誰一人として言葉を発しない。その気力がない。その余裕もない。ダリも例外ではない。
子供達の背中を夕日の炎が赤く染める。後方で重たい脚を引きずっているダリはそれに気がついて後ろを振り向く。太陽は既に半分近くが地平線の陰にかくれてしまっている。ダリの頭上には青みを帯びている空が、そこから次第に鮮やかな橙色へと変わっていっている。雲もほとんど黒に近い灰色なのだが、汚い色には見えなかった。この施設に来る前、ダリが校舎の窓から見ていた景色、それに近いのである。赤く染まった大地の壁はここにはないが、それでもダリの好きな色、好きな景色、好きな時間は確かにここにも存在していた。とても言葉では表現することができないこの瞬間、表現すること自体をためらってしまうほど美しいこの瞬間。
「何をしている! さっさと中に入れ!」
兵士の声が不意に割り込んできた。ダリは不満そうな表情を浮かべて施設に入っていく。ダリの頭の中には木造の建築物が思い浮かんでいる。その場所で友達と会話し、遊び、学び、「この瞬間」を過ごす。ただ一つだけ、「この瞬間」を演出するものがこの場所にはない。ショパン作曲、「練習曲 第三番」、通称「別れの曲」、この曲名をダリは知らない。それでもあの旋律はダリは気に入っていた。口ずさむこともできる。それだけにあの旋律がここでながれなかったのは残念でならなかったのだ。ダリが施設に一歩足を踏み入れると、後ろで扉が閉まっていく音が聞こえた。施設の中に入ってきていた赤色の美しい光のラインが徐々に狭まっていき、やがて完全に遮断された。
廊下を歩いていくダリ、同じ光でも夕日と異なるのは色だけではない。その色がかもし出す不気味な雰囲気の中で足を動かすたびに、周りの壁から同じ足音が反射し、施設の中を走っていく。
自分達の部屋に戻ると、そこには小汚いベッドが用意されていた。食堂にあったパイプイスと同じように鉄の部分は錆びている。白いシーツと毛布には妙な黄ばみも付着している。便所もそうであったが、少なくともこの部屋の衛生管理は、徹底されているどころかそれ自体が行われていないようにも思えてならなかった。部屋中に異臭も漂っている。いつまでもここにいると、体中をかきむしりたくなるような感覚にも襲われる。しかし勝手な外出は許されない。それはこの施設から、ということだけではない。
「ダリ」
訓練前に会話を交わした少年、カミラ=ゲイレドがダリに話しかける。肩で息をして、目も若干ではあるが焦点が合ってないような気もする。ダリに比べると体力面で劣っているのかもしれない。おそらく、彼が話していた、母親の煙草の副流煙がカミラの体を蝕んだのである。
「ボクはもうイヤだよ。ここからにげたい」
「……ボクだってにげたいよ。だけどにげたらころされちゃうよ」
「だけどこんな所にいたって、いいことなんか何もないよ!」
ダリは思わず、自分の口の前に右手人差し指を立てて大声を出さないようカミラに促した。
「ダリ。ここからにげようよ。何とかかんがえるから」
「ダメだよ! もし見つかったら―」
「だいじょうぶ! ぜったいに見つからないようにするほうほうをかんがえるから」
首を横に大きく振って、カミラの考えを否定し改めさせようとしていると、兵士が扉を開け、足を一歩踏み入れた。
「夕食の時間だ。全員俺についてこい」
気力が全く満ちていない返事を子供達がした。ダリはカミラの表情を見た。既にここから脱走する計画を練っているように見えた。逃げられるものなら逃げたい、それはダリに限らず、ここにいる子供全員が例外なく考えている事であろう。しかし、見つかったがその瞬間、待ち受ける運命は一つである。何とかしてカミラを止めなくては。ダリは自分に出来ることを考え始めた。