるため、アリアバートより美男子に思われることすらあった。会議の席に着くと、右手を膝《ひざ》の上に載《の》せ、左手をテーブル上に置いて、音をたてぬ範囲で指をタップさせる癖があった。それは彼の脳細胞が活動するリズムに呼応した動作であるといわれていた。彼はアリアバートの従兄弟ということになっていたが、じつのところ、より複雑でうっとうしい血族関係にある。  ザーリッシュ・タイタニアは、風格と迫力をそなえた雄偉《ゆうい》な容姿の男で、硬《こわ》い顎《あご》ひげなど生やしているので、アリアバートやジュスランより年長に見える。だがそれは成功したよそおいのなせる業《わざ》であって、彼ら両名より一歳の年少であった。眼光も口もとも力強く、脆弱《ぜいじゃく》さとは無縁に見える。外見だけなら、いますぐにもタイタニアの盟主となれる要素を持っている。ジュスランより五割ほど直径の大きな腕を、厚い胸の前で組んでいた。  イドリス・タイタニアは、四人のうちの最年少で、二四歳を迎えたばかりである。顔だちからいえば、アリアバートを凌駕《りょうが》するほどの美貌の貴公子だが、全体にややとげとげしい印象を禁じえないのは、鋭気と烈気が人格全体の調和を破って突出する傾向にあるからであろうか。彼は自分が五家族当主の最年少であることを、必要以上に意識しており、自分がないがしろにされることに耐えられなかった。それを克服する方法はふたつある。ひとつは自分を向上させることであり、いまひとつは他者を引きずりおろすことであった。たとえば、この日の場合のようにである。 「アリアバート卿は顔色がよくないな。何か心配ごとがおありか」  イドリスの声に、アリアバートの眉が半瞬、うごめいたように見えるが、彼は無言であった。 「悪くもなろうさ。アリアバート卿は、タイタニア藩王家|開闢《かいびゃく》以来の偉業をなしとげたのだ。何と、たかが一個都市艦隊に惨敗するという偉業をな」  そう応じたザーリッシュの声は、太く重々しく、この場合当然ながら嘲弄《ちょうろう》のひびきをふくんでいる。アリアバートの形のいい耳が赤くなるのを、やや皮肉っぽい視線でながめやって、ジュスランはひとり無言であった。アリアバートにとっては、他のふたりの大声よりも、ジュスランの無言のほうに、意識せざるをえないものをおぼえたようである。不快げな舌打ちをひとつすると、呼吸をととのえ、右隣に座したジュスランのほうへ、上半身ごと向きなおった。 「なぜ平然としていられるのだ。われわれタイタニアが栄光を害《そこな》われ、鼎《かなえ》の軽重を問われようとしているというのに」 「われわれ?」  わざとらしく問い返したジュスランの両眼には、おだやかな苦笑の波が小さく揺れていた。 「われわれではない。君だ。敗れたのは君個人だ、アリアバート。単数形を使うのだな。タイタニアは不敗だ。君の敗北は、タイタニアの敗北ではない」  ジュスランの主張は、巧妙に、アリアバートの傷口を突いた。アリアバートの端麗な顔だちに、酸と塩の味が広がった。  ザーリッシュ・タイタニアは、雄大な体躯をゆるがせるように笑った。イドリス・タイタニアは、辛辣《しんらつ》にゆがめた唇から、ゆがめた笑声を鋭く吐き出した。彼らに笑いを提供した当のジュスラン・タイタニアは、おもしろくもなさそうな表情で、グレーの軍帽に視線を落としている。自分自身の行為と、その結果と、双方を、くだらないものと思っているようであった。彼はタイタニアであり、その事実をことさら誇りとも考えていない点で、唯一のタイタニアであった。  何か言いかけたアリアバートの表情が、畏敬と緊張の単彩色に塗りつぶされた。厚いマホガニーの扉に向けられた視線が、五人めの人影をとらえたのである。 「藩王殿下……」  四人の青年は椅子を鳴らさぬよう留意しつつ立ちあがり、一族の盟主に対してうやうやしく礼をほどこした。背筋をのばし、右の拳を左の肩口にあてるのが、タイタニア式の敬礼であった。  銀髪の無地藩王《ラントレス・クランナー》アジュマーン・タイタニアは、見るからに宇宙の覇王たる風格と威厳を両肩にただよわせ、何らの努力も必要としない態度で、最上席についた。  この四年ほどの間に、タイタニア五家族の家長たちは相次いで代がわりし、藩王たるアジュマーンを除く四人は、いずれも二〇代であった。逆にいえば、四人の父親が健在であったとき、アジュマーンは五家族当主たちの最年少者であって、年長者たちから完全な信頼と畏敬の念を受けていたわけではない。年長者たちを統御《とうぎょ》し威圧するため、銀髪のアジュマーンは、すくなからぬ労苦を強《し》いられたはずだが、それも長い時間を必要とはしなかった。タイタニア首脳部の世代交替が、あまりにも連続して、あまりにもあざやかにおこなわれたため、神ならざる者の手が闇に蠢《うごめ》いたことを疑う者が多かった。今日に至るまでのタイタニアの歴史が、人々の想像力を刺激したのである。だが、事の真疑が公にされることは、タイタニアの覇権あるかぎり、けっしてないであろう。  最上席に座した藩王アジュマーンが、第一の合図をすると、四人の青年貴族は、敬礼を解いて着席した。「みな元気で何よりだ」という類の挨拶は、タイタニアの家風にはないものである。第二の合図をすると、彼の正面の壁に、矩形《くけい》の白い光が浮かび、画面となった。  画面に映し出されたのは、ひとりの青年の肖像であった。年齢はアリアバートやジュスランと同年輩であろう。やや細面で、にんじん色の頭髪に豹皮模様のネッカチーフをバンダナ風に巻きつけている。黒い薄地のタートルネック・セーターと、セピア色の軍服。星間都市連盟に共通する軍服は、右胸に記された番号によって、所属する都市をあらわす。〇一七七は、すなわち、エウリヤ市の市民であることを表明するのだった。 「軟弱そうな男ですな」  そう意見を述べたのは、ザーリッシュ・タイタニアであった。苦笑未満の雰囲気が、座にただよった。 「その軟弱そうな青二才に、タイタニアが敗北を喫したのだ。ついでにいえば、この男は二八歳で、諸卿の誰よりも年長だ」  無地藩王アジュマーンは、さりげなく、過小評価の愚をいましめた。「敗北」の語に、アリアバートの頬がわずかに青白んだ。思わず、抗弁しようとしたアリアバートを、無地藩王は視線で制し、さとす言葉をつづけた。 「アリアバート卿よ、敗れたのは是非《ぜひ》もない。戦いに勝敗はつきもののこと。だが敗北を直視する勇気だけは捨ててほしくないものだな」 「胆に銘じます、藩王殿下」  身をすくめるような、アリアバートの反応であった。藩王の前で激発することは、タイタニアの禁忌であった。歴代の藩王に、それぞれの特徴があるにせよ、最小限度の儀礼は、順守されねばならなかった。激情からの非礼によって、自らを失脚させた者は数知れずいるのである。        U    この年四月、「ケルベロス星域の会戦」においてタイタニア軍司令官をつとめたのは、アリアバート・タイタニア公爵であった。たかが一都市艦隊を相手にするとは思えないほどの兵力を、彼は用意した。  基本的な戦略構想は、けっしてまちがってはいなかった。地球古代史をひもといてみても、エドワード黒太子とかワレンシュタインとかいう軍事指導者たちは、大兵力を集め、編成し、組織し、補給をととのえ、その兵力を正攻法で運用することによって勝利をえたのである。ワレンシュタインは西暦一七世紀前半に一〇万ないし二〇万の兵力を動員する能力を持っていたが、この当時のドイツに、人口四万をこす都市は存在しなかったのである。  タイタニアは、まず艦隊の質と量によって敵を圧倒した。武力を所有する目的の第一が、威嚇《いかく》による抑止効果であることを、タイタニアはわきまえていた。艦艇の速度と火力、乗員の練度、首脳部の運用および指揮能力。ハードウェアとソフトウェアの双方において、タイタニアは他を遠く引き離していたのだ。  そして、その優勢が維持されているかぎり、タイタニアの敗北はありえないことであった。  アリアバート自身、一五歳で初陣し、二五歳にしてヴァルダナ帝国軍中将の地位につき、先年、上将に昇進した。三〇歳で大将の地位は確実であるように思われた。タイタニア五家族の当主としては、まず順当な栄達ぶりであった。ちなみに、五家族の当主は帝国公爵であり、貴族院議員であり、免税特権と不逮捕特権を持つ。タイタニアは、ヴァルダナ帝国内の隠然たる独立国家であり、その私兵は帝国軍の最精鋭であった。  アリアバート・タイタニアは、充分な準備の後に、堂々と兵を動かした。「完全武装のハイキング」というのが、アリアバート自身の言明するところであって、彼は完勝の自負をいだいていたのだ。これを油断というのは酷であろう。エウリヤ都市艦隊の司令官に任じられたファン・ヒューリックという男は、誰も想像しなかったような戦法で、タイタニアの無敵艦隊をたたきのめしたのだ。奇術の種は、ワイゲルト砲の運用であった。  ワイゲルト砲の名は、その開発者に由来する。それは一種の電磁カタパルトであるのだが、反復使用はむずかしく、一回きり使いすての兵器である。非磁性体の弾丸の後部に透電性金属をコーティングし、大量の電流を流すことによってそれを瞬間的に蒸発させる。するとそこに膨張する磁場がつくられるわけだが、加速器内にそれと反対方向の磁場をつくっている金属の軌道《レール》を、強力な火薬の爆発によって、これまた瞬間的に左右から押しつぶす。こうして相反するふたつの磁場は、二本のバネをそれぞれ反対方向から押しあうように激しく圧縮され、おそるべき速度で弾丸を発射することになる。  標準的なワイゲルト砲の砲身の長さは一〇メートル、砲の口径は四六・五センチ、巨大なウラン238弾を秒速一五〇キロ、時速五四万キロの速度で撃ち出す。防御はほとんど不可能で、一弾にして戦艦を完全破壊することすらできる。ただし、その発射エネルギーの反動によって、砲身も再使用不可能の状態におちいってしまうので、極端にいえば使いすてにするしかない一撃必殺の兵器である。  砲戦が最終段階に達したとき、敵にとどめを刺すか、窮地から起死回生の逆転をねらうか、どちらかの場合でなくては、まず使用する機会も意義もない。巧妙な用兵家であれば、ワイゲルト砲を使用せずして、その前の段階で勝利を確実なものとする。ワイゲルト砲は、砲身のみならず、ときとして砲座や、さらには搭載された艦そのものをすら損傷させることがあり、いわば伝家の宝刀であって、使えばよいというものではなかった。  それをファン・ヒューリックは多量に使用したのだ。ただ一門のワイゲルト砲を搭載した小型のガンボートを、六〇〇隻、あるいは建造し、あるいは中古品を買い集めて、とにかく数をそろえた。そして、堂々たる布陣で侵攻してきたタイタニアに対し、擬態をくりかえした上で、接近砲戦をいどんだのだ。そしてその結果、ファン・ヒューリックは、六〇〇隻の小型ガンボートと引きかえに、一一九隻の戦艦、四四隻の宇宙空母、八〇隻の揚陸艦、一〇六隻の巡航艦、一四七隻のフリゲート艦、一〇四隻の輸送艦を完全破壊してしまったのである。  ワイゲルト砲どころか、それを搭載した艦艇まで、最初から使いすてるつもりだったのだ。発射と同時に、ガンボートは半ば分解されてしまい、あらかじめ気密服を着こんだ搭乗員は、カプセルで脱出する。六〇〇隻の搭乗員総数は七二〇〇名。タイタニア軍の一パーセントにも満たぬ少数であった。そして、この七二〇〇名のうち、戦死、事故死、捕虜、行方不明などの未帰還者は、一〇〇人に達しなかったのである。タイタニア軍の未帰還者は一〇万をこえた。司令官アリアバート・タイタニアの衝撃は大きく、ザーリッシュやイドリスは同族の失点を歓迎しつつも、彼の立場に自分たちが置かれたときのことを想像して、心の一隅に冬をかかえこんだのであった。 「ファン・ヒューリックか。なかなかに興味深い人物のように私には思われるが、諸卿の意見はどうか」  アジュマーンの声に応じて、イドリスが片手を肩の高さにあげ、発言を求めた。 「藩王殿下、ファン・ヒューリックなる人物については、このイドリスが、いささかは調査をほどこしております」  申し出た最年少者に、八本の視線が集中した。イドリスはグレーの軍服につつまれた胸をわずかにそらし、無地藩王を見返した。無言でアジュマーンがうなずくと、イドリスは席から立ちあがって語りはじめた。 「アリアバート卿が未熟にして軽率であったとはいえ、ファン・ヒューリックなる男が、タイタニア軍の横面《よこづら》を張りとばしたことは、残念な事実であります」  その言葉を耳にして、敗将たるアリアバートが憎悪の念を視線にこめた。承知の上である。イドリスは平然たるものであった。 「このような男を無視し放置しておくことは、タイタニアのためになりませぬ。エウリヤごとき弱小都市、優秀な軍才を養うには狭すぎますれば、われらタイタニアは旧怨《きゅうえん》をすて、ファン・ヒューリックを陣営に迎えるか、あるいは逆に抹殺すべきかと存じます」 「イドリス卿はどちらを望む?」 「藩王殿下の御意のままに」  ごく自然に阿諛《あゆ》しておいて、イドリスは、自分の意見をそれにつづけた。 「ですが殿下のお許しをえて私見を述べさせていただけるのであれば、まず使者を派して帰順を呼びかけ、それに応じれば厚遇をもって迎え、応ぜざるときは非礼を罰してやるべきかと存じます。タイタニアは人材を重んじること、然《しか》して他者の増長と非礼を容赦せざること、いずれにせよ明確にしておく必要がございましょう」  そしてイドリスは、彼自身が調査した敵将の人物像を語りはじめた。  ファン・ヒューリックは高名な軍人ではなかった。それどころか、本来は軍人ですらなかった。二〇歳のときエウリヤの商船大学を卒業し、客船勤務の事務員になって、雑用に追いまくられる一年をすごした。ついでカフィール商館の事務員になって、雑用に追いまわされる二年をすごした。さらに貨物船団の事務員になって、雑用に追いかけられる一年をすごし、その後タイタニアの戦艦に拿捕《だほ》されて一年を収容所ですごした。ようやく帰国したとき、すでに彼は二五歳で、芽が出るどころか、単に食べるだけの職業すら持たなかった。恋人らしき女性もいたが、ファン・ヒューリックが収容所で、スープの実がすくないことを歎いている間に、より前途有望な相手と結婚してしまっていた。自分は不運と仲がよいのだ、と思いこんだファン・ヒューリックは、都市艦隊への入隊を申請《しんせい》した。けしからぬことに、準備金だけ受けとって逃げ出すつもりだったのだが、期日をまちがえ、酒場で知りあった女のアパートで寝ていたところを軍警《MP》に踏みこまれて入営させられてしまった。入隊後、砲術士官として天賦《てんぶ》の才にめぐまれていることが判明し、短時日に昇進をとげたのである……。 「よく調べた、イドリス卿」  藩王アジュマーンの鷹揚《おうよう》な賞賛を受け、面目をほどこしたイドリスは、敬礼をした後に着席した。アリアバートとザーリッシュが、それぞれの表情でイドリスをながめやる。ジュスランはかるく両眼を閉じ、何やら自己の内宇宙と語りあうかのように見えた。この男だけは、イドリスの心理的洞察を受けつけぬことが多く、タイタニアの最年少者をいらだたせることが、しばしばである。 「イドリス卿でも知らぬ事実が、ここにある」  その声が、無地藩王アジュマーンの口から流れ出た。 「すでにファン・ヒューリックは母都市から追放されておる。罪もて功に報われたわけだが、理由がわかるかな」  一瞬の沈黙をおいて、ザーリッシュが、力強い頸《くび》すじをわずかにかしげた。 「エウリヤの市民ども、藩王殿下のご雷威《らいい》をおそれ、自らの手で功労者を葬り去ったという次第でございますかな」 「それもある。だが、それだけではない」  薄い笑いが、無地藩王の口もとにちらついた。白い歯が、刃のように光ると、アリアバート、ザーリッシュ、イドリスの三人は鋭い戦慄の波を神経網に走らせた。銀髪の覇王は、態度おだやかだが、それは冷厳の冬にも小春びよりがあるというだけのことである。それを彼らは熟知していた。 「諸卿、考えてもみよ。エウリヤはなぜ無名無経験の将をして、わがタイタニアに抗戦せしめたのか。ファン・ヒューリックの異才を期待してのこととすれば、この結果は首肯《しゅこう》できまい。どう見るべきだと思うか」  藩王の声が耳にとどくと、ようやく目を開いたジュスラン・タイタニアが思慮深げな瞳を向けた。 「もしや藩王殿下、エウリヤは最初から負けるつもりで無名の将を登用したと?」 「ジュスラン卿はよく見た、そのとおりだ」  アジュマーンはうなずき、教師のようなものいいをした。 「エウリヤも姑息《こそく》な手段に出たものよ。裏面でわがタイタニアに融和を求めつつ、連盟都市としての面子《めんつ》を保たねばならなかったのだ。一戦して予定どおり負け、急巡派の暴走としてかたづけるつもりであったのだが……」 「すると、失礼ながら、藩王殿下は、エウリヤとの間に、すでに約定を成立させておいでだったのですか」  ジュスラン・タイタニアの表情も声もさりげなかったが、列座の者を静電気の見えざる手でなでたかのような効果を生んだ。もっとも傷つけられた表情をつくったのは、敗将となったアリアバートである。自分が悲劇の敗将となるどころか、まかりまちがえば三文喜劇の脇役になりさがる可能性を思ったのであった。 「タイタニアは流血を恐れぬ。だが無益な流血も好まぬ。目的が達成され、相手との共存関係が確立されれば、それで充分だ。そうではないか?」  無地藩王アジュマーンは、ジュスランの問いを肯定したのである。つまりケルベロス会戦は最初から仕組まれた演劇であった。秘かな折衝がおこなわれ、化学式半透膜の買収費用を三倍とし、さらにタイタニアが得る使用料の一割をエウリヤに還元するということで談合がまとまったのである。エウリヤ内の不満分子を抑えるためには、形だけの一戦をまじえなくてはならず、エウリヤとしては、負けるつもりで少数の部隊を出撃させたのであった。指揮官も無名の者を選び、負けて逃げ出す様式美の演出も怠《おこた》りなかったのに、政略というものを知らぬ(と思われる)指揮官が、何と勝ってしまったのである。エウリヤとしては、あわてふためく道理であった。  そのような事情が明らかにされ、ファン・ヒューリックをタイタニアに招くことが決定された。さらに二、三の議題が事務的に処理されて、会議が終わったのは、三〇分後である。 「それでは今日の会議はこれで終わる。諸卿、ご苦労であった」  そのような通常の挨拶《あいさつ》は、タイタニアにはない。無言のうちに、無地藩王アジュマーン・タイタニアは席から立ちあがり、たくましい長身をひるがえして会議室を出ていった。それを見送って、四人の若い公爵はなぜともなく息をついた。        V    宇宙港へとむかう走路の上で、アリアバートとジュスランの両タイタニアは、肩を並べていた。アリアバートがしきりに口を開閉させ、ジュスランは黙って従兄弟の声をきいている。やはりアリアバートは、自分がケルベロス会戦で押しつけられた役割に、満足できなかったのである。そのうち、無反応に近いジュスランの態度にいらだったのか、わずかに声を高めた。 「どうだ、それともジュスラン卿なら、あのばかばかしい戦いに勝てたとでもいうのか」 「そう主張しているように見えるか?」  はじめて切り返したジュスランは、やや放心して、無意識の淵をただよっているかに見えたのだが、むしろ自分自身の声で現実に立ちもどったようであった。 「そうはいわぬ。だが、ジュスラン卿ならおれにできぬことができるかもしれぬと思ってな」 「アリアバート卿は敗北から学べばよい。おれから学ぶことなど何もなかろう。先刻、会議がはじまる前に心ないことを口にしたのは、おれの軽率さだ。赦してくれればありがたい」 「うむ……」  やや不完全燃焼の表情で、それでもアリアバートはうなずかざるをえなかった。 「では|天の城《ウラニボルグ》で会おう。それまで失礼する」  さりげなく片手をあげて、ジュスランが踵《きびす》を返すと、アリアバートもそれに倣《なら》い、自分の宇宙船が待つ方角へと歩き去った。  タイタニアの宇宙基地トリールWの貴賓室の窓から、藩王アジュマーンは、四人の宇宙船がつぎつぎと暗黒の虚空へ舞いあがるさまをながめやっていた。コーヒーを運んできた初老の家令が、うやうやしく藩王の広い背中に声をかける。 「アリアバート卿は、いささか不本意でいらしたようでございますな」 「不本意ではあろうな。だが、それを根に持つようでは、アリアバート自身のためにならぬ」  総帥たる無地藩王の意思こそが、タイタニアの正義である。たとえ不本意であれ、不満であれ、藩王の意には従わなくてはならぬ。生まれて以来、タイタニアの血を引く者、タイタニアの姓を称する者、骨までひとつの価値観をたたきこまれている。藩王たる族長は至尊にして不可侵であること。タイタニアの利益こそが、宇宙の全存在に優先する至上命題であること。アジュマーン自身、ものごころついて以来、そう教育されてきた。不満や不平を持つなとはいわぬ。だがそれを表わすことは、大いなる罪である。 「オブノールよ、四人の公爵たちを見てどう思う? 遠慮なく申してみよ、誰が藩王として一族に長たるの器を持つと思うか」 「私めの見るところ、ジュスラン卿などは、総帥たる器量をそなえておいでかと思われますが」 「私もそう考えておる。だが、意外や、そう見せかける才能に富んでおるだけのことかもしれぬ」 「慎重でいらっしゃいますな」 「猜疑《さいぎ》深いというべきかもしれんぞ」  アジュマーンは薄く笑って、自らを批評するようなことを口にした。藩王を貶《へん》することができるのは、藩王自身のみである。家令はうやうやしく低頭しただけで、同調も否定も避けた。藩王アジュマーンは、家令の微妙な反応に留意せず、彼自身の思惟《しい》を追った。  四人とも無能ではない。経験にとぼしく、年齢の限界はあるが、才幹も勇気もそなえており、部下を統御することもできる。経験を積《つ》み、よき補佐役をそろえ、一族の団結が得られれば、過去の藩王《クランナー》たちに見劣りせぬだけの治績《ちせき》を遺しえるであろう。  だが、まだまだタイタニアの総帥《そうすい》たる器量をそなえているとはいえぬ。ジュスランがもっとも優れているかに思えるが、彼に対してアジュマーンは奇妙に不透明なものを感じていた。暴虐とか愚昧《ぐまい》とか異常とかいうことではない。ジュスランの明哲《めいてつ》さが、タイタニアの過去と現在のありように対して、批判的な方向にむかっているのではあるまいか。理由や根拠があってそう思うわけではない。むしろこれは、アジュマーンがジュスランを高く評価していることと分かちえざる点であった。有能な人間が、現状に対する批判的認識を欠くことはありえないからである。アジュマーン自身、二〇代はそうであった。  何も異常事態が発生しなければ、アジュマーンはあと三、四〇年は無地藩王の地位を守りぬくだろう。四〇年後にはジュスランもアリアバートも老境にはいっている。アジュマーンの長男テオフィルス・タイタニアは現在六歳、四〇年後には堂々たる壮年である。アジュマーンの座は、息子であるテオフィルスが占めるところとなるであろう。だが、テオフィルスの器量才幹が、一族中の他者におよばぬとすれば、息子の後継にこだわることは、タイタニアにとって益とならぬ。そのことを充分にアジュマーンはわきまえていた。タイタニアの長たる者の、それが義務であった。    室内の照明は明度が抑えられ、透過壁の彼方に群星のきらめきが青白くたゆたっている。宇宙船はヴァルダナ帝国の首都、惑星リュテッヒへ向かっていた。八〇光年、二日間の船旅である。タイタニアにとっては、裏庭の散歩ていどにしか値しない。  ジュスラン・タイタニアは、ソファーに脚を組んで座し、透過壁の彼方に視線を放っていたが、その角度を変えてサロンの一隅を見やった。 「フランシア」 「はい、ジュスランさま」 「タイタニアは強大で誇り高い」 「ええ、おっしゃるとおりです」 「ふむ、だがな、何のための強大さであり、何のための誇り高さだろう。ときどき、おれは訝《いぶか》しく思う」  苦笑ぎみに、ジュスランは、星の湖水をながめやった。その瞳は底深く、蒼然《そうぜん》たるほどの知性の閲歴《えつれき》を秘めているように思われる。主人に話しかけられた小間使《こまづかい》の少女は、黒っぽい髪の下の白い頬をわずかに紅潮させながら、つくったばかりのサングリアに氷を落とした。氷とグラスが触れあって、珠玉があいうつようなひびきを鼓膜にとどかせる。 「でもタイタニア一族は歴史の発展に貢献してまいりましたわ」  この一八歳のうら若い娘も、タイタニア一族の列につらなる者であった。 「タイタニアはタイタニアにしか貢献しない」  短く明晰なジュスランの返答だった。一瞬、沈黙の泡が室内をただよい、天井付近ではじけた。 「それがいかんというわけではない。タイタニアはタイタニア以外の者にできないことをやってきたし、これからもそうだろう。だが、それが何だというのだ?」  ジュスランは褐色の髪をかきあげた。  タイタニアが存在せねば、タイタニアぬきの歴史がつくられるだけだ。タイタニアがなくとも、人類は困らない。その事実に、人類の何割かが気づけば、タイタニアの権勢と栄華など、海辺に築かれた砂の城と同じ末路をたどるであろう。自分はタイタニアに向かない男だ。その自分が選《よ》りによってタイタニア五家族のなかに生まれたのは、造物主の悪意か過誤によるものとしか思えない。そう思いつつ、その悪意から脱しえぬ自分を、ジュスランは知っている。  宇宙を支配し、権勢をほしいままにしてはいても、タイタニアは異端派である。そのなかにあって、ジュスランは、さらに異端者であった。この賢明な異端者は、少年のころからそれを自覚し、注意深く自分の正体を隠してきた。異常なまでに誇り高いタイタニアの血族は、自分たちの存在意義に懐疑的な者を赦さないこと、明白であったからである。  一六歳のときから、ジュスランは、軍事と行政に有能ながら病弱であった父親を助けて、艦隊を指揮した。年齢に似ぬ冷静さ、視野の広さを、父から、また先代の藩王《クランナー》から賞賛された。彼自身にその意思はなくとも、同年代のアリアバート、ザーリッシュ、イドリスらと競いあう立場にあることは、彼にとってどう変えようもない境遇だった。まだ藩王とならぬ、若い日のアジュマーンに肩をたたかれ、「私が藩王になったときには、補佐してもらいたい」と笑いつつ言われたことも、はっきりと記憶に刻印されている。タイタニア。一〇万隻の艦艇。三〇万隻の武装商船《キャラック》。人界における最大の権勢。それを維持するのは、非タイタニア勢力の統一を阻止する巧妙な策略と、徹底した各個撃破策による武力の相対的優越である。 「おれに予言の能力があると思うか、フランシア?」  不意に問われて、少女はかるく目を見張った。冷たいサングリアを満たした銀杯を、主人にむけて差し出しつつ、低く答える。 「ジュスランさまがそうおっしゃるのなら信じます」  銀杯を受けとって、ジュスランはつぶやく。 「では憶《おぼ》えておいてくれ。タイタニアは、いつか必ずこのジュスランを頼りにすることになるだろう。ただし、それはタイタニアがもっとも不幸な状況にあるときだ。だから、おれの出番がないほうが、タイタニアのためだろうよ」  銀杯の冷たさが唇に心地よかった。  タイタニアの歴史は、流血と黄金に彩られる。その表層を剥《は》がせば、陰謀と奸計の色があらわれる。かぎりない暗黒。自分たちの足もとに開く深淵の存在を、ジュスランは忘れたことはない。自分の認識を、ジュスランは誇りにはしなかった。アリアバート、ザーリッシュ、イドリスらに比して、自分の精神的な姿勢は退嬰《たいえい》的なのだろうと思う。彼ら三人のうち誰かが、タイタニアの総帥となればよいのだ。  そう考えつつ、一方で、奇怪なほど強い確信が、ジュスランの心に根を生《は》やしていた。誰かが気づくだろう。かつて宇宙にタイタニアは存在しなかった。その事実に思いあたり、「タイタニアなき宇宙」を構想する者が、かならず出てくるにちがいない、と。        W    ヴァルダナ帝国は、九〇の太陽系にまたがって一四八の有人惑星を支配する。全人口は男女六〇〇億を算《かぞ》え、領域、人口ともに人類社会で最大を占《し》める。建国以来一八代三八八年、その歴史もアングルトゥル王国についで古いものがあり、一口にいって大国としてゆるぎない存在である。ただし表面と並立して、裏面の事実がある。実態において、ヴァルダナは、タイタニアの本拠所在地であるにすぎない。財力にせよ、軍事力にせよ、科学技術力にせよ、タイタニアという要素を除外すれば、ヴァルダナの国力は二流の数値しか示さなくなるのだ。 「タイタニアがヴァルダナを選んだのだ。その逆ではない」  タイタニアの通弊《つうへい》は、豪語癖にある。初代のネヴィル以来、伝統といってよいほどだが、これもまたその一例であった。聞く者がどう感じるか、ということに思いあたらぬ。何しろ、「敗れた敵の歎きは耳に快い」などと言ってのける傲然たる気概こそが、タイタニアの身上である。弱気なタイタニアなど、人界において存在しない。ひとたび気力においてほころびを生じたとき、タイタニアの優越は音もなく瓦解し、宇宙の塵と化すであろう。 「惰弱《だじゃく》よりは残忍のほうがまさる」。その一言は、すぐにも証明される機会を持つことになる。    この年五月二七日、ヴァルダナ帝国の歴史上、無視できない事件がおこった。  本来は、慶賀《けいが》すべき日であった。皇帝ハルシャ六世の三五回めの誕生日であって、帝国領の各惑星、さらに他国から、使節が宮廷をおとずれる。ヴァルダナの首都、惑星リュテッヒはにぎわいに満ち、皇宮たる水晶宮《パヴィエーヌ》は着かざった人の波に埋めつくされた。  ヴァルダナ帝国の軍服は、くすんだオレンジ色である。そのオレンジの海の各処に、グレーの島がいくつか浮かんでいるのは、むろんタイタニアの軍装であった。この選別性こそが、ヴァルダナにおけるタイタニアの存在を、幼児の目にすら明らかにするのである。  最大の島には、タイタニア五家族の当主が顔をそろえていた。アリアバート、ジュスラン、ザーリッシュ、イドリス、そして無地藩王アジュマーン。いかに彼らでも、このような時と場所では、臣下としての儀礼を順守し、立って皇帝を迎えることになる。  無地藩王《ラントレス・クランナー》という称号は、字義のとおり、皇帝から封土を与えられていない点に由来する。むろんタイタニア所有の土地や荘園は数多くあるが、「藩王国」とか「藩王領」といったものは存在しない。  タイタニアの収入源は、自ら営《いとな》む航宙、通商、警備、惑星開発などの諸産業と、そして通行税である。ことに最後のものこそ、タイタニアの権勢を証明し、かつ保証するものであった。宇宙は無主の自由な空間ではなく、タイタニアの庭であった。そう見れば、「無地《ラントレス》」という称号があらわす意味の大きさがわかるというものである。タイタニアに大地は必要ないのだ。  タイタニアはヴァルダナ皇帝に対して臣下の礼をとるが、これは形式の次元で終結してしまうことである。形式など、タイタニアにはどうでもよいことであった。 「ハルシャ二世陛下が、そもそもお甘すぎたのだ。最初にタイタニアめの頭《ず》を抑えつけておけば、こうまで奴らの跋扈《ばっこ》を許すことはなかったものを」  ヴァルダナ帝国の廷臣たちは、秘《ひそ》かに歎く。彼らにしてみれば、もっともな歎きであるのだが、要するにそれは自分たちの無力を再確認するなさけない作業でしかなかった。彼らの先人たちはタイタニアの専横に抗し、第二代のヌーリィ・タイタニアに粛清の血杯をあおがせたのである。だが今や彼らはタイタニアの鎖につながれた身であり、口先で、しかも当の相手には聴こえぬよう、おびえつつ悪口をささやきあうしか許されない身であった。  帝国大元帥のきらびやかな軍装に身を固めた皇帝ハルシャ六世が階《きざはし》の上に姿をあらわした。文官用儀礼服をまとった宰相サロモンが、三歩おくれて皇帝にしたがう。六〇代半ばの、痩身で半白髪の男だ。  空虚な儀礼にみちた時間が流れ、やがてアジュマーンは階の直下に立って、皇帝に、惑星イギプテンの黒真珠を献上した。 「皇帝陛下に対したてまつり、われらタイタニアよりの、ささやかな贈物でございます。忠誠の証《あかし》、ご受頷いただければ幸甚に存じます」 「うむ、藩王のご好意、遠慮するも非礼なれば、ありがたくいただいておこう」  およそ個性に欠けるような返答だが、皇帝としてはこれで精いっぱいなのである。  これらは文字どおり、ご機嫌うかがいの品であって、礼儀作法に付属するだけのものでしかなかった。そのことを皇帝は熟知している。アジュマーンより五歳年少の皇帝だが、むしろ彼のほうが年長に見えた。風格があるのではなく、精彩に欠けているのだ。 「じつは、いまひとつ、より実質的な贈物を陛下に献上したいと存じまして、用意いたしてまいりました」 「ほう、それは何であろう」 「帝国一〇〇年の安泰でございます」  そういうと、アジュマーンは、イドリス・タイタニアに声をかけた。若い美貌の公爵が、それに応じて一歩すすみ出ると、彼の直属の部下たちもすすみ出て、階に近づいた。階の上で、皇帝が息をのむ気配がした。タイタニアの特権のひとつは、宮廷内における武器の携帯《けいたい》にある。光線銃ではなく、火薬式の重々しい拳銃が一六丁、ベルトから引きぬかれ、一六の銃口が宰相サロモンに集中した。  連鎖する銃声が広間を埋めつくした。  発射された銃弾は九四発。そのうち八一発が宰相の身体に命中し、三三発が貫通、四八発が体内にとどまった。一一四の銃創から血を噴き出して、宰相は倒れた。彼自身の体内にあった血が、床の上で彼を抱きとめた。  硝煙と呆然自失が一段落すると、皇帝は声と身体を激しく慄わせた。 「これは何としたことだ、無地藩王《ラントレス・クランナー》よ、そなたはわが宰相を害したのだぞ」 「帝国と皇帝陛下のおんために、不肖《ふしょう》ながら国賊を誅《ちゅう》してさしあげました。いささか詩的とは申しかねる仕儀《しぎ》ながら、帝国の安泰、この上ない贈物と存じます」  蒼白な皇帝に、アジュマーンは、平然と説明した。ヴァルダナ帝国とタイタニアとは、離れて存在しえざる双生児のごとき存在。それをこの宰相サロモンは、自己が権勢を掌中《しょうちゅう》にせんとの利己心に駆られ、両者の間を裂こうとした。証人と証拠により罪状が明白であったため、これを誅したのである、と。 「だが、だがそれなら令状を発して逮捕し、起訴して裁判にかければよいではないか。いきなり射殺するなど、法と秩序を軽んじ……いや、藩王らしからぬ短気ではないのか」 「有罪と知れている者を起訴して裁判に持ちこむなど、時間と経費の浪費でございます」  無慈悲なまでに明晰なアジュマーンの一言は、皇帝の勇気を音もなく粉砕した。皇帝は玉座にくずれこんだ。古ぼけて変色した絵具で描かれた肖像画のように、色あせ、力つきた印象であった。 「藩王の申しよう、よくわかった。サロモンは罪に服したのじゃ。だが、わが帝国の柱石《ちゅうせき》たる宰相の座が空《くう》となったことは、残念な事実。何者をもってこの重任にすえるか、藩王には予に対し有益な進言をしてくれるものと信じるが、どうであろう」 「それでは申しあげます。クレアルコス侯爵こそ、宰相の座にふさわしい方と存じます」  クレアルコスは、タイタニアの息がかかった男であり、ハルシャ六世もそのことを承知していた。だが、それを理由に新宰相の人事をしりぞけることは、皇帝自身の身命の危険を意味した。  タイタニアの意思は明白すぎるほどであった。先日、ケルベロス星域で弱敵エウリヤのために意外な敗北を喫した、その直後である。宰相サロモンが潜在的な反タイタニア派であることを、タイタニアは熟知しており、ケルベロス敗戦を好機としてサロモンが反タイタニアの行動に出る、その機先を制し、反タイタニア派を恫喝《どうかつ》してみせたのである。いや、さらに辛辣な思惑《おもわく》であるかもしれない。タイタニアに対して反感をいだいているサロモンを、今日まで生かしておいたのは、まさにこのような場合、犠牲《いけにえ》の山羊《やぎ》とするためではなかったのか。  だがいずれにしても、確実なことがひとつある。サロモンの死が何者かの罪であるとしても、それに対する罰がおこなわれることはけっしてない。罰とは強者が弱者に与えるものであり、タイタニア以上の強者など、人界に存在しないのである。ハルシャ六世はうなずいた。表情を消し、完全な操《あやつ》り人形の動作で、藩王の声にうなずきつづけた。アジュマーンは、皮肉な光を両眼にたたえて一族の者を顧《かえり》みた。 「イドリス卿、皇帝陛下のありがたい御諚《ごじょう》だ。貴官を近衛軍団司令官として叙任《じょにん》なさる。つつしんでお受けし、陛下のおんために忠勤をはげむよう」  そういわれたイドリス・タイタニアは、無地藩王に対して鄭重に一礼すると、最初の任務にしたがった。指を鳴らして部下に命じ、サロモンの遺体を宮廷の外へ運び出させたのだ。  また一グラムの憎悪と怨恨が、タイタニアの歴史に加わった。ジュスランはかるく両眼を閉ざし、未来を思いやった。ただ一本の藁《わら》の加重が、巨象の背骨を折る日が、いつかは来る。それは明日かもしれない、と。 [#改ページ]        第二章 不幸と災難は居直りの両親            T   「宇宙でもっとも英雄的な失業者」ファン・ヒューリック氏は、惑星エーメンタールの中央宇宙港におり、安レストランで、ひとりさびしく食事をしていた。星暦四四六年五月二九日のことである。  にんじん色の髪にネッカチーフを巻きつけ、カーキ色のコンビネーションスーツを着て肩にジャンパーをはおり、足もとにザックを置いている。ケルベロス会戦でタイタニアの大艦隊に勝利した名将とは、誰も想像できぬであろう。  不幸という名の調味料をたっぷり振りかけて、ファン・ヒューリックは、ハッシュブラウンポテトとハムステーキを交互に口に運んだ。白い健康そうな歯で、安物のハムといっしょに不愉快な記憶を噛《か》みくだく。 「まったく、あの市長の野郎……」  にがにがしげにつぶやいた。ファン・ヒューリックは、勲章をほしがるような趣味の持主ではなかったが、賞賛の台詞《せりふ》と金一封ぐらいは期待していたのだ。ところが、常勝不敗のタイタニアを撃破して、母都市エウリヤに帰還した彼を待っていたのは、残りすくない頭髪を逆だてた市長の、殺人的な眼光だった。 「この愚か者め! 誰が勝てといった?」 「はあ……?」  ファン・ヒューリックはまばたきした。市長の発言が何を意味するか、彼にはとっさに理解できなかったのだ。市長はジョークを飛ばしているのだろうか。理解できぬままに、彼はつい声をひそめた。 「あのう、勝ってはいけなかったのでしょうか」 「そうだ!」  断言されて、ファン・ヒューリックは、絶句せざるをえなかった。立ちつくす彼にむかって、市長は、怒声といやみと愚痴とを、速射砲のように浴びせかけた。どうやら、市長が苦心したあげくの政略を、ファン・ヒューリックは台なしにしてしまったようなのだ。背が低い市長は、彼の口の高さにあるファン・ヒューリックの心臓めがけて、罵声の針を何千本も突き刺した。 「戦わせておいて勝つななんて、殺生《せっしょう》なことをいわんといてくれ」  そう思ったが口には出さず、ファン・ヒューリック氏は、しみじみと近過去を顧《かえり》みた。なるほど、いまにして思いあたる。彼自身をふくめて、戦闘経験のとぼしい年少者だけで指揮中枢を形成させたのは、「若い世代の暴走」をよそおい、タイタニアに対しても他の星間都市に対しても、行為を弁解しやすくするためであったのか。ファン・ヒューリックの将才《しょうさい》を、凡百の指揮官の群から慧眼《けいがん》によって拾いあげたというわけではなかったのだ。 「まったく、両手をあげてさっさと逃げてくればよいものを、多数の敵と戦うとは。しかも勝つとは。いったい君は何を考えておったのだ」  これほど不本意な非難をこうむった人間も、そう多くはないだろうな、と、ファン・ヒューリックは思ったが、それによっていささかも心なぐさめられはしなかった。市長は、彼に、タイタニアが到着する前に市を出ていくよう要求したのである。 「だが、いいかね、わがエウリヤ市は忘恩《ぼうおん》の徒ではないぞ」  わざわざそういうことを口にしなければならないあたりが、両者の関係の不幸さを証明しているであろう。 「君を窮乏死《のたれじに》させるつもりはない。現金とカードを用意してある。三年くらいは遊んで暮らせるだろう」 「そいつはありがたいですね」  これは感謝の言葉ではなく、嫌みである。だが、重々しくうなずいた市長は、若い用兵家から、感謝の意思以外を受けとるつもりはないようであった。ケルベロス会戦の勝利者を追いたてようとして、市長は、だいじなことを思いだした。 「ああ、君、領収書にサインしていってくれ。こういうことは後々のトラブルを回避するためにも、きちんとしておかなくてはならん」 「指紋は要《い》りませんか?」  二度めの皮肉も効果はなかった。  こうして、ケルベロス星域の会戦で、タイタニア不敗の伝説を地に墜《お》とし、戦術家として記念碑的な業績をたてたファン・ヒューリック氏は、母都市を追われ、タイタニアの憎悪を買い、八方ふさがりの状態で辺境星域へと流れていくはめになったのである。 「えらい災難だなあ。何だってこんな目にあわなきゃならんのだろ」  と、ぼやきながら。  このような次第で、ファン・ヒューリック氏は、目的のない自由と理由のある傷心とをかかえて、武装商船《キャラック》「運だめし号」の客となったのであった。一度はエーメンタールでなく、カフィールに行くつもりで、そう言い置いて出てきたのだが、気が変わった。市長が彼をタイタニアに売るという可能性に思いあたったのだ。三度、船を乗りかえて、彼はエーメンタールの地を踏んだのである。  当分、食うには困らないが、無為《むい》の日を送る間に自らの精神に深みと厚みを加えることができるほど、ファン・ヒューリックは人格的に完成されていなかった。そもそも、現在の自分が置かれた状況に納得できなかったのである。「勝利」とか「努力」とかいう単語には、「報酬」とか「感謝」とかいう単語が対応するべきではないのだろうか。「追放」と「涙金」では、いささか不本意であり、第一、社会通念に反する。成功に対して正当な評価がおこなわれないとなれば、教育にだってよくないというものではないか。  ファン・ヒューリックは、冷めると感動的なまでにまずくなるコーヒーをすすった。社会論や教育論はさておき、これから彼はどうすればよいのだろう。母都市たるエウリヤで、都市艦隊司令官になりあがる可能性も失われてしまった。  それはそれでいい。宮づかえには、もう懲《こ》りた。文民《シビリアン》時代は、事務員として雑用に追いまわされ、軍人になって意外な才能を発見したと思えば、身体ひとつで母都市から追い出されるありさまだ。職もなければ恋人もない、定住地すらなく、二八歳にして人生の黄昏《たそがれ》を地平の果てに見出すとあっては、ファン・ヒューリックとしても、いささか気分がわびしい。  自分で何か事業を始めるべきだろうか。とすれば、ファン・ヒューリックは、他人に使われる立場から他人を使う立場に変わることになる。ケルベロス星域の会戦に際しては、司令官として一万人以上の兵士を指揮したが、これは生命がけのことであったし、軍隊の階級性が何といっても有効であった。「死にたくない奴は、おれの命令にしたがえ」で万事すんだのである。彼を補佐してくれた幾人かの同年輩の士官たちを想起し、ファン・ヒューリックは溜息をついた。別れの挨拶もする暇がなかったが、彼らは無事だろうか。タイタニアへ差し出す犠牲にされている可能性もあるが、最高責任者たるファン・ヒューリック自身、どうにかこうして生きているのだから、彼らも死刑などにはならずにすむだろう。それにしても、ファン・ヒューリックは、たぶん軍事史上、一時代を画するような戦術を行使したはずであるのに、正当に認められないとは、かなり残念である。  自分の人生は黄金色や薔薇色とは縁がなさそうだな。その思いを、ファン・ヒューリックは、最後のポテトとともに食道に送りこんだ。コーヒーカップに手を伸ばしたとき、背後から声がかかった。 「ねえ、そこのにんじん色の髪したお兄さん、ちょっとどいてくれない、カウンターにつけないじゃないか」  カップを手にしたまま、ファン・ヒューリックは肩ごしに振りむき、声の主を確認した。視界に具象化されたのは、一七、八歳の少女で、背中に天使の羽もなく、頭部に悪魔の角もない。黒っぽいが純粋な黒ではない微妙な色あいの髪、緑色の瞳に卵型の顔、白とオレンジの無造作な服装は宇宙港の作業員を思わせる。頭の位置はファン・ヒューリックの肩にとどかないが、これは、傷心の青年が、かなり長身の部類に属するからである。  ファン・ヒューリックは少女のために長身をずらして、カウンターの一部をあけた。彼の顔面細胞は、脳細胞の百分の一も速く動かなかったので、他人の目からは、とまどっているように見えただろう。「サンキュー」と、少女は彼に片目を閉じてみせ、カウンターの内部に、アイス・マテ・ティーの有無を尋ねた。なし、という返事に、舌打ちすると、ファン・ヒューリックに、均整のとれた身体をこすりつけるようにして出ていった。そして、レストランから二〇歩ほど離れた路上で、いたずらっぽく笑い、片手にした物体を軽く放りあげたとき、被害者に、手首をつかまれてしまったのだ。 「もう一歩だったな、お嬢さん」  ファン・ヒューリックの声には、苦笑をおさえるひびきがあった。少女の手から、ファン・ヒューリック氏所有の財布がすべり落ちて、所有者の掌《てのひら》に腰をおろした。ファン・ヒューリックは、財布を無造作に尻のポケットに突っこんだ。さて、どうしようか、といいたげな目つきで、スリの少女を見おろす。少女は鼻白みつつも不思議そうに尋ねた。 「どうしてわかったのさ、正直、見破ってるようにも見えなかったけど」 「貧乏性でな、幸運と美人は頭から信用しないことにしている」  あきれたような視線が青年の顔をなでた。 「何かすごく不幸な考えかたをするんだね」 「経験がおれを賢くしたのさ」 「かわいそうに、女にふられたんだ」 「そうなんだ……じゃない、やかましい、お前にとやかく言われる筋合はない!」  痛いところを突かれて、ファン・ヒューリックは、赤面しつつ憤慨した。スリの少女は、昂然と顔をあげて、彼女の企図《きと》をくじいた青年を見あげた。 「で、どうするの。あたしを警察に突き出すの。勝手におしよ。警察なんかこわくないさ」  少女の言葉には答えず、ファン・ヒューリックはのんびりとべつのことを口にした。 「そんなことより、職業安定センターへつれていってくれないかな。おれには安定した収入源が必要なんだ」        U    失業中かつ逃亡中の青年と、スリの少女は、肩を並べ、宇宙港から職業安定センターへの街路を歩いていった。 「あんたの名前は? あたしはリラ・フローレンツ」 「ファン・ヒューリックだ」 「どこかで聞いたような気がする名前だね。有名人らしくも見えないけど」 「ありふれた名前だからな」 「あたしは初めて出会う名前だけど」 「おれなんか父親も祖父もこの名前だった」  反応の声を飲みこんで、少女は、興味深げに、背の高い、にんじん頭の青年をながめやった。打算と計画の方程式が、リズミカルに少女の脳裏で踊りまわったようである。リラは話題を変えて問いかけた。 「今夜どこに泊まるの、ファン?」 「まだ決めていない」 「エーメンタールはいい惑星《ところ》だけど、ホテルは高いよ」 「安い宿を探すさ」  左肩にかついだザックを、ファン・ヒューリックは揺すりあげた。さりげなさそうな口調で、リラが提案した。 「よかったら、あたしのアパートに泊まらない?」  沈黙したまま、ファン・ヒューリックが少女の顔を見つめると、街灯の下で、少女の頬が紅潮したようであった。 「誤解しないでよ。ベッドは別だから。あたしはお祖母《ばあ》ちゃんと同居してるし、お祖母ちゃんは風紀の乱れをいやがるんだから。女は男に対して自分の身をだいじにしなきゃならないって」 「……もっともな意見だ」  ファン・ヒューリックは、まじめくさって、少女の祖母に同意を示した。 「おんぼろだけどサイズは大きいソファーベッドと、シャワーと、温かい朝食。それで五〇ダカールは高くないと思うよ」 「朝食に卵をつけてくれるかい」 「フライ? ボイル? スクランブル?」 「野菜いりのオムレツが好きなんだ」 「五五ダカールだね」  けっこう、と口にしてから、不幸な用兵家は、警戒心の光を両眼にちらつかせた。 「おい、確認しておきたいんだが、オムレツだけで五五ダカールというんじゃないだろうな」 「そんなあこぎなまねはしないよ。お客はたいせつにしなくちゃね。世のなかには商道徳ってものがあるからね」  しばしば正論を吐くこの少女が、どうしてスリなどという社会的に公認されない職業を営《いとな》んでいるのか、尋《き》きたい気がしたが、ファン・ヒューリックはやめておくことにした。すこし考えるところがあったのだ。  街路の各処に、タイタニアの文字が大きく書かれている。それらに視線をとめるファン・ヒューリックに、 「ここの最有力者はタイタニアなのさ」  少女が説明した。 「それも下っ端《ぱ》じゃないよ。タイタニアって姓をちゃんと持ってるんだ。何というかさ、あたしたちと身分がちがうんだよ。すごい贅沢《ぜいたく》してるみたいだ」 「一〇〇万年前はみんな直立猿人だ。身分も地位もあるか」  もっとも原始的な平等論を、ファン・ヒューリックは舌端《ぜったん》に載《の》せた。タイタニアに対して、好意的であるべき理由はない。四年前にはタイタニアの収容所で虱《しらみ》との同居生活を強《し》いられ、ようやく釈放されて帰国してみれば、恋人は他の男と結婚していた。つい先月には、勝算極小の戦いでタイタニア艦隊を撃破したのに、それが母都市を追われる原因となった。それやこれやで、マゾヒズムの気はファン・ヒューリックには欠けていたから、タイタニアに対して好意的でいられようはずがなかった。それは客観的な評価や価値基準とは、またべつのことである。  タイタニアは、支配者としては、過度に悪辣というわけではなかった。砂漠から富を吸いあげたり、乾《ひ》あがった池から水を汲《く》み出すわけには、タイタニアといえどもいかないのである。あるていど市民を富ませておけば、巧緻な商業活動でさらに富を吸いあげることができるし、心理的な反発もすくなくなる。  タイタニアに対する敵意は、二種類の人間を主とする。一種は、タイタニアにないがしろにされている各国の王族や支配階級を中心として、実害をこうむっている人間であり、もう一種は、自由や自立に対する欲求が強く、何者の支配をもいさぎよしとしない人間である。適当に豊かで、ものごとを突きつめて考える必要のない人々は、タイタニアの支配や優越を受けいれて、平和に生活しているはずである。彼らが生まれる前からタイタニアは存在し、彼らに反抗しないかぎり、とくに迷惑をこうむることもなく、ささやかに生きていけるのだ。反抗して失うものの巨大さを思えば、譲歩しつつ、現状を維持していこうとするのも当然だった。飼い慣らされた家畜にも、それなりの幸福があるというわけであった。  職業安定センターへ向かう道すがら、スリの少女は、ファン・ヒューリックの身の上を知りたがって質問した。 「あんた、いったい何をやったのよ」  何か不穏当なことをしでかして、母星にいられなくなったのだろう、というわけである。 「勝ってはいけない勝負に勝ってしまったんだな、これが。それでスポンサーのご機嫌をそこねてしまって、このざまさ」 「追われる身になったってわけ? あんた、ギャンブラーか何かなの? 見かけによらず凄腕《すごうで》だとか……」 「ギャンブラーね、うん、まあ、そんなものだな」  少女の誤解を訂正する気にはなれなかった。戦争はある意味で投機であり、ギャンブルである。不思議なことに、どんな悲惨な戦争でも、かならず誰かが利益をあげることになっているのだ。タイタニアもむろんその一員である。 「人を殺したことなんかある?」 「うん、まあ、その、身を守るために、と思っているがね」 「どれくらい殺したの?」 「そうだな、一〇万人ぐらいじゃないかな」  正直な解答は、だが、質問者に信じてもらえなかったようである。少女は、誇大妄想の所有者をあきれたように見あげ、肩をすくめた。処置なしと言いたげであった。処置なし、という点では、ファン・ヒューリックも同感だった。  エーメンタールの職業安定センターは、二四時間、窓口を開いているという。お役所にしては感心だと思ったら、運営は民間人に委託されているということだった。 「何か特技ある? あれば何かと有利よ」 「特技? 特技ねえ」  本気でファン・ヒューリックは悩んだ。 「走路《ベルトウエイ》を逆方向に走るのは得意だが、こんなものは特技とはいえんだろうなあ」  言った当人以上に、本気に、しかも怒ったのは、少女のほうだった。 「特技ってのはね、それで御飯を食べられなきゃ意味ないのよ。走路を逆方向に走って、あんたその芸で御飯が食べられるの?」  食べられると強弁するのも愚かしいので、ファン・ヒューリックは反論しなかった。少女は腰に両手をあてて男をにらんだ。 「生きていくって厳しいことなんだからね。甘くもないし楽しくもないのよ。まじめに自分の本分をつとめるようしないと、きっと報いがあるんだから!」  何だってスリの少女に説教されねばならんのだ、と思ったが、ファン・ヒューリックはおとなしくうなずいた。どういうものか、少女が善意で言ってくれたものと、彼は信じる気になっていたのである。  ほどなく、職業安定センターに着いた。星間都市連盟の商館と同じく、このようなセンターにも惑星ごとの個性がある。かつて一度だけファン・ヒューリックが出張で訪問したバルガシュでは、よごれた作業服姿の男たちが、髯面《ひげづら》を並べていたものだ。ここエーメンタールでは、蝶ネクタイをしめた紳士ふうの係員が、青年を応対して、まず質問した。 「惑星工学技術者《プラネタリー・エンジニア》の検定資格を持っているかね?」  無言で、ファン・ヒューリックは頭を振った。そのような特殊技能の資格を有していれば、文民《シビリアン》時代に単なる事務員として雑用に追いまわされる必要もなかったはずだ。 「資格さえ持ってれば、そう職には困らんのだがね。何か資格はないかね」 「宇宙船の操縦免許なら持っている。星間B級だ」 「B級ではねえ。A級だってありふれているしな。特A級だったら、私の手元だけでも一ダースぐらいは求人があるんだが」  A級用兵家のライセンスがあったらな、と、ファン・ヒューリックは不謹慎な想像をめぐらせた。これまで参加した戦争の数、勝率、殺した敵の数、死なせた味方の数、そういったデータをそろえて、等級別にライセンスを出すのだ。敵より味方を多く殺せば、ライセンスは没収とか。案外おもしろいのではないか。無能な軍人は淘汰《とうた》され、有能な軍人どうし共喰いになって、いつか軍人などという職業自体、滅びてしまう。けっこうなことだ。 「エーメンタールは景気がいいと聞いていたんだが、そうでもないんだな」 「誰から聞いたか知らんが、無責任な発言の責任を、私がとらなきゃならん義務はないね」  もっともだが冷淡な反応を示してから、係員は、奇妙な質問をした。芸術に心得はないか、というのである。芸術といっても多種多様であるが、いずれにしてもファン・ヒューリックには縁がなかった。口笛や凧《カイト》づくりは得意だが、芸術とはいえない。走路を逆方向に走るのと、同様であろう。 「まあいいさ、どうしてもエーメンタールで就職しなきゃならんということもないんだ。また後日、来てみることにするよ」  すべては明朝、野菜いりオムレツを食べてからのことにしよう。そう思い、対応用のカウンターから離れかけたとき、グレーの影が動くのを、彼は視界に認めた。タイタニアの軍服が二着、人間に着られて立っていた。 「ファン・ヒューリック提督ですな」  そう問われ、眉をしかめて立ちつくす青年に、スリの少女が不審げな声をかけた。 「提督って何? あんたのあだ名?」 「不幸の素《もと》さ」  まんざら韜晦《とうかい》でもなく、ファン・ヒューリックはつぶやいた。実際、とんだ茶番劇《バーレスク》を演じるはめになったのは、「提督」という称号に、つい目がくらんだからである。まっとうでない選択は、まっとうならぬ結果を生むものであった。        V    アルセス・タイタニア伯爵は、ザーリッシュ・タイタニアの弟で、年齢は二三歳、金褐色の髪と、淡い青玉色の瞳と、チョークじみた白さの肌を持っていた。「憂愁」という文字が、見えないインキで顔に書かれていた。  タイタニアの姓を名乗る者に、無能者は皆無であるといってよい。アルセスも例外ではなく、その思考力は鋭敏であり、教養と学識は兄をしのぐものがあった。容貌も、アリアバート・タイタニアやイドリス・タイタニアにおとらず端麗であった。生前、父親は、ザーリッシュとアルセスのいずれを後継者とするか、決断に迷った節《ふし》がある。だが、アルセスの知性と感性は、黄昏から夜にかけての領域に偏在していた。その才能を自ら制御する意志力にも欠けていた。父親としては、剛健なザーリッシュに一家の未来を託すしかなかった。ザーリッシュは何よりもまず長男でもあったことである。  タイタニアなどという姓は、もともと人類社会に存在しなかったという。それは妖精の女王に与えられる名で、かのネヴィル・タイタニアから一〇代をさかのぼった先祖が、以前の姓を捨て、貴族めいた、そのくせ奇妙に異教じみたこの名を姓に選んだのだという。  いずれにしても、タイタニアの中枢権力は、アルセスの手から遠ざかった。ザーリッシュとしては、弟を近くに置いておく気にはなれず、また本来、弟の世俗的な才幹に期待してもいなかったのだろう。相当に贅沢な生活を送っても困らない額の年金を与えて、エーメンタールに追いやってしまった。年金の額は五〇〇〇万ダカールだという。そして、タイタニアの資産には、いずこの国の税金もかからない。ちなみに、豊かな惑星として知られるエーメンタールにおいて、中流市民の平均年収は税こみ四万ダカール前後である。五〇〇〇万ダカールあれば、ファン・ヒューリックは、リラの家で九〇万九〇〇〇回ほどオムレツを食べることができるだろう。  亜熱帯産の花の香が、サロンの空気を濃密にしているようであった。アルセスの手が、黄金の籠《かご》からモルモットをつかみ出し、硬質ガラスの水槽に放りこんだ。 「食肉魚だよ」  熱帯的な憂愁をこめてアルセスはつぶやいた。無言で、ファン・ヒューリックは水槽から視線を逸《そ》らした。水槽の水は赤黒く濁り、水面に波と泡が湧きあがっていた。陶然としたタイタニアの目がそれを凝視している。  ファン・ヒューリックは水槽とその所有者から視線を逸《そ》らした。逸らした視線の先に、彫像があった。エーメンタール大理石の像であり、二体の人間が抱擁しあっている。何か違和感をおぼえ、ファン・ヒューリックは、あらためて彫像を観察した。違和感の原因を知って、彼は憮然とした。抱擁しあったふたつの彫像は、どちらも男だったのである。アルセス・タイタニアを見なおすと、若い貴族は、声をたてずに笑い、クッションの上で身をよじらせていた。  こいつは耽美派と自称する変態野郎だな、と、ファン・ヒューリックは決めつけた。二八年も生きていれば、世のなかの人間すべてを理解することなど不可能だ、ということぐらいはわかる。アルセスは、ファン・ヒューリックにとって、向こう岸の人間だった。  精神の向こう岸から、アルセスは客人を振りかえり、投げやりな声を放り出してきた。 「君はタイタニアの艦隊を撃破したそうだな。ケルベロスとかいう星域の戦いで。その才能を評価して、タイタニアは君を提督として迎えるつもりだ」  タイタニアは人材を重んじる。有益有為な人材は、タイタニアの粟《ぞく》を喰《は》むか、社会の表面から抹殺されて自由と心中《しんじゅう》するか、である。どうやらタイタニアは、エーメンタールの職業安定センターより、ファン・ヒューリックを高く評価してくれているようであった。それは大いに感謝するが、所詮《しょせん》、いかに大きくとも、宮にちがいはない。 「どうだね、信じがたいことだが、君は勝ったのだろう、タイタニアに」 「単なるまちがいだ。二度とあんなことは起きようがない」 「まちがいで勝ったのかね、タイタニアに、君は」  倒置法を濫用《らんよう》して、アルセスは薄く笑い、奇妙な目つきでファン・ヒューリックをながめやった。汗ばむほど暖かいはずなのに、ケルベロス会戦の勝利者は寒けをおぼえた。 「タイタニアには天才に敗れることは許されても、まちがいで負けることは許されないのだよ」  それはあんたたちの趣味だろうが。心のなかでファン・ヒューリックはやり返した、水槽で非音楽的な音がたった。  モルモットを喰《くら》いつくした食肉魚が、充分に満たされない食欲を、飼主に訴えるべく、水面に躍りあがったのである。愛《いと》しげな視線を水槽に向けつつ、アルセスは語をついだ。 「君にはどちらかを選ぶ権利がある。タイタニアのもとでの生か、タイタニアを離れての死か」  若いタイタニアの顔にたゆたった表情は、妖美と称してもよいほどであったが、耽美的精神が欠落したファン・ヒューリックは、いっこうに感興をそそられなかった。  アルセスの声に抑揚が強まった。 「前者であれば、タイタニアは豊潤な富と権勢の一部を君に分かち与えるだろう。後者であれば、ぜひもない、せめて君の死を華麗に装飾して、宝石の涙で葬ってあげよう。どちらを選ぶかね?」  どちらもごめんこうむりたいと思ったが、ファン・ヒューリックは自分の考えを即座に言語化しようとはしなかった。優柔不断の表情をつくって、レースと花と貴金属に埋められた室内を見まわす。さぞ費用がかかったことだろうと思うのは、アルセスにいわせれば俗物のあさましさということになるであろう。 「旧《ふる》くからいわれるように、人間は二種類に分かたれるのだよ。支配する者と、される者と。たとえ下端にせよ、支配する側《がわ》になりたくはないかね」  ファン・ヒューリックは舌を鳴らした。 「人間に対するあんたの見方は浅薄《せんぱく》すぎる。支配する奴と支配される奴との他に、人間には第三の種類がいるんだ」 「それは何かね」 「支配されるのが嫌いな奴さ」  かなり気がきいた台詞のつもりであったのだが、タイタニアの貴公子には、半グラムの感銘も与えなかったようである。わざとらしい動作で肩をすくめ、クッションの上にすわりなおした。 「ファン・ヒューレン、私は思うのだが……」 「ヒューレンなどと改名した憶えはないね」  半ば本気で、ファン・ヒューリックは腹をたてた。その怒気も、だが、貴公子の耳の外側をむなしく通りすぎてしまったようだ。そういう人間がいる。幻想のほうが事実よりたいせつな人間なのだ。 「で、君は結局、何を望むのだ?」 「タイタニアを離れての生さ」  口には出さない。出した瞬間に、アルセス・タイタニアは彼好みの死をファン・ヒューリックに押しつけるであろう。アルセスが、内心で拒絶を望んでいることを、ファン・ヒューリックは察知していた。数世代にわたるタイタニアの血の濁りが、この青年貴族の一身に凝集しているように思える。べつにアルセスを憎みはしない。せいぜい遠くで幸せになってほしいだけである。近づかないでほしい、こちらも近づきたくない。  惑星カフィールではなく、エーメンタールを選んだ自分の判断を、つくづくとファン・ヒューリックは悔やんだ。彼の心理と心情に気づいたかどうか、アルセス・タイタニアは、粘液質の笑みを口もとに浮かべて立ちあがっている。タイタニア五家族は、歴代、類まれな美女の血を血統に入れてきたので、美男美女ぞろいであると聞いたことが、ファン・ヒューリックはあった。どうやらそれは事実であるらしい。むろんのこと、造形的な美と、内面の美とは別種のものである。  客の眼前で、モルモットを食肉魚に喰《くら》わせる。ゆがんだ嗜好の結果であろうが、示威の一面もあろう。ファン・ヒューリックは、食肉魚の餌にならずにすむ方法を考えた。どうやら、その方法はひとつしかなさそうだった。 「要盟《ようめい》は守るべからず」という古語がある。対等の立場で結ばれた約束は守られなくてはならないが、脅迫や強要によって押しつけられた約束を守る必要はない、という意味のものである。たとえば、幼児を誘拐した犯人が、「警察に知らせるな」と強要したとき、それを守る道義的な責任はない、ということだ。  その古語を、ファン・ヒューリックは胆に銘じることにした。この際、虚偽の約束もやむをえぬ。 「わかった、話に乗る。タイタニアのスカウトに応じよう。給料とか有給休暇とかは、いずれ正式に話しあうことにしてさ」  アルセスは両眼を細めた。棘《とげ》を塩水にひたして火で炙《あぶ》ったような視線でファン・ヒューリックを突き刺すと、彼はつぶやいた。 「本心で言っているのかな?」  いやな野郎だ、と、ファン・ヒューリックはあらためて思ったが、考えたことをすぐ口に出さないという後天的な素質に、このときは救われた。せいぜい軽薄そうな事大主義者の表情をつくって、ファン・ヒューリックは若い貴族を見返した。駆け出しの事務員時代、失敗して上役に報告するとき、このような表情になってしまったことを想い出してしまう。ますますもって、いやな気分である。 「顔だちは悪くないが、私の好みではないな」  アルセスが評したのは、客人の顔についてであった。ファン・ヒューリックにとっては、よけいなお世話というものである。 「私の好みは、もっと洗練されて、妖しさを秘めた、そして陰影に富んだ、この世ならぬ美しさだ。君はどうも粗雑でいけない。辺境の色男がせいぜいだな」  アルセスの評価は正しいだろうが、だからといって、「はい、たいへんよくできました」と頭をなでてやるわけにもいかなかった。ファン・ヒューリックは、性愛の面では、ごくおもしろみのない男で、健全といえば健全、単純といえば単純な嗜好しか持ちあわせていない。  銀の壺を手にして、酒がなくなったことに気づき、アルセスは鈴を鳴らして従者を呼んだ。銀の壺は、アルセスにとっては伊達《だて》ではなく、古来から王侯が毒殺を防ぐため銀器を用いたことに倣《なら》ったのである。そんなことはファン・ヒューリックは知らないが、入室してきた若い従者を見て、またしても彼は違和感をおぼえた。  いちおう男性だと思われるが、容姿といい声といい、いやに女性的な印象がある。ファン・ヒューリックの不審を察知したのであろう、アルセス・タイタニア伯爵は、むしろ得意げに教えてくれた。 「薬品で松果《しょうか》体の機能を破壊して、二次性徴が表われぬようにしてある。男性ホルモンが分泌されぬから、いつまでも彼は少年[#「少年」に傍点]のままだ。これこそ王侯の従者としてふさわしい」  古代東方世界の宦官《かんがん》にひとしい存在というわけである。ファン・ヒューリックにとって、この邸宅における滞在が一秒長びくことは、邸宅の主人に対する嫌悪感の水位を一センチ増大させる行為であった。すでに充分、張りとばしてやりたい気分が、胸腔《きょうこう》に充満している。張り倒して無事に逃げおおせる確率を計算し、ファン・ヒューリックは、途中で数式を投げ出した。監視カメラに連動したレーザーガンの存在に気づいたのである。しかも複数であった。ファン・ヒューリックとしては、アルセス・タイタニアと心中《しんじゅう》して滅びの美学とやらに自己陶酔する気にはなれなかった。  自分が張りとばされる危機に直面していたとも知らず、従者に酌をさせた後、アルセスは、またファン・ヒューリックに向きなおった。銀の杯を口に運ぶ。故意にか否か、この時点まで、ファン・ヒューリックに酒も席も勧めず、床に立たせたままであった。 「いずれにしても、タイタニアは藩王殿下の御意に従わねばならぬ。ファン・ヒューレン卿[#「ヒューレン卿」に傍点]、君をわが賓客として迎えよう。これからよしなに、と言うべきなのだろうな」  いつの間に自分は卿などになったのだろう、と、ファン・ヒューリックは皮肉な問いを自身に投げかけた。もともとタイタニアに好意的でなかった彼は、アルセス・タイタニアの耽美的な毒気を吐きかけられて、ますます嫌気がさした。このような人間に必要以上の権勢を与えているタイタニアの在《あ》りようを、ファン・ヒューリックは、他人事ながら不安に感じてしまう。 「では話が成立したところで、辞去させていただこう。今夜はエーメンタール一の美人と同じ夢を見る予定なんだ。用があるときは、出頭するから布告してくれ」 「美人とは女かね?」 「あたりまえだ、変態野郎!」  と罵倒したいのをこらえ、ファン・ヒューリックは、またしても無言でうなずいた。  寄らば大樹の蔭《かげ》、という事大主義からすれば、タイタニアほど頼もしい大樹はないにちがいない。しかし、ファン・ヒューリックの精神に事大主義があったとしても、この瞬間には、一五四光年ほど遠くへ飛び去ってしまっていた。他人に雇《やと》われて楽しい思いをした経験がないのだから、社会人としての性格もゆがもうというもので、「環境が悪い!」で、この男はさしあたって万事すませるつもりでいる。 「ではその美人をつれて来させよう。私にとっては理解できぬことだが、寛容はタイタニアの美徳だ。君はここで酒でも飲んでいればよい。部下を差し向けるから、美人とやらの住所を教えたまえ」 「あ、いや、そんな必要はない」  ややあわてて、ファン・ヒューリックは手を振った。 「おれはもともと貧乏人なんで、こんなりっぱなお屋敷は腰が落ちつかないんだ。安宿のほうが気が休まる。どうせエーメンタールから出て行けるはずないんだし、正式なことが決まるまで、おれのやりたいようにやらせてもらえないだろうか」  この饒舌《じょうぜつ》は、詐欺《さぎ》師的な魂胆《こんたん》あってのことであるが、アルセス・タイタニアは小さくあくびして答えただけである。 「安宿のほうが気が休まるか。なるほど、よく理解できる。もっともなことだ」  この野郎、扼殺《やくさつ》してやろうか、と、ファン・ヒューリックは心のなかでその情景を想像した。とにかく両者の間に妥協が成立して、ファン・ヒューリックはひとまずアルセス・タイタニア伯爵邸を辞去することになった。ただし単独行というわけにはいかず、グレーの軍服を着たタイタニアの兵士が二名、同行することになったが、これは当然のことであろう。  タイタニアの隷下《れいか》に属するはずの男は、二名の兵士につきそわれてサロンを出ていった。それを見送るでもなく、アルセス・タイタニアは従者の酌を受けて銀杯をかたむけ、阿片《あへん》のパイプをくゆらした。 「まだかな、存外、時間のかかる男だ」  時計をながめてつぶやいたのは、三〇分を経過したころである。あわただしい足音がして、家令が報告に来た。同行していた二名の兵士が、路上で倒れているのを発見され、ファン・ヒューリックは影も形もないというのである。 「よいよい、逃げれば追う楽しみがあるというもの」  一笑して、アルセス・タイタニアは手を振ってみせた。悪意に近い波長が、表情にも声にも満ちている。予定どおりだった。これで彼は、ファン・ヒューリックという不愉快な男を優遇するという義務から解放されたのである。彼だけが一方的にファン・ヒューリックを不愉快にしていたわけではない。病的な鋭敏さで、彼は、たがいが理解しえない存在であることを察知していた。  いずれにせよ、徒手空拳《としゅくうけん》でタイタニアと渡りあうことはできない。ファン・ヒューリックが逃亡したのは、同志の力を借りてのことではないのか。単に彼を捕えるだけでなく、彼の同志、おそらくは反タイタニア感情の紐帯《ちゅうたい》に結ばれた一党を、彼の手でことごとく捕縛すれば、アルセスは藩王アジュマーンから賞賛を受けるはずであった。そうすれば、兄ザーリッシュも、弟をエーメンタールに追いやって安穏としてはいられないであろう。アルセスは兄を憎悪していた。かつて彼は兄からつぎのように罵倒されたことがある。 「耽美とは変態の自己正当化にすぎんではないか。きさまはタイタニアの恥だ。タイタニアの権勢がなければ社会の害虫でしかない」  兄は弟の美意識を蔑《さげす》み、弟は兄の価値観を憎んだ。自分が一般社会においても、タイタニア内部においても、少数派であることをアルセスは知っていた。ファン・ヒューリックに対する憎悪と同心円上に、兄に対する憎悪があった。兄が四公爵のひとりであることさえ笑止《しょうし》であるのに、仮に次代の藩王にでもなったりしたら、アルセスはこの世全体を軽蔑し、滅亡に値するものとみなすであろう。    アルセスの邸宅から脱出したファン・ヒューリックは、そこから二キロほど離れた裏街の路上で、リラという少女と落ちあっていた。リラの手には短針銃《ニードル・ガン》があって、その銃口から放たれた短針が、ファン・ヒューリックを自由の身にしたのである。短針は速効性の麻酔薬を極低温で固めたもので、人体に突きささると、ほとんど瞬間的に体温で気化し、体表面には注射針ていどの痕跡しか残さない。 「助けてくれてありがたいが、気が変わった。お前さんのアパートに行くのはよす」 「どうしてさ!?」 「幸運と美人は信用しないって言ったろう。偶然もそれに準じるのさ」  人が悪く、ファン・ヒューリックは告げた。反論しようとして、リラは沈黙した。つまりにんじん色の髪の青年は最初から知っていたのだ。彼女がスリなどでないということを。 「誰か知らんが、シナリオを書いた奴に伝えておいてくれ。もうすこし細部《デテール》を工夫《くふう》しないと、タイタニアに対抗できんぜ」  評論家ぶっている。ファン・ヒューリックは、まあリラの誘いに乗ってもいいやと思っていたのだが、気が変わった。彼はアルセス・タイタニアを毛ぎらいしていたが、その能力を過小評価はしていなかったので、すべてがアルセスの予定の裡《うち》にある可能性を考えたのである。リラのアパートに行けば、彼女の仲間がアルセスに一網打尽にされるかもしれない。 「わかったよ。さすがにタイタニアを破った男だけあって賢いね。ほんとのことを話すよ」  リラの話によると、彼女と「おばあちゃん」を含むグループは、三〇年前にタイタニアに滅ぼされたカサビアンカ公国の遺臣団であるということだった。そんな国があったろうか、と思うていどの小さな国だ。タイタニアに滅ぼされた国は大小三ダースほどはあるし、王統《おうとう》を代えられた国も同数ほどあるので、正直なところ、いちいち憶えてはいられない。 「それであんたに力を貸してほしかったのよ。だますつもりはなかったの。信じてというのも虫がいい話だけど」 「たしかに、よすぎる虫だな」  ファン・ヒューリックの名は、タイタニアを憎悪する人々の心に、超新星《スーパー・ノヴァ》の閃光《せんこう》を投げかけた。彼の軍事的天才と、反タイタニア勢力の団結とがあれば、タイタニアの打倒がかなうのではないかと思わせたのである。秘かに情報は伝達され、エーメンタールで彼の発見がなされたというわけだった。 「あたしたちは公国を再興するだけじゃなくて、タイタニアなき宇宙が来ることをめざしているの」 「タイタニアなき宇宙はけっこうだが、タイタニアの代わりに何が来るか、そいつを考えておく必要はあるのじゃないか」  ファン・ヒューリックの発言は正論というべきだが、そのようなお説教を他人に対して垂れることができるような柄《がら》では、もともと彼はない、彼はタイタニアの収容所で、思索にふける以外に費《ついや》しようのない一年をすごしたが、じつのところ、政治や歴史のことより、食物や女のことを考えるほうが多かった。 「復讐ならそれでいいさ。だが、タイタニアの支配下でそれなりに安住している人たちのほうが多いんだ。そういう人たちまで敵にまわすか、時間をかけて意識改革を押し進めるか、まあそのあたりから、もういちど考えてみたらどうだい」  ファン・ヒューリックとしては、反タイタニア派の偶像にまつりあげられるなど、まっぴらであった。  タイタニアも、分子レベルに至るまでひとつの意思に統一されているわけではないだろう。彼らの最高首脳部においても、誰が主導権を確保するか、隠然たる争いが存在するはずである。はずだと思う。思いたい。ファン・ヒューリックがそう考えるのは、一枚砦の組織などというものに気色《きしょく》悪さを感じるからであって、深遠な歴史的洞察力にもとづいてのことではなかった。  それらの小さな不和や、ささやかな罅《ひび》割れが、拡大して、タイタニアという巨大なダイヤモンドを破砕《はさい》するかもしれない。だが、たとえそうであったとしても、その日が来るのは遠い未来、たとえばファン・ヒューリックが老衰死して何十年かが経過した後のことであるように思われた。 [#改ページ]        第三章 強者と弱者            T    タイタニアが所有する権勢と武力と富とを数量化することは、容易なことではない。艦艇数一〇万隻は、単一の勢力としては比類する存在がないが、銀河系宇宙にある九つの帝国、三八の王国、八つの大公国、四〇の公国、一五一の共和国、四四九の星間都市を合すれば、艦艇数は一〇〇万を超《こ》す。だが、それらが大同し連合してタイタニアと対抗したことはない。小規模の、あるいは短期間の同盟や盟約なら存在したが、タイタニアの武力と外交的術策の前に、敗北と解体をかさねてきたのである。  タイタニアの真の力は、団結と統一にあるといえるであろう。精神もだが、むしろ物理の次元において、そうなのである。タイタニアは、潜在的あるいは顕在《けんざい》的な敵対勢力を分裂させ、近視眼的な相互対立を発生させることに辣腕《らつわん》をふるってきた。  |天の城《ウラニボルグ》。タイタニア一族の本拠地であり、人文地理的には宇宙の中心と称しても過言ではない。それはヴァルダナ帝国の首都たる惑星リュテッヒの衛星軌道上にある巨大な人工都市である。ネヴィル・タイタニアの時代に着工され、完成はヌーリィの代であった。「宙に浮かぶこけおどし」とヌーリィは父の事業を冷評したが、それを放棄することなく継承し、完成させたのは、人の世において、こけおどしが一定の影響力を発揮することを、熟知していたからである。  かくして建設された|天の城《ウラニボルグ》は、全宇宙を支配するタイタニアの権勢の象徴となった。ヌーリィは、おそらく冷笑を浮かべながら、|天の城《ウラニボルグ》の武装を進めたようである。兵器フェチシストたちの色あざやかな夢。直径五二・五キロの円盤状の人工地層に建設され、一二層の透明な天蓋《てんがい》におおわれた都市。そして四〇〇〇の電磁カタパルト、二八六〇の大口径レーザー砲、一四の軍事衛星をそなえ、ヴァルダナ帝国の首都を足下に見おろす。  六月一日。タイタニアの四公爵は、惑星の青い光を足もとに見ながら、専用のサロンでくつろいでいた。アリアバート・タイタニアがジュスランに語りかける。 「ファン・ヒューリックとかいう男、アルセス卿のもとから逃げ出して行方をくらましたそうな」  タイタニアの麾下《きか》で栄達を求める意思がないということであろう。行動による意思表明とみなす以外にない。 「惜しいな。用兵家に天才はいても秀才はいない。芸術と同じだ。努力より天分が優位に立つ。ファン・ヒューリックは天才かそれに近い男と思ったが」  アリアバート・タイタニアは語ったが、べつに偽善を口にしたわけでもなかった。個性にとぼしいが端麗な顔に、アリアバートは、沈着な表情をたたえていた。神経質げにも見える青年だが、ケルベロスの敗戦から精神的再建を果たしたということである。 「おれを負かした奴を、頤使《いし》してやれれば愉快だと思ったが、そうもいかんか」  苦笑まじりの声を受けたのは、イドリス・タイタニアであった。容赦のない辛辣な眼光をきらめかせる。 「こうなると、ファン・ヒューリックとやらいう人物が、われわれの敵にまわることは避けられぬな。奴がタイタニアに敵対する勢力をこれ以上勇気づける前に、奴の存在を過去のものにしてしまうべきだ」  決めつけることが好きな男だ、と、ジュスランは思う。イドリスの才幹《さいかん》を、彼はけっして低く評価しているわけではないが、二、三歳の年齢差を埋めようと努《つと》める積極性が、ときとして度をこすように思われ、いささかわずらわしい気分にさせられることがある。今後いくらでも人格を完成に近づける機会が、イドリスの人生にはあるわけだが、その途中経過でジュスランと衝突することもあるかもしれない。彼のとりこし苦労的な想像をよそに、イドリスは、反タイタニア勢力を宇宙から一掃する件について語りつづけている。  タイタニア派と反タイタニア派とに二分色された世界というものも、やや単調にすぎる気がする。世界は多彩であるほうが好ましいし、「非タイタニア」という人の在《あ》りかたも許されるべきであろう。そのような存在を峻拒《しゅんきょ》するというのであれば、タイタニアの器は広くも深くもない。もしタイタニアの器が広く深いとすれば、それに応じて、長さも増大するかもしれない。 「陽は中天《ちゅうてん》にあり、没せざるべからず」  古代の地球人で、そのような警句を遺《のこ》した者がある。至言《しげん》ではないか、と、ジュスランは思う。いずれ没落なり滅亡なりは、かならずタイタニアの上に訪れる。それがないと信じる者は、現在もローマ帝国や大蒙古帝国《イヘ・モンゴル・ウルス》が存続していることを信じるだろう。  とはいえ、タイタニアの没落がジュスランの時代に来るとは、むろんかぎらぬし、彼自身がそれに加担する意思もない。彼はタイタニアであり、タイタニア全体の利益に奉仕するという精神的な価値観を堅持していた。このことと、タイタニアの没落を歴史的な思考の射程において予見することとは、いささかも矛盾しない。予見があってこそはじめて、それを遠ざけるための対策も立てられようというものである。  ここでジュスラン・タイタニアが思うのは、藩王アジュマーンの心理である。彼は第二代藩王ヌーリィのように鋼鉄の精神を持っているのか、それとも否であろうか。  古来、悲観的な予言者が歓迎された例は、ごくすくない。周囲からの白眼視にさらされ、迫害や弾圧をこうむることもある。ジュスランはタイタニア四公爵の一員であり、場合によっては第九代の無地藩王《ラントレス・クランナー》となるかもしれぬ身であった。発言や行動の自由が、権勢によって守られているようでありながら、じつは必ずしもそうではない。ジュスランが彼の内心を率直に表明すれば、無地藩王《ラントレス・クランナー》アジュマーンや他の三公爵の忌避《きひ》を買い、地位を追われるにちがいないのだった。血管を流れる血は同じでも、精神的な血脈は異なるのである。  ジュスランは口を開いた。ふたたび前線に出るアリアバートが、用兵に対して従兄弟の意見を求めたのである。それに対してジュスランはこう答えた。 「ファン・ヒューリックがケルベロス星域で使った、あの戦法を用いてはどうだ」  アリアバートの肩が微妙な角度に揺れた。若いタイタニアは、眼光にわずかな険を含めて従兄弟を見やった。ばかなことをいうな、と、どなりつけはしなかった。 「それを勧める理由は?」 「第一に、実際の戦法として有効だ。第二に、敵手の戦法を正しく評価することで、アリアバート卿の器量もまた正当に評価されるのではないか」  アリアバートは眼光をやわらげた。彼はけっして狭量ではなかった。 「なるほど、傾聴《けいちょう》に値する意見だ」 「不吉を口にするようだが、仮に失敗しても、それはそれでよい。二度とそのような戦法でタイタニアを驚倒《きょうとう》させようとする者はいなくなる。一度かぎりということだ」 「ジュスラン卿は策士でいらっしゃる」  声に嘲弄《ちょうろう》の微分子を浮遊させつつ、イドリスがそう評した。彼はヴァルダナ帝国の近衛軍団司令官であり、その任務は、皇帝ハルシャ六世を護衛すること、それ以上に監視することにある。だが、ひとつの思惑があって、彼は地上を離れ、|天の城《ウラニボルグ》へ来ているのであった。  覇道といい王道というが、古来、覇道を歩まなかった支配者がどれほど存在したというのであろう。王道の舗石《ほせき》をはがせば、覇道の泥路があらわれる。タイタニアは一国の主とならぬことによって数十国の主となり、宇宙を支配する。王道など真に存在せぬ以上、覇道の大小によって事象は測られるべきであり、タイタニアの覇道こそが最大のものである以上、タイタニアこそ人類史上で最大の存在ではないか。それがイドリスの考えるところであった。  それまで重厚な沈黙を守っていたザーリッシュが、硬いあごひげを動かして発言した。 「まだ結婚せんのか、ジュスラン卿は?」  突然、日常レベルの話題を出されて、ジュスランはまばたきした。 「そういうザーリッシュ卿はどうなのだ。いつも美しい花園のなかにあるというではないか」 「どうも目移りしていかぬ。解語《かいご》の花といっても、欲もあれば毒もありそうでな。ジュスラン卿お気に入りの侍女は清楚《せいそ》と聞くが」 「さて、どうかな」  フランシアの笑顔が、淡くジュスランの脳裏をよぎった。たしかに清楚で素直でよい娘だと思うが、一面でものたりなさをおぼえるのも事実である。若くして権勢を持った男の驕《おご》りか、と内省《ないせい》もするのだが、まだ自己を家庭に縛りつける意思もなかった。 「ジュスラン卿は意外に贅沢そうだ」  ザーリッシュは豪快に笑った。アルセスのような弟を持つとは思われぬ。そう観察しつつ、さてどちらがより強く兄弟のありように反発しているのか、ジュスランにはその興味があった。        U    この年六月一〇日、アリアバート・タイタニアは、先月に引きつづき、艦隊指揮官として会戦を経験した。ヴァルダナ帝国と遠い姻戚《いんせき》関係にあるテュランジア公国が、兵を動かしたのである。むろんヴァルダナの現状を見かねて義兵を動かしたわけではなく、航路の権益がらみであった。  本来ならこの戦いは、ザーリッシュによって指揮されるはずであったのだが、先月、ファン・ヒューリックという無名の将帥《しょうすい》に泥だらけの苦杯をなめさせられた、その雪辱を期して、アリアバートが統兵《とうへい》を強く希望したのであった。悪く解釈すれば、個人レベルでの名誉回復に執着したわけであるが、これで連敗することにでもなれば、四公爵中、アリアバートの地位は最下に転落するであろう。その危険を認識した上で、アリアバートは、自らの名誉回復と、全タイタニアの利益擁護とを同時に達成すべく、戦場へ出たわけであった。タイタニア四公爵に、臆病な者はいないのである。  六月一〇日、シラクサ星域。すでにテュランジアの領宙を離れ、いわばタイタニアの宇宙管制《スペース・コントロール》下にある星域である。臨戦態勢をとりつつ、慣性航行の状態にあったテュランジア軍三三〇〇隻は、先行する索敵《さくてき》衛星からの情報を受けた。 「タイタニア!」  通信回路を疾走した単語は、「災厄」と同じ意味であった。極度の緊張が全艦隊を走る。やがて各艦のスクリーンに映し出されたのは、青白いかがやきをつらねる巨大な光のネックレスであった。  タイタニアは宇宙空間における輸送と通信の主力を掌中《しょうちゅう》に収めている。ゆえに、純軍事的に、奇襲もおこないやすい。とはいえ、むろん完璧ではありえない。テュランジア軍三三〇〇隻は索敵を怠《おこた》ってはいなかった。かくして五・六光秒の距離で、一〇時方向から殺到するタイタニア軍を捕捉することができたのである。司令官コンノート少将は、唾を飲みこみつつ迎撃を指示した。タイタニア軍は三六〇〇隻、戦力はほぼ互角と推定された。六月一〇日一四時二〇分。シラクサ星域の会戦が始まる。型どおり、砲戦によって戦いは開始されたが、テュランジアの砲火がタイタニアを圧し、戦いは彼らにとって有利に展開した。 「撃て! 撃ちくずせ!」  コンノートは絶叫した。これは指揮ではなく、興奮の表現でしかないが、勢いに駆られてテュランジア軍は前進し、砲火をあびせ、陣形を完成される前に先制されたタイタニア軍を撃ちくずした。  タイタニア艦隊は後退した。苛烈な砲火の前に、怯懦《きょうだ》をしめしたかに見えた。その艦隊運動は、つねのタイタニア艦隊の精悍《せいかん》さから遠いように思われた。若いながら歴戦の雄であるアリアバート・タイタニアが、「ケルベロスの会戦」における敗北によって自信を喪失し、用兵のセンスに曇りを生じたかと思われた。コンノートはそう信じ、観察より願望を優先させる指揮官の弊《へい》をむき出して、急進をつづけた。  コンノートの勝利感は二時間弱つづき、そこで永遠に破砕されてしまった。テュランジア軍の突進に突きくずされる形で無秩序な後退をつづけていたタイタニア軍が、艦列を分散させたかと見る間に、一〇〇〇余のガンボートが横列展開し、突進するテュランジア軍に向けて、ワイゲルト砲を斉射したのであった。  それこそファン・ヒューリックが考案したばかりの、ガンボートによるワイゲルト砲使いすて戦法であった。その戦法が存在することを、コンノートが知らなかったわけではない。だが、敵が使ったばかりの戦法を、タイタニアが使うとは想像しえなかった。さらには、ガンボート一隻の犠牲で巨艦一隻を破壊するという発想自体が、いわば貧乏人の考えであって、タイタニアにはなじまない。その先入観がコンノートを誤らせたのである。タイタニアは奇策より物量と正攻法をもって、敵部隊を圧倒し、エネルギーの力強い臼歯《きゅうし》によって敵を噛みつぶす。それが奇策、しかも敵手から教えられた奇策によって戦うとは。  だが事実はコンノートの想像の限界をこえた。三〇秒間で、テュランジア軍は全兵力の三割を失い、戦闘継続能力を奪われたのである。 「タイタニアめ……」  怒りと絶望が彼の視神経と平衡器官を乱打し、コンノートは床に膝《ひざ》をつきそうになった。参謀長ハーフェズ少将が彼をささえつつ退却を指示した。タイタニアが反転攻勢を開始し、閃光と火球が連鎖するなか、コンノートの旗艦マリウスは艦体に四ヶ所の損傷を受けながら、かろうじて追撃を振りきった。だが、この一戦においてテュランジア軍は恒星間戦闘力の七割を喪失し、タイタニアに対する物理的反抗を完全に放棄せざるをえなくなったのである。いずれ両者の間に一方的な不平等条約が締結されるであろう。  アリアバート・タイタニアは、わずか一ヶ月で先日の苦杯を雪《そそ》いだ。しかも彼を破った敵将の戦法を使ってである。タイタニアは敗北に甘んじることはなく、それを逆用して自らの栄光を強化した。この柔軟さにこそ、慄然《りつぜん》とすべきものがあるのだった。 「タイタニアの恐ろしさを見たか。奴らはつねに革新の姿勢を失わぬ。守旧《しゅきゅう》を事とするわが帝国が、奴らに遅れをとる所以《ゆえん》ではないか!」  そう叫んで、宇宙戦艦の床に杯を投じたのは、ヴァルダナ帝国軍の若い提督、三〇歳をこしたばかりのサラーム・アムゼカールであった。丈《たけ》高く、麦わら色の髪と琥珀《こはく》色の瞳を持つこの青年は、テュランジア公国に軍事顧問として滞在中、この戦いに参加することになり、司令官コンノート同様、間一髪で死の愕[#「月+咢」、第3水準1-90-51、unicode816D]《あぎと》から脱出したのであった。もはや彼は祖国へ帰ることもできない。いずこへか亡命して身の安全をはかるしかないであろう。    実力なき者が恃《たの》むものは、伝統と様式である。かつてヴァルダナ帝国は自らの力をもって、星間都市連盟と拮抗《きっこう》していた。全体的に劣勢であって、連盟の優越の前に、引き立て役となっていた感はあったが、とにかく自力で立っていたのである。タイタニアが都市連盟を離れてヴァルダナ帝国に身を投じたとき、ヴァルダナは君臣ともに喜んで手をたたいた。ヴァルダナによる宇宙の覇権が確立されるかに見えたのであり、帝国の前途には無限の未来が沃野《よくや》を広げているかに思えたのである。  結果は、今日の状況である。タイタニアにとって、ヴァルダナ帝国は宇宙を支配するための道具であるにすぎなかった。ヴァルダナにとどまらず、国家の尊厳というものをタイタニアが笑殺《しょうさい》してのけていることは、歴史的な事実であった。家と同じこと、旧くなればこわしてあらたに建てればよいというのが、タイタニアの考えなのである。  ヴァルダナ帝国政府は、宰相、副宰相、外務大臣、大蔵大臣など十二名で構成されている。軍務大臣は、この一世紀以上、つねにタイタニアの一族や幹部によって占められてきた。現在の軍務大臣はエストラード・タイタニア侯爵、藩王アジュマーンの異母兄である。  帝国にはいちおう憲法も議会もあるが、ほとんど停止状態にある。議会の構成員たる議員は一六六〇名を算《かぞ》えるが、終身制の上になかなか欠員を補充しないので、実数は九〇七名、平均年齢七二・九歳というありさまであった。  かつてネヴィル・タイタニアは、自分が育《はぐく》まれたはずの民主主義社会を、つぎのように冷評したことがあった。 「民主主義など、政治的化粧技術にすぎぬ。民主主義に値する人間が、この宇宙にいったいどれだけいるか」  腐敗した政治家の利権のおこぼれを拾い集めるような奴らに、何が期待できるというのか。そうネヴィルは吐きすてたのであった。これはネヴィルの父親が星間都市連盟とのより強固な政治的統合を推進しようとして反対され、陰謀めいたやりくちで追放されて失意の裡に没したことと、無関係ではないであろう。  いずれにしてもヴァルダナの国家も宮廷も政府も、タイタニアにとやかくいわれる以前のあわれむべき状態にある。タイタニアがやらないことを受け持って細々と行政を処理し、税を集めているだけのことだ。だが、なさけない状態だからといって感情がないわけではない。 「タイタニアの専横《せんおう》、もはや放置しておけぬ」  声に出すまでもない、多くの廷臣たちにとって、それは共通の認識であった。とはいえ、実行のともなわない認識は、内攻して彼ら自身を傷《いた》めつけるだけのことである。 「そもそも、タイタニアとは何者だ! つい二〇〇年ほど前まで、たかだか都市連盟の有力者というにすぎなかったのだ。それがハルシャ二世陛下のご厚恩《こうおん》によって、いつのまにやら成りあがり、人もなげにふるまっておる」  勢いよい発言だが、それに比例して虚しさも増大する。たかが都市連盟の一有力者にすぎなかったタイタニアは、世代を経て、列国を靴底に踏みにじる覇王《ダイナスト》となりおおせた。時の経過は万人に平等である。タイタニアが遠大な階梯《かいてい》を駆け上る間に、ヴァルダナ帝国の君臣は何をやっていたというのであろう。  六月一二日夜、アリアバート・タイタニアの勝利が伝わった後、ヴァルダナ帝国宮廷の高官一四名が、内務大臣ザグデンの邸宅に集まった。名目はザグデンの大臣就任二周年祝賀ということであったが、列席の顔ぶれは、すべて反タイタニア感情の所有者であった。司法大臣ヘラウァー、民政大臣ヌニエス、宮延書記官長デフォンテーヌといった人々である。地下の撞球《ビリヤード》室が会合の場となり、撞球台は運び出されてテーブルが並べられた。扉の外には見張りが立ち、心理的に安全が確認されると、酒と会話がたけなわとなった。 「タイタニアとて不敗ではない。現につい先日、ケルベロス会戦でそのことは証明されたではないか。タイタニア打倒は、けっして夢物語ではないぞ」 「だがアリアバート・タイタニアは、短時日の裡《うち》に雪辱したぞ。かえってタイタニアの凄《すご》みを世に知らしめたようなものではないか」 「そうだ。まさに凄みだ。あの柔軟さと回復力があるかぎりタイタニアを甘く見てはいかん」  酒がまわるほどに雰囲気が暗く沈む酒宴というものも珍しい。もともと政治的敗者が集まって勝者に対する不平を鳴らそうというのだから、景気がよくなる道理もないのだが、列席者の大半が歴代の貴族で、タイタニアに反抗する勇気もなく、秘かに集まって酒の勢いを借り、この場に居あわせない者の悪口を並べるのがせいぜいであった。陰謀めいたものが提議されることもあったが、具体性をおびたことはなく、所詮《しょせん》は妄論《もうろん》でしかないことを、彼ら自身が認めざるをえなかった。ところがこの夜はやや様相が異《こと》なった。誰かがつぎのように言い出したのだ。 「軍務大臣を利用できぬか」  その声が流れると、列席者の間に、金属的な緊張の波が走った。酔いに濁った目が、希望に似た光をたたえたようにも見えた。        V    ヴァルダナ帝国政府の軍務大臣エストラード・タイタニア侯爵は、無地藩王アジュマーンの異母兄である。年齢は四二歳。正式な結婚によって生まれたのではないが、その点はアジュマーンも同様であって、母方の血統が彼の就位《しゅうい》をさまたげたわけではなかった。冷厳ないいかたをすれば、器量が異母弟におよばぬものとみなされたのである。けっして凡庸《ぼんよう》ではなかった。艦隊を指揮しても、大使として外交の任にあたっても、内務大臣として行政を処理しても充分に責任を果たしていた男だ。それだけに失望は大きかった。 「なぜ自分でなくアジュマーンが無地藩王の座を占めえたのか。功績が弟に劣っていたとは、どうしても思えぬ」  いかにタイタニア的価値観、一族の団結に対する忠誠心を植えつけられているとはいえ、エストラードには自分の境遇を納得することができなかった。異母弟が藩王となったことにともない、彼自身も伯爵から侯爵に昇《のぼ》ったが、傷心はなぐさめられなかった。むしろ異母弟から恩を売られたように感じ、不満と自嘲は、やり場なく内攻した。  軍務大臣もタイタニアであるから、内心の不満を外にもらしたりはせぬ。だが、弟たるアジュマーンの藩王就位、その事実自体が充分に雄弁であったし、宮廷人種は、嫉妬や不満といった負《マイナス》方向への人心の動きに対して敏感であった。エストラード・タイタニア侯爵の不満は、いわば公然の秘密であった。  その彼を、タイタニア内部の敵にしたててはどうか、という提案は、当然の着眼であるように思われたが、何しろタイタニアはタイタニアである。個人的な不満より一族の結束を優先させるのではないかとも見られていたのだ。  だが、いずれにしても、まだまだ貴族たちの酒席での戯言《ざれごと》にすぎなかった。宮廷貴族は、猫の首に鈴をつける危険な役を、他人にさせたがるものだ。むしろ彼らの談議は、計画の具体化から遠ざかる方向へと移っていき、やがてひとりが腰をあげると、会合自体にも幕がおりることになった。  一同が散会すると、邸宅の主人である内務大臣ザグデンは、従僕《じゅうぼく》たちに命じて会場を清掃させた。自分はまず洗面室へ行って冷水で顔を洗い、口をゆすぎ、酔いを体外へと追い出す。真剣だが同時にやや陰険な印象で、彼は人を遠ざけ、書斎にこもった。   「|天の城《ウラニボルグ》」の奥まった位置にある最高執務室で、無地藩王《ラントレス・クランナー》アジュマーンは、いくつかの書類を決裁《けっさい》していた。藩王府の首席秘書官グラモン卿が入室して、うやうやしく来客を告げた。彼に先導されてきた客は、若いタイタニア、イドリス公爵である。 「藩王殿下、ご報告申しあげます。内務大臣ザグデンからの知らせによりますと、先刻、彼の邸宅に不満分子の高官どもが集まり、世迷言《よまいごと》を並べたてましたそうな」  藩王は沈黙していた。続きをうながしたものと釈《と》って、イドリスは語をついだ。 「小物どものやりそうなことでございます。私が不在と知ったとたんに、不満分子どもが集まってよからぬ謀議を始めました。罠かと疑いもせぬあたり、奴らが何をしでかそうと愚者の妄動にすぎませぬ」  談合のなかで、藩王の兄たる軍務大臣の名が出たことも告げられた。語る者も聞く者も、さりげない態度をたもっている。 「まさか会合場所の提供者が、われらに通じているとは思いもしますまい。正直といえば正直なお歴々です」  冷嘲にみちたその評語が、報告の終わりであった。アジュマーンは、はじめてうなずき、報告者の労をねぎらった。 「よくやった、イドリス卿を近衛の任にあてた甲斐があったというものだ」 「おそれいります。ときに軍務大臣のほうは、いかが致しますか」  この一言を吐かせたのは、イドリスの若い客気である。藩王アジュマーンは、力強い眉を微動させ、一瞬の沈黙を返答に先だたせた。 「この時点で軍務大臣に手を出しては、囮《おとり》の役を果たすまい。イドリス卿のいう愚者の妄動が、どのように展開するか、いますこし楽しませてもらおうではないか」 「藩王殿下のおおせであれば」 「イドリス卿は、明日、リュテッヒへもどれ。今後も宮廷貴族どもの動静に観察をおこたらぬよう努めよ。くれぐれも、当面は油断をよそおって彼らを増長させることだ。まだまだ急ぐ必要はない。よろしいな?」 「御意……」  うやうやしく一礼して、イドリス・タイタニア公爵が退出すると、無地藩王アジュマーンは、執務デスクに片|肘《ひじ》をついて考えこんだ。快げな表情ではなかった。他人には見せぬ灰色の表情を消したのは、ふたたび首席秘書官グラモン卿が入室して、「天の城」の住人たちにバルコニーから挨拶する時刻を告げたからである。この夜〇時、アジュマーンはジュスラン・タイタニア公爵をともなって藩王府最外郭のバルコニーに上り、数万人の群衆から歓呼を受けた。 「ヘイル・タイタニア!」  タイタニア万歳《ばんざい》を意味する歓呼が湧きおこって、広大だが密閉された空間に波紋をおこした。泰然《たいぜん》と、また巍然《ぎぜん》とした態度で、藩王はそれに応じたが、バルコニーの端から一歩しりぞくと、後方にひかえるジュスラン・タイタニア公爵を、広い肩ごしに顧《かえり》みた。 「この歓呼を憶えておくことだ、ジュスラン卿。いまタイタニアに万歳を叫んでいる群衆が、いつか同じ口から打倒タイタニアを叫ぶかもしれぬ。彼らの祖先は、三〇〇年ほど過去には、星間都市連盟やヴァルダナ帝国に対して万歳を叫んでおったのだ」  そう語る藩王アジュマーンの横顔に、ジュスランはかるい不審の視線を投げかけた。このような藩王の発言を、何気なく聞き流すことは、ジュスランにはできない。剛毅《ごうき》な藩王が、なぜ自らの権勢を否定するような台詞《せりふ》を口にするのか、すぐには理解できぬまま、ジュスランは藩王の述懐に聞き入った。 「タイタニアは民衆を支配している、などと軽々しく口にする者がいるが、それは道理をわきまえておらぬからだ。古来、民衆を支配しえた者など、ひとりもおらぬよ。民衆は岩盤でつくられた河底だ。権力者は流れ去る水だ。水は去り、河底は残る。わずかに表層が水とともに去るだけのことだ」  沈黙が落ちかかり、やがてその重さに、若いタイタニアが耐えかねた。 「それをなぜ私にお話しになるのです、藩王殿下?」  藩王は唇を曲げたように見えた。笑ったのか、ジュスランが問うたことに失望したのか、判断を下すのは困難であった。 「私らしくないと思うか、ジュスラン卿?」 「いえ、ただ、私に対してそのようなことをおっしゃるのか、その所以《ゆえん》が無知な身にはわかりかねますので。殿下の御意が奈辺《なへん》にあるか、お教えいただければ幸いです」  藩王がつぎに口を開くまで、数瞬の空白が必要であった。 「アリアバート、ザーリッシュ、イドリス、いずれも有能で恐れを知らぬ。まさにその点こそが問題なのだ」  ジュスランを見やった藩王の表情は、自嘲と冷笑、にがい認識と透徹した洞察との、複雑なモザイク模様であった。口を開きかけてジュスランは自らを制し、藩王が語ることを一言も聞き洩らすまいと知覚神経を動員した。 「第二代藩王ヌーリィ殿下以来、すべてのタイタニアの族長は臆病者であったのだよ、ジュスラン卿。雄敵《ゆうてき》を倒し、弱敵を踏みにじりながら、内心で怯《おび》えていた。いつか自分たちも没落する日が来ることを知っていた。だからこそ、その日を少しでも先へ伸ばそうとしたのだ。そのあがきこそがタイタニアの歴史だ。その正体だ」  ジュスランは声と息をのみこんだ。以前からいだいていた彼の疑問は、すくなからず直截《ちょくせつ》的な重さをもって答えられたのだ。藩王はさらに語った。歴代藩王のそのあがきが、目に見える敵を求め、その打倒に熱中させたのだ、と。 「じつのところ、この将来《さき》ファン・ヒューリックとやらいう男がそれに使えると思っておったのだ。だがどうやら、容易にわれらの道具として使えるような人物でもなさそうだな」  道具とは何か。それが反タイタニア統一勢力の中心人物として、であることを、ジュスランは悟っていた。第二代藩王ヌーリィ以来、それはタイタニアの常套手段ではなかったか。 「これが一網打尽というものだ」とヌーリィは大粛清の成功後に語ったと伝えられる。それは勝ち誇ったゆえの発言と思われていた。だが、真実は、狩りそこねた敵はいない、と、自らの恐怖にむけて説得したのであったのか。 「私は私の代において、タイタニアの敵を掃滅《そうめつ》せねばならぬ。そして次代の藩王にタイタニアを渡す。タイタニアとともに、そのあらたな敵もな」  バルコニー下で群衆は歓呼をつづけ、アジュマーンは形をもってそれに応《こた》えた。 「藩王は臆病でなくてはならんのだ。それこそがタイタニアの血と権勢を、結局は永続させる。他の三人には、それが欠けておるのだ。わかるか、ジュスラン卿」  藩王の視線を受けて、ジュスランは深く一礼した。藩王の言葉の意味を理解したという象《しるし》であったが、同時に、おぞましさを禁じえなかったのだ。没落に対する恐怖こそが、タイタニアの力の源泉であろうとは。  藩王アジュマーンは話題を変え、ザーリッシュとアルセスの兄弟について語り始めた。これは、先刻名ざされたファン・ヒューリックが、アルセスに追われているという最新の状況から派生した話題であった。 「アルセスは兄の座を狙っておる。そのことは確かだ。べつにタイタニアの血が為《な》せる業《わざ》ではなく、世にありふれたことだがな」  必ずしもそうとは思わなかったが、ジュスランは、藩王に反論はしなかった。兄弟がいない身を少年のころは寂しく思っていた、そのことを想いおこす。彼はふと衝動に駆られ、尋ねてみた。 「ザーリッシュに警告なさらないのですか、藩王殿下」  その質問は、藩王をわずかに失笑させた。 「アルセスごときに公爵位を纂《うば》われるのであれば、ザーリッシュもそのていどの男だ。タイタニアの正嫡《せいちゃく》を継ぐなど、それこそ酔漢《よっぱらい》の夢というものだろう」  タイタニア一族は、自らの足をもって宇宙の深淵に立つ。一族のなかにあって、個々の人間もまた自らの足で立たねばならぬのである。タイタニアを律する、それが苛烈な炎の輪であった。倒れれば火に焼かれるのだ。 「ジュスラン卿よ、私が卿であったら、秘かにアルセスを扇動してザーリッシュを打倒させるだろう。卿自身はどうか、思うところを正直に答えてほしいものだ」 「私はそうは致しません」 「ふむ……」  なぜそうしないのか、と、アジュマーンは視線で問いかけた。ややためらいつつ、ジュスランは答えざるをえない。言葉を選びつつ、彼は藩王に説明した。アルセスを煽動してザーリッシュを打倒させる。然《しか》る後に、ザーリッシュ打倒の罪を問うて、アルセスを粛清する。ザーリッシュとアルセスを同時に消去して、ジュスランの地位は安泰となるかに見える。だが、じつはそうはならない。まだアリアバートとイドリスが健在であり、彼らはザーリッシュ兄弟の末路に不安を覚えるにちがいない。ジュスランが策をめぐらしたという確証はえられなくとも、猜疑して、ついにはジュスランにやられる前にやってやろう、と意を決するに至るであろう。その結果、タイタニアは二分されて内戦に突入し、共倒れとなろう。ならずとも、勝者がいちじるしく力を削《そ》がれ、結局は反タイタニア勢力が漁夫の利をえることになる。謀略の効用を否定はしないが、そのような形で一族をおとしいれることは、破滅のブーメランとなってわが身に返ってくるであろう。ゆえに自分はその手段を採《と》らない。それがジュスランの説明であった。 「……ヘイル・タイタニア! タイタニアよ、永遠なれ!」  その歓声に、わずらわしげな表情で頭を振ると、アジュマーンは正面からジュスランを見すえた。眼光の強さは、若いタイタニアを圧倒するに充分であった。空気が流動物と化したような数瞬の後に、アジュマーンは、はっきりと笑う形に口を動かした。だが笑声をたてるでもなく、まして眼光をやわらげるでもない。凍土の笑いであった。ジュスランは全身を打つ戦慄に耐えて立ちつくしていた。        W    当の軍務大臣エストラード・タイタニア侯爵は、惑星リュテッヒにいる。皇宮の正門から五〇〇メートルしか離れていない豪壮な邸宅の談話室で、ひとり酒杯をかたむけているのだった。四二歳という年齢よりは、やや老《ふ》けて見えるが、端整な容貌と機能的な長身は、おおかたの宮廷貴族をしのぐ格調をそなえている。タイタニアの重鎮として恥ずかしくない外見の、彼は所有者であった。閲歴《えつれき》もまた外見にふさわしく、彼が年少の四公爵におよばぬものは、ただひとつ、爵位だけであった。  だが、それらの名誉と栄光は、いまの彼にとって、むしろ不快感をもたらすものであった。軍務大臣の口からは、アルコールの匂いと、イドリス・タイタニアに対する低い罵声とが、絶えることなく流れ出していた。  イドリスは近衛軍団司令官であり、軍の階級は上将である。エストラードは大将であり、軍務大臣であって、階級的序列はイドリスの上位にある。だが帝国の公的な階位は、タイタニア内部の序列に優先されるのである。タイタニアにおいて、彼は最高会議に出席を許されぬ傍流《ぼうりゅう》の身であった。名声と閲歴とで彼に劣る弱輩《じゃくはい》どもが、藩王と同じ会議用のテーブルにつくというのに。  イドリスなど、本来、軍務大臣の眼中にない青二才であった。エストラードに会うたび、かたくなって、年長者に対する礼をほどこしていたものだ。それが五家族の当主の一員となった瞬間から増長して、軍務大臣たる身をないがしろにするありさまである。 「おのれ、青二才め……!」 「青二才とは私のことでしょうか、父上」  若々しく、生気と涼気に満ちた声が、扉の位置から流れこんできた。杯から視線をあげて、軍務大臣は、声の主の姿を確認した。彼の長男バルアミー・タイタニア子爵が、あらたなワインの瓶を持ってたたずんでいた。タイタニアの高級軍服を着用した彼は一八歳、すでにして准将であった。金褐色の髪と、淡い紫色の瞳をしたこの息子は、ジュスランより聡明でイドリスより美しい、と、父親は信じ、誇りにしている。 「むろんお前のことではないさ、ありがたい公爵さま方《がた》のことだ」 「公爵といえば、アリアバート公爵は連月のご出征でしたね。父上が首都にいらっしゃる間に」 「私は軍務大臣だ。首都にあって全軍部を管理するのが任務だ。艦隊をひきいて戦場に出るなど一介《いっかい》の提督にまかせておけばよいことだ」 「父上、ご自分のおっしゃったことを信じておいでですか」  息子の声はやわらかいが、それだけではなかった。淡い紫色の瞳に、奇妙な光が踊っている。父親は、酔いの一部が彼から去るのを覚え、せきばらいした。 「何を言いたいのだ、思わせぶりな」  父の問いに直接は答えず、バルアミーは銀色の杯に動脈を流れる血の色をした液体をそそいだ。そそぎ終えて、紫色の視線を父親に向ける。半ばあやつられるように、軍務大臣は手を伸ばし、銀杯を手にした。韻律《いんりつ》をおびた声が、息子の口から流れ出した。 「五年前、私は自分が無地藩王の息子になるのだと信じ、嬉しさに心を慄わせておりました。ところが、大位は父上の御手をすりぬけ、アジュマーン叔父の手に落ちました。私にとってはこれほどの落胆はございませんでした」  父親はうめいた。銀杯をあおぐ。 「いうな、もうすんだことだ」 「父上、空《から》の御手が寂しくはございませんか」 「……バルアミー!」 「何を驚かれます? これまでも表面にあらわれなかっただけのことではありませんか。タイタニアの血は一族の血を好む。第二代ヌーリィ殿下以来、つねにそうだったのです」  父親も充分に承知の事実を、バルアミーはことさら重々しく告げてみせた。 「聖人君子に宇宙を支配することなど、叶《かな》いませぬ。星々の深淵は、強者にのみ媚《こ》びを売ります。まして運命の女神など、売女《ばいた》も同様」  息子の視線の先で、父親は荒々しく銀杯にあらたな深紅の滝をそそいでいる。小さく息をついて、バルアミーは言いついだ。 「私は二代目たるヌーリィ殿下をこそ崇敬《すうけい》しております。畏《おそ》れながら初代のネヴィル殿下は、力をもって衆を圧するを知るのみ。真《まこと》の創業は、ヌーリィ殿下の御手によって成りました。そして一族の繁栄と統一のためには、血族すら容赦せぬという姿勢もまた……」  突然、軍務大臣はひきつった笑声を発し、息子の能弁を中断させた。半ば残った内容物《なかみ》ごと、父親は銀杯を絨毯《じゅうたん》の上に擲《なげう》った。 「まったく奇怪なことだな、バルアミーよ、一滴も酒を飲まぬはずのお前が、今宵《こよい》は私以上に酔っているように思えるぞ」 「私の特技のひとつです。ご存じありませんでしたか、父上」  余裕をもって、息子は、父親が擲《なげう》った銀杯を拾いあげた。絨毯にひろがる星雲状のしみに冷淡な視線を投げつけ、微笑とともに、父親の前に銀杯をもどす。父親の心理を、まるで毬《まり》のように掌《てのひら》の上でころがしながら、彼はさらに熱っぽくささやきかけた。 「ご自分が藩王になれなかったという事実、それを父上ご自身が納得しておいでなら、私などが口を出す必要はありません。ですが、父上、納得しておいでなのですか。心から、ご自分の器量が弟に劣ると考えておいでなのですか」 「黙れというに」  命じはしたが、エストラード・タイタニア侯爵の声は弱々しい。彼は臆病者ではなかった。一般的な意味においても、藩王たるアジュマーンがジュスランに語ったような意味においても。その彼が、認めたくはないことであるが、このとき恐怖の汗を心臓の内壁にしたたらせていた。不満と反逆との間には、深い長大な溝《みぞ》がある。それを飛びこえるには、すくなからぬ精神的なエネルギーが必要であり、ヴァルダナ帝国の宮廷貴族たちに欠落しているものは、まさにそれであった。そして軍務大臣エストラード・タイタニア侯爵においてさえ、この飛越《ひえつ》は容易なものではなかったのである。  父親の心理的内戦状態を、息子は、解剖学的な冷静さで観察していたが、やがて、おそるべき説得を再開した。彼は父親の勇気にではなく、恐怖心に訴えたのである。 「このまま老いていってよいのですか」  その問いは、おそろしい宣告であった。 「失礼ながら、父上はすでに四〇歳をこえられ、人生の半ばにおいでです。次代の藩王位を、四公爵と争うわけにはいきますまい。二〇年の後に、四公爵は未だ四〇代、父上は六〇代、そもそも後継者が現在の当主より年長だなど、歴史上にまず例のないことです。誰も支持はしますまい」  軍務大臣は、自分の深層心理が息子によってえぐりまわされるのを感じた。彼は呼吸をととのえ、狡猾《こうかつ》とも釈《と》れる反問によって、頽勢《たいせい》を挽回しようとした。 「そもそも、なぜお前は私が藩王位を欲していると思うのだ?」  だが、そのていどで、彼の息子をおそれいらせることはできなかった。 「タイタニアの血がそう教えるのです。指をくわえて見送るくらいなら、力をもって奪え、と。私の血は父上からいただいたもの。父上のお心を理解できぬはずがございません」  敗北を、エストラードは感じた。それは屈辱感をともなわず、むしろ、旧《ふる》い秩序の甲冑《かっちゅう》をぬぎすてたかのような軽快さを彼に与えた。 「野心を持つのはよい。だが、それを達成するのは容易なことではないぞ。よほどに非常の覚悟が必要だ。わかっておるのか?」  その声は、いわば甲冑をぬぎすてるときのきしみであった。 「言っておくが、ヴァルダナの宮廷貴族どもは頼むにたりぬぞ。奴らは私を利用しようとしているやに思えるが、危険が迫れば、たちどころに私らを売るだろう。奴ら以外に味方をえねばならぬぞ」 「はい、心えております、父上」 「四公爵もいずれも凡庸ではない。甘く見てはならんぞ。とくに、ジュスラン公爵、あれは奇妙に奥深いところのある男だ」 「そのようにおっしゃるからには、父上、私と志を同じくしていただけるのですね。そう思ってよろしいのですね」  明確に問う。というより、質問の形をとった、それは断定だった。この期《ご》におよんで、エストラードは一瞬ひるんだように見えたが、まったく一瞬のことであった。重々しく、軍務大臣はうなずいてみせた。 「制止しても、お前はもはやとどまるまい。私もお前と共に行こう。だが、あえてくりかえす。容易な道ではないぞ。途中で後悔しても引き返すわけにはいかんのだぞ」  こうして、ヴァルダナ帝国の軍務大臣エストラード・タイタニア侯爵は、息子に引きずられる形で、流血の走路に足を踏みこんだのである。 [#改ページ]        第四章 袋小路でジャンプ            T    ファン・ヒューリックの政治的信念を過大評価する必要は、じつはまったくない。彼がタイタニアの強大な支配に反抗するに至ったのは、主義主張や理想のためではなく、じつに気質のためであった。むろん、これは四捨五入された表現であるが、ファン・ヒューリックの気質、他者への従属を好まぬ気質が、歴史に与えた影響を無視するわけにはいかないであろう。  二〇代半ばまで、そのような気質の顕在化は、ファン・ヒューリックの上には見られない。彼はごく平凡な商船や商館の事務員であって、上司の命じるままに、デスクワークについたり旅行客の世話をしたりしていた。大望をいだいて世を忍んでいたのでもないことは、タイタニアの収容所から帰って以後、都市艦隊《シティフリート》所属の軍人となるまでの軌跡を見ても判然としている。まじめに軍人になる意思など、彼にはなかったのである。  軍事的な才能というものは、人間の才能のなかで、おそらくもっとも発掘されにくい能力であるだろう。芸術家であれば、その創作活動の成果を形として遺すことにより、生前にえられなかった名声を、死後に獲得することもある。だが軍事的才能はどうか。戦乱の世であれば不世出《ふせいしゅつ》の名将と称されるべき男が、平和な世には無能な小役人として生涯を終わるかもしれないのだ。元帥になれたはずの偉大な人物が、裏街で細々とホットドッグを売っているかもしれない。  その意味で、ファン・ヒューリックを、幸運な男と呼ぶこともできる。彼の才能は軍事であり、しかも軍事以外に、ろくな才能はなかった。また、とくに他の生きかたや職業に対する理想があったわけでもない。逃げ出すことに失敗して、母都市の軍隊に放りこまれなければ、はなはだ非建設的な人生を送っていた可能性が高いのである。むろん、それが本人の主観にとって幸福であったか不幸であったかは、べつの問題である。  もともと、強大な権勢に対して反発するような資質がファン・ヒューリックに内在していたことは事実であり、いくつかのにがい経験がそれを助長した結果、二八歳になったときには、りっぱなひねくれ者がひとりできあがっていた。ワイゲルト砲の使用法について、劇的な改変をおこなったという一点でもわかるが、他人と同じことを考え、現状に対する批判的認識能力を持たないような人間が、改革を主導することはありえないものである。  ケルベロスの会戦において、ファン・ヒューリックは常勝不敗のタイタニアに土をつけた。これが「眠りこんだ歴史の枕を蹴とばす」行為であったことに、勝者たるエウリヤ市はまるで気づかず、ひたすらタイタニアの現状における力を恐れ、勝利の責任者たるファン・ヒューリックを追放してしまったのだ。にんじん色の髪をした青年があげた劇的な戦術的勝利は、エウリヤ市の戦略的勝利に結びつくどころか、その逆に作用したのである。エウリヤ市がタイタニアに勝つ意思をもってファン・ヒューリックを登用し、その戦術的勝利を外交戦略レベルで生かすよう努めていれば、エウリヤ市はその後の宇宙史の進展に大きな役割を果たすことになったであろう。だが、事実は、エウリヤ市の名は歴史の砂丘に埋没し、ファン・ヒューリックの出身地として、わずかに知られるのみである。  さて、六月の前半を、失業者兼逃亡者ファン・ヒューリック氏は惑星エーメンタールの上ですごした。エーメンタールを気に入ったからではなく、この惑星の有力者アルセス・タイタニア伯爵閣下が、宇宙港をはじめとする要所要所にグレーの軍服を配置し、彼を惑星から出さないようにして下さったおかげであった。  住所不定無職の、にんじん色の髪をした青年をかくまってくれたのは、結局、リラ・フローレンツと名乗る娘だった。彼女の背後に、反タイタニアの地下勢力がいることを洞察して、ファン・ヒューリックは彼女から離れようとしたのだが、いくつかのホテルに、にんじん色の髪をしたのっぽの青年の写真が配布され、TV画面にもあらわれたとなると、にわか有名人としては、行く場所を失ってしまったのである。  加えて、重要なことだが、リラはオムレツをつくるのが得意であった。一泊しての翌朝に、はじめて口にした野菜オムレツは、たいへんな美味であった。正確には、ファン・ヒューリックの味覚に合ったのだ。かくして、オムレツにつられての滞在となった次第である。  リラの祖母は、かつてカサビアンカ公国で公妃づきの女官をしていたという。かつては優美な貴婦人であったかもしれないが、今日では、半分化石になってしまったような、生気のない、古ぼけた油紙のような皮膚をした老女だった。彼女は客人に自分の若いころの立体写真を見せようとしたが、ファン・ヒューリックは固辞した。若いころの彼女が現在のリラにそっくりだったとすれば、夢も希望もなくなるというものである。  すると老女は客人の目でなく耳に訴えようとした。昔話で、彼の興味をひこうとこころみたのである。 「わたしが女官だったころはねえ……」 「悪いけど恐竜が生きてたような時代のことに興味はないよ」  老人を敬《うやま》うという一般的な美徳に、ファン・ヒューリックが無縁であったわけではないが、辺境の(と勝手に彼は決めつけている)小公国の宮廷生活になど、彼は興味がないのである。彼の興味は、リラがつくってくれるオムレツの味と、いつアルセス・タイタニアがふんぞりかえるこの不愉快な惑星から出ていけるか、その二点にかかっていた。不本意な潜行生活を楽しもうという気分は、あまりなかった。  リラは磨《みが》けば光る原石だと思うし、律動的な動作や生気に富んだ表情の変化がたいそう魅力的だが、色香にやや欠けるのは、ぜひもない。彼女の祖母ときては問題外である。要するに、ファン・ヒューリックの潜行生活は、情緒に欠けていたというわけだが、情緒に富んだ潜行生活などというものが存在するかどうか、ファン・ヒューリックには、よくわからない。タイタニアの収容所での生活よりはましだ、と思っていた。食事はうまいし、ソファーベッドでは手足を伸ばせる。シャワーをあびることもできて清潔である。最初はそれなりに満足していたのだが、荒野の収容所生活に比べて、精神的な束縛感ではむしろ上まわるかもしれない、と、そういう気が、このごろではするようになってきた。エーメンタールは豊かな土地|柄《がら》で、一歩外に出れば酒も女も羽をひらひらさせて男どもを誘っている。その気になれば、快楽の選択には困らない。ファン・ヒューリックは充分にその気になっているのだが、そして快楽を買うための資金も手もとにあるのだが、下町のうらぶれたアパートに閉じこめられて、外に出られないのである。アルセス・タイタニアは、すくなくとも吝嗇《けち》ではないらしく、失業青年の身柄に一〇万ダカールの賞金をかけて行方をさがしているのであった。ファン・ヒューリックとしては、自分で自分の襟首をつかんでタイタニアの支部におもむき、「このとおりだ、一〇万ダカールよこせ」と主張したいくらいのものである。大して気のきいたジョークでもないが、ファン・ヒューリックが気にしているのは、一〇万ダカールという金額を耳にしたときに、リラの祖母が示した反応であった。生きたまま半分化石になってしまったような老女が、皺《しわ》に埋もれた目を偽の宝石のように光らせたのである。その光はすぐに消えて、錯覚であったかと思われたのだが。  リラの知人にも会った。同志と呼ぶのが正確なのだろうか。カサビアンカ公国の高官、大蔵大臣と経済大臣を兼任していた男の遺児であるという。要するに、公国という存在にすがって食っていた連中の二代目どもが、革命ごっこをやっているのだな、と、ファン・ヒューリックは決めつけることにした。それ以上に考えようがない。  その二代目、フロリモンド・デ・ボーアという三〇代前半の男は、悪い意味で学者風の男だった。現実より理論が優先し、利害関係というものの存在を認めようとしない。理論それ自体が、汎人類的なレベルのものではなく、たかだかカサビアンカ公国の復興というていどのものでしかないから、ファン・ヒューリックとしては、せせら笑いたくなるのであった。彼は国家や組織に対しては、明確すぎるほどの生命力定量論者で、ひとたび滅びた国を再興するなど、歴史に逆行することだと思っている。 「しかしまあ、タイタニア一族というのは美男子ぞろいだな。容姿も支配者の必要条件ってわけか」  これこそタイタニアの諸悪の源だ、として、デ・ボーアが持参した藩王と四公爵の立体写真を、ファン・ヒューリックはつくづくと眺めやった。  なかではジュスラン・タイタニアという人物がやや落ちる印象だが、りっぱに美男子の範囲にはいる。境界線上をうろついているファン・ヒューリックとは比較にならない。もっとも、ファン・ヒューリックは、アルセス・タイタニア伯爵とまったく趣味が異なるから、美男子が幾人そろっていようと、べつに嬉しくはなかった。彼は関心の所在を、声に出して確めた。 「で、タイタニアのご婦人がたの立体写真はないのか」  ない、と、明快な返答であった。理由はというと、たとえタイタニア一族であっても、女性をテロの対象にはしない、というのである。「はあ、さようで」と、ファン・ヒューリックはつぶやくしかない。女性をテロの対象と考えない点で、ファン・ヒューリックは相手と同様なのだが、つまり美的観賞ないし肉体的接触の対象として、多大の関心があるわけであった。  立体写真をながめているファン・ヒューリックに、デ・ボーアは、熱弁をふるった。九九パーセント以上が、ファン・ヒューリックの脳をバイパスして片耳から片耳へ抜けていったが、要するに、自分たちの公国が再興されるのに力を貸してほしい、というのであった。ひとつふたつ疑問を感じるところがあったが、興味を示したと報《と》られるのがいやなので、ファン・ヒューリックは沈黙していた。  デ・ボーアという男も胸中の思いを、すぐ口に出す性質《たち》であるようだ。いや、それとも、すべては演技か。ひとつの事実があり、それに対する認識があり、その認識をどう表現するかということがある。この三者が、いささかのずれもなく同一であるということは、あまりないことだ。ファン・ヒューリックは、立体写真をながめるふりをして、デ・ボーアを観察し、かつ自分の考えをめぐらしている。結論らしきものは、すでに出ている。初対面の相手にむかって、三文小説の登場人物ではあるまいに、五ページ分もの演説を一方的にぶつような人物を、同志として信頼する気には、ファン・ヒューリックはなれないのである。それが演技であったら、心情的に信用できないし、もし本性であったら、能力的に信用できない。弁舌上の革命は、現実化した革命の一億倍くらいは存在しているはずだ。  さすが駆動力を誇るデ・ボーアの舌、やがて疲労したか、回転をやめたので、ファン・ヒューリックはおもむろに、公国の再興などに関心がないことを告げた。すると、デ・ボーアの舌がまた動きだす。 「だが、このまま手をつかねてタイタニアの隆盛を見すごしているとしたら、われわれはただの愚者だ」 「ただの愚者が、まだましさ。有害な愚者よりはな」  いうまでもないが、これは皮肉である。ところが、哲学上の重要な命題を与えられたかのように、デ・ボーアが考えこんだので、ファン・ヒューリックはあきれてしまった。つぎのように忠告したのは、彼としては、むしろ善意にもとづくことであった。 「あんたたちに革命とか叛逆とかやるのはむりだよ。べつに貧窮《ひんきゅう》した生活を送っているわけでもないだろ。公国とか大臣とか、甘い夢を見るのはやめて、地道に生活しなよ。この惑星は、宇宙で一番、住みよい部類に属していることだしさ」  柄《がら》にもないお説教とは、まさにこれである。相手はいっこうに説得されてくれなかった。        U    失業青年ファン・ヒューリック氏の単調な生活に転機らしきものが訪れたのは、六月一六日のことであった。  永遠にエーメンタールの下町で逼塞《ひっそく》しているわけにはいかない。タイタニアの息がかからない中小の商船会社に交渉して、どこかへ運んでもらおうと考えたのである。さしあたり、辺境星域の交通中枢であるバルガシュにでも移動して、またそれから身の振りかたを考えることにすればよい。エーメンタールは住みよい惑星だ、と、ファン・ヒューリックは、デ・ボーアにむかっては言ったが、それも行動の自由が保障されていればこそであった。一室に閉じこもっているのなら、麗《うるわ》しのエーメンタールであろうが、貨物船の船倉であろうが大差ないのである。 「世話になった。おれは出ていく」  この際、詩人を気どってもしかたないので、ファン・ヒューリックは、ごく散文的に、うら若い大家《おおや》さんに宣言した。三食、ベッド、シャワーつき一六泊の謝礼として、二〇〇〇ダカールをリラに手渡す。すこし余分かとも思ったが、若い女の子の化粧品代になるのなら、まあいいさ、と考えたのだった。四枚の高額紙幣を受けとろうともせず、リラは、にんじん色の髪の青年を凝視した。 「これからどうするつもりなの? どこか行くあてはあるの」 「失業者のひとりぐらい容《い》れる余地は、宇宙にはあるはずさ。いずれにしても、これ以上、エーメンタールでやることもない」  もともとファン・ヒューリックは、星間都市連盟の一員であったから、商館《コントール》へ行って話をつけることもできるかもしれない。然《しか》るべき代金を支払えば、乗せてくれる船はあるはずだった。客として乗らなくとも、たとえば貨物船の事務員として雇用されてもいい。エウリヤ都市艦隊司令官の地位に三ヶ月ほど留《とど》まってはいたが、べつに栄耀栄華《えいようえいが》をほしいままにしていたわけでもないから、一介の事務員にもどったところで、いっこうにかまわなかった。どうせ長期間の宮づかえに耐えられるはずもないが、適当な惑星に着いたら船を飛び出せばすむことである。  街で一〇万ダカールの夢を追いかける奴も減ってきたようである。そろそろ逃げ出すにはいい時機だ。今晩いっぱい泊めてもらって、明日の朝、通勤者の群にまぎれて出ていく。そうファン・ヒューリックは告げた。 「お前さんのオムレツの味は忘れないよ。せっかくこんなに料理がうまいんだからさ、何とか公国の復興なんて後ろむきの夢を見るのはやめて、いい男を見つけて嫁さんになれよ、な?」  洗練されているとは、とてもいいがたい台詞だが、べつにくどいているつもりはないから、これでいいのである。  そしてエーメンタール最後の夜を、ファン・ヒューリックは心静かにすごすつもりであった。あったのだが、彼自身のつごうだけで、事態は推移しなかったのである。  その夜、貧乏症まるだしで旅の道具一式をソファーベッドの脚下にそろえると、ファン・ヒューリックは毛布にくるまって、平和な夢の園に寝ころがった。意識が夢と現実の境界線上を浮沈し、やがて揺れながら夢の水面下へと没する。そのまま没しつづけるはずであったのに、急速に浮上してしまったのは、温かく、やわらかく、弾力に富んだ有機物が彼にもたれかかってきたからであった。ファン・ヒューリックはまばたきし、目の前にあるものに掌《てのひら》をあて、あわてて引っこめた。それは、ネグリジェの薄い布地につつまれた、若い女性の乳房だった。薄闇のなかに、リラの顔を、失業青年は認めた。その肉体のやわらかさに反して、かたい表情とかたい声が、彼に対していた。 「ファン、あたしをあんたの好きにして」 「おい、ちょっと待て、落ちつけよ、どういうことだ」  聖人君子に非《あら》ざるファン・ヒューリックであるが、前言したように、幸運と美人を無条件で信じたりはしないのである。ましてその両方が同時発生したとあっては、裏面に何が存在するか、猜疑心が原色の服をまとって踊り出すというものであった。 「あんたが好きなの。それだけよ」 「感涙《かんるい》の池で溺死《できし》しそうな台詞だな。お前はすてきな女の子だが、女優としての素質はないよ。婆さんにでも何やら入れ知恵されたってとこだろう」 「…………」 「話してみろよ。それ次第だ。腹がへってるからといって毒殺されるのはごめんだぜ」  溜息をつき、身をひいてリラはつぶやいた。 「公女さまのご指示なの」  それだけでは何のことやら理解できない。ファン・ヒューリックが眉をしかめると、リラは早口で説明をはじめた。カサビアンカ公国の血統をただひとり伝える人物は、ミランダという名の公女殿下なのだが、先日、デ・ボーアが旧主のもとを訪れて、公国再興運動の現状を報告した。といっても、ファン・ヒューリックに味方になるよう、説得力ゼロの説得をくり返しているだけのことだが。ファン・ヒューリックがいっこうに心を動かさず、明日エーメンタールを発《た》つと聞くと、ミランダ公女殿下は、リラに指示して、最後の手段でファン・ヒューリックを籠絡《ろうらく》するよう命じたのだという。 「すると何か、その公女さまとやらは、リラの貞操《ていそう》を犠牲にしてファン・ヒューリックという助平《すけべ》野郎を味方にしろ、とそういったんだな」 「助平とはおっしゃらなかったけど」 「いったも同じだ。おれを甘く見やがって」  幾重にも、ファン・ヒューリックは腹がたつ。女の色香で決心をひるがえす男と見られたのも腹がたつが、これはまあ半分は事実だ。重要な理由は別にあった。 「あのな、リラ、忠誠心もいいが、ものの道理をわきまえろよ。その公女さまはな、色事でおれを味方につけようと思ったら、自分自身の貞操を投げ出すべきなんだ。何だって代わりにお前を人身御供《ひとみごくう》に差し出すんだよ」 「それは……」 「おれはだな、女は好きだ。金銭も好きだし、酒があればもっといい。嫌な奴が不幸になってくれればいうことはない」  話が逸《そ》れかけたことに彼は気づいて、軌道を修正した。 「とにかく、他人の色恋をじゃまするほどには野暮《やぼ》じゃないってことだ」 「何のことよ?」 「デ・ボーアとできてるんだろ、お前。おれは奴を好いちゃいないが、積極的に奴に不幸になってもらおうとは思わんよ。奴のためでなくてもいいから、自分のために自分をだいじにしろよ、な」  薄暗い灯火の下で、リラは明らかに赤面したようであった。数秒の沈黙をおいて、ふたりが同時に口を開きかけたとき、実際の音は室外で生じた。床が鳴り、ついで扉が鳴って、光と影がふたりの視界に乱入してきた。リラが飛びのき、ファン・ヒューリックが飛びおきたとき、鋭い制止の声が室内にひびきわたった。その声よりも、むしろ銃器らしい金属音が、失業青年の動きを封じこんだ。オレンジ色の照明の下に、いるはずのないタイタニアの男たちが影をつくっていた。 「よし、たしかに婆さんのいったとおりだ」  グレーの軍服を着た男たちがうなずきあうと、かつてカサビアンカ公国の女官だった古怪な人物が、欲にかすれた声を出した。 「タイタニアの軍人さんがた、賞金のほうはまちがいないだろうね」 「明日、アルセス・タイタニア伯爵閣下のお屋敷に来い。一〇万ダカール耳をそろえて払ってやる」  うるさげに言いすてて、頭《かしら》だった男が皮肉っぽく両眼を光らせた。 「さて、こういう状況が生じるに至った裏面の事情を知りたいかね、ファン・ヒューリック提督」 「いや、充分にわかったよ。これ以上、舞台裏を知りたくもないね」  苦虫を口腔内に充《み》たしつつファン・ヒューリックは答え、許可を求めて服を着かえた。老女がそらぞらしく彼に語りかけた。 「すまないね。お若いの。あんたにとっては怨みがましいことだろうけど、貧しい老人の幸福に寄与したと思って満足しておくれ」 「ステゴザウルスにでも食われちまえ、孫娘の心知らずの因業《いんごう》婆あめ」 「せっかくだけど、むりだねえ」 「何でだよ」 「ステゴザウルスは草食性だよ。お若いの。口も悪いが学もなくておいでだねえ」 「お前こそ口も性根《しょうね》も最悪じゃないか!」  いきりたつファン・ヒューリックの肩を、わざとらしくタイタニアの士官がたたいた。 「まあ、そのていどにしていただこう。ファン・ヒューリック提督。そろそろご同行ねがいたい。騒ぎたてては近所迷惑だ」  ファン・ヒューリックは、すばやく左右を見まわしたが、グレーの軍服が半ダースを算《かぞ》えたので、その場での逃走を断念した。いやみたらしく両手をそろえて前に出してみせる。 「手錠でもかけるかい?」 「いやいや、あなたは囚人ではない。こちらとしても礼儀は守らせていただく。可能なかぎりは、だが」  グレーの軍服が、ファン・ヒューリックの周囲をかこんで玄関へ移動しはじめたとき、長い沈黙をリラが破った。 「ファン……!」 「リラ、奴さんにうまいオムレツつくってやれよな。おれほど味覚がすぐれているとも思えんが、愛情の味はわかるだろ」  似あいもしないのに、きざな台詞を投げかけて、ファン・ヒューリックが歩き出すと、リラが駆け寄った。タイタニアの兵士たちが一瞬、身がまえかけたが、ネグリジェ姿のリラは、片手でファン・ヒューリックの頸《くび》を抱くと、みずみずしい唇を、青年のそれに押しつけたのである。勢いよくネグリジェがひるがえって、むき出しになった形のいい脚に、兵士たちの視線が集中した。 「さよなら、ファン」  引き離されたリラが別れの挨拶をし、ファン・ヒューリックは黙然とうなずいて彼女に背を向けた。  地上車の後部座席に、彼は押しこまれた。三人の兵士は事後処理のためにリラの家に残った。左右に兵士がすわり、三人めの兵士が運転席にすわる。地上車は動き出した。ほんの三分ほど走ったとき、不意にファン・ヒューリックの左にすわった兵士がうめいた。身体から力がぬけ、座席にくずれる。 「きさま……」  右側の兵士も絶句し、首を前へ落としてしまった。短針銃《ニードル・ガン》の短針を、脇腹に撃ちこまれたのだ。つい先刻、抱きついてキスをしながら、リラが彼のポケットに短針銃をすべりこませたのだった。  運転席の兵士も、振りむこうとする頸すじに短針を撃ちこまれて、表情を空白にした。長身を伸ばして、ファン・ヒューリックは、運転手の身体を横倒しにした。短針を費《つか》い果たした短針銃は車内の床に放り出す。 「リラ、お前さんはデ・ボーアなんぞにはもったいない佳《い》い女だぜ。デ・ボーアが身のほど知らずに浮気なんぞしやがったら、いつでもおれの胸に飛びこんできな」  どうにか後部座席から運転席へと移動を果たすと、ファン・ヒューリックは、慣性航法システムのキイをたたいて、宇宙港へと進路をさだめた。地上車は快適な速度で、カー・ジャックの青年を運んで行き、一〇〇一秒ほど後に、青白い超近代的な不夜城の姿を、ファン・ヒューリックの視界にもたらした。  宇宙港の周囲は、古ぼけた倉庫と運河が混在し、いわばこれが不夜城の城壁となって、人家と宇宙港をへだてている。その一角に地上車を乗りすてて、にんじん色の髪の青年は夜道を歩き出した。  逃亡に成功したはずのファン・ヒューリック氏は、五分ほど歩いて不意に立ちどまり、肺を空にするような溜息をつき、にんじん色の髪をかきむしった。彼はリラの家に、財布を置き忘れてきたのであった。        V    自分自身をののしりながら、不幸な破産者ファン・ヒューリック氏は、置き去りにした地上車の方向へ駆けもどろうとした。この上は、地上車をたたき売って当座の費用をつくるしかない。とっさの判断であったが、世のなかには彼よりすばやい、抜け目のない人間が、いくらでも存在するのである。彼が見出したのは、乗りすてられた地上車の車体に群らがって、部品をむしりとりはじめた五、六の人影であった。職業的な窃盗犯のグループらしい。 「こら、他人の所有物《もの》を勝手に処分しようなんてとんでもない奴らだ。良心を呼び出して叱ってもらえ、小悪党ども」  自分のことを三光年ほど離れた棚の上に放りあげて、ファン・ヒューリックがどなりつけたとき、黄白色の閃光が彼の視界を薙《な》ぎはらった。ブレーキの音が耳ざわりにひびきわたる。タイタニアの紋章を車体に印した五台ほどの地上車が急停止し、グレーの軍服の集団が、車外へ飛び出してきた。窃盗グループが悲鳴を発して逃げ散ったが、タイタニアの兵士たちは小犯罪者たちに目もくれず、ファン・ヒューリックめがけて殺到してくる。逃亡中の失業青年は、右の踵《きびす》を軸にして一八〇度方向転換し、両親からもらった脚の筋力に、自らの命運を託した。 「畜生、善良なおれが何だってこんな辛酸《しんさん》をなめなくてはならんのだ。今度運命の女神に出会ったら張りとばしてやるぞ」  果たせそうもない誓約を立てながら、ファン・ヒューリックは長い脚を回転させて夜の街を走りぬけた。荷物も持たず、懐《ふところ》も軽い、そのためでもあるまいが、彼の快足は充分に発揮されて、タイタニアの兵士たちは、にわかに追いつくことができなかった。だが、ファン・ヒューリックの呼吸が秩序を乱しはじめたころ、軽快で正確な靴音が、彼の背後に追いすがってきた。振りむくのは時間と距離を浪費するだけなので、その愚をファン・ヒューリックは犯さなかった。犯したのは、べつの愚である。迷路じみた宇宙港周辺の倉庫街を走りまわって、大半の追手を脱落させたまではよかったが、やがて眼前に、巨大な倉庫の量産セラミック製の壁がそそりたったのである。背後の靴音が、さらに近づき、舌打ちしたファン・ヒューリックは、壁ぞいに設けられた手摺《てすり》のない階段を駆け上った。四〇回ほど膝《ひざ》を屈伸させ、柵に囲まれた屋上に出て、そこで進退きわまったかに見える。五秒ほど遅れて、グレーの服の追跡者が、彼と同じ高さの場所に姿をあらわした。 「いいかげんにあきらめたらどうだ、ヒューリック提督」 「やかましい。一文なしの失業者を追いまわして何がおもしろいんだ。変態伯爵の部下は、やはり変態か」 「おもしろいから追いまわしてるのではない。好きで伯爵につかえているわけでもない。何ごとも宿命のさだめるところだ」 「気どったあげくに用語上のまちがいをするんじゃない、無学者が」  追跡者は鼻先で笑って、ファン・ヒューリックを見返した。追手は声も身体つきも若い。エーメンタールの小さな二つの月が、青白い光の粉を追う者と追われる者に振りかけてくる。 「おれの昇進と昇給のためだ。いさぎよくつかまるのが、あんたの宿命ってものだ」 「この惑星じゃ、宿命ってやつは、コーラの空瓶《あきびん》より安直に転がっているらしいな」 「さよう、宿命など安っぽいものだ。それにあやつられる者の人生が、たいていは大量生産の安物であるようにな」  静から動へ、変化は迅速をきわめた。タイタニアの士官の手に黒い影がひらめいた。後方へ跳《と》びすさって、ファン・ヒューリックは迅速な一撃を回避した。追跡者の片手から、伸びた軽金属の警棒は、ある種の爬虫類《はちゅうるい》の舌のように伸びて逃亡者の頸《くび》すじをねらったのである。一世一代のスピードで躱《かわ》さなければ、ファン・ヒューリックは頸すじに強烈な打撃を受け、人事不省におちいっていただろう。 「おや、かわされたか。さすがに手を抜いてはしとめさせてくれないらしいな」  つぶやいた声には、充分な余裕があった。屋根の下、地面の上で声が発せられて、対峙《たいじ》する両名にとどいた。 「何を遊んでいる、マフディー中尉! さっさと逃亡者を捕えて伯爵閣下に引きわたすんだ」 「へえへえ、いやな上官でも命令はきかなきゃならぬ。軍人の宿命ですな」  上官に対する敬意など一グラムもなく、タイタニアの士官は右手の特殊警棒をにぎりなおした。身長はファン・ヒューリックよりやや低い。均整がとれて発条《ばね》のありそうな身体つきだ。顔つきはよくわからないが、白い歯が光ったところを見ると、緊張などという名詞と無縁であるらしい。なめらかな足さばきで、逃亡者を屋上の隅に追いつめる。逃亡者は古い屋上の柵に背中をあてた。肩ごしに、暗い下界を見おろす。半瞬の隙を見出して、マフディー中尉は肉迫し、左手で相手の右肘をとらえて動きを封じるとともに、右手の警棒を振りおろそうとした。まさにそのとき、ファン・ヒューリックは全身の体重を後方の柵にあずけ、自ら平衡をくずした。 「…………!」  どちらがあげた叫びか、人体と声がもつれあって宙に飛んだ。追う者と追われる者は、こわれた柵ごともんどりうって地上へと転落していったのである。  周囲に水を感じた。ファン・ヒューリックのぎりぎりの計算は、許容範囲内の解答を出した。倉庫の傍を流れる運河の黒い水面に落下したのだ。垂直移動距離一〇メートルであった。  水面に浮上した。口と鼻から酸素がなだれこんでくる。肺のなかの空気を新鮮なものと交換すると、ファン・ヒューリックは水流に乗って抜き手を切った。夜の闇の向こうから、狼狽するタイタニアたちの声が流れてくる。どうせ見えないだろうが、あざけるように片手を振った後、にんじん色の髪の青年は、コンクリートでつくられた護岸にあがった。と、ほど近い水中で波を立てつつわめきたてる人影がある。 「おい、助けてくれ、ヒューリック提督……!」 「お前を助けなきゃならん義務は、宇宙の片隅に置いてきたよ」 「おれは泳げないんだ!」 「そいつはお前のつごうだ。おれのつごうじゃない」 「自分のつごうだけで、あんたは、人の道を踏みはずすのか! こら、それでもあんたは、正義の戦士か」  ファン・ヒューリックが名乗ったおぼえもない肩書で、彼はののしる。 「泳げんのは、警棒をつかんだままだからじゃないのか」  皮肉たっぷりに指摘されて、タイタニアは口のなかで何かつぶやきながら、ご自慢の警棒を水面に放りこんだ。それを確認して、ファン・ヒューリックは手を伸ばし、マフディー中尉を引きあげてやった。直後に音がした。感謝の言葉ではなく、金属のひびきだった。 「何だ、これは!?」 「見てわからんかね、ファン・ヒューリック提督。手錠だが」 「おれはお前が溺死するところを助けてやったんだぞ! その礼がこれか。人の道を踏みはずしているのは、お前のほうじゃないか」  濡れた髪を、中尉はポーズをつけてかきあげた。 「ああ、負け犬の遠咆《とおぼ》えは聞きぐるしい」 「この恩知らず……!」  憤激のあまり絶句するファン・ヒューリックの顔をながめやって、マフディー中尉は、不意になれなれしい笑いをつくった。 「ここはひとつ、人の道と世俗的成功とが両立する方法を考えよう。おれはあんたを伯爵邸につれていく。そして賞金をもらった後、あんたを逃がしてやる。これでどうだ、ファン・ヒューリック提督」 「そんな策《て》に誰が乗るか」 「人を信じる心のない男だ。おれの目を見ろ。他人をだますような男に見えるか?」 「旧石器時代のジョークを自慢たらしく口にするな!」  エーメンタールには、まともな人間がいないのだろうか。リラの祖母の顔を想いおこして、ファン・ヒューリックはうなった。こんな不埒《ふらち》で、人間的環境に問題のありすぎる惑星を、「住みやすい」などと評した自分は、安物の人工甘味料より甘い人間だった。自分で自分を糾弾《きゅうだん》せずにはいられない。 「そうか、おれを信じられないのなら、しかたない。心ならずも、あんたの想像どおりにしなくてはならんだろうなあ」  ぬけぬけとうそぶきながら、マフディー中尉は手錠の紐《ひも》を引いた。細いがりっぱなワイヤーで、引っぱられたファン・ヒューリックは、相手を呪い殺せないことを無念に思いながら、歩き出さざるをえなかった。  マフディー中尉は同僚たちを呼び集めようとしなかった。賞金と名誉をひとりじめする気らしい。勝ち誇って運河ぞいの道を歩きはじめたとき、倉庫の蔭で何かがうごめいた。ごつん、という固い音がひびいて、マフディー中尉の身体が宙に浮いた。意識を失った青年士官が地面にキスすると、拳《こぶし》の一撃で彼を打ち倒した白い作業服の人物は、被害者を軽々と左肩にかつぎあげた。唖然として立ちつくすファン・ヒューリックを、叱りつけるようにうながす。 「さっさとおいで、タイタニアに見つかったらめんどうだよ。手錠はあとではずしてあげるから」  ファン・ヒューリックとほぼ同じ身長で、身体の幅と厚みは彼を凌駕《りょうが》する人物。それは女性だった。胸には双《ふた》つの巨大な隆起があり、栗色の髪は短い。美人とはいえないが、灯火に照らされた顔はつややかで奇妙な愛敬らしきものもあった。毒気をぬかれた態で、彼女に追従したファン・ヒューリックは、ふと気づいて、原初的な質問を発した。 「あんたは何者だ」 「リラから話を聞いていないのかい。あたしゃミランダといってね、カサビアンカ公国の公女殿下だったのさ」  大女は豪快に笑い、ファン・ヒューリックは、開いた口を、しばらくは閉じることができなかった。        W    皇女とか王女とか公女とかいわれる人物は、楚々《そそ》として清艶《せいえん》で、はかなげな佳人《かじん》であるべきだ。根拠もなくそう信じていたのは、男の妄想であるが、ファン・ヒューリックは、脳裏の辞書を訂正する必要を感じた。見えないロープで引かれるように歩みをつづけながら、ひとつの記憶を探りあてる。やや声がきつくなった。 「じゃあ、リラに指示しておれに抱かれるよういったのは、お前さんだな。どういうつもりであの娘にそんなことをさせたんだ」 「おや、リラでなくあたしが貞操をささげるといったら、あんた、一夜の契《ちぎ》りを喜んで承知してくれたかい?」  微速度撮影の画面めいた速さで、ファン・ヒューリックは頭を振ろうとしたが、途中でやめた。彼好みの女性ではないからといって、傷つけてはいけないと思ったのだ。カサビアンカ公国の公女ミランダ殿下は、気を悪くしたようすもなく、「わははは」と、またしても豪快に笑った。 「何も気にすることはないよ。あたしゃ自分が美人でないことは知ってるさ。それでも、わたしがいいと言ってくれた男がいてね、エーメンタールで所帯を持って、もう三年になるんだよ」 「公国の再興とやらはどうなってる?」  ようやくファン・ヒューリックが反問の機会をつかまえると、ミランダ公女殿下は吐息した。吐息するのも豪快で、夜気が大きく揺れ動いた。 「デ・ボーアって男は、悪い人間じゃないけどね、何か伝説上の動物と同じで、夢を食って生きてるのさ。公国の再興という、意味のない夢をね」 「すると奴ひとりの妄想ってことか」 「彼には悪いけど、わたしにはありがた迷惑なんだよ。亭主にも仕事にも生活にも、わたしは満足してる。カサビアンカ公国をむりに再興しても何の意味もないのさ」  いったん言葉を切って、女傑ともいうべき公女殿下は、肩にかついだマフディー中尉の身体を揺すりあげた。 「さ、宇宙港へ行こうか」 「宇宙港へ?」 「エーメンタールを出たいんだろ? 宇宙船に乗せてやるよ」  ミランダ公女は、夫婦して一隻の恒星間商船を所有しており、いま彼女の夫が出航の準備をととのえて、彼女と客人を待っているというのだった。 「そいつはありがたいが、待ってくれ。あんたの心情《きもち》がいまひとつわからんのだが」 「リラのことかい。あれは悪いけど、あんたを試させてもらったのさ。口いやしくリラに抱きつくような男なら、タイタニアにほんとうに売りわたしてやるつもりだったけどね。口は悪いが、けっこう義理がたい男と見たのさ」  公女殿下の肩にかつがれたマフディー中尉が、低いうめき声をあげた。ミランダの大きな右拳が捕虜の側頭部に鳴って、マフディー中尉は小さな溜息をつき、ふたたび気絶した。  マフディー中尉の不幸な「宿命」に、やや同情を覚えながら、ファン・ヒューリックは自分の経済的境遇に気づいた。 「はっきり言っておくが、おれはいま完全に一文なしだぜ。乗船《ふな》賃《ちん》を払えるあてがないんだが」 「うちの宇宙船は事務次長が空席なんだよ。あんたにそれをお願いしたいのさ」 「事務長はいるんだろ?」 「いるけど、あと九回新年がくると一世紀生きてるってことになるからね、補佐が必要なんだよ」  力強いくせに柔軟なミランダの歩みがとまり、一行は、鈍い銀灰色の光沢をたたえた卵型貨物船の前に立っていた。    ミランダの声がひびきわたった。 「あんた、ファン・ヒューリックという人をつれてきたよ。付録もひとつついてきているけどね」  興味の色をむき出しに、ファン・ヒューリックは、ミランダ公女殿下のご夫君を待ち受けた。ミランダのような大女の亭主は、やはり立方体的な体型の大男だろうか。それとも逆に掌に載《の》りそうな小男だろうか。両極端をファン・ヒューリックは予想したが、ドアを開いて姿をあらわしたのは中背の男だった。頭髪が半ば白くなった中年の男で、穏やかな茶色の目に笑《え》みをたたえている。ミランダと視線をあわせて、笑みを拡げると、ファン・ヒューリックにむけて会釈《えしゃく》した。そのまま名乗りもせず、微笑しているだけなので、ファン・ヒューリックは対応に迷った。 「挨拶したいけど口がきけないんだよ。かんべんしてやっておくれ」  ミランダが夫の立場を代弁した。コンプトン・カジミール船長という名も、妻の口から明らかにされた。 「生まれつきや病気じゃないよ。タイタニアのやりくちを批判したというんで、逮捕されて声帯をつぶされたのさ」  彼自身が声帯をつぶされたように、一瞬、ファン・ヒューリックは声をのんだ。船長の笑いが、深いものに思われた。 「やったのは、あの変態伯爵か」 「やらせたのは、ね」  ミランダは正確を期した。彼女の説明によると、実際に彼女の夫の声帯をつぶした男は、復讐の念に燃えた彼女に追われ、行方をくらましたそうである。むろんミランダは現在も夫の讐《あだ》を探しまわっているのだ。アルセス伯爵にも、いつかは復讐してやるつもりだという。  冷たい汗を背中と頸すじに感じる。もしアルセス・タイタニア伯爵の手中に落ちていれば、同じ運命がファン・ヒューリックを待ち受けていたかもしれない。カジミール船長に向けて、ファン・ヒューリックは手を差し出し、それに応じた船長の手をかたく握った。 「どうも、おかげさまで」  それ以上のことは言えなかった。  そのとき、不幸な宿命を背負ったマフディー中尉が、床の上で身動きした。黒い瞳が開いて焦点を結ぶと、グレーの軍服につつまれた身体が、ポップコーンのように弾《はじ》きあがった。 「ミ、ミランダ! カジミール船長!」 「ひさしぶりだねえ、マフディー中尉」  山のごとく安定した印象のミランダに比べると、マフディーは風にそよぐ葦のように見えた。 「さ、それじゃ、中尉、出発しようか」 「出発って、何のことだ」 「お前さんの名前で出航許可をもらってあるからね。同行してもらって、何らさしつかえないのさ。さ、こんなしけた惑星は見捨てて、広い宇宙へ出ていこうよ」  ミランダの視線を受けたカジミール船長が、あいかわらず穏やかな笑顔でうなずいてみせた。マフディーは悲鳴まじりの声をあげた。 「そ、そんなばかなことがあるか。それではおれも裏切り者としてタイタニアに追われることになってしまうじゃないか」 「そうかい? あたしゃそう思わないけど、アルセス・タイタニア伯爵はそう思うかもしれないねえ」 「脅迫する気か!?」 「とんでもない、友人として心配してあげてるのさ。あの変態伯爵は、病的な美男子と拷問が大好きだっていうしねえ。あんたは病的でもないけど、わりと美男子だし、健康で拷問に耐えられそうだし」  マフディーは何かどなろうとして寸前でやめると、すばやく周囲を見まわした。だが、カジミール船長の手に、さりげなく短針銃がにぎられているのを見て、じつになさけない表情になる。 「あんたの宿命だよ、あきらめな」  巨体にふさわしい笑声で、ミランダは船内の空気を揺るがした。マフディー中尉は、それに呼応して自分の宿命を笑いとばす気には、とうていなれなかったようである。黒い髪をかきむしりつつ、床にすわりこんで、宿命と人間を呪い始めた。黒い髪、赤銅色の肌、深緑色の瞳の青年士官をながめやるファン・ヒューリックの目に、同情と優越感をブレンドした光が浮かび、口からは、あくまで主観的な慰めの声が出る。 「お前さんの口癖どおり、これも宿命さ。それにしても、いい友人を持って幸福だなあ、おい」 「あんたは何も知らんのだ!」  憤然としてマフディーは声と身体を床から躍りあがらせた。船長夫妻をにらみつけ、軍靴で床を踏み鳴らす。 「こいつらは札《ふだ》つきの密輸業者なんだぞ。犯歴リストが二〇〇ページにもなろうかという悪辣な奴らだ。証拠があれば、声帯をつぶされるぐらいですみっこないんだからな」 「恩知らずなことをお言いでないよ、マフディー坊や」  笑いを消したミランダ公女殿下が、両眼を細め、声を低めた。マフディーは、ぎくりとしたように身をかたくする。 「お前さんの薄い財布を、あたしらが何度厚くしてやったか、忘れたとはいわさないよ。タイタニアの私法を持ちだせば、あんたは、五、六回は銃殺刑に処されているところなんだからね。あたしらが死刑になるときは、あんたも道づれだよ」 「何のことだ?」  この声は、マフディーとファン・ヒューリックと、ふたつの口から異なる口調で発せられた。しらばくれるほうの声を無視して、ミランダは、興味|津々《しんしん》の声のほうに答えを返した。 「それがさ、ヒューリック提督、この中尉さんは物資流用の常習犯なのさ。まあアルセス伯爵が管理者としてなっていないからだろうけど、この二年間に一個連隊まるごと装備できるほどの物資を、あたしらに横流ししてるんだ。軍人にしとくにゃもったいない、生まれついての闇商人さ」 「何をぬかす、ほとんどお前らが利益を持っていったくせに!」 「ひとりひとり利益を公平に分配すれば、もっとすくなくなるよ。あんたには三人分払ってるんだからね。で、どうするんだい。あんたの弁明がアルセス伯爵に通用するかどうか、これから試してやってもいいんだよ」  せっかくのミランダの提案であったが、当分、実現する可能性はないようであった。ふたたび床にすわりこんだマフディー中尉は、ひとしきり宿命を罵倒したあげく、敗北を認めて肩を落としたのだ。  こうして、幾種類かの鉱石と幾種類かの人間を載《の》せた恒星間貨物船「|正直じいさん《オネスト・オールドマン》」号は、獲物を逃がしたアルセス・タイタニア伯爵の舌打ちを後に、惑星エーメンタールの地表を離れたのである。 [#改ページ]        第五章 内なる敵の群            T    タイタニアの最高首脳たちは、ヴァルダナ帝国の宮廷貴族たちより、はるかに多忙であった。地位と権力には、責任と義務がともなうのである。課せられた責務を果たすことができぬ者は、タイタニアの姓を名乗る資格なしとみなされるのだ。  ザーリッシュ・タイタニア公爵は、グレーと金の軍装に身をかため、彼の旗艦タイフーンの艦橋上にある。いっそ中世の甲冑でも着用すれば、その威容はいやますであろう。その容姿と迫力は初代無地藩王ネヴィル・タイタニアの若き日を想起させるといわれていた。それはザーリッシュにとって、もっとも誇らしい評価であり、自ら認める存在価値であったのだ。  ザーリッシュの用兵は剛性で力感に満ちている。タイタニアの物量戦略を、もっとも豪放に実施するのは彼であった。彼は敵に正面から殺到し、たたきつぶし、なぎはらい、押しつぶす。あるいは周囲を完全に包囲し、集中砲火によって撃ち砕く。豪将と呼ばれるにふさわしい用兵ぶりであり、かずかずの武勲をかさねて、彼の姿を陣頭にあおぐとき、タイタニア将兵の士気は倍加するといわれる。  ザーリッシュは白兵戦技と格闘技においても一流で、巌《いわお》のような巨躯を軽々とあやつり、歴戦の装甲兵一〇人を一度に相手にすることができた。四公爵の他の三名、アリアバート、ジュスラン、イドリスらも、タイタニア貴族の嗜《たしな》みとして白兵戦技を学び、それぞれに技倆を発揮したが、ザーリッシュにはおよばなかったのである。  いま彼は後続のジュスランと連絡をとりつつ、ブレーゼ星域に向かっている。五〇〇〇隻を算《かぞ》える宇宙海賊の連合体、「流星旗」軍がこの星系でタイタニアの補給センターを攻撃、掠奪しているのであった。 「こうるさい鼠賊《そぞく》どもが、身のほども知らずにタイタニアの尾を踏もうとしおるわ。道化《どうけ》にしても生命がけのことだな」  一笑した後、彼の表情は、にがく厳しいものに変わっていた。星間通信のチャンネルが切り換わり、若いタイタニア貴族の顔がスクリーンに映っている。グレーの軍服でなく、装飾過剰の絹服を着こんでいた。半ば怯《おび》え、半ばふてくされた態度で、アルセス伯爵は、兄にむかってファン・ヒューリックの逃亡を告げた。 「役たたずめ。きさまは失業者ひとり、まともに逮捕することもできんのか。それで伯爵号を返上する気にもならんとは、神経の太さだけは一人前だな」  頭ごなしの一喝をあびて、二〇光年の彼方で、アルセス・タイタニアは青白み、かろうじて笑顔をひきつらせた。 「どうやら私は、罪人を追いまわすような仕事には向いていないようです」 「ふん、では大艦隊を指揮して敵と戦うか。きさまが望むなら代わってやってもよいぞ。おれとて邸宅の奥にふんぞりかえって、色と酒にふけっているほうがいいに決まっておる」  これはかならずしも本心ではない。タイタニア四公爵の一員であるザーリッシュは、軟弱より剛強を尊び、豪奢な邸宅より宇宙戦艦の艦橋を好む男であった。タイタニアの価値は、富や権勢より武力にあると信じている。その価値観はやや単純だが、彼は低能などではなかった。巨大な組織を把握《はあく》し、それを手足のごとく動かすことができた。多くの士官の特性や能力を見わけ、適材を適所に配することができた。部下に対しては公正で、判断は早く的確であった。「強く猛《たけ》きタイタニア」の一面を、もっとも鮮烈に代表する青年こそ彼であった。  何ら実りのないまま弟との不快な通信を終えると、ザーリッシュは副官グラニート中佐に向かって吐きすてた。 「不愉快だ! あいつと同じ血が体内に流れているかと思うと、全身の血液を輸血で交換したくなってくる」  副官グラニートが穏やかに指摘した。 「ですが、公爵閣下の弟君でいらっしゃいます」 「だから年金まで与えて、エーメンタールのようにいい惑星で生活させてやっているのだ。おれとしてはバルガシュあたりの辺境で苦労させたほうが奴のためだと思うのだが、母上がな……」  偉丈夫の青年貴族は憮然とした。ザーリッシュとアルセスの母親は、テリーザという名で五〇歳になる。昔日《せきじつ》の美貌は節度のない過食と美食によって、脂肪の層の下に埋もれてしまったが、長男に比べて次男を偏愛することはなはだしかった。長男がたくましく頼もしかったので、繊弱な次男を溺愛《できあい》するという図式である。このあたりの機微《きび》は、タイタニアであろうと市井《しせい》の庶民であろうと差はないようだ。ザーリッシュとしては成人後も母親に対してつい隔意《かくい》をいだこうというものだが、公爵家の長として、母たる人をないがしろにはできぬ。母の手前、アルセスを完全に追放するわけにもいかず、それだけに、アルセスに対する怒りもつのるというわけであった。  七月にはいって、ザーリッシュは目的の星域に進入を開始した。タイタニア来《きた》る、の報を受けた敵の指揮官たちは、文字どおりとびあがった。 「ザーリッシュ・タイタニア公爵が自ら艦隊をひきいて……!」  充分にありうべき状況であるのに、狼狽《ろうばい》しきりであったのは、「流星旗」軍の判断の甘さを証明するであろう。幹部会議の一員であるリー・ツァンチェンという男が、早期撤退を進言していたのに、頭から否決されてしまった。掠奪品の分配に狂奔し、仲間どうし争いだすありさまを見て、リー・ツァンチェンは仲間たちに愛想をつかした。ブレーゼ星域にとどまって分配決定会議に最後まで参加しないと、分配にはあずかれない。リー・ツァンチェンは掠奪品に対する権利を放棄し、自分の船団をひきいて仲間たちから離脱してしまった。部下たちは不平を鳴らしたが、リー自身の私財を分配するという約束で離脱を果たし、テュルカイア星域まで来たとき、タイタニア軍の通信波をキャッチした。タイタニア軍は一万二〇〇〇隻、リーの船団は、ほとんど笑い出したくなる数だが一四隻。このなさけない寡兵《かへい》が、だがかえってリーたちを救った。小惑星群に身をひそめつつ逃がれようとする彼らに、タイタニアは気づいた。しかしザーリッシュは、敵の主力に対し強襲をかけることを重視した。リーらを追えば、タイタニアの存在を「流星旗」軍に気づかれるかもしれぬ。これは用兵家としては、まったく正しい判断であったが、全能の未来予知者がいたとすれば、このときザーリッシュに、とるにたりぬ寡兵をこそ撃滅すべきであると進言したかもしれない。  こうしてザーリッシュ・タイタニアは、リー・ツァンチェンの船団を無視し、敵主力に対して強襲をかけ、二時間にわたる一方的な戦闘で、敵の九四パーセントを撃滅したのである。 「他愛もない」  冷笑するというより、むしろ失望したかのように、ザーリッシュはつぶやきすてた。剛勇の武人である彼には、敵の強大さを欲する心理的傾向があった。わずかに生き残った「流星旗」軍は降伏を求めた。それをザーリッシュは容《い》れたが、助けたのは兵士だけで、士官級の八三〇名は銃殺させてしまった。これは彼の権限内のことであったが、彼が助けようと思えば助けられたのだ。あまりにも脆弱《ぜいじゃく》な敵に対する怒りが、一見無慈悲な措置を、ザーリッシュにとらせたのである。  タイタニアの家名を有する者だけに許されたことだが、ザーリッシュは遠征に情人《ミストレス》たちを同行させている。耽美がどうこうと口走る弟に比べ、ザーリッシュの性的嗜好は常識的であったが、強精家であるため、ひとりの女では満足できなかった。今回の遠征では、黒髪、粟毛、赤毛、金髪と四色の髪の女性をふたりずつとりそろえていた。これらの女性は美と性愛においてザーリッシュに奉仕すればよく、彼女らの衣食住その他をととのえるために合計三〇名の婦人兵がつきそっていた。その長をつとめる女性は、三八歳の大尉で、一〇年前にザーリッシュの初体験の相手をつとめ、現在、彼の女性関係を管理調整しているのであった。  私室に引きこもるザーリッシュのたくましい後姿を見送って、幕僚のひとりが羨望の声をもらした。 「大艦隊をひきいて宇宙を横行し、敵を討ち、勝っては女を抱く、か。男と生まれたからには、あのようにありたいものだ」 「タイタニアにあらずんば人にあらず、か?」  紀元前二世紀、地球において中華帝国《チャイニーズ・エンパイア》の主となった劉邦《リュウ・パン》という男は、即位後、自らの一族の繁栄を誇り、「劉氏にあらずんば人にあらず」と言い放った。一四〇〇年ほど後には、隣国の権勢家が、この発言を模倣したということである。そしてタイタニアの初代たるネヴィルも、極盛期において、覇気もあらわに豪語したのであった。 「タイタニアにあらずんば人にあらず!」  八代を経て、いま、旗艦の豪奢な私室にこもるザーリッシュにも、そのような雰囲気があった。といって、彼を見送る士官たちは、彼を批判しているわけではなく、歎賞しているのである。ある意味で、ザーリッシュは女性を嗜好品としてしかあつかっていないのだが、おおかたの男にとっては、精神の原始的かつ野性的な部分で、ザーリッシュをうらやまずにいられないのであった。むろん、ザーリッシュが好色なだけで無能な指揮官であれば、部下たちは寛大な気分になれなかったにちがいない。  戦闘終了後一四時間、いったんザーリッシュは私室を出て軍装をととのえた。彼は後続のジュスラン卿との間に通信回路を開いて戦勝を報告し、ついでに冗談を飛ばした。 「どうだ、ジュスラン卿、ベッドが単調ならおれのほうから花を一、二本送ろうか」 「けっこうだ、ご好意だけいただいておく」  わずかにジュスランは苦笑した。彼はザーリッシュのような強精家ではなく、美姫《びき》たちをダース単位で寝所に侍《はべ》らせるようなことはなかった。旗艦にフランシアをともなうのも、何より身辺の世話をしてもらうためであって、必ずしも夜毎《よごと》彼女を抱くわけではなかった。フランシアが彼の寵愛に慣《な》れてつけあがるようなことがあれば、すぐにも身辺から遠ざけるつもりであるが、この娘は生来、世俗的な欲望がすくないのか、賢く心がけているのか、ジュスランの身辺にいられるだけで幸福そうに、つつましくふるまっている。それをジュスランはいじらしく思うのだが、一方で彼の心には、炎のように燃えあがる気性の強い女性を求める部分があった。それは多分に抽象的なもので、具体的な熱愛の対象が実在しているわけではなかった。 「そのような女性が、まだおれの前にあらわれぬということだ。急ぐ必要もあせる必要もあるまい」  ジュスランはまだ二七歳であった。公爵家の長としての責任もあり、いずれ必ず結婚はせねばならないが、四〇歳までに妻を迎えればよかろうと考えている。四〇という数字に、彼自身はとくに意味を持たせているわけではないが、それはじつに、現在の無地藩王《ラントレス・クランナー》アジュマーン・タイタニアの年齢なのであった。  |天の城《ウラニボルグ》を進発するに際し、ジュスランは、藩王アジュマーンの口から重大な機密を告げられた。アジュマーンの異母兄で、ヴァルダナ帝国政府軍務大臣をつとめるエストラード・タイタニア侯爵が、ヴァルダナ宮廷貴族の一群と結託し、異母弟たるアジュマーンを藩王の地位から追うべく画策しているというのである。ジュスランは愕然とし、といって全面的にそれを否定もできぬまま、藩王に問うてみた。 「一族の団結を乱すための流言という可能性は考えられませんか?」 「むろんその可能性はある」  率直にアジュマーンはジュスランの反問を認めた。 「だが無視できぬ情報ではある。イドリス卿はかなり確信を持っておるようだ」 「イドリス卿が……」  あの青年は平地に乱をおこしたがる癖《へき》がある。そう思ったが、さすがにいまジュスランは口には出せなかった。  若いタイタニアの微妙な表情を一瞥《いちべつ》して、一族の帝王は低く短く、笑いの破片を散らした。ジュスランの心理を読んでいるのだ。つぎの発言が、その事実を証明した。 「イドリス卿も、ないものをあるとはいうまい。私としても、雨が降る前には雲が出ると思っておる。ヴァルダナの他力本願的な宮廷貴族ども、もしタイタニアに内部分裂の火種をしかけてくるとすれば、わが異母兄をそそのかすことだろうよ」  藩王の凄《すご》みをいくつもの意味で実感しつつ、ジュスランは、彼自身の思慮をめぐらし、出すぎぬように心がけつつ私見《しけん》を述べた。 「ですが、軍務大臣をにわかに処断なさるようなことがあれば、ヴァルダナの宮廷貴族どもを喜ばせるだけではありませんか。タイタニアの重要な羽翼《うよく》をもぎとった、と、踊りまわることでしょう」 「一時的に喜ばせてやってもよいのだがな」  藩王はごく自然に声を低めた。  それは戦慄を呼びおこす発言であった。かりにエストラード侯爵が藩王から処断されれば、たしかにヴァルダナの宮廷貴族どもは拍手するであろう。だが、アジュマーンの返す一刀は、貴族どもの首を列《なら》べてはね飛ばすことになる。かくして、アジュマーンの敵対者は、服の色にかかわらず数を減じるという結果になるのだ。 「だが、たしかにジュスラン卿のいうとおり。軍務大臣にいますぐ手を出す必要もあるまい。さしあたり、傷口が開かぬよう、かるく処置しておくとしようか」  そう前置きして、アジュマーンは命じた。軍務大臣の息子であるバルアミー・タイタニア子爵を、ジュスランの高級副官として戦場へともなうべし、と。なるほど、父に対して子を人質とするわけか。第一義的な意味を、すぐジュスランが看《み》て取ると、藩王は、深淵に似た表情を両眼の底に光らせた。 「劇薬も触媒《しょくばい》なくしては毒煙を発することもあるまい。あくまで一時的な処置だが、手をつかねていることもなかろう」 「かしこまりました。バルアミー子爵を私の高級副官と致します」  ジュスランは一礼した。端倪《たんげい》すべからざる深謀の無地藩王と、政治演劇的な会話をつづけることに、急に疲労を感じたのであった。こうして、バルアミー・タイタニア准将は、きわめて政略的な人事によって、ジュスラン・タイタニア上将の高級副官となったのである。        U    無数の毒針を視線に乗せて、バルアミーはジュスランを見やる。ジュスランは彼の従兄である。正確にはより複雑な血縁関係が彼らを結びつけているのだが、タイタニア一族内において、同世代と目《もく》される者どうしは、従兄弟と呼ぶようになっているのだ。四公爵家など、その好例である。 「公爵閣下、それとも上将閣下とお呼びすべきでしょうか」 「何かね、子爵閣下、いや、准将閣下」 「そのような呼びかたは、おやめいただけませんか」 「では私もジュスラン卿でいい。かたくるしく呼びあうのはやめよう、おなじ宗祖《そうそ》の血をひく者どうしではないか」  ジュスランは笑い、一礼しつつバルアミーは内心で舌打ちした。彼にとって九歳年長の「従兄」は、奇妙に苦手な存在だった。父に注意をうながされているが、その必要もなく、すでにして充分、バルアミーはジュスランを警戒している。というより、バルアミーにとって、タイタニアの一族中、心すべきは、藩王アジュマーンを除いてはジュスラン公爵ただひとりであった。四公爵中、他の三名、アリアバート、ザーリッシュ、イドリスは、彼の眼中にない。これは自己に対する過大評価であったかもしれないが、一八歳の覇気は、それほどにかがやいてもいたのである。 「ザーリッシュは強い。わがタイタニアの守護神というべきだな。宗祖ネヴィル殿下の再来といわれるのも過大ではない」 「ですが、ザーリッシュ卿はいつも戦って破壊なさるのみ。きちんと事後処理をなさるのは、ジュスラン卿とうかがっております。いわばザーリッシュ卿は、ジュスラン卿の前座ではありませんか」 「ほめられるのは嬉《うれ》しいが、要するに人それぞれということだな」  さりげなくジュスランは、バルアミーの煽動に水をかけた。バルアミーが絶句し、絶句したことに自ら腹をたてかけたとき、ジュスランがさらにさりげなく問いかけた。 「ところで、バルアミー卿はどちらでありたいと思っているのだ」 「は、どちらとは?」 「ザーリッシュのような陣頭の豪将か、私のような事後処理人か、どちらかを選ぶとすれば、どちらがお好みかな」  このとき、ジュスランはやや人が悪い。バルアミーに対する問いかけは、彼としては児戯に類するもので、いわばバルアミーの客気をからかったのである。だがバルアミーにしてみれば、お遊びとは思えなかった。政略的な意味があるのかと疑い、その疑いを隠そうとして表情を消すための努力をし、さらに、どう答えれば相手の意図を測ることができるか、ごく短時間のうちにそれらを考え、結果として、「どちらでも」などと答えてしまう。自分で腹が立つほどに対応に窮してしまったのであった。  バルアミーを退室させると、ジュスランは肩をすくめて侍女を呼んだ。 「フランシア」 「はい、ジュスランさま」 「私はどうもあちこちで買いかぶられているようだ。敵としても味方としてもな」  ジュスランの苦笑の意味が、フランシアには理解できない。ただ彼女は、苦笑するときのジュスランの表情、光と影が淡く揺らぐ表情が好きだった。ささやかな幸福を感じながら、フランシアは、男のためにコーヒーを淹《い》れる用意をした。    タイタニアの軍旗は、黄金色の縁どりを持ち、右半分の地が赤く、左半分の地が黒く、その境界線上に宇宙樹が黄金色のかがやきを発している。これは同時にタイタニア一族の家紋でもあった。宇宙を支配する一族。人界において、もっとも畏敬され尊崇《そんすう》され、もっとも恐怖され憎悪されている一族の、これは、ほとんど傲然たる存在の証である。  壁面に飾られた軍旗の前に、バルアミー・タイタニア子爵は腕を組んで立ちつくしている。旗艦の一角であるから、彼の背後には搭乗した軍人たちの往来がある。士官にせよ兵士にせよ、バルアミーの後姿に奇異の視線を投げつけはするが、声をかけようとはしない。バルアミーは艦内に知己《ちき》がおらず、といって彼がタイタニアの大貴族であることは周知であり、さらには、美貌の若者の背中の表情が鋭すぎて、声をかけるのをはばかったのである。  バルアミーには、陰謀を自己目的化する傾向があるわけではなかった。あくまでもタイタニアの最高権力を握るため、手段として陰謀を考えているだけであった。  とはいえ、陰謀によらねば目的を達成させることは不可能であるように思われる。藩王アジュマーンを斃《たお》し、ジュスランら四公爵を滅ぼした後、はじめてバルアミーの父エスト[#底本「エステ」修正]ラード侯爵の出番がまわってくるのだ。そこへ至るまでの過程に、破壊と流血がともなえば、タイタニア総体の弱体化を招き、外部の敵を雀躍《じゃくやく》させるだけであろう。まして、たとえば勇将アリアバートや豪将ザーリッシュを敵にまわし、艦隊決戦で容易に勝利をえることができる、と思うほど、バルアミーはうぬぼれてはいない。実戦指揮能力もだが、彼らの擁《よう》する兵力は絶大であって、容易にそれを撃破することはできないであろうと思われる。 「だが待て、アリアバート・タイタニアでさえ不敗ではない。かのケルベロス会戦で、奴を破った男がいるではないか。名はたしか何といったか……」  記憶巣に架空の手を突っこんで、バルアミーはようやく、ファン・ヒューリックという固有名詞を拾いあげた。どのような男であろう。彫像のように不動の姿勢をたもつバルアミーの瞳は、誇り高き軍旗に据えられたまま、じつは時空の彼方を見つめている。ファン・ヒューリックを、バルアミーの陰謀の道具として使うことができるだろうか。  現実に、バルアミーは未だタイタニア内部の覇権を手に入れたわけではない。ゆえに、その気前のよさも抽象的にならざるをえなかった。だが、ファン・ヒューリックという男を味方につけ、軍事専門家として頤使《いし》できるなら、地位や金品を惜しもうとは思わないのである。タイタニア全艦隊の指揮官たる地位につけてやる。といったら、喜んでバルアミーの麾下《きか》に投じてくるであろうか。そこまで考えて、不意にバルアミーは自らに冷笑をあびせた。ヴァルダナの愚かしい宮廷貴族どもを笑えぬ。他者の才能や力量をもって、全タイタニアを手に入れようとは、他力依存もきわまるというものではないか。彼、バルアミー・タイタニア自身の知謀と才幹をもってしてこそ、真に覇業は成る。ファン・ヒューリックごとき流浪者に何を頼ることがあろうか。  昂然と頭をあげ、バルアミーはタイタニアの軍旗に背を向けた。その姿を、モニターの画面を通してジュスランがながめている。  あるいは、ヴァルダナの宮廷貴族どもより、あの犀利《さいり》な息子のほうが、エストラード・タイタニア公爵にとって危険な煽動者であるかもしれぬ。ジュスランはそう思った。宇宙の支配権に対する渇望は、タイタニアの血の香気によるものであろうか。またひとりあらわれた野心家の姿を、黙然とジュスランは見つめるのだった。        V    七月一〇日、ジュスラン・タイタニア公爵は艦隊をひきいて惑星カフィールに到着した。武力進駐ではなく、双方合意しての寄港である。タイタニアは代価を支払い、傷病者を入院させ、食糧とエネルギーを補給し、艦艇を整備補修する。将兵には交替で、各々四八時間の自由時間が与えられる。夜の女たちは化粧を凝《こ》らして、兵士たちが街へ飛び出してくるのを待ち受ける。  指揮官たるジュスラン自身には、それほど休息の時間は与えられない。タイタニア一族の巨頭とあれば、面談を求める人々だけでも数百人を算《かぞ》える。商魂むきだしの経済人などは鄭重に門前ばらいするとしても、カフィールの共和政府首相、民会議長、警察長官などとの面談は避けることができなかった。タイタニアは尊大ではあるが、ときとして、形式が重要なこともわきまえている。  そして、星間都市連盟の商館長。星間都市連盟は、むろんタイタニアにとって、公然の敵であり、非公然の敵である。この二世紀におよぶ宇宙航行の歴史は、タイタニアの歴史であり、タイタニアと星間都市連盟との抗争の歴史である。タイタニアが滅亡すれば、星間都市連盟の幹部たちは感涙にむせび、祝杯をあげるだろう。星間都市連盟が破滅すれば、タイタニアの巨頭たちは、わざとらしく葬送の曲を楽団に奏させるであろう。双方、憎みあう心に偽りはない。  だが、敵どうしであるだけに、かえって外交の機会は逃がせないのだ。その点、タイタニアも星間都市連盟も、成熟した政治感覚を所有しており、原理主義に拘泥《こうでい》して情報収集と戦略案選択の幅をせばめるような愚は犯さなかった。ことに、ジュスラン・タイタニアは、温和で見識ある人物と思われており、反タイタニアの諸勢力も、好意に近い視線で彼を見ている。 「またしても買いかぶられた」  と、フランシアが傍にいれば、ジュスランは苦笑したであろう。ジュスランはつねに穏健派というわけではなく、ときとしてザーリッシュやイドリスでさえ驚倒するような苛烈な判断と行動を示すことがある。極端なところ、彼は儀典においてきちんとふるまい、柔和に挨拶ができるというだけで、外見的に、温和と思われているにすぎないといってよいのであった。  バルアミーが今回の航宙で、つねにジュスランの傍にあるのは、高級副官という地位からいって当然であるが、両者の心理的な関係は、なかなかに単純ではなかった。首相主催の歓迎パーティーで、バルアミーはジュスランの左後方にひかえていたが、パーティーに参列した淑女たちの視線は、ともすればタイタニアの指揮官より高級副官のほうへ向かいがちであった。誇り高いタイタニアの若者は、女たちの色目を無視し、冷然たる表情で立ちつくしていた。ジュスランが苦笑に似た目つきを、ちらりと向ける。  バルアミーの鋭才に欠けているものは、ジュスランと比較してみて明白である。それは歴史感覚であり、タイタニアの存在それ自体を、過去から未来へとつづく歴史の潮流のなかでどのように位置づけるかという視座《しざ》であった。バルアミーにとって、タイタニアはすべてであった。時間的なすべて、空間的なすべて、思考世界のすべてであった。だからこそバルアミーは、父を介して、タイタニアを支配することを望んだ。それは文字どおり、宇宙のすべてを掌中に収めることであった。  ジュスランには教師としての資質があったかもしれない。彼はバルアミーの長所と短所を的確に見ぬき、その長所を伸ばすことに奇妙な情熱の発生を感じた。これはイドリスなどに対しては感じなかったもので、イドリス二四歳、バルアミー一八歳という年齢が、あるいは関係していたかもしれない。また、イドリスに比してバルアミーの立場が弱いものであるという認識も働いたであろう。 「タイタニアなど小さいではないか」  そうジュスランは、剽悍《ひょうかん》なほど若々しい従弟に言ってやりたい思いがする。「タイタニアとは何者だ!」と、敵対勢力は口にする。彼ら自身が大きいかどうかは別として、たしかにタイタニアは小さい。権勢をふるい、栄華を誇り、恒星と惑星の大海を横行し、戦い、勝ち、支配する。歴代の藩王は、列国の政治を支配し、文化や芸術を保護し、辺境の惑星に植民を進め、人類が住む空間と時間を掌中に収めてきた。  彼らの歩みと営《いとな》みを、無であるとはジュスランは思わない。だが、とくにタイタニア権力機構の末端にある者どもが思いあがるほどに巨大であるとは、ジュスランは絶対に考えない。人の世に永劫《えいごう》はありえないのだ。滅亡の日が必ず来る。タイタニアは音もなく灰と化して風に運び去られるか。轟音と閃光のなかに砕け散るか。タイタニアの巨頭としてあるまじきことながら、ジュスランは、その日の光景を見ることに夢魔めいた渇望をおぼえる。それは無地藩王アジュマーンが語った藩王としての資質とは、似て非なる欲望である。ただ、その一方に並立する理性と責任感は、きわめて明晰で充実したものであり、両者が併存《へいぞん》すること、さらにその奇怪な併存を自覚していたことが、ジュスラン・タイタニア公爵という人物に、一族の他の者にはない陰影を与えているであろう。  カフィール政府首相が主催したパーティーで、ジュスランは幾人かの重要人物《VIP》たちと話しあった後、とある貴婦人の挨拶を受けた。その貴婦人はジュスラン公に対する礼儀を果たした後、バルアミーにしきりと話しかけたが、若者の態度は冷淡をきわめた。 「あなたはジュスラン卿の部下でいらっしゃるの?」 「高級副官であります」 「お仕事の内容は? どんなことをなさるの」 「民間人でいうと、秘書役というところかもしれませんが、くわしく申しあげると軍機に抵触《ていしょく》いたしますので、これ以上は申しあげられません」  ウィスキーのグラスを手にしたまま、ジュスランは失笑しかけた。 「そうかもしれぬな。だが、具体的な職務内容を明かさねば、かまうまい。タイタニアは小さい、そう力まなくてもよいさ」  ジュスランはもう一度笑い、それを見たバルアミーは不意に赤面した。従兄の大度《たいど》に比べ、いかにも自分が卑小な存在であるように思われたのだ。貴婦人がやや鼻白んだように離れていくと、バルアミーはジュスランの許可をえて、バルコニーに出、夜風にあたった。 「タイタニアは小さい、か……」  つぶやいたバルアミーは、星々の青い光のシャワーをあびて、急に苦々しげな表情をつくった。 「いや、小さいものか。大きすぎる。ぼくの手には、まだまだ大きすぎる……」        W    虚飾に満ちたパーティーの一夜が明けると、ジュスラン・タイタニア公爵は、さまざまな任務に着手した。「流星旗」軍のその後の調査なども、それに含まれる。 「流星旗《ブレイズ・フラッグ》」軍と呼ばれる宇宙海賊集団は、恒常的な存在ではない。最初に彼らが姿をあらわしたのは、星暦三六〇年のことで、タイタニアの恒星間航路支配に対する反感が、その動機となっている。タイタニアに圧迫された中小の商船主。タイタニアの商船が運ぶ物資を法外な高値で買わされた地方領主。有望な鉱山を開発途中でタイタニアに安値で買収された鉱山主。タイタニアの犯罪を追及して抹殺された司法官の遺族。さらにはタイタニアの艦隊と戦って死んだ兵士の遺族。タイタニアの内部で粛清された者の遺族。構成員の共通点は、「タイタニアに対する怨恨」という、ただ一点であって、「タイタニアの犯罪歴の一覧表」という趣《おもむき》があった。タイタニアは犯罪を目的とした組織ではないが、利益を守るためには、政治的な、あるいは法律的な犯罪をおかすことを、ためらってはこなかった。  こうして「流星旗」は反タイタニアたちの象徴となった。彼らはその旗の下に集《つど》ったものの、組織というより、感情的に結合した人的集団であって、その勢力は、ときの指導者の力量によって伸縮がいちじるしかった。指導者の権限も、きちんと明文化されているわけではなく、指導の権利と服従の義務をめぐって、論争や対立が絶えなかった。恒常的に資金をプールすることもなく、むろん指揮中枢も確立されてはいなかった。極端なところ、彼らの戦いは、タイタニアに対する個人プレイ的な挑戦、襲撃、掠奪、破壊活動を単に集計したものであるにすぎなかった。そして皮肉なことに、それゆえにこそ、根絶することは不可能に近かったのである。  今回、ザーリッシュ・タイタニアが大規模な勝利をおさめたのは、いささか奇妙な表現になるが、ひさびさに流星旗軍が大集団を形成して攻撃に出てきたからである。流星旗軍は、小集団による快速のゲリラ戦には長じても、大集団としての統一行動はもともと苦手であったから、ザーリッシュの豪勇に対抗できようはずはなかった。流星旗軍は、形勢不利と見ると無益な抵抗をせず、それぞれの才覚と判断によって逃げ散ってしまい、大敗北という割に被害はすくない、という傾向があった。ところが今回は、そうはいかなかった。ザーリッシュは主力をして流星旗軍の中央を衝《つ》かせるとともに、別動隊を迂回させてその退路を絶たせ、前後から猛撃をあびせて敵を殲滅《せんめつ》したのである。  この勝利は、いくつもの意味でザーリッシュを満足させた。まず単純に、勝利とはうれしいものである。つぎに、アリアバートが敗北の後の勝利によって武名をあげたことに対し、ザーリッシュも、彼にまさるとも劣らぬ武勲をあげたわけであって、これがザーリッシュの対抗意識を満足させたのであった。  タイタニアは宇宙で最大最強の武力集団である。ヴァルダナ帝国の国法によれば、単にタイタニア家の私兵集団であるにすぎないが、いかなる国軍も実力と実績においておよびようがないのである。タイタニアは、宗祖ネヴィル以来、「国家とは何か、国権とは何か、タイタニアを律するは、ただタイタニアのみ」という姿勢をつらぬいているのだった。国家を至上の存在と考える人々にとっては、赦《ゆる》しがたい増上慢であるのだが、「文句があるなら実力で来い」といわれれば、歯ぎしりして引きさがるしかないのである。それどころか、辺境の小国ともなると、恒星間戦争遂行能力どころか、民間輸送手段もろくに持っていない国があり、タイタニアの商船が交易に来てくれないと、国そのものが成りたっていかない、という例すら珍しくはなかった。そのような国では、タイタニアのご機嫌をそこねることを恐れ、タイタニアの巨頭たちに勲賞や階位をせっせと贈るのだった。これだと実質的な出費がなくてすむ。貧乏国のせつない知恵であった。  ジュスランも、ヴァルダナ帝国軍上将の階級の他、どこかの国の元帥とか、大将とか、副宰相とか、そのような類の称号を、「百足《むかで》の足の数ほど」所持している。いささか押しつけがましいながら、友好的関係の証明であるから、黙って受けている。むろん一国の廷臣が他国の官職を受けるなど、本来は国家秩序に反するのだが、ことタイタニアに関しては、公然と非難する者はいなかった。 「力があれば国法を犯してよいのか」  という論に対しては、 「国法など弱者を圧迫するだけのものだ。国法が絶対の正義と思うなら、正義をつらぬいてみせたらよいではないか」  そう言い放ったタイタニアがいるという。誰かはわからぬ。歴代のタイタニア、誰もが言いそうなことであるから、逆に、創作であるかもしれぬ。  カフィールで最高級のホテルに腰を落ち着けたジュスランは、たちまち面会希望者のカードに囲まれたが、そのなかに、「エルビング王国特使」という一枚が彼の目をひいた。  ジュスランは小首をかしげ、数日前にタイタニア軍旗の前にいたバルアミー同様、わずかな記憶をまさぐった。やがてうなずいたのは、その小国が、彼に副宰相と公爵と大将と、三つの称号を贈ってくれたことを思い出したからである。先年、その国で、国が小さいなりに王位継承をめぐる紛争がおこり、ジュスランの調停と威圧によって解決を見た。その謝礼のため、他国の公用船に便乗してやって来たという。会う必要もなかろう、という幕僚たちの意見を、ジュスランはしりぞけた。 「いや、せっかく来訪してくれたのだ。長時間とはいかぬが、会って挨拶ぐらいは受けよう」  他国の公用船に便乗して、ようやくカフィールまでやって来た、と聞けば、おかしみと同時に同情を禁じえない。反骨の一種であろうが、富裕な大商人や比較的大国の使者を後まわしにして、ジュスランはその貧しい小国の使者を、ホテルの貴賓室に迎えた。とはいえ、自ら玄関に出て迎えるほどの配慮をしめすまでにはいたらなかった。決裁する書類もいくつかあったことで、ジュスランは、居間兼書斎のデスクに陣どって、書類にサインをしたり訂正箇処に印証を押したりしていたのだが、その静かさを子供の声に破られてしまった。 「一国の王族に対して無礼であろう! 起立して礼をしたらどうじゃ」  さすがにおどろいて顔をあげると、一〇歳ぐらいの子供がデスクの前で、若いタイタニアをにらんでいる。身体は小さいが気概で負けるものか、という態《てい》である。栗色の髪は短いが、服装は女児のものであった。ジュスランはペンを置き、高級副官として侍立するバルアミーと顔を見あわせた。名をたずねると、憤然とした答えが返ってきた。 「エルビング王国の第二王女リディア。一国の特使に対するタイタニアの礼はこれか。失望したぞ」 「……これは失礼いたしました。おすわり下さい、殿下」  ジュスランは立って自ら椅子をすすめた。バルアミーが口のなかで何かつぶやいたのは、そんな必要はないのに、と言ったらしい。王女は椅子に腰をおろしたが、デスク面より上へは、ようやく両眼が出ただけである。だが、態度はまことに堂々たるものであった。 「ジュスラン・タイタニア公爵には、一度会いたいものと思っていた。タイタニア一族のなかにあって、もっとも話のわかる人物だと聞いていたのでな」 「おそれいります、殿下」 「だが、存外、気がきかぬではないか。客が来たら茶ぐらい出すものだぞ。われらのような辺境の小国でも、そのていどの礼儀はわきまえておるのに」 「失礼いたしました。副官、すぐ殿下にお茶を」  バルアミーは不本意げな表情を押し殺しながら、一礼して踵《きびす》を動かしかけた。ふと、あることに気づいて、ジュスランは彼を呼びとめ、笑いをこらえる表情で、王女さまに質問した。 「殿下、お菓子のほうは、いかがいたしましょうか。お好みのものがあれば用意させますが」 「王族たる者は、出された食物に好き嫌いを言ってはならぬのだ」 「ごりっぱです。ですが、まだ用意しておりませぬので、ご自由にご注文ください」 「そうか、では、ええと、シュークリームとオレンジ・ババロアがよい」 「かしこまりました。殿下のおおせだ、副官、できるだけ早く持ってきてくれ」 「は、ただちに」  ほとんどうなり声を発して、ヴァルダナ帝国軍准将たるバルアミー・タイタニア子爵は、部屋を出ていった。王女さまは元気よく両脚を宙でぶらつかせたが、これは礼儀にもとると思ったか、すぐにやめて問いかけた。 「あの者は、やはりタイタニアの一族か」 「さようでございます、殿下、私の従弟でございまして、将来を嘱望《しょくぼう》されております」 「美男子じゃな」 「本人が聞けば喜びましょう」 「だが、表情に余裕がないぞ。ものいいも硬《かた》くて、ゆとりがない。あれでは女性にもてぬぞ。男の値打は顔だけではないのじゃ」  引きしめようと努めても、ジュスランの口もとは、つい綻《ほころ》びてしまう。 「で、王女さま、わざわざ足をお運びいただいたのは、どのようなご用件でございましょうか」 「そうそう、それじゃ」  頭から美男子とお菓子のことを一時追放して、王女さまは椅子の上にすわりなおした。要するに彼女の国は、唯一の財源であった国営バナジウム鉱山の鉱脈が尽《つ》き、三年来、小麦と牧草の不作もつづいて、タイタニアに対し、大きな借金をかかえてしまった。先年の王位継承争いで、さらに借金が増えた。もはや国ごとタイタニアの管財人にかかえこまれるしかないが、どうやってタイタニアの信用を確保したものであろうか。 「で、わたしが人質となってな、|天の城《ウラニボルグ》へ参ることになったのじゃ。ここまで侍女といっしょに来て、帰りの旅費もないゆえ、帰ることもならぬ。追い返してもむだじゃぞ」  悪びれるどころか、いばっている。 「わかりました、殿下のお世話は、このジュスランが責任を持ちましょう。どうぞご心配なく」  フランシアの顔を想い起こしつつ、ジュスランは答えた。相手がこのような童女では、たとえフランシアに妬心《としん》があるとしても、邪慳《じゃけん》にはすまい。よい友人になれたら、さらに望ましい。一小国の借金など、ジュスラン個人の財力でまかなえる。この元気のよい小さなお姫さまを意気|阻喪《そそう》させるようなことはしたくなかった。そこへドアが開いて、ウェイターにしては美貌で格調のありすぎる若者が、盆《トレイ》を運んできた。蜂蜜いり紅茶のカップと、お菓子を、小さな賓客に持ってきたのだ。 「こわい目をしておるな、そなたは。せっかくの美男子が台なしじゃ」  タイタニアに対してこのような口をきく者は、宇宙に他にいないであろう。「どうも」と、さすがのバルアミーが苦笑するしかない。 「まるで謀叛《むほん》でもおこしそうな目をしている。顔だちはまるでちがうが、父上の王位をねらった叔父が、そのような目をしていた」  王女は、スプーンごと生クリームを頬ばった。ふたりの若いタイタニアを絶句させたことも知らず。 [#改ページ]        第六章 呉越同舟のバラード            T    宇宙船「|正直じいさん《オネスト・オールドマン》」号、略称|OO《オーオー》号は、惑星エーメンタールから惑星バルガシュへと航宙《セーリング》をつづけている。ときおり正規の航路をはずれ、非公式のルートをたどるのは、タイタニアに追われる身としては、やむをえないことであった。非公式ルートは、たとえば地方的に割拠《かっきょ》する半海賊的な集団が押さえている場合もあり、そのようなときには彼らに通行料を支払って安全を確保せねばならない。タイタニアへの通行税とあわせ、無人のはずの宇宙を航行するには、費用がかかるのである。  事務次長のファン・ヒューリック氏は、二四時間中四時間を仕事にあてるだけで、あとはそれなりに船内生活を楽しんでいた。彼の処理能力では、それで充分に仕事をこなせたのだ。事務長である九一歳のロドリゲス老人は、起きていると口やかましいが、一日の大半を眠っているので、さして掣肘《せいちゅう》も受けずにすんだ。  これに比べて、不本意と不機嫌を両手でかかえこみ、口には酒瓶をくわえて、反社会的有機体になりさがっていたのは、アラン・マフディー中尉、年齢二二歳であった。  仕事をすませてサロンにあらわれたファン・ヒューリックが声をかける。 「よう、闇商人、まだすねてるのか。いいかげんに宿命と仲よくしたらどうだ?」 「闇商人というのはよせ」  マフディーがうなると、声といっしょにアルコールの濃い呼気が吐き出される。火をつけてみたらおもしろいだろうな、と、ファン・ヒューリックは、しばしば危ない興味をそそられた。どうやらマフディーは体質としてアルコールに強く、今回それが災《わざわい》して、いくら飲んでも陶酔の波が現実を押し流してはくれないようであった。不幸な宿命を背負ったマフディーの歎きをきくと、どうやら彼は、自分自身よりも、エーメンタールに残してきた預金が心配でならぬらしい。  ファン・ヒューリックも、変態伯爵の手を逃がれた安堵感はあるものの、心臓の内壁に小さな棘《とげ》が刺さってもいる。それを振りはらって、もっともらしく忠告した。 「バルガシュに着いたら銀行へいって、現金化すればよかろう。ここで心配していても、どうしようもあるまいが」 「預金口座なんかとうに封鎖されているさ。これまで地道に働いて、つつましい老後を送れるだけの資金をようやく貯《た》めこんだのに、ああ、おれの老後は暗黒の闇だ」 「地道が聞いてあきれるよ。まっとうな勤労者の皆さんに悪いと思わないのかねえ」  船長夫人であり主任航宙士《チーフ・ナビゲーター》であるミランダが、巨体をゆすって容赦なく論評した。一瞬、鼻白んだマフディーは、このときはアルコールの勢いを借りて反撃した。 「タイタニアあたりに比べたら、おれのやりくちなんぞ、つつましいもんだ。前言撤回の必要はないぞ」 「でも幸福はお金銭《かね》で買えないって、昔からいうじゃないか」 「金銭のあることが、おれの幸福なんだ! 他人の価値観に口を出さんといてもらおう」 「まあそこまでにしといたらどうだ。せまい船のなかでいがみあってもしかたない」  仲裁役を柄になくファン・ヒューリックが買って出たのは、善意や余裕からではない。マフディー中尉の独自な価値観とやらが、ファン・ヒューリック自身のそれに、一部ながら通底《つうてい》しているような気がして、いたたまれなくなったからである。 「おれもエーメンタールに全財産を置いてきたんだ。不幸なのはお前さんばかりじゃないぞ、マフディー」 「ええい、なれなれしくするな。不幸な貧乏人どうし慰めあってたら、ますます貧乏くさくなるだけじゃないか」  あまりにも正しい意見なので、ミランダもファン・ヒューリックも反論できず、若い拝金主義者をなだめるのを断念して、離れた席に腰をおろした。いったんキッチンに姿を消したミランダが、巨大なパンケーキの皿をかかえてあらわれ、「おやつにしよう」と呼びかけた。一枚が幼児用のクッションほどもある。すこしでいい、と答えながら、ファン・ヒューリックはリラのことを想いだしてしまった。彼女のオムレツは絶品だった。 「ばかばかしい、他人の女じゃないか。いまごろはあのデ・ボーアの軟弱野郎とよろしくやっているさ。おれには関係ない」  そう思いこもうとしているファン・ヒューリックの内心を洞察したように、ミランダは、重々しくパンケーキをファン・ヒューリックの皿にとりわけ、大量にシロップをかけてくれた。にんじん色の髪の青年にとっては、胃の全容積をしのぐほどの量だ。 「食べきれなきゃお残しよ」 「そうさせてもらう」 「でもそのくらい、流星旗軍の若い連中なら、オードブルていどにしかならないけどね」 「あんたは、流星旗軍の奴らと味方どうしだったのか」 「敵の敵は味方っていうだろう。タイタニアにさからう連中は、結局あたしらの味方さ。マフディーはばかにするかもしれないけど、弱い者どうし手を結ぶのも悪くないことさ」  もっともな返答であった。ファン・ヒューリックが、巨大なパンケーキをフォークの先でつつきまわす間に、ミランダは、先だってザーリッシュ・タイタニアのために流星旗軍が大敗をこうむったことを語った。 「無傷だったのはリー・ツァンチェンの船団だけらしいよ。あの人はそりゃあ頭がいいから、うまく災難を避けたんだろうよ」 「そんなに頭がいいのか」 「哲学博士《DPH》の学位を持ってるんだよ。あたしらはドクター・リーって呼んでいるけどね」  ミランダの話によると、リー・ツァンチェンは惑星バルガシュの国立大学で二〇歳にして学士号をとり、二四歳にして哲学博士号を手にした秀才であった。そのまま母校の助教授に就任したのだが、何やらトラブルをおこして、その地位にとどまれなくなった。カフィールの大学に移るため、客船で航宙《セーリング》中、流星旗軍の一隻に襲われて捕虜になった。ところがその船長というのが彼の伯父にあたる人で、甥の学識教養を見こんで秘書的な地位につけた。どうやら伯父という人は、最初から甥を仲間に引きこむつもりで、彼が乗った船を襲わせたらしい。本人もいつのまにか境遇になじみ、船長の死後、その地位をついでしまったという。 「だったら、そのドクター・リーとやらを総指揮官にして団結すれば、流星旗軍も、かなりしっかりした組織になって、タイタニアと対抗できるんじゃないか」 「それがむずかしいところでねえ」  深刻な表情を、ミランダはつくったが、陽気で豪快そうな顔つきと身体つきには、いささか似つかわしくなかった。 「流星旗軍とか、たいそうな名前はついているけど、大きな獲物をねらうときだけ集まる寄りあい所帯だからね。ひとつにまとまるなんてとてもとても」  ドクター・リーは頭はよいが短気なところがあり、彼の作戦や計画が受け容れられないと、「勝手にしろ、低能ども!」とどなって席を立ってしまう悪癖がある。実際、彼のいうことを無視して、手痛い敗北をくらったことは何度もあるのだが、それが事実でも低能といわれて嬉しい人間はいないから、ドクター・リーは、いつまでたっても全体中の主流にはなれなかった。本人も、「私には才はあるが徳はないのでね、他人の上に立つ気はない」と、自分の欠点をよくわきまえている。ドクター・リーは学者出身であるくせに、武器のあつかいにも長じていた。人材を集めるのに貪欲なタイタニアが、高い地位を提示して彼を誘ったことがあった。それを謝絶して、ドクター・リーは無頼漢どものなかで独自の位置を守り、敬遠されつつも一目《いちもく》置かれているという。  カジミール船長の姿が、船内通信の小スクリーンにあらわれた。ミランダとの間に、手話と読唇術を使った会話がかわされる。手話では意思の疎通に限界があるのではないか、と、ファン・ヒューリックなどは思うのだが、これは彼の不見識であろう。船長夫妻は表情や何よりも一種の精神的波長の同調によって、充分に意思の疎通ができるようであった。  ミランダは二八歳というから、ファン・ヒューリックと同年である。正直なところ、異性としての魅力はさほど感じないが、友人としては信頼に値するようであった。なかなかに有能でもある。その彼女が客人を振り返った。 「提督、ちょっとおもしろいことになりそうだよ」  提督とファン・ヒューリックは呼ばれているが、これは「都市艦隊司令官職」についていたからこその称号で、階級からいえばまだ大佐なのである。むろん、二五歳で軍隊入りして、三年の間に軍曹から大佐まで成りあがるのは、尋常なことではない。じつは、彼の母都市エウリヤにおいては、大佐でも少佐でも佐官であれば給料は同額なのであり、大佐から准将になる関門が、きわめて狭いのであった。本来の司令官は、初老の少将であったが、高血圧の発作で入院してしまい、ファン・ヒューリックがその代理となった。最初から負けるための戦い。流血の舞台で踊るピエロとして、だ。 「おもしろいことって何だ?」 「噂のドクター・リーが近くの航路にやって来てるそうだ。バルガシュに行くそうだから、このあたりで出会っても不思議じゃないね」  その通信から八時間後、大小、というより中小の艦艇一三隻から成るドクター・リーの部隊は、「正直じいさん」号と合流した。  通信スクリーンの画面にあらわれた男は、ファン・ヒューリックと同年輩のようであった。癖のない黒い髪を長くして、頸《くび》すじのところで白い紐を結んでいる。両眼は碧《あお》みをおびていた。タイタニア級といってもよい端整な顔だちだが、皮肉の鋭さが両眼にこもっていて甘さがない。 「ドクター・リー、今度は何やら災難だったようだね」 「ミランダ女史か。いつものことだ。低能どもが私のいうことを聞かないからこうなる。宇宙は不条理と低能に満ちていて、私ひとりの手ではあつかいかねるということだ」  相当に不遜《ふそん》な言いようだが、この男の口にかかると、冷厳な事実のように聴こえるのが不思議であった。ファン・ヒューリックは、ミランダの巨体の背後で理由もなく耳の後ろをかいていた。        U    後日の宇宙史から見れば、反タイタニア勢力の頭脳となるふたりの青年が、この日はじめて対面したのである。だが、口先だけの宿命論者マフディー中尉を含めて、「正直じいさん」号には、この日の歴史的意義など考えた者はいなかった。  五人の部下をしたがえて、ドクター・リーはシャトルで「正直じいさん」号に姿をあらわした。シルバーホワイトのクルー・スーツの上から、ベージュ色のコートをひっかけている。身長はファン・ヒューリックよりは低いが、標準をこしている。出迎えたカジミール船長と握手をかわしたとき、教師的な表情が和《なご》み、ミランダと軽い友人としての抱擁をかわしたときは、さらにそれが軟《やわら》いで、すると若々しく、学生めいた雰囲気になった。そのくせ、茶のテーブルにつくと、また教師めいたようすにもどり、口調はどこまでも講義調である。初対面の挨拶をすませたファン・ヒューリックが何気なく、「タイタニアがお嫌いか」と尋ねてみると、答えはこうであった。 「タイタニアは宇宙でもっとも強大だ。だから私は好かん。それだけのことで、タイタニアの側に責任があるわけではない」  可愛げのない正論家というところかな、と、ファン・ヒューリックは相手の個性を測《はか》った。測りつつ、もう一度尋ねてみる。 「どうだろう、反タイタニア勢力が団結してタイタニアを滅ぼすことができるだろうか」 「むずかしいだろうな」  そう答えただけで、理由は説明せず、ドクター・リーはハーブティーをすすった。尋ねたファン・ヒューリックも、かさねて問おうとはせず、自分のハーブティーをすする。両者を見くらべたミランダが、どういうことか声に出して知りたがったので、ファン・ヒューリックが口を開いた。タイタニアが内部分裂をおこすとしても、それを外部勢力が利用しようとすれば、必ずタイタニアは外に向かって団結する。いたずらに刺激すれば、タイタニアの団結を強固にするだけで、かえって外部勢力にとって不利になる。そして外部勢力のほうこそ、団結を解《と》き、分裂し、解体してしまうのだ。 「そういうことなのかい、ドクター?」 「そんなところだ、ミランダ女史」  うなずいて、ドクター・リーはハーブティーの白いカップを皿の上にもどした。ファン・ヒューリックをながめやる目つきが、どことなく、できの悪い学生を見る教師のように思われるが、これはファン・ピコーリックのひがみであろう。 「ただ、これから将来《さき》は事情が異《こと》なってくるかもしれない。これまでの歴史になかったようなことが、最近、いくつか生じている」 「たとえば?」  と、ミランダが好奇心に目を光らせた。 「たとえば、タイタニア四公爵のひとりに直接指揮された艦隊が、ただ一個の都市艦隊《シティ・フリート》に敗れるなど、ありえざることだった。それをやってのけたのは、こちらの御仁《ごじん》だが」  ドクターが視線の角度を変えた先で、にんじん色の髪の青年は肩をすくめたところだった。 「それは、おれをほめてくれていると思っていいのかね、ドクター」 「いや、タイタニアをけなしているだけだ」  ミランダは豪快に笑い、彼女の夫も口もとをほころばせた。他の二名は、微笑のかけらすら浮かべなかった。 「すこしまじめに考えてみよう。先ほど私は、タイタニアと宇宙の歴史に変革期が訪れつつあるのかもしれない、と、そういった。だが、ここで重要なことは、変革が一時のものに終わることもある、そのことだ」  ドクター・リーが語るのは、つぎのようなことである。ケルベロス星域の会戦は、それが最初から変革を呼びおこす戦略の一環として計画されていたら、大変動のきっかけになりえた。アリアバート・タイタニアの敗北は二〇〇年来の衝撃的な事実であり、それに連動して星間都市連合や反タイタニア諸国がいっせいに起《た》てば、タイタニアといえども戦力の分散を余儀なくされたであろう。だが、そうはならなかった。ケルベロス会戦の勝利は、孤立した戦術的奇蹟として過去に葬られてしまった。おそるべきことに、その奇蹟をとりこみ、戦法として体型化したのは、タイタニアのほうだった。この精神的なエネルギーの差があるかぎり、タイタニアの覇権はゆるぎようがない。タイタニアは、変革が全体におよぶのをふせぎ、それを部分化し、おのれのなかに消化吸収してしまうのだ。 「ファン・ヒューリック提督は天才だ。私が認める」  そう断言されて、ファン・ヒューリックは迷った。素直に喜ぶべきか、何か気のきいた皮肉を投げ返すべきか、と。 「ただ、天才は変革をもたらすが、その変革の永続は、無名の多数派にかかっている。この多数派を社会において形成することができねば、歴史が変わるなど、一瞬の夢想にすぎない」  さっきほど嫌みは感じないが、講義口調であるにはちがいない。流星旗軍の連中には、さぞ腹がたつことであろう。彼らのほうは、講義などおとなしく聞く柄《がら》ではないのだから。案外ミランダはそういう柄であるらしく、うなずきつつ講義に聞き入っている。 「もし私がタイタニアの藩王なら、全宇宙の小惑星をひっくりかえしても、ファン・ヒューリック提督の身柄を探し出す。四公爵に匹敵するほどの地位と権勢を与え、娘がいるなら結婚させて婿にするだろう」 「すごいねえ、ファン・ヒューリックには、それだけの価値があるのかい?」  ミランダが文字どおり目を丸くして、にんじん色の髪の青年をながめやった。 「おれもはじめて知った」  皮肉でもなく、ファン・ヒューリックはつぶやいた。今度こそ礼をいうべきかな、と思ったとき、ドクター・リーが再び口を開き、 「価値があるのはファン・ヒューリック提督個人ではない。彼が象徴する変革の可能性だ」  あっさりと、謝辞の卵を割るようなことを言ってのけた。 「あいにくと、凡庸《ぼんよう》な目には、それがわからない。エウリヤ市政府に、ごくわずかでも歴史感覚があったとしたら、みすみす彼を追放するようなことはしなかったろう」 「歴史感覚があったらどうしていた?」 「殺す」  淡々としてドクター・リーは断言し、ミランダは手にしたシロップの容器を握りつぶしてしまった。すきとおった黄金色の流動体がテーブルに粘ついた池をつくり、カジミール船長は頭《かぶり》を振って天井を見あげた。ミランダはあわててテーブルを拭く。その情景を視界の隅にとらえながら、ドクター・リーは「講義」をつづけた。 「奇をてらうようだが殺すしかない。エウリヤ市に彼を使いこなすことはできんし、タイタニアに彼を渡せば、エウリヤにとっての災厄となる。エウリヤ市に彼が好意を持つはずはないからな」 「ふうん、それで、このファンが反タイタニアの盟主になるって可能性はどうだろ、ドクター?」 「それはファン・ヒューリック提督の心情による。そこで提督に尋ねてみたいが、提督はタイタニアに怒りをいだいているか?」  そう問われると、ファン・ヒューリックは困ってしまう。タイタニアに対して好意をいだいていないことは確かだが、深刻に憎むというところまでは、心理的に追いつめられていないのだ。反タイタニアではない、非タイタニアというところであろう。好んでタイタニアと鉾《ほこ》をまじえる必然性は感じないのだ。 「怒りなきところに変革はありえない。ごく私的な水準のものでよいから、激烈な怒りや憎しみがあるとすれば、それは変革への起爆力になる。だが、それも時が熟してからのことさ」  ドクター・リーは軽く手を振った。講義おわり、というところであろうか。ミランダが床を鳴らして立ち、食事をしていくよう勧めると、ドクターは笑って礼を言った。 「お言葉に甘えよう。ただ、ミランダ女史の料理をいただくと、しばらく乗艦のまずい食事をとる気がなくなって、それがこまるな」 「嬉しいことを言ってくれるねえ。あたしゃうちの亭主のつぎに、あんたを愛してるんだよ。あんたも早いとこ、あたしみたいにいい女と結婚することさ」  ミランダの笑声が大きいのは、声帯をつぶされた夫の分まで笑おうとつとめているからかもしれない。カジミール船長は、あいかわらず穏やかに笑っている。声を失いはしたが、陽気で豪快な妻をえたことで、彼の人生は、おぎないがついたのだろうか。人生の収支決算表などというものがあるとしたら、ファン・ヒューリックの人生は、臨終のとき、黒字と赤字のどちらであるだろうか。  小さいとはいえ、歴然たる一国の公女と、ささやかな恒星間貨物船の船長。彼らを結びつけたのは、タイタニアだといえなくもない。無数の意思と行動と偶発の集積。それらをすべてのみこみながら、宇宙はなお余りある。少年のころ、客船の肉視窓から見たスター・ボウのめくるめく色彩と光彩を、ファン・ヒューリックは想いおこした。自分も船に乗って星々の海に棹《さお》さすのだ、と決心し、そして二〇年が経過した。急にファン・ヒューリックは溜息をついた。まだまだ、大勢に流されて老いていくほどの年齢では、彼はないはずなのだが。        V    七月二〇日。ファン・ヒューリックと彼の同行者たちは、惑星バルガシュの地表を踏んだ。  ごくまともな商船生活を送っていた当時も、ファン・ヒューリックは、この惑星に立ちよった経験がない。したがって、生まれてはじめての土地に、少年めいた好奇心を持った。もともと、エーメンタールに行くような途中経過がなければ、とうにこの惑星の大気を吸っていたかもしれないのだ。この惑星は、入植後五世紀を経過したというのに、まだまだ新開地という雰囲気が強い。「辺境星群の首都」という呼びかたは美称に過ぎるが、粗野ながら活力に満ち、投資と投機、冒険と開拓、成功と失敗、飛躍と転落、希望と絶望が、極彩色に渦を巻いている。  ドクター・リーは、この惑星に生家があるということだった。 「私の家がある。家には家族がいない」  いささか奇妙なことばづかいを、ドクター・リーは用いたが、つまり家屋は彼の所有物であっても、住人はちがう、ということであろう。生まれ育った家が他人の手に渡った、というような事情を、ファン・ヒューリックは推測した。あるいは微妙に事情が異なるのかもしれないが、そこまで詮索《せんさく》すべきではなかった。  宇宙港での手つづきは、ごく形式的で表面的なものだった。「正直じいさん」号の乗員カードに、一〇〇ダカール紙幣をそえて、あっさりとファン・ヒューリックは自由行動を許された。この一〇〇ダカールは、出国時に半額が返される。トラブルをおこさない保障金だというが、小役人のこづかいかせぎだろう。  だが、ファン・ヒューリックの行動は、それほど自由ではなかった。第一に、タイタニアの手、というより指先が、惑星バルガシュにも伸びていることは当然である。第二に、彼の自由を物質次元で保障するものを、彼は惑星エーメンタールに置いてきてしまった。給料の前払い、という形で、ミランダが一〇〇〇ダカールくれたが、酒を飲んで、ベッドつきの女を買えば、三日で消えてしまう。ファン・ヒューリックの精神の基底には、小市民根性が細いながら地下茎をめぐらしていたので、「大事に使わなきゃなあ」という意識が、欲望の襟首をちくちく刺すのである。  だが、エーメンタール以来、女気なしの生活がつづいており、このような経験はタイタニアの収容所で日を過ごして以来のことであった。「えい、金銭は費《つか》うためにあるんだ、貯めるのは守銭奴のマフディーにまかせておくさ」と独語して、彼は歓楽街として知られるラトゥール地区へ向かうことにした。  エーメンタールあたりの水準からすれば、粗野で洗練されていないにはちがいないが、ラトゥールはバルガシュでは一番品のよい歓楽街なのだそうである。女、酒、賭博、麻薬、さまざまな大道芸。人間の野性的な欲望が、三キロ四方に密集した家々のなかで発散される。はいったまま出てこない者もいるというが、ほとんど問題にならない。自分の意思でここへはいりこみ、快楽を求めたからには、絶対の安全など求めてはならないのだ。とはいえ、ラトゥールの自治組織は、客の安全が繁栄の因であることを知っており、じつのところ、ラトゥール内での犯罪発生件数は、ごくわずかである。賭博で身ぐるみはがれる、などというのは、当人の自制心が欠けているからであって、犯罪でも何でもない。  ラトゥール地区の門をくぐり、広場の一隅に立って、さてどちらの方角に向かおうか、と、にんじん色の髪の青年は思案した。いきなり後方から右肘をつかまれ、ファン・ヒューリックは一瞬で心身を武装させた。タイタニアの手先か、と思ったのは、この場合むりもない。「ファン・ヒューリック提督!」という声が聴覚に触れたとき、彼は長身をひるがえし、自由な左手を速く鋭く突き出していた。ファン・ヒューリックと同じ身長の相手なら、あごに痛打を受けてのけぞったはずである。だが、厚い筋肉の束が、彼の一撃をはね返していた。若い、童顔の大男が、おどろいたように彼を見返している。一瞬、混乱した記憶をかきまわすように、もうひとりの男が叫んだ。 「提督、再会の挨拶にそれはないでしょう」 「何だ、お前ら、何でこんなところにいるんだ!?」  ファン・ヒューリックは、きわめて無個性な質問を発せずにはいられなかった。彼の眼前にいるふたりの男は、エウリヤ都市艦隊の時代に、彼の幕僚だったのだ。副官兼護衛役のミハエル・ワレンコフ中尉と、情報参謀のルイ・エドモン・パジェス中尉だった。身長二メートルに近く体重は〇・一トンに達する、心やさしい熊のぬいぐるみのようなワレンコフ。中背で機敏そうで、油断ならぬ狐《きつね》のような印象のパジェス。年齢は前者が二七歳。後者が二六歳。ファン・ヒューリックとは半ば友人のような間柄だった。  彼らの話によると、こうである。ケルベロス会戦で思いもかけぬ勝利をえて凱旋した彼らは、街にくり出し、アルコールの雨をあび、高歌放吟《こうかほうぎん》をほしいままにした。そして朝、宿酔《ふつかよい》の頭をかかえてベッドからはい出し、朝のTVニュースを見てみると、何と、ケルベロス会戦の英雄ファン・ヒューリックが逃亡したというのである。 「だけど、おれたちは信じなかったんです。ファン・ヒューリック提督が逃亡したなんて、第一、逃げる理由がないじゃないですか」 「パジェスのいうとおりです。これはもう、逃げたんじゃない、追い出されたんだ、と、そう結論づけざるをえませんでしたね。たちまち禁足令を出されて、おれたちは宿舎に閉じこめられてしまいました」 「それからが聞くは涙、語るはさらに涙の物語で……」  自分でフレーズを並べておいて、ルイ・エドモン・パジェス中尉は、じつに手ぎわよくその後の事情を語りはじめた。情報を収集し、分析し、取捨選択して必要なものを司令官に提出する。情報参謀としてまことにえがたい男で、市長が愛人に出したラブレターの内容や、市議会議長の次女の下着のサイズまで知っているといわれていた。あるいはジャーナリストの感覚にこそ、富んでいるかもしれない。彼が話す間、ワレンコフはほとんど口をきかず、確認を求められると、うなずいたり、短く訂正したりするだけだった。それぞれの持味というものであろう。  勝利者たちが宿舎に閉じこめられ、パンと水とくず肉のソーセージで三度の食事をさせられているうちに、タイタニアの艦隊がエウリヤ市に入港してきた。何でも、タイタニアとエウリヤ市との間には、友好平和条約が締結されたということであった。それ自体は、きわめてけっこうなことである。だが、なぜ自分たちが宿舎に監禁されなくてはならないのか、理解できなかった。理解できたのは、TV画面に映し出された祝賀パーティーのありさまで、画面いっぱいに、フォアグラやローストビーフやイセエビやらが色彩を並べたから、若い士官たちにとってはたまらない。歴史上、食い物の恨みは革命への最短コースである。不満が爆発寸前の状態になったところへ、火が投げこまれた。ケルベロス会戦に参加した士官のうち、戦争犯罪者と目《もく》される六〇名が、タイタニアの収容所へ送られるというのである。六〇名のなかに、パジェスもワレンコフも含まれていた。こうなると事態はきわめて明瞭であった。要するに、ファン・ヒューリックも彼の部下たちも、母都市の外交戦略の犠牲にされたのである。とすれば、タイタニアの収容所から生きて帰れる保証はない。どうせ生きて帰れぬなら、と、彼らは脱走を計画した。ワレンコフはそれまでたびたび食糧庫に忍びこみ、仲間に食糧を分配していた。巨体のくせに身が軽く、明らかに窃盗の才能があったのだ。一夜、彼は食糧庫の小麦粉の袋を盗み出し、その粉を通気孔にばらまいて、自家製のマッチの火を放りこんだ。粉塵爆発が生じて、宿舎は炎と黒煙を噴きあげた。脱走には成功したが、仲間は散りぢりになり、ワレンコフとパジェスは一隻の鉱石船に潜んで母都市を脱出した。彼らはファン・ヒューリックと似たりよったりの思考経路をへて、惑星バルガシュへと向かった。  結果的に彼らは、バルガシュに先まわりすることになったわけである。バルガシュといっても広いが、彼らはやたらと動きまわることをせず、ラトゥール地区の安宿に腰をすえた。彼らの司令官は必ずここへ来る、と、確信していたのである。一文なしの日やとい生活をつづけ、ついに旧司令官と感激の再会を果たしたという次第であった。 「そうか、ずいぶんと苦労をかけたらしいな、すまんことをした」  しみじみとファン・ヒューリックは腕組みしつつうなずいてみせたが、内心で、やや舌打ちしたい気分もある。こいつら何だって大学や図書館を探さずに歓楽街にいすわっていやがったのか。それはまあ、たしかに彼らの判断は正しく、戦友どうしが再会できたのだから、それでよかったのだがしかし何となく釈然としない。ドクター・リーの部下たちなら、上官を捜すのに、こんな場所は選ぶまい。そう思ったのは、やはり、ひがみであろうか。 「それで、これからお前ら、どうする気だ」  尋ねてみたが、答えはわかっている。ワレンコフにしてもパジェスにしても、ファン・ヒューリックと同行する以外、人生の選択がないのだ。放り出すわけにはいかない。「正直じいさん」号に乗せてもらうよう、公女殿下に頼むしかなかった。 「だが、すぐに船へは行かんぞ。せっかくラトゥール地区へやって来たんだ。このまま帰ったりしたら、町の歴史に申しわけない」 「じゃあ、おれたちにまかせて下さい。安くてサービスのいい店を紹介しますから」  パジェスが指を鳴らし、片目をつぶってみせた。ごく短期間に、彼は、ラトゥール地区で屈指の情報通になったようであった。ファン・ヒューリックはひとつ肩をすくめると、ふたりの旧幕僚とともに歩き出した。        W    目的を達し、さっぱりした気分で、ファン・ヒューリックが宇宙船へもどってきたのは、それから一二時間後のことであった。彼もふたりの旧幕僚も、一〇〇〇ダカール分で可能なかぎり身心をリフレッシュさせて、まずまずよい気分だった。「正直じいさん」号の卵型の船体を見たとき、ふたりの旧幕僚は、やや不安そうに「原価償却がとっくにすんでるぜ、こりゃあ」とささやきあったが、ファン・ヒューリックは陽気に彼らをうながして船内にはいったものだ。そして、サロン兼食堂兼会議室にはいって、仲間たちの顔を見たとき、いきなり視野が暗転したのだった。 「リラが死んだそうだよ」  ミランダの言葉が意味をなしたのは、一〇秒以上もの時がファン・ヒューリックの意識野の外側を通過してからである。にんじん色の髪の青年は、自分の口が動いて、言語をこぼすのを、ようやく知覚した。 「リラがどうしたって?」  この質問は、知性や理性とは無縁のものであった。ミランダの肉の厚い両手が、ファン・ヒューリックの肩をおさえ、彼は椅子にすわりこんだ。カサビアンカ公国の公女殿下は、陽気さも豪胆さも失ったようすで、にんじん色の髪の青年を見やり、ためらい、天をあおぎ、決心したように繰り返した。 「リラが死んだそうだよ。ドクター・リーの部下と、あたしらの仲間と、ふたつのルートから同じ情報がはいってきたんだ」  ここでまた空白が生じたが、それはファン・ヒューリックの声によって破られた。 「あの変態伯爵だな? リラが病死や事故死するはずがない。生命力にかがやいていた。伯爵の仕業《しわざ》だな!」 「そう、正解だよ。アルセス伯がリラを、リラに、ひどいことをしたのさ」  ひどいこと、と女性が口にするとき、事態は明白であった。ファン・ヒューリックは怒りと疑問のうなり声をあげた。 「だけど、あの変態伯爵野郎は、男色家だったはずだぞ。それとも何か、両刀使いだったってわけか」 「伯爵は男色家でも、部下はそうじゃなかったのさ。伯爵はリラに、男を助けたければ自分の部下たちと寝るようにと命令したんだ。ひと晩に三〇人以上の男たちと」  ミランダの声が、怒りと嫌悪にうねった。巨体をわななかせる妻の横で、カジミール船長は沈痛な無言のなかにいる。口を開いたのは、心は生まれついての闇商人ながら、身はタイタニアのエーメンタール支部に属していたマフディー中尉であった。 「アルセス伯爵が、これまでもときどき使った策《て》さ。奴は自力で女を辱《はずか》しめることができないから、部下を使うんだ」  この男にはきわめて珍しく、貧乏を嫌悪する以上の嫌悪をこめて吐きすてた。口を開いても声を出すことができなくなり、ファン・ヒューリックは視線をミランダに転じた。公女殿下は打ちのめされているように見えた。 「あたしらも甘かった。アルセス伯爵は、あたしらを逃がした時点であきらめて、さっさと放蕩生活にもどると思ってたんだけどね」  ふたつのルートからの情報を総合すると、アルセス・タイタニア伯爵は部下を派遣してリラと祖母をとらえさせ、祖母の自白によってデ・ボーアをもとらえた。賞金をもらうはずだったのに約束がちがう、と喚《わめ》きたてた祖母は、兵士に平手打をくらい、ショック症状をおこして死んでしまった。その精神に比べて、肉体は脆弱《ぜいじゃく》だったようである。精神の脆弱はデ・ボーアのほうにあった。「正直じいさん」号の行方を詰問されたデ・ボーアは、知らぬと答えた。実際に知らなかった。冷笑したアルセス伯は、デ・ボーアを拷問にかけるよう命じた。ヘッドホンを耳につけられ、四〇時間にわたって不眠を強《し》いられると、デ・ボーアは「告白」した。リラがすべて知っていると「告白」したのだ。リラの尋問を開始したアルセス・タイタニア伯は、リラから「変態」と決めつけられると逆上した。彼自身の力でリラに性的暴行を加えることができぬので、彼は部下の粗暴な兵士を呼び集め、リラに異様な笑みを浮かべて宣告した。「さあ、三〇人の部下と寝て、まだ息があったら、恋人ともども帰してやるぞ」と。「いいわ」とリラは答えた。デ・ボーアの屈伏を知って、すでに覚悟していたのだ。「いい覚悟だ」と伯爵はふたたび冷笑したが、覚悟の意味がちがった。彼と彼女の傍には食肉魚の巨大な水槽があった。リラは表情を消して服をぬぎはじめた。上着をぬぎ、スカートをぬいだ。ぬいだスカートを宙に放りなげ、兵士たちの視線が一瞬、そちらへ動いたとき――絶叫がおこった。リラが伯爵に体あたりし、ふたりはもつれあって水槽に落ちたのだ。 「……伯爵は救いあげられたけど、リラはだめだったそうだよ。伯爵も自慢の顔をペットに喰われて半狂乱になってるそうだけどね」  ミランダが話を結ぶと、数十秒の沈黙を置いて、ファン・ヒューリックは苦しげに息を吐き出した。 「あの娘《こ》はいい娘だったんだ。エーメンタールで一番いい娘だったんだぞ。すくなくとも、そんな死にかたをするような娘じゃなかった」  誰も返答しなかった。むろんファン・ヒューリックは返答など求めていなかった。にんじん色の髪を両手でかきむしり、その手をとめると、安物の彫像めいた姿勢のまま、考えこんだ。やがて顔をあげたとき、そこには、彼の知人たちが見たことのない表情があった。マフディーなど、認めたくないことであったが、身慄いを禁じえなかったほどである。 「リラの讐《あだ》は、おれがとる。デ・ボーアなんぞ食肉魚の餌になってかまわんが、リラの讐はおれがとってやる。アルセス・タイタニアの変態野郎をこの手で絞《し》め殺してやるぞ」  静かな宣告だった。ほとんど、他人が書いた文章を読むように平板な口調であり、それこそがファン・ヒューリックの決意の重さを示していた。それまで完全に静物画の一部と化していたドクター・リーが、はじめて身動きした。 「相手はタイタニアだ。タイタニア一族中の異端者ではあるが、タイタニアにはちがいない。全タイタニアを敵にまわしても、君は復讐を果たす気か?」 「タイタニアだろうがゼウスだろうが知ったことか!」  ゼウスってのは誰だったろう、聞いたおぼえはあるがよくわからない、たぶん政治家か宇宙海賊だろう。いずれにしても、タイタニアのほうにしか、ファン・ヒューリックは興味がない。船室の一同をにらみまわすと、にんじん色の髪をかき乱したまま、靴音も高く自室へと歩き出した。顔を見あわせたワレンコフとパジェスは、おそるおそる旧司令官の後を追った。マフディー中尉が舌打ちし、椅子の上で姿勢をくずした。 「寝たこともない女のために、タイタニアを相手に復讐しようってのか。正気とも思えないぜ」 「それを判断するのは、われわれの任ではない」  ドクター・リーは片手であごをつまんで考えこんだ。何を考えているのか、表情は不分明で、他者には把握しかねた。彼自身の過去と未来とを凝視しているのかもしれなかった。ややあって両眼に表情がもどった。彼は周囲の男女を見まわし、解説口調をつくった。 「タイタニアの艦隊は一〇万隻。これを破るには、ほぼ同数の戦力を結集して、しかも完全な指揮体系をととのえねばならない。さて、何年かかるかな」  口を閉ざすと、ドクター・リーは静かに立ちあがり、彼の小さな船団に向かって、惑星エーメンタールへの出発を命じたのである。 [#改ページ]        第七章 ひとつの破局            T   「円には角がないが、だからといって無性格だ、というわけではない」  そう語ったのは、数学者およびエッセイストとして知られるR・R・ボーマンであるが、そのような存在をタイタニア一族中に求めるとすれば、アリアバート・タイタニア公爵であったかもしれない。彼には、たとえばジュスランのような二律背反的な陰影はなく、ザーリッシュのように心身の剛強さがきわだっているわけでもなかった。その容貌が、端麗だが個性に欠ける、と評されたように、性格においても能力においても、均整と調和がとれており、イドリスのような圭角《けいかく》が見られるわけではない。ケルベロス星域における敗戦を短時日のうちに回復したのも、ジュスランの発議によってファン・ヒューリックの作戦を自己消化した結果であるとすれば、結局、彼にはさしたる独創力もなかった、という見解が成立するであろう。用兵家としても、「知略はジュスラン卿に譲り、勇猛はザーリッシュ卿に及ばず」などといわれ、とかく、おもしろみに欠ける、と称されがちであった。  にもかかわらず、タイタニア四公爵中、最初に名をあげられる者は、つねに彼であったし、武勲の数も他の三者を凌駕《りょうが》する。ザーリッシュでさえ、彼にとどかないのである。ジュスランの発議を容《い》れて、ワイゲルト砲の使用法を一変させたのも、アリアバートが柔軟で度量に富んでおり、無用な競争意識にさまたげられることのない為人《ひととなり》であることを証明しているかもしれない。最前線の武人としても、後方の経営者としても、彼の才能と功績は破綻《はたん》を見せていなかった。当代の無地藩王《ラントレス・クランナー》アジュマーンも、自分の内心を吐露《とろ》する相手としてジュスランを選びながら、アリアバートの安定した手腕と人格に対して信頼を置き、ケルベロス会戦の敗北についても、厳罰をもって報おうとせず、雪辱の機会を与えたのであった。アリアバートはその期待に充分、応《こた》えたわけだが、あるいはアジュマーンは、アリアバートを、次代の藩王としてはともかく、四公爵の一員としては、もっとも評価していたかもしれない。人間の器量と地位との関係は、なかなかに微妙で、ある地位において有能な者が、他の地位においてもそうであるとはかぎらぬ。  この年の七月を、アリアバートは各星域のタイタニア支部を監察することで過ごしたが、八月になると|天の城《ウラニボルグ》へ帰還した。月ごとの最高会議に出席するためである。じつのところタイタニアの全組織は無地藩王《ラントレス・クランナー》アジュマーンの独裁的支配のもとにあるが、四公爵の一員たる者、形式や儀式を軽んじるわけにはいかなかった。義務を果たさない者は権利をも放棄したとみなされるのである。  そのアリアバートより一〇日ほど早く、すでにジュスラン・タイタニア公爵は|天の城《ウラニボルグ》に帰参していた。彼と同行した辺境の小国の姫君、エルビング王国のリディア王女は、天の城の豪壮さに目をみはった。自分の頭よりはるかに高い位置にあるジュスランの目を見あげて感想を投げあげる。 「わたしたちの国は貧乏だが、その分タイタニアが豊かなのだ、そういうことなのだろう?」  この童女が口にすることは、しばしばジュスランの耳に痛い。痛いが、同時に快く思えるのは、一種のマゾヒズムかもしれぬな、と、ジュスランは自ら顧みておかしくなることがある。 「タイタニアの、タイタニアによる、タイタニアのための宇宙」  タイタニアの富強を表現するために、このような名言もあるが、たしかこれは剽窃《ひょうせつ》のはずである。「タイタニアにあらずんば人にあらず」と同様、過去の歴史に原型が存在しているのだ。ただし、その原型「人民の人民による人民のための政治」が理想を謳《うた》いあげたものであったのに比べ、これは、現実を描写したものであった。  タイタニアが富裕であるのは、その責任と能力からいって当然のことだ、という思いは、ジュスランにすらある。とくに不当な搾取をおこなっているわけではない、という思いもある。だが、子供の口から遠慮なしにその実状を語られれば、やや怯《ひる》みをおぼえもするのだ。  彼の高級副官という地位にあるバルアミーは、いつのまにか加わった「童女のお世話役」という任務を嫌っていたが、これまたいつのまにか彼女のペースに慣らされて、口では何のかのといいながら、|天の城《ウラニボルグ》のなかを案内してまわっている。全タイタニアの簒奪をもくろむ陰謀家も形なしというところであった。  フランシアもこの王女さまのために部屋をととのえてやり、何かと世話をしたり相手になってやったりしている。|天の城《ウラニボルグ》にもどったジュスランは、藩王アジュマーンにゆだねられた幾つかの案件を決裁したり、報告書を作製したり、公務に忙殺《ぼうさつ》され、フランシアはひとりで時間をすごさねばならないのが、これまでの例であった。リディア姫の相手をつとめるのは、彼女にとってよい慰めになった。  こうして、いつしか一〇歳の王女さまは、ジュスランの身辺で異彩を放つようになった。そして|天の城《ウラニボルグ》へもどってきたヴァルダナ帝国軍上将アリアバート・タイタニア公爵閣下が、自分同様に独身であるはずの従兄弟の広大なコンドミニアムに子供の姿を見つけ、思わず立ちすくむことになる。王女さまをフランシアに託して、ジュスランは帰ってきた従兄弟に挨拶し、応接室に招じ入れた。アリアバートはむろん事情を知りたがった。 「隠し子か、と尋いたら殴られるだろうな、ジュスラン卿」 「蹴とばしてやってもよいぞ。もう何度尋かれたかわからぬ」 「で、正体は何なのだ」 「バルアミー卿の婚約者だ」  そう答えられて、アリアバートが真剣におどろいた目をしたので、ジュスランは笑って手を振り、冗談であることを告げた。そのていどの冗談は通じあう仲である。諒解して、アリアバートも笑った。 「なるほど、一〇年後が楽しみだな、そいつは」  一〇年を経過すれば、バルアミーは二八歳で、リディア姫は二〇歳、似あいでないとはいえないが、現在はあくまで冗談である。 「ところで、バルアミー卿の御父君は、どうだ。ご壮健か」  軍務大臣エストラード・タイタニア侯爵のことを、アリアバートはそう呼んだ。ジュスランは、いささか率直さに欠ける答えかたをした。 「ご病気とはうかがわぬが、アリアバート卿がそう尋ねるについては、何か理由があるのか」  するとアリアバートは、ややためらったが、結局ジュスランの反問に答える形となった。腹の探りあい、ということがアリアバートには苦手なようで、自分のほうが人が悪いということを、ジュスランは実感せざるをえない。それはともかく、アリアバートが告げたのは、軍務大臣エストラード・タイタニア侯の去就《きょしゅう》が危惧《きぐ》の念とともに衆人の口に上っている、ということである。バルアミーがジュスランの高級副官の地位にあることから、アリアバートは彼に告げる気になったのであろうか。ジュスランとしては、これは深入りを避けたい話題であった。 「ためにする噂ではないのか」 「ならよいが、エストラード侯を心理的に追いつめることになっても気の毒だからな」  アリアバートには、生来そのような気の優しさ、あるいは甘さがあり、その点などが藩王アジュマーンにとってはものたりぬかもしれない。またイドリスに、アリアバートを与《くみ》しやすいと思わせる要素も、そのあたりに存在するのであろう。  いずれにしても、今回の一族会議で、まず話題になるべきは、他の人物に関することであろうと思われる。ザーリッシュ公の弟アルセス伯が、ひとたび掌中におさめたはずのファン・ヒューリックを取り逃がし、あまつさえ、女を拷問にかけようとして逆襲された。女は死に、アルセス伯は自慢の顔にひどい傷を負ったという。その報告に、彼の兄は激怒した。 「わが弟ながら、やることに思慮も誇りもない。タイタニアの面汚《つらよご》しだ。諸卿に対して、会わせる顔がない」  四公爵が藩王府のサロンで顔をそろえたとき、ザーリッシュが発した言葉は、剛直な彼としてはむろん本心であろうが、他の三公爵に対して弱みをつくりたくないという意識も、同時に働いているであろう。いずれにせよアルセスは、兄にとって、肉親の情愛を刺激するような人物ではなかった。むしろ、というより明らかにその反対であった。この際、ザーリッシュとしては弟を幽閉ぐらいにはしておいて、公私両面にわたる彼の足枷《あしかせ》を吹き飛ばしてしまいたいところであろう。殺すとはさすがに言わぬ。母親が次男に対してそそぐ盲愛も、無視するわけにはいかぬであろう。だが、従兄弟たちの憶測をはねのけるように、ザーリッシュの表情は強い。 「タイタニアを罰する者はタイタニアのみだ。弟の不祥事は、兄が責任をとらねばなるまい。アルセスめの始末は、おれがつける。その旨を、諸卿には諒承してもらいたいと思っておるのだが」  ジュスランと視線を見かわして、アリアバートが答えた。偉丈夫の怒気を制するように。 「不祥事とザーリッシュ公はいうが、罰するほどのことでもあるまい。ファン・ヒューリックなる人物にしてやられたのは、私も同様。それに比すれば、アルセス伯の失敗など、児戯《じぎ》というべきだ」 「児戯にはちがいないが、子供の遊びで大のおとなが死ぬこともある。そうなってから悔いても及ぶまいと思うが如何《いかん》?」  正論であり、アリアバートにもジュスランにも、反駁《はんばく》の余地はなかった。 「藩王殿下の御意は?」  最終的な質問が投じられた。それを投じたイドリスの両眼に、辛辣なきらめきがある。四公爵中、おそらくもっとも競争意識が強烈な彼にとって、今回のアルセス伯の不祥事は、ザーリッシュを抜き去るための機会と思われた。現在のところ、イドリスは他の三公爵を故意に陥《おと》しいれようとまでは思わぬが、先方が自ら穴に飛びこむのを阻《はば》もうとも思わぬ。彼に答えたのはアリアバートである。 「藩王はむろん喜んではおられまいが、何しろ端倪《たんげい》すべからざるお方だ。われらがあまり先走ってもよくない。まず殿下のご判断を待つ、それ以外にあるまいと思うが」  アリアバートの穏健さは、イドリスにとっては、しばしば事なかれ主義に映《うつ》る。口を開いて皮肉をいいかけたとき、より大きな声が半瞬、彼に先んじた。ザーリッシュが胸郭《きょうかく》全体をうがつような息を吐き出したのだ。 「藩王殿下が、アルセスめの変態ぶりをお赦しになろうはずがない。おれは身のちぢむ思いがする」 「耽美だろうが変態だろうが、それは個人の嗜好だ。だがそれに権勢が結びつくと、ネロやカリギュラになるかもしれぬな」  古代の地球で暴君として知られた人物の名を、ジュスランはあげた。古来、権力の巨大さと権力者の卑小さとの間に空洞部が生じたとき、それは暴虐と淫乱と驕奢《きょうしゃ》によって埋められるのが常であった。おそらく、アルセスの場合も例外ではないであろう。不思議なことに、ネロやカリギュラ型の人間は、徹底して思考と行為の独創性を欠く。単一の個性がクローンされて異なる時代にばらまかれたかのように、やることなすこと似たりよったりになってしまうのはなぜだろう。  思考の輪がずれた。要するに、アルセス伯にタイタニアの権力を託すわけにはいかぬということである。彼の兄であるザーリッシュの意見に、この件に関しては同調するがよいだろう。そうジュスランは思案をさだめた。        U    四人の公爵は、サロンから正式の会議室へ移った。形式に則《のっと》って軍帽を各々、席前のテーブル上に置く。藩王アジュマーンの臨席を待つ間、低声で会話がかわされた。ジュスランにむかってアリアバートがささやいた。アルセスの失敗にからんでのことだが、 「タイタニアの艦は一〇万、兵は一〇〇〇万を算《かぞ》える。あえて敵対を志す者がいるだろうか」  いる。現にヴァルダナの宮廷貴族たち、「流星旗」軍と称する武装勢力の混成部隊、それに先日のエウリヤ市《シティ》。タイタニアに反抗する者はいくらでもいる。ただしそれは、強健な人間でも風邪をひくことや指先に傷をつくることはまぬがれない、というていどのことである。タイタニアに敵対する諸勢力が団結し、強大な指導力のもとで統一された軍隊が、タイタニアに挑戦してくることがありえるだろうか。それはジュスランにとってさえ、興味深い考察の対象であるにとどまり、目前の危機としては感じられなかった。  やがて藩王アジュマーンの臨席のもとで、正式な会議が始まった。そこでは当然のごとくアルセス・タイタニア伯の不祥事が議題のひとつとされたが、四公爵は藩王からひとつの知識をえた。アルセス伯のペットである食肉魚に殺された女の仲間が、アルセス伯に対する復讐のためにエーメンタールに向かっているというのである。 「それで、殿下は傍観なさるとおっしゃいますか」  アルセス伯が無頼漢どもに襲殺《しゅうさつ》されるような人物なら、それまでのことだ。タイタニアにあっては、よく用いられる論法である。かなり有能有為な人材に対してもそうであった。役たたずのアルセス伯であればなおさら、藩王としては見離す気にもなろう。だが、イドリスの問いかけに、藩王は否定的な身ぶりをしてみせた。 「そうはいわぬ。タイタニアの一員に対する敵対行動は、全タイタニアに対する挑戦である。挑戦するのは何者であろうと勝手というものだが、増長に対して報いを与えてやらねば、タイタニアの威にもとろう」  藩王の視線が四公爵の面上を切り裂いて、ザーリッシュにとどまった。猛将の誉《ほまれ》高いタイタニアの偉丈夫が、射すくめられたように、筋骨たくましい身をかたくする。 「ザーリッシュ公も何かと苦労が絶えぬな」 「おそれいります……」 「おそれいる必要はない。タイタニアならずとも、成人した者の罪や責任を、兄弟が分かちあう必要はない。仮にあるとすれば、それはタイタニアの姓を持つ者が全員で分かちあうべきもの。その意味では、ザーリッシュ卿以外の者にも無縁のことではないぞ」  やや居心地悪そうにイドリスが身じろぎしたのは、自分の客気《かっき》に釘《くぎ》を打たれたような気がしたのかもしれぬ。その姿を視界の端に認めただけで、藩王アジュマーンは口をとざし、手もとの書類をめくった。数ページを指先に音もなくはじき、とあるページに視線をとめると、そのままの姿勢で告げた。 「それに関してだが、アルセス伯は近日中にも惑星エーメンタールを離れ、|天の城《ウラニボルグ》に滞留したい旨、申し出ておる。拒否する筋はないゆえ諒承するが、諸卿、異存はないな」  その決定を耳にした四公爵の顔に、それぞれの為人《ひととなり》に応じて非好意的な表情が揺れた。アルセス伯が報復を恐れ、安全な場所に身を移したいと望んでいる、その心底が見えすいていたからである。四人のなかでも、とくにザーリッシュは、にがにがしい怒りに、グレーの軍服につつまれた厚い肩を慄《ふる》わせていた。たとえ藩王にどうなだめられようと、一座のうちで、アルセスともっとも濃い血を分かちあうのは彼なのであり、弟同様に頽廃《たいはい》した血を持つと他者に思われるのは、大いなる屈辱であった。異存はあるが口に出せぬ。藩王の考えが読めぬほど、彼は鈍感ではなかったからである。「天の城」への行程で、アルセス伯が復讐者たちに襲われることを、藩王は計算しているのだった。  形式どおりの会議が、形式どおりに終了すると、あらためてジュスランは藩王に呼ばれた。藩王専用の展望室である。そこでジュスランは藩王の意図を確認することになった。 「では仮にアルセス伯爵が襲殺されたときには、加害者たちを討つ役を何者かにおおせつけあるおつもりですか」 「誰がよいと思う?」  質問の形をとった、それが藩王の返答であった。即答に近く、ジュスランはそれに答えた。 「四公爵のうちならイドリス卿をこそ」 「ふむ……」  藩王のほうは即答しなかった。 「ジュスラン卿、もともとアルセス卿が災厄にみまわれる契機となったのは、とらえるべき人間に逃げられたことであったな」 「はい、かのファン・ヒューリックなる人物。ひとたび手中にしながら取り逃がしたことから、以後のありさまです」 「奇妙な縁があると見える、その男とわが一族は」 「御意……」 「だが、所詮、一瞬の軌跡の交錯にすぎぬ。タイタニアの勧誘をしりぞけた男、たとえとるにたりぬ小物であっても全力をあげてこれを抹殺すべきであろう。そう思わぬか」 「は……」  彼らが立つ床は透過性のセラミックでつくられており、それが幾層にも重《かさ》なって、大気と真空とを截然《せつぜん》と分けへだてている。真空の淵の彼方には、ヴァルダナ帝国の首都たる惑星リテッツアが、青緑色と白の縞模様に飾られている。 「|天の城《ウラニボルグ》」はその名にふさわしく天上にあって、地上の支配者たるヴァルダナ皇帝の玉座を足もとに踏みつけているのだった。この位置関係は、すなわち社会的な位置関係である。 「ところで、ジュスラン卿に問いたいが、先刻、アルセス伯を護衛する役に、ことさらイドリス卿を推したのはなぜだ」  即答しないジュスランに、やや細めた両眼から剣尖《けんせん》にも似た光を向け、かさねてアジュマーンは質《ただ》した。ジュスランは答えざるをえない。 「イドリス卿はヴァルダナ帝国の近衛軍団司令官として、タイタニアの利益を代表し、反タイタニア派を睨《にら》む立場にあります」 「それで?」 「仮に軍務大臣エステラード侯が叛意ありとすれば、イドリス卿の不在を好機と見ましょう」  一拳に事をおこすとは思えぬが、宮廷貴族たちとの連絡を密にし、近衛軍団を無力化する計画を練るていどのことはするのではないか。 「ふむ、するとジュスラン卿は、エストラード侯、すなわちわが異母兄が、ヴァルダナの宮廷貴族どもと似かよった考えにもとづいて行動する、と、そう主張するのか」 「…………」 「わが異母兄は、さぞ不本意であろう。宮廷貴族どもと同じ水準に見られるとはな」 「エストラード侯が動くとは申しませぬ。動くのは宮廷貴族どもこそ。彼らは彼らのつごうにあわせて事態を解釈します。妄動をおこすこと疑いありませぬ」  ひとたび開きかけた両眼を、さらに細くして、瞳の表情を隠しつつ、無地藩王アジュマーンは、ジュスランを見やった。ジュスランは神経に鑢《やすり》をかけられる思いがする。 「なるほど、宮廷貴族どもなら思慮も疑惑もなく、自らの笛の音で踊りまわるかもしれぬ。だが、奴らが踊ったところで、わが異母兄がそれにあわせて踊るかな」  エストラード・タイタニア侯爵は無分別ではない。ヴァルダナの宮廷貴族どもが、無地藩王に対する叛逆を教唆しても、うかつにそのような策《て》には乗らぬであろう。いつのまにか、話がエストラード侯爵対策になってしまっていた。 「それでもよろしいかと存じます。理由を申しあげてよろしゅうございますか、殿下」 「ふむ、言ってみよ」  藩王にうながされて、ジュスランは答えた。第一に、エストラード侯爵がどのような反応を示そうと、宮廷貴族どもが彼に叛逆をそそのかしたことが事実であれば、その罪科によって宮廷貴族どもを粛清することができる。第二に、仮にエストラード侯が宮廷貴族どもに叛逆を教唆された事実を沈黙していたとすれば、その責を追及することができる。第三に、エストラード侯が宮廷貴族どもに叛逆を教唆された事実を、藩王に通報してきたとすれば、彼に当面は叛意なしと判断することができよう。いずれにしても、タイタニアにとって損になることは何もないはずである。イドリス卿に労を強《し》いるという一事を除けば。  ジュスランが口を閉ざすと、藩王アジュマーンは勁《つよ》い視線を床に落として考えこんだ。ジュスランは反対に天井へと視線を投げあげ、さとられぬよう呼吸をととのえた。 「よかろう、ジュスラン卿の意見を採《と》る」  ややあって藩王アジュマーンは決断を口にした。ジュスランは機械的に一礼した。自分自身の軍服のグレーの色調が、彼の視界にはいった。 「だが、私が思うに、エストラード侯は、第四の手段を採ると思うがな」 「第四の手段、でございますか」 「それにジュスラン卿が気づいていないというのは不思議だが、まあよい、採るべき手段は他にあるまい。よくいってくれた」  藩王に対してふたたび一礼しながら、ジュスランは、自分があの小国の幼い姫君を快しとする理由に思いあたった。あの爽快さは、政治的計算と無縁な率直さから来ている。藩王を相手として計算と疑惑にみちた会話を強《し》いられる身には、あのような率直さが、精神的な解毒剤として、どうしても必要なのだ。自分の一〇歳のころを、ジュスランは顧みる。すでにして、タイタニア一族の主流として、彼は意識をたたきこまれていた。藩王への忠誠。藩王にとって有為な人材であること。すべてはタイタニアのために、むろん子供といえども。軽挙妄動して一族に害を与えてはならない。よく考えずにしゃべってはいけない。よく考えよ。よく考えて、考えぬいて発言せよ。見離されたら人生も家族もお終《しま》いだぞ、と。  この機会をとらえて、ジュスランは藩王に願いごとをすることにした。例の辺境の小国、エルビングからやってきた元気なお姫さまのことである。万事に油断ないはずのアジュマーンが、そのことを失念しており、ジュスランの申し出に小首をかしげた。タイタニアにとって、いかにとるにたりぬ事態であったか、わかろうというものである。 「もし彼《か》の国が借金を返せぬということであれば、藩王殿下……」 「ジュスラン卿が肩代わりしてもよいというのか」 「場合によっては」 「ジュスラン卿も物好きな」  無地藩王アジュマーンは薄く笑った。かならずしも非好意的な笑いではなかったが、ジュスランにとって藩王の笑いは常に重い。 「いかに何でも、閨房《けいぼう》に入れるには、まだ早いと思うが、それがジュスラン卿の嗜好《しこう》とあれば、族長とはいえ、私の口出しすべき筋《すじ》ではあるまい。恋をつらぬく勇気も、タイタニアにとって必要な資質であろうな」  藩王の揶揄《やゆ》を、礼儀正しくジュスランは無視し、彼が考えていることを幾つか並べて、藩王の許可をえたい旨《むね》、報告した。第一に、リディア姫に教育を与えること。第二に、法的にジュスラン公の保護下に置くこと。さらに、エルビング王国の借金をジュスランが負担し、一〇年割賦でタイタニアに返却すること。エルビング王国に関する公務すべてジュスランの担当とすること、などである。 「一五年ほど後には、タイタニアにあたらしい良い血を入れることもできるかもしれませぬ。血統を内封していては、しばしば流れに濁りが生じましょう」  アルセス伯が好例である、とは、ジュスランは口にしなかったが、無地藩王アジュマーンは暗喩《あんゆ》を理解した。正確には、ジュスランの暗喩を自分は理解したと思った。ジュスランにしてみれば、細心の注意を払って、藩王の思考を誘導することに成功したのである。成功にともなう自己嫌悪は、この際、副作用としてしかたなかった。藩王が拒絶すれば、辺境の一小国と、その幼い王女の命運など、ブラックホールに近づきすぎた小宇宙船にもひとしい。策に乗せてでも、藩王の好意をえておかねばならなかった。 「よかろう、ジュスラン卿にまかせる」  藩王の一言をえて、ジュスランは、この日はじめて真の喜びを感じることができた。彼はつまり、一国ごと一〇歳の王女をかかえこんだことになるわけである。むろん彼は、藩王をふくむ他人がどう想像しようと、一〇歳の童女を恋愛の対象に選んだわけではなかった。自分自身には見出しがたい未来を、リディア王女の裡《うち》に、彼は見出していたのである。        V    藩王アジュマーンより出頭を求められたとき、軍務大臣エストラード・タイタニア侯爵は、鏡のなかに、色を喪《うしな》った自分自身の顔を見出した。藩王に対する不信もあるし、彼自身の心理も無色透明ではない。粛清の口実を異母弟に与えたおぼえはないが、そのようなことは慰めにもならなかった。  衆人環視のなか、それも皇帝の面前で宰相を射殺させた藩王アジュマーンが、軍務大臣相手に容赦を示すはずがない。両者は兄弟であるが、タイタニアにおいて、つねに大義は親《しん》を滅す。第二代藩王ヌーリィは、父ネヴィルを憤死させ、以後、タイタニアは、内なる敵に対して外なる敵と同様の苛烈さをしめしつづけてきた。にもかかわらず、一族内部の団結と統一は至上の価値を有するものとされ、そのことにエストラードも疑問をいだいたことはなかった。これまでは。だが、自分が藩王に選ばれなかったことで、価値観にひび割れが生じた。あれほどタイタニアのために尽《つ》くし、功績もあげてきた自分であったのに、異母弟であるアジュマーンの下風に立たねばならないとは。不条理ではないか。アジュマーンに対する不満は、不条理に対する怒りだった。それに野心が加わった。息子のバルアミーに煽動された野心である。野心の存在を確認してから、まだ日が浅い。そのことをすでにアジュマーンは察知したのであろうか。  動揺する心を抑えて、エストラードは、異母弟たる藩王のもとに出頭した。息子のバルアミーが、ジュスラン公の高級副官という名目で「|天の城《ウラニボルグ》」に人質となっている。反抗も抵抗もしようがなかった。だが、この出頭は、軍務大臣の覚悟や狼狽を必要とするものではなかった。イドリス公が帝都を離れる間、宮廷への監視もエストラード侯にゆだねられる旨が伝えられ、バルアミーも休暇をえて父と同行することが許可された。それだけのことであった。    近衛軍団司令官イドリス・タイタニア公爵が帝都を離れ、遠く惑星エーメンタール方面へと出動する。その間、近衛軍団の指揮権は軍務大臣エストラード・タイタニア侯爵の手にゆだねられる。ヴァルダナ宮廷と政府に、その旨が布告されると、草が風を受けてざわめくように、一部の者たちが心を騒がせた。彼らにとっては好機と思われたのだ。彼らには、他人の曲にあわせて踊っているという自覚はない。  こうして、一夜、ヴァルダナ宮廷貴族のうち反タイタニア色のことに強い者四人ほどがつれだってエストラード侯の邸宅を訪れたのであった。彼ら自身は充分に警戒もしたつもりだし、訪問の口実も考えてあった。彼らのひとりの息子が軍務省に勤務しており、その昇進を歎願に行く、というのである。ヴァルダナ帝国にあっては、とくに珍しい光景でもなかったし、その息子とやらは確かに出世したがってもいたのであった。  彼らを迎えたエストラード・タイタニア侯爵に対して、説得と煽動がおこなわれた。あなたこそタイタニアの長として無地藩王の地位につくべきである、と、貴族たちの一団はエストラードに告げた。彼らは彼らなりに考えて策謀をめぐらし、タイタニア打倒の本心を隠して、つぎのように語ったものである。 「われらは現在の藩王のもとでは栄達を望めぬ。恐れながら皇帝陛下に忠誠をつくしても、もはや詮《せん》なきこと。エストラード侯爵閣下におすがりするしか、われらに未来はないのです。閣下と私どもの共通の利益のために、何でもいたしますぞ」  一方的な熱弁をふるわせるだけふるわせておいて、エストラードは彼らに何ひとつ言質《げんち》を与えず、引きとらせた。招かれざる客人たちが、失望を禁じえずに辞し去ると、二階にある応接室の隣室にひかえていた息子のバルアミーが父の対応を批判した。 「奴らを追い返しただけではだめです、父上」  バルアミーの声も表情も、鋭すぎるほどの危機感に満ちている。エストラードは眉をしかめた。客人たちと杯をかさね、軍務大臣の身心にはアルコールの雲がかかっている。酒精分にみちた呼気の大きな塊《かたまり》を吐き出すと、軍務大臣は不機嫌に息子の話を聞いた。 「これは罠です。父上ともあろう方が、おわかりになりませんか。ヴァルダナの宮廷貴族どもは頼りにならぬ、と、そうおっしゃったのは父上ご自身です。お忘れになったのですか」  軍務大臣はさらに不機嫌さの水位をました。 「言われずともわかっておる。イドリスめを帝都から遠ざけたのは、宮廷貴族どもを妄動に追いこむための、藩王の罠だ。だからこそ、お前も見てのとおり、追い出したではないか」 「それだけですか」 「それ以上、何をする必要がある?」 「父上、お甘い!」  バルアミーは叫んだ。視野|狭窄《きょうさ》をおこしかねないほどの失望にのしかかられて、そう叫ばずにいられなかった。これまで父を無能だとは思わなかった。軍人としても行政家としても、りっぱな業績をあげてきたし、今後もそうであろうと考えてきた。だが、あるいは、まちがっていたのか。父は藩王の地位にふさわしくない人物であったからこそ、藩王となりえなかったのではないか。バルアミーにとっても不愉快な疑惑がうごめいたとき、まるでそれを証明するかのような行動をしめしたのだ。 「黙れ、お前に何がわかるか、へらず口をつつしめ」  エストラードは声を荒くしてどなった。彼にしてみれば、自分自身よりむしろ息子の覇気と可能性とを貴重なものと思えばこそ、叛逆の意思を確認したのに、「甘い」と決めつけられては立つ瀬がない。異母弟たる藩王や、四公爵だけでなく、息子までも自分をないがしろにするか。そう思ったとき、エストラードの理性は、軌道をややはずれた。それにともない、口調も乱れて、ヒステリックな声が息子の面上にたたきつけられた。 「そもそもお前に私を指図《さしず》する権利があるとでもいうのか。つけあがるな。私はお前が生まれる前からタイタニアの重鎮だったのだぞ」 「父上、このままでは父上はご自分の未来にご自分で扉をとざすことになります。宮廷貴族どもを処断するご許可をいただきたい」  父親の気に入らなかったのは、息子の口調であったか、その発言の内容であったか。あるいは当人にも理解できなかったかもしれない。 「やかましい。これ以上、聞く耳を持たぬ」  興奮の朱泥《しゅでい》が父の顔に塗りたくられるのを見て、バルアミー・タイタニア子爵は失敗をさとった。父の失敗を修正しようとして、バルアミーは、さらに全体の軌道を逸《そ》らしてしまったのだ。父の体内に今日までストレスが蓄積されていたことを理解し、ある意味で幼児をあやすように、父の感情をなだめ、その波を鎮《しず》めるべきであった。それに気づきえたのは、彼が明敏であったからだが、惜しいことに、人生経験の浅さが、彼自身の才気をさまたげて、ほんの五〇秒ほど、バルアミーはタイミングを逸《いっ》してしまったのである。最初に父を煽動したときには、思うままに成功した。その成功が、今回は過信につながったのかもしれない。 「父上、申しわけありません。かさねて出すぎたことを申しました。もう一度だけ、私の話をお聞き願えませんか」  辞を低くして、バルアミーが歎願すると、足音も荒々しく階段を降りようとしていたエストラードは、自分のおとなげなさに気づいた。だがすぐに態度を変えるのも鼎《かなえ》の軽重を問われる思いがする。 「明日だ、明日にしろ。明日になったらあらためて話を聞いてやる」  息子に対する父親の威厳を再確立できたことを内心で喜びつつ、エストラードは酔いを忘れて大股に一歩を踏み出した。その行為が、彼から明日を奪った。明日まで待ちきれぬ息子が、父親を引きとめようとして腕を伸ばしたのだ。たがいの姿勢が、彼らの心理それ自体のようにかみあわず、息子の手が父親の身体を突くような形になった。父親の足は空を踏んだ。周囲で世界が一転した。下から息子の叫び声が聴こえた。エストラードの身体は重力にさからっていた。鈍い音がして、一瞬の痛覚が全身をつらぬき、あらゆる色彩と光彩がエストラードの五官から去った。去ってしまってもどらなかった。  二〇〇秒ほど自失の時を持ち、バルアミーはかろうじて身心の制御を回復した。よろめく足を踏みしめて別室にはいり、「天の城」へ直通のTV電話の前にすわる。 「ジュスラン卿をお願いする。バルアミー・タイタニア子爵だ。重要なお話があるので、ぜひ取りついでいただきたい」  高級副官が上官に用があるというのである。念を押す必要も、じつはなかったであろう。ただちにバルアミーはジュスランに取りつがれた。        W    自分の想像力に限界があることを、ジュスラン・タイタニアは、またしても思い知らされていた。虚脱したかのように事情を語り終えたバルアミーの青白んだ顔を画面の彼方に見やって、ジュスランは、一八歳の若者が心理的負担の限界をこえてしまったことをさとった。休息をとるよう命令しておいて、すぐにジュスランは藩王アジュマーンに連絡をとった。  軍務大臣エストラード侯は、まことにばかばかしい死にかたをしたものであった。だが、彼自身の不面目とはべつに、彼の死には大きな政治的意味がある。その意味が、タイタニアのタイタニアたる所以《ゆえん》をあらわすのである。  ジュスランから話を聞いて、藩王アジュマーンも、完全には平静さを保《たも》ちえなかった。わずかだが首を振り、息を吐き出したのは、エストラード侯の死が階段からの墜死であったという事実に対してであったろう。不肖の弟を持ったザーリッシュの心情を共有したかに見えたが、すぐに彼は姿勢をたてなおした。 「それでジュスラン卿はどう処置するつもりだ。父親殺しの罪で、バルアミー卿を処断するかな」  無地藩王の問いかけは、ジュスランの体内に、意外な情動を生んだ。それは憎悪そのものではなかったが、かぎりなく憎悪に近かった。一族の者の生命と運命とを、アジュマーンは、知的ゲームの駒としか考えないのであろうか。 「先日、藩王殿下は、軍務大臣が第四の道を採《と》るであろう、と、そう仰せありました。今日の事あるを、すでに予測しておいでだったのですか?」  そう問われて、無地藩王は微妙に口もとの筋肉を動かした。 「ジュスラン卿が、わが質問への応答より、自分の疑義を優先するとは思わなかったな」 「……申しわけございません」 「まあよい、私としても今回の事態を楽しんでおるわけはない。これは第五の事態だ。私が予想しておったのは、軍務大臣が自らにかけられた叛逆の嫌疑を晴らすため、ヴァルダナの宮廷貴族どもを自ら告発するか、あるいは逮捕する、あるいは殺す、そのようなことだった」  アジュマーンの返答は比較的長く、理路整然たる点においては完璧といってよかったが、このときそれが奇妙にジュスランの気にさわった。藩王はさらにつけ加えた。 「より正確には、期待しておったというべきかな」 「期待とは、もしや、軍務大臣が子によって阻止されることをでございますか」 「それはまた別のこと。ただ、私と藩王位をあらそうほどの人物には、そのていどの器量を期待してもよいと思ったのだ。自分の安全を守り、かつタイタニア全体の利益を守るために、宮廷貴族どもを処断する、そのていどの決断力はな」  藩王は軍服の襟に指をあてて引っぱった。無意識の動作のようであった。 「さて、いささか迂遠《うえん》ながら、最初の問いにもどろうか。ジュスラン卿、バルアミー卿をどうあつかうか、見解を尋こう」 「バルアミー卿を公然と処罰することには反対でございます」  藩王はべつに激したりはしなかった。わずかに眉を動かしてジュスランを見たのは、理由を説明するよう命じたのである。呼吸をととのえて、ジュスランは語り始めた。 「第一の理由、バルアミー卿を父親殺しの罪で告発すれば、宮廷貴族どもを始めとする反タイタニア派に祝杯をあげさせるだけの結果となりましょう。彼らはタイタニアを血に呪われた一族と呼んでおります。事実かどうかはともかく……」  ジュスランがやや声を高めようとしたのは、皮肉というには辛辣すぎる藩王の表情に対して、抵抗したかったからである。 「……彼らにそのような台詞《せりふ》を言わせておく必要はございません。第二に、バルアミー卿は過誤を犯したとはいえ有為な人物、彼を失うことはタイタニアの損失と考えます。以上の二点につき、殿下のご賢慮《けんりょ》を願います」 「タイタニアの損失か」  アジュマーンの声には、むろん納得ではなく皮肉があったが、それ以上、藩王は追及しなかった。 「ジュスラン卿の見解を受け容れるとして、ではどう処置すべきだと思うか」 「エストラード侯は事故死。階段から落ちた理由は、宮廷貴族どもの叛意を藩王殿下にお知らせしようとして心|急《せ》き、足を踏みはずしたもの、と、そう公表なされば……」 「宮廷貴族どもの粛清だけは果たせるというわけか。ま、よかろう。タイタニアの損にはならぬ。だが、宮廷貴族どもを粛清して、同時に人の口に戸をたてる役目、それはバルアミーにやらせるがよかろう」  藩王の声に冷厳の気が加わった。 「そのていどの処理ができぬようでは、バルアミーがタイタニアにとって不可欠の人材だとするジュスラン卿の主張を容れるわけにはいかぬな。バルアミーに処理させよ。この点は譲れぬぞ」 「御意」  ジュスランはつぶやいた。これ以上の譲歩を藩王から引き出すことは不可能であろう。 「それにしても、ジュスラン卿は聡明だし、私も自分を愚者とは思っておらぬ。そのふたりが予測して、たかだか偶発事に予測を裏切られるとはな」  藩王の口から流れ出た自嘲の微粒子が宙にただよった。 「人知には限りあるものだ」  その認識には同意を感じたが、ジュスランは口には出さなかった。彼を教誨師《きょうかいし》あつかいするかのように多弁になった藩王にも、それを受け容れている自分にも、彼は好意的になれなかった。そもそも彼は、藩王の意思を先どりして、結果としてエストラード侯を追いつめることになった自分自身の提案に、嫌悪をいだかざるをえなかったのである。  翌日、イドリスが出立の挨拶に訪れた。ジュスランは二、三、儀礼的な会話をかわした後、与えられた任務をイドリスがどのように果たすか、技術論のレベルで尋ねてみた。 「罠を張るか」 「当然のことだ」  イドリス公爵は答え、挑《いど》むような、また挑むことを相手に知らせるような目つきをした。四公爵中、最年少であるイドリスの圭角が、その目つきに端的にあらわれている。 「さして独創的でもないが効果的な罠を張らせてもらうつもりだ。藩王は、一石を投じて二鳥を墜《お》とすべく望んでおられる。タイタニアの一員として、おれは、藩王の御意に沿うように努めることにしよう」  イドリスがどのような策を考えているか、ジュスランには推察できる。アルセスの身辺を護衛すると見せて、じつは隙を見せ、アルセスを殺害させておいて然《しか》る後にファン・ヒューリックらを討滅《とうめつ》する。たしかに独創的ではないが、それはイドリスの才能の限界ではなく、外的条件のためである。イドリスにしてみれば、一族のためによけいな事後処理を押しつけられ、愉快ではなかろう。成功したところでさして賞賛されるわけでもない。失敗のほうはといえば、そのようなものがイドリスの眼中にあるとは思われない。だが、あるいはイドリスは、この機会を前向きにとらえて、地歩を固めるつもりかもしれぬ。そのあたり、タイタニアの重鎮たる者の心理は、二〇代前半の弱輩といいながら、容易に他者の解析を許さない。 「いずれにしても気をつけて行ってくれ。イドリス卿の幸運を祈る」  やや形式的にジュスランが手を差し出すと、イドリスはさらに素っ気なくその手を握った。 「そのていどは受けさせていただこう。気の進まぬ仕事に出かけるのだからな。誰が考えたことか知らぬが」  冷ややかな悪意をこめて、イドリス・タイタニア公爵は言い放った。そして握手の手を引くと、グレーの軍服につつまれた肩をそびやかして、昂然と歩き去った。 [#改ページ]        第八章 叛逆の星            T    ファン・ヒューリックがアルセス・タイタニア伯への報復を決意したことについて、彼自身の精神世界にはそれなりの必然性があった。だが、彼と同行した者たちにとっては、どうであったろう。カサビアンカ公国の公女殿下であるミランダにとって、リラは、旧《ふる》い家臣筋にあたる。そのような事情は、ミランダにとっていささかも重要なことではないが、リラはミランダにとって年少の友人であり、ありふれた表現を用いるなら妹のようなものであった。「正直じいさん」号の船外スタッフとしてもよく働いてくれた。さまざまな要因が、リラの復讐へとミランダを駆り立てたのは、自然なことであった。彼女の夫、カジミール船長の事情は、妻にほぼ準じる。もともとタイタニアに対して、常に彼は被害者兼反抗者の立場にあった。その立場を、今回も維持して、温和な彼はたじろぎもしなかった。同行を申しこむとき、ミランダは強い口調で、ファン・ヒューリックに語ったのだ。 「これはあたしらの問題でもあるんだよ。どうしてリラたちをいっしょにつれていかなかったか、悔やんでも悔やみきれないね」  ミランダは大きな吐息で、船内の空気に、エアコンによるものとは別の気流をつくった。彼女も万能ではない。アルセス伯が常ならず執念深い追及をおこなうこと、その原因が兄ザーリッシュに対する過度の競争意識にあったこと、という事情までは、洞察しようもなかった。いずれにしても、リラの死に関して、ミランダは責任を感じずにいられなかったのだ。 「おれが悔やんでるのはな、何であのとき恰好《かっこう》をつけてリラを抱かなかったかってことだ」  そうつぶやいたファン・ヒューリックの表情が苦《にが》く、酸味をおびていたので、ミランダは返答をはばかった。にんじん色の髪の青年は、このとき、偽悪の娯しみを味わっていたわけではない。あのとき抱いていれば、リラの身命に対する責任感もおこり、むりにでも彼女をエーメンタールからつれ出していたであろう。結果として彼女の身命を守ることができていたにちがいない。「おれの女だ、おれが守る」という感情は、ある意味で前近代的な所有欲の表現でもあるが、明確な責任意識の確認でもありえるのだった。 「リラにとっては迷惑かもしれんな」  そうも思ってしまうところが、自分以外の人間にも感情や立場があるということを理解するていどには成熟している、ファン・ヒューリックの年齢というものであった。一〇年若ければ、情熱と血気にまかせて猪突猛進する。一〇年|歳《とし》をかさねていれば、経験と思慮によって多少は賢明にふるまうことができるであろう。二八歳という年齢と、それに応分した経験と血気は、今度の場合いかにも中途半端であった。さまざまな色彩の後悔が混じりあって灰色になり、ファン・ヒューリックの両眼に翳《かげ》りをひろげた。  ファン・ヒューリックの陰気さが伝染したわけでもないだろうが、「正直じいさん」号は、ここ一〇年でもっとも陰気な航宙《セーリング》を星々の海においておこなっていた。この老練な船には、ファン・ヒューリック以外にも乗客がいて、なかのひとりは、つい先日までタイタニアのグレーの軍服に身を固めていた。それがいまやグレーの服を見ただけで身がまえてしまう境遇である。他動的にそうなりはてたので、かつては酒をあびては歎くだけであったが、その限界も突破してしまっていた。 「つまりタイタニアの権勢が維持されているかぎり、おれの預金は返ってこないというわけだ。よし、よくわかったぞ」  マフディー中尉の声は冷静を音声化したように聴こえるが、彼の声帯の奥では、不当な宿命に対する憤怒がサイクロンとなって荒れ狂っていたのであった。合法的な仕事と非合法的な仕事に励み、ささやかな富の蓄積を果たしたにもかかわらず、一日ですべてが失われたのだ。彼の勤労精神は、正当に報われなかったのである。 「ふん、それならそれでかまわん。タイタニアの大金庫から金銀財宝の一億ダカールもふんだくってやるさ。善良な市民から、まっとうな生き甲斐を奪ったりしたら、タイタニアといえども罪の報いを受けるべきだ」 「人間、いなおるとこわいねえ」  ミランダが太い腕を組んで歎息すると、彼女の夫が、同感のうなずきをしめした。マフディー中尉は、他人の損失なら一〇〇億ダカールでも平然としていられるが、自分の損は半ダカールでも耐えられず、理性を弾《はじ》けさせてしまう人物なのであった。実際、彼のささやかな老後の蓄《たくわ》えは、タイタニアが小指の先を一ミクロン動かしただけで、凍結されてしまったのである。タイタニアという名の寒風を吹き払わないかぎり、マフディーの財布には永遠に春が来ないのだ。そこでマフディーは、財布に冬を、心に真夏をかかえて、精神のチャンネルを反対側に切りかえたというわけであった。「おれの金銭《かね》を返せ!」という叫びは、この際、まさしく革命の叫びなのであった。彼にとっては。ただし、万人の共感がえられるかどうかは、見解が分かれるところであるにちがいない。  マフディーが何をどう決心しようと、ファン・ヒューリックの知ったことではなかった。ふと、彼は自らの航跡を顧みる。他に選択の余地がなかったのだろうか。あったかもしれなかった。市政府の思惑どおりタイタニアの艦隊に負けていれば。おとなしくタイタニアの勧誘に応じて麾下《きか》にはいっていれば。エーメンタールで囚《とら》えられていれば。だが、ファン・ヒューリックにとっては、どれも受け容れるわけにいかなかったのだ。  リラは彼を好きだといってくれたのだ。それは方便であったにはちがいない。方便でないとしても、人間として好きだ、というのが精々のところで、男として愛している、ということではない。そんなことはわかっていた。二八年も男をやっていれば、そんなことはわかる。だが彼女は生命がけで彼を救ってくれたのだ。自分の身命を顧みず、彼に短針銃《ニードル・ガン》を手渡してくれた。ファン・ヒューリックの現在の自由は彼女に負っている。だから、彼の意思と行動の自由は、まずリラに対して自主的に提供されるべきなのだ。 「ふん、おれもまだ半人前だな。自分がやっていることに何とかして意味を見つけようとしている」  などと内心でつぶやきつつ、ファン・ヒューリックは、アルセスが「|天の城《ウラニボルグ》」へ逃げこむ前にその死命を制しようと、頭脳を高速回転させていた。彼のヘッドワークを補佐するのは、ワレンコフとパジェスである。彼らふたりにしてみれば、タイタニア貴族を襲殺するというファン・ヒューリックの決断に頭をかかえはしたものの、いまさら旧上官と袂《たもと》を分かつつもりもなかった。それくらいなら最初から、ファン・ヒューリックの後を追ってエウリヤ市から逃げ出したりはしない。大勢順応、強者依存の性格であるなら、ファン・ヒューリックと気が合うはずもなかった。「えらいことになったぜ、平和と安定はいつおれたちの上に訪れるんだ」などとぼやきながら、けっこう熱心に、情報を収集し、解析し、作戦立案に参画していた。「おれたちゃ戦うのは好きだが戦死するのはきらいでね」というのが、パジェスの発言である。「死んじまったらつぎの戦いに参加できないじゃないか。死にたくなければ、できるだけ相手のカードを読んでおくべきさ」  彼らの情報解析によって、アルセス・タイタニア伯の行動のいくつかが解析された。ファン・ヒューリックの注意を引いたのは、アルセス伯がエーメンタールを逃げ出して「|天の城《ウラニボルグ》」へ向かい、しかも四隻の宇宙船で進発した後、ばらばらの航路をとったということである。さらに、タイタニアは、伯爵の身を守ると称して艦隊を派遣したと公表しながら、いっこうにアルセス伯と合流しようとしなかった。  ことさら話しあう必要もない。「復讐者たち」を危地に誘いこむための罠だ、とは、共通の認識となっている。ファン・ヒューリックと彼の同行者たちの存在は、まことに小さいが、タイタニアにとって許容されるべきではない。ただ一本の棘《とげ》が巨象を狂死させることもありえるのだ。タイタニアは叛逆者を滅ぼしつづけてきたし、叛逆者予備軍に対しても同様であった。その徹底ぶりは、藩王アジュマーンがジュスラン公爵に言明したとおり、臆病さに起因するものだった。ただし、臆病にも二種類ある。現実を直視できるものと、それができないものと。タイタニアの臆病は前者だった。だからこそ生き永らえている。健康に神経質な老人のように。  惑星エーメンタールから「|天の城《ウラニボルグ》」へ、時間と航路をずらして航宙《セーリング》する四隻の宇宙船。このうちどれにアルセス伯が乗りこんでいるのか。それも疑問だが、そもそも、そのような情報が入手できたということ自体、ファン・ヒューリックの警戒信号を刺激する。タイタニアは故意に情報を洩《も》らしているのではないか。そして、それは単にファン・ヒューリックたちを罠にはめるためではなく、彼らの手を借りて、異端者たるアルセス伯を排除しようという目的もあってのことではないか。  ファン・ヒューリックの説明を聞いて、もうひとりの智恵者にミランダが尋ねた。 「ドクター・リーの考えはどうなんだい。ファン・ヒューリックと同じかい?」 「むずかしいところだ」  これは相当に謙虚な表現なのである。ドクター・リーという人物にとっては。そして同時に、率直な表現でもあった。ドクター・リーの精神的な視線の射程は、まだ見たことのない「|天の城《ウラニボルグ》」にまで及《およ》んでおり、タイタニアの巨頭たちが今回の事態をどのように把握し、状況の主導権を確保しようとしているか、それを見さだめたかったのだ。タイタニアの主流は、おそらくアルセス伯の死を望んでいる。タイタニアは内部|淘汰《とうた》を恐れず、その名にふさわしくない者の存在を許容しない。エーメンタールで勝手気ままに変態殿さまぶりを発揮しているだけなら目をつぶっていたところだが、もはや笑って許容しておられぬということであろう。 「アルセス・タイタニア伯とタイタニア首脳との力関係が重要なわけだな、この際は。それが奴の乗艦がどれであるかを決める要因になる」 「そのとおりだ、ヒューリック提督」  うなずいて、ドクター・リーは微妙な笑いかたをした。劣等生が珍しく合格点をとったので、自分の教育法に自信を持った教師、というところである。当人にそのつもりがなくてもそう見える、というのが、当人も認める「徳のなさ」というものであろう。        U    イドリス・タイタニアは三〇〇隻の艦隊をひきいて、惑星エーメンタールに近い宙域にいる。  イドリス自身は認めたくないことであろうが、彼の功名心はアルセスのそれと基本性において通底する。ファン・ヒューリックおよび彼の同行者たちは、イドリスにとって、功績をたてるための道具であるにすぎない。アリアバートが新戦法の前に敗北を喫した相手こそが、ファン・ヒューリックであった。さらにはタイタニアへの服属を拒んだその不埒《ふらち》な無頼漢を、彼の手で処断しえたら、その功績は無視できぬものとなるであろう。イドリスは最初、自分に与えられた任務の無意味さに不快を禁じえなかった。アルセスの不始末など、兄のザーリッシュにでもおぎなわせればよいと思っていたのだが、現在では考えを変えている。功績をたてる機会を逃がすべきではなかった。  イドリスが非凡であった一例は、三〇〇隻の艦をそろえる際に、それを高速巡航艦とフリゲート艦のみで構成して全体の行動速度を高い水準で維持したことである。火力を二次的なものとし、可動性を重視したのは、今回の出動の目的に的確にかなうものであった。  そのイドリスが首をかしげたのは、アルセスが実際に乗ったものも含め、四隻の艦が、いっこうに襲われる気配がなかったからである。超光速航行と慣性航行とをくりかえし、四隻はそれぞれ「|天の城《ウラニボルグ》」まで五〇・三光年から五〇・八光年にかけての距離に達していた。通常、あと一週間前後で目的地に到着する。  これではアルセスは無事に「|天の城《ウラニボルグ》」へはいってしまうことになる。意外な事態が、イドリスを困惑させた。描かれたように形のいい眉をわずかにしかめて、彼は考えをめぐらした。ファン・ヒューリックと同行者たちには、アルセス伯を襲撃する意思がないのであろうか。否、それはありえない。とすれば、どのように狡猾な手段をもって、復讐を果たそうとしているのであろうか。「|天の城《ウラニボルグ》」の内部でアルセス伯の到着を待ち受けているということがありえるだろうか。  この疑惑はイドリスを一段と真剣にさせたが、やがて彼はその考えを体外に追い出した。「|天の城《ウラニボルグ》」に侵入するのは、宇宙空間で襲撃するよりはるかに困難だ。脱出を最初から考えず、自殺的行動に出たとしても、である。 「|天の城《ウラニボルグ》」の防御に関するハードウェアとソフトウェアとを、イドリスは過小評価しなかった。双方の主人である無地藩王《ラントレス・クランナー》アジュマーンのことも。ただ、この場合、襲撃者側がイドリスと見解を同じくするとはかぎらないが、それを考慮した上で、イドリスは、「|天の城《ウラニボルグ》」内での襲撃説をすてた。そもそも、イドリスに与えられた任務は、「天の城」の外側に範囲が限定されるのである。仮に「天の城」内部でアルセスが襲殺されるようなことがあれば、それは藩王らの責任であり、イドリスの罪ではない。イドリスが達した結論は、復讐者どもがタイタニアの意図をあるていど見抜いて、焦《あせ》りを誘おうとしている、というものであった。 「小細工をしてくれる。もっとも、そのていどはしてくれねば、娯《たの》しみがないか」  イドリス・タイタニアの端整な唇が、冷笑する形に動いた。彼にはまだ余裕があった。目的を遂行するだけに満足せず、その過程を娯しみ、結果と効果を最大限にあげる。そう考え、その考えにもとづいて自分と部下を動かすことができた。  彼が結論をえたころ、いくつかの情報が彼のもとにもたらされた。復讐者どもも艦を分散して別行動をとりはじめた、という複数の情報拠点からの入電であった。一言のもとにイドリスは断定した。 「気にするな、幼稚な陽動だ。はねまわらせておけばいい。アルセス伯の身辺から目を離すな」  後日になって、イドリスは、このような命令を下した自分自身を憎悪することになる。    イドリスの矜持《きょうじ》は傷つけられることであろうが、彼の存在はファン・ヒューリックの眼中にない。アリアバート、ジュスラン、ザーリッシュであっても同様である。彼の思考にあっては、アルセス伯以外のタイタニアを敵として抽象化せざるをえず、イドリスほどの巨頭であっても、タイタニアという群体の一部として捉《とら》えるしかない。粗雑な表現を用いれば、「邪魔する奴はたたきつぶす」という以上の関心はなかった。じつのところ、彼に対して罠をしかけてこようとする相手が、イドリスという名を持つことすら知らぬ。ひたすらアルセス伯を追いまわすだけである。  その間に、ドクター・リーは彼自身の判断と意思にもとづいて行動している。彼はファン・ヒューリックとの間に、ごく短い会話をかわすと、自らの集団をひきいて航路を変えた。その行動がタイタニアの情報網によって把握され、イドリス公のもとにもたらされたのである。  ドクター・リーは二七歳で、ファン・ヒューリックより一歳年少であった。タイタニア四公爵のうち、アリアバートおよびジュスランと同年である。その事実を未だファン・ヒューリックは知らないが、知れば、年少者に教師|面《づら》されることを多少は不本意に思ったであろう。ドクター・リーのほうでは、「気にするな、私は全然、気にしないぞ」というところであるが。  ファン・ヒューリックと別行動をとるまぎわ、ドクター・リーは、議論のついでに、このようなことを口にした。 「知性と知識とは同一ではない。釈迦《しゃか》がコンピューターを知っていたか。ソクラテスが連立二次方程式の解きかたを知っていたか?」  知性という存在にも、さまざまな側面があるが、知識を制御する機能という面もそのひとつである。とすれば知識が増大するにしたがって知性も増大しなくては、知識の暴走が始まる。じつのところ、安全性を軽視した核分裂エネルギーの実用化以来、人類の文明は暴走寸前の状態をつづけており、実際に暴走してしまったことも一度ならず生じた。で、なぜそのような例をドクター・リーが口にしたかというと、タイタニアに対してこれを援用し、タイタニアの権勢がすでにしてタイタニア中枢の制御から逸脱しつつあるのではないか、という認識を確立させておきたかったからである。  誰にも語らぬことだが、ドクター・リーが研究対象としてかかえている命題は、相当にすさまじい。すなわち、「タイタニアはいかにして勃興し、いかにして滅亡したか[#「滅亡したか」に傍点]」であり、「いかにしてタイタニアは滅亡するか」である。彼にしてみれば、小は原子核の内部から大は宇宙全体まで、人間の思考と研究の対象ならざるはない。タイタニアも、つまるところ人間の集団であり、原子核に比べれば等身大の存在でしかない。  そこでタイタニアの滅亡を研究対象とするのであれば、その滅亡を見なくてはならない。このまま手をこまねいていれば、ドクター・リーの生存中にタイタニアの滅亡は訪れないであろう。ゆえに、多少は人為でそれを促進するも可なり、というのであった。これほど大それた構想を持つ者も、人類社会にふたりとはいないであろう。ドクター・リーが望むものは、彼の研究対象となるための、タイタニアの滅亡なのであった。当人にいわせれば、宇宙は低能と無気力に満ちていて、誰もタイタニアを倒してくれそうにないので、すこしばかり自分でやってみなくてはならぬ、めんどうなことだ、ということになる。とはいえ、これまで自分の構想が現実化するとは、正直なところ考えていなかった。だが、ファン・ヒューリックという奇妙な人物の出現で、あるいは自分の構想が実現するかもしれぬ、という可能性が出てきたのだ。なかなかおもしろくなってきた、と、彼は思うのである。   「あの下衆《げす》ども……!」  アルセス・タイタニア伯爵は、深刻な憎悪をこめて、「復讐者」どもを罵倒した。彼らを憎むべき正当な理由が彼にはあった。顔を傷つけられ、気に入った邸宅を捨てて「|天の城《ウラニボルグ》」へ逃げこまねばならぬ今日の境遇も、タイタニアに盾《たて》つく身のほど知らずの無頼漢どものせいであった。顔をおおう有機セラミック製のマスクをなでて、アルセスは、心身の苦痛にうめいた。あのおぞましい災難以来、彼は鏡で自分の顔を見ていない。直視する勇気がないのだ。「|天の城《ウラニボルグ》」で完全な整形手術を受ける必要がある。  イドリスの本心を、アルセスは見ぬいている。すくなくとも、見ぬいたつもりでいる。イドリスはアルセスを不逞《ふてい》な無法者の手にゆだね、ほしいままに復讐の刃を揮《ふる》わせるつもりなのだ。兄ザーリッシュひとりにとどまらぬ、タイタニア一族のことごとくがアルセスを敵視し、その滅亡を傍観しようとしている。否、それどころか、滅亡を促進しようとしているのだ。不条理ではないか。自分がタイタニアの利益をどのように害《そこ》ねたというのだ。兄のような形での荒淫《こういん》なら許されて、自分なら許されないのか。どうしても納得がいかず、アルセスは歯ぎしりを禁じえない。  アルセスの不満は彼にとって当然のものであったが、四公爵からは笑殺《しょうさい》されてしかたないものであった。アルセスはタイタニアとしての義務と責任を果たさず、特権を亨受するだけとみなされていたからである。ザーリッシュの他に、イドリスも、アルセスに対する反感と軽悔を隠そうともしなかった。  さて、他の三公爵に対して、イドリスが常に挑戦的であるのは、彼自身の覇気がそうさせるだけではない。彼は彼の一家のため、彼自身を鼓舞し、より高処《たかみ》をめざさなくてはならなかった。ことさら年長の三人を軽視するようにふるまうのも、彼らに伍《ご》することの困難を知るためであった。最年少である彼は、四公爵の列から落伍するわけにはいかなかった。藩王自身を含めて「タイタニア五家族」と呼ぶ。これは不文律の制度であるが、これまで五家族制が守られてきたからといって、これからもそうであるとはかぎらない。藩王となり、他の四家に対して生殺与奪《せいさつよだつ》の全権を握らなくてはならなかった。  イドリスの父親は、本来は健康体であったが、宇宙船の事故で重傷を負って以後、人生の半ばを病床ですごすようになった。体内各処にセラミックの破片が一七個も侵入し、手術して除去することが不可能だった。イドリスが幼く、家督を継ぐことができなかったので、隠棲することもできなかった。激痛の発作に耐えて、彼はタイタニアの公務にしたがった。タイタニアという名は、それを負う者に、何と多くを要求することであろう。苦痛に耐えることもそのひとつだった。イドリスが家督を継ぐ許可をアジュマーンからえたとき、父親の身心は酷使され、ぼろぼろになっていた。苦痛を消すため阿片《アヘン》を使用した父の、疲労しきってはいるが緊張を解いた死顔を見て、イドリスは自らに約したのだ。 「タイタニアをわが手に、つまるところは、宇宙をわが掌《てのひら》の上に」  野心が彼を駆りたてる。暴走する原子炉のように危険な野心である。それは彼の属性の一部となって宇宙の深淵を照らし、タイタニア全体の未来をも、微妙にねじ曲げることになるであろう。        V    イドリスに対して反感と憎悪があるにしても、アルセスが救いを求める相手はイドリスしかいなかった。彼はイドリスに通信波を送った。それでも最初はもったいぶっていたが、やがて体裁《ていさい》をかまってはいられなくなった。アルセスは一時間に三度も通信を送り、彼の乗艦を護衛してくれるよう頼んだ。それは、せっかく四隻の船を出して敵の注意を分散させようとしたアルセス自身の用心を、無にするような行為であった。 「アルセスよ、きさまがタイタニアの一族であることを揚言《ようげん》するのであれば、自分で自分の身命ぐらいは守ってみろ。ただ血統だけで、タイタニアの姓を称する資格があると思うか」  イドリスの思いは苛烈である。タイタニア四公爵の一員としての矜持が、彼個人の覇気が、そう思わせる。できるかぎり努力する、という返信には誠意がまったく欠けていた。  とはいえ、罠を罠として完成させるためには、イドリスにも、多少の小細工は必要であった。彼はアルセスの要請に反して、さらに自分の艦隊を彼の船から遠ざけ、そのことをさりげなく公共通信波に乗せたものである。いうまでもなく、復讐者たちの傍受を期待してのことだ。  だが、イドリスもまた全能ではなかった。囮《おとり》を使ったのは彼だけではなかったのだ。ドクター・リーが統率する一三隻の武装小集団は、単独航行するタイタニアのフリゲート艦を襲撃し、これを強奪していた。強奪にあたっては、奇策と称されるペテンと、正攻法の双方が使われた。混用とも並用ともいいうる。まずA艦が善良な民間船を装ってB艦に追われ、タイタニア艦に救助を求める。民間船の安全を保障することによって通行税を徴収することが、タイタニアの収入源であるから、タイタニア艦は当然、救助に駆けつける。そこで包囲網に落ち、一三対一でまともな戦闘になるはずもなく、投降を余儀なくされる。こうして、タイタニアのフリゲート艦一隻が、ドクター・リーの手中に落ちたわけであるが、このフリゲート艦に乗りこみ、味方を装ってアルセス伯を襲う、というのであれば、ドクター・リーは単なる策士的戦術家である。彼はもっと人が悪い。複数の手段を使って、ドクター・リーは情報を流す。タイタニアのフリゲートが「復讐者」たちによって強奪されたことを、イドリス・タイタニアに教えてやるのだ。事実を教えてやるのだから、これ以上の親切はないはずである。報告を受けて、イドリスは思案をめぐらせる。さほど時間を要さず、結論が出る。復讐者どもは、フリゲートを乗っとり、護衛するとみせかけてアルセス伯の船に近づき、攻撃するつもりであろう。とすれば、「正直じいさん」号は囮で、復讐者どもは強奪されたフリゲート艦に乗っている。それがイドリスの結論であった。だが、さらに裏面があるかもしれぬ。軽々しくイドリスは動こうとしない。  もともとイドリスは愚かではない。彼を手玉にとるには、二重三重の心理的な陥穽が必要であった。ドクター・リーは手数を惜しまなかった。八月一日に至って、ついにイドリスは三〇〇隻の全集団をあげ、強奪されたフリゲート艦のいる宙域へ急行した。それこそ、「正直じいさん」号が待ちうけていた時機であった。  八月二日〇時五〇分、「|天の城《ウラニボルグ》」から二八・四光年をへだてた宙域で、アルセス伯の乗艦「オーロラ」は、「正直じいさん」の主砲射程にとらえられた。ファン・ヒューリックとしては、極端にいえば、四隻ことごとくを破壊してもよい。だが、あわただしい通信波の発信が彼に確信を抱かせていた。アルセス伯はこの艦に身をひそめている、と。 「左舷主砲斉射!」  指令が飛び、白熱したエネルギーの箭《や》が、「オーロラ」の艦腹に炸裂した。これが第一撃であった。「オーロラ」はむろん武装をそなえているが、本来、賓客《ひんきゃく》用の宇宙船であり、数十隻かそれ以上の護衛をつけられるべき存在である。それが単独行をしていたのは、「敵」の目をあざむくためである。アルセスの策は、まちがってはいなかった。ただ、意思が持続しないのだ。イドリスに対する過剰な通信がなければ、ファン・ヒューリックも容易に彼の存在を把握することができなかったはずである。もともと、宇宙空間における安全な航路は限定されるとはいえ、宇宙船どうしが遭遇するなど、確率はゼロにひとしいはずであった。装飾過剰のベッドから転落したアルセスは、絶叫して防戦と反撃を指令した。  光の槍が降りそそぎ、宇宙空間は煮えたぎるエネルギーのスープとなった。大艦隊どうしの正面決戦に比べれば、スープ皿はたいそう小さい。だがスープの濃度に差はなかった。エネルギー・ビームが艦体を貫通することができず、弾《はじ》け散って虹色の光芒をきらめかせる。 「正直じいさん」号は、「オーロラ」の砲火をかいくぐって突進し、肉迫し、至近距離からエネルギー・ビームを撃ちこんだ。一ヶ所に集中して、あきることなく撃ちつづける。これは砲術士官出身であったファン・ヒューリックの徹底的な指示によるものだった。「正直じいさん」の火砲は数もすくなく、出力も小さい。これ以外に敵艦を破壊する方法はないのだった。  本来、ファン・ヒューリックにとって、おもしろみのある戦いではなかった。艦対艦の一騎打など児戯にひとしい。用兵家にとっては、艦艇の集団をいかに布陣し、いかに動かすか、が課題なのであって、一騎打など将たる者のやることではなかった。だが、今回、ファン・ヒューリックは用兵家として戦っているわけではなかった。罠に気づいたイドリス・タイタニアが急速反転し、三〇〇隻の戦力をもって殺到してくるまでに、アルセス伯を斃《たお》さなくてはならなかった。彼はひたすら一ヶ所に砲火を集中させた。砲手への命令はファン・ヒューリックが下し、操艦はカジミール船長とミランダが熟練した手腕をしめして、たくみに「正直じいさん」の老体をあやつった。  アルセスの願望は、美しく生き、美しく死ぬことだった。永遠の若さと美を欲してはいたが、それが不可能であることも知っていた。ゆえに、美しい死を望み、老醜の屍体を後に残さぬことを望んでいたのだ。だが、そのような美学も、死を至近に見たことがないからこそ、抽象的な幻想として許容することができたのである。  砲火に身体の半分を吹きとばされた兵士が、血まみれの傷口から内臓をはみ出させている姿をモニターで見て、アルセスは嘔吐した。マスクをしたままだったので、吐物がその内側にたまり、不快な臭気と感触に耐えかねたアルセスは、マスクを自らの手でむしりとった。顔についた吐物を拭《ふ》くタオルを、従者に要求する。だが、美貌が自慢だった主人の現在の顔を見て、従者は恐怖と嫌悪の叫びをあげ、尻ごみした。傷つき、激したアルセス伯が大声をあげようとしたとき、世界が白熱した。「オーロラ」の機関部を敵弾が直撃したのである。  アルセス・タイタニアの願望は成就された。彼は醜い死屍を他人の目にさらすことはなかった。その身体は爆発するエネルギーの波によって引き裂かれ、燃えあがり、燃えつきた。彼の若い肉体は灰となり塵となって、「オーロラ」をつつむ白い光球の一部と化し去った。        W    生者にとっては、まだ何ひとつ終わってはいなかった。イドリス・タイタニア公爵は、急行してドクター・リーの小集団を襲撃し、一時は主砲の射程にとらえかけた。だが、ドクター・リーはあきれるほどの速度でタイタニア軍の半包囲態勢をすりぬけ、逃げに逃げた。生きていれば、「正直じいさん」号とは惑星バルガシュで再会することになっていたから、合流する配慮もいらず、ひたすら逃げまくった。そして真剣だがいささかばかばかしい追跡劇の途中で、アルセス伯の訃報がイドリスの旗艦にとどけられたのだ。  屈辱がイドリスの肩を慄わせた。彼はアリアバートほどに、敗北に対して寛容であることができなかった。それは冷笑ないし克服の対象であって、共存できるものではなかった。彼は愚かしい追跡劇を中断し、「|天の城《ウラニボルグ》」への帰還を命じたが、命じつつ、心臓内で血液を沸騰させていた。 「忘れんぞ、ファン・ヒューリック、いまのうちだけは勝ち誇っているがいい。だが、つぎの幕ではきさまこそが敗者の役だ」    ファン・ヒューリックはべつに忘れっぽい青年ではなかったが、イドリス・タイタニアの怒りを知る立場にはなかった。アルセス・タイタニア伯爵を乗艦ごと人工の星間物質に変えてしまうと、「正直じいさん」号は惑星バルガシュへの航路をとった。ミランダがファン・ヒューリックの肩を勢いよくどやしつけ、手にビール缶をにぎらせた。口に出しては一言もいわぬ。祝杯というより、鎮魂のための一杯を勧めたことは明らかだった。さらにいくつかのビール缶が宙を飛び、マフディ、ワレンコフ、パジェスらの手がいそがしくそれらを受けとめる。彼らの声を聴覚の隅にとらえながらファン・ヒューリックは、勝利感とは無縁の思いを味わっていた。 「おれはタイタニアと共存してもかまわないが、もう先方にその気がないだろう。今度はこちらが憎まれる番になるかな」  アルセスにとって終わったものが、彼にとっては始まったばかりであることを、ファン・ヒューリックは知っていた。 「タイタニアのために苦しめられる人々を救うため、私は生命がけで戦うぞ」  そう口に出していえば、ファン・ヒューリックは「少年少女のための偉人伝記全集」に名をつらねる資格を持つことになったかもしれない。だが、彼はそう口にしなかった。心のなかでそう考えたわけでもなかった。彼は疲労を感じており、こういうときは、「あんたが好きよ」といってくれる女の子の傍で眠りたかった。眠ることはできるだろう、ベッドの広さをひとりでもてあましながら。そして起きたら、タイタニアとの際限ない戦いが始まる。  まあ、それはそれでよい。どうせ喧嘩するなら、一番強い奴を相手にしたいものだ。美学というより性格が、ファン・ヒューリックにそう考えさせる。二五歳までの平凡な彼を知る者には想像もつかぬことであろう。ファン・ヒューリックに善良で大勢順応的な市民としての資質が具《そな》わっていたにせよ、そんなものは、タイタニアの収容所から生還してエウリヤの都市艦隊に入隊する過程で消費されつくしたのであった。表層がなくなれば本質が露呈《ろてい》する道理で、ファン・ヒューリックは変身したわけではなく、自らの本性に回帰したというべきであろう。もっとも、ファン・ヒューリックが覚醒すると否とには関係なく、タイタニアは彼を容赦すべからざる敵とみなし、抹殺をはかるにちがいなかった。 「タイタニアの敵、ファン・ヒューリック!」  何とまあ、うだつのあがらない商船事務員が出世したものではないか。にんじん色の髪を片手で乱暴にかきまわすと、ファン・ヒューリックは、もう一本の手ににぎったビール缶をかたむけた。彼はあまりに速く走るベルトウェイに乗ってしまい、逆方向に走ることはもはやできそうになかった。   「|天の城《ウラニボルグ》」にアルセス伯の訃報がとどけられたのは、イドリス伯とほぼ同時期だった。四公爵用の展望室で、ふたりの公爵が会話をかわしている。 「イドリス卿の罠を、ファン・ヒューリックとやらいう男は突破してのけたそうだ」  そう告げて、アリアバート・タイタニアは思慮深げな視線を従兄弟に向けた。 「ジュスラン卿はそのことを予測していたのではないか。さきほどから、すこしも驚いた色を見せぬが」 「いや、そんなことはない」  ジュスランの答えは短い。予測がどうの期待がどうのと言い出せば、藩王アジュマーンとの不毛な会話を再現するだけのことである。むろんアリアバートはアジュマーンではない。それだけに、よけい、そのような会話は避けたかった。ことさらに彼は話題を変えた。 「イドリス卿はさぞ無念がっているだろうな」 「それはそうだろう。負けて笑っていられる性質《たち》ではないからな」  アリアバートの声に皮肉はなく、淡々として事実を指摘する印象である。 「おそらく私情もまじえて、ファン・ヒューリックをたたきつぶそうとするだろう。イドリス卿もけっして無能ではない。生き残ったとはいえ、ファン・ヒューリックにとって宇宙は狭くなろうよ」  アリアバートの声にうなずきながら、ジュスランは考えた。ファン・ヒューリックという男をイドリスの手にかけさせるのは惜しい。そのような思いがふと心の一隅をよぎる。アリアバートを破り、イドリスをだしぬいたあの男は、藩王がかつて言明したように、タイタニアにとって一大敵手たりえる存在かもしれないのだ。  自分はタイタニアが滅亡することを望んでいるのだろうか。その疑問は、即座に、否定の解答をもたらした。それはちがう。彼はタイタニアの滅亡を望んでいるのではない。彼は知っているのだ。タイタニアが滅亡するということを。「耳に快し敗者の歎」、敗者とはタイタニア自身に返ってくる言葉ではなかったか。勝ちつづけたからこそ、タイタニアの今日の隆盛がある。敗れれば滅亡あるのみだ。弱肉強食が人界における唯一の法則であり、その意味においてタイタニアが人類の代表であるとすれば、タイタニアがより強い敵に倒されるのは必然でもあり正当でもあった。だが、たとえばジュスランがタイタニアの存続のために、敵と戦うこともまた、彼にとっては必然であり正当なのである。まだ相見たことのない敵に思いをはせるとき、ジュスランは、時空の深淵を遠くかいま見る思いにとらわれるのだった。  ……星暦四四六年、「タイタニアの時代」はなお続いており、多くの人々は、それが終結することを想像すらできずにいる。